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「風の便り」(第83号)

発行日:平成18年11月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 熟年の体力維持とストレス・マネジメントの方法 −助言の論理矛盾と安楽余生の陥穽−

2. いじめの風景  T. Nさんへ 

3. 社会教育委員制度の活性化

4. 第72回フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

熟年の体力維持とストレス・マネジメントの方法 −助言の論理矛盾と安楽余生の陥穽−

●1●  熟年の体力トレーニング

(1) 論理矛盾の発生原因
  参考書を開くと中高年のスポーツについて実施上の諸注意が列挙されています。ルールは明確ですが、個々の助言が矛盾している場合もあり、また助言の多くはわれわれがこれまで習得してきた習慣や考え方と真っ向から対立しています。それゆえ、急な方向転換は難しく、こんな助言では役に立たないという落し穴もあります。現役の研究者は熟年期を特別視し過ぎて、人生の連続性を看過し、「安楽な余生」論に流れた助言は長い目で見れば熟年を一層衰えさせる危険があります。
  矛盾と誤解の理由は二つあります。第1は、われわれの寿命が伸びて、人生が急に長くなり、人生50年時代に受けたトレーニングと多くの助言が矛盾しているということです。第2は、研究者が熟年期を意識し過ぎて、熟年期とそれ以前の人生をあたかも「非連続」であるかのように想定し、「特別視」していることです。

(2) 「人生50年」と「人生80年」
  第1の問題は、人生が50年しかなかった時代に育った方々に、突然、前置きもなく人生80年時代の助言をしていることです。人生50年時代の基準と人生80年時代の生き方の基準は当然異なっています。われわれの習慣や考え方の多くは転換しなければなりませんが、転換はそれほど簡単ではないのです。以下に紹介する熟年者の運動実践ルールの多くは人生80年時代の原則です。特記された注意事項の裏を読めば、人生50年時代の原則がよく見えます。しかし、人生80年時代に入った今、基準の転換を習得していない人々にとって、実行が難しいことが沢山あります。

(3) 熟年期もまた「連続」している
  第2の問題は熟年期を「非連続」であるかのように想定することです。熟年が心身の衰えに直面することは当然ですが、その過程は若い時代と色々な点で連続しています。若い時代に「頑張れ」といって、年をとったら「頑張らなくていい」ということにはならないのです。未だ年をとったことのない研究者から見れば、年々急速に衰えて行く熟年はまるで別の存在のように見えるかも知れませんが、人間の生きる力の保持・存続において老いも若きも異なるはずはないのです。ここに例示した1番から8番までの『  』内の小見出しは熟年期の生涯スポーツに付いての専門書の助言です(*8)。もちろん、助言はすべて部分的には正しいのですが、前置きの説明が不十分なのです。また、あきらかに「若い世代」と「高齢者」を「非連続」の存在として、熟年を特別扱いにし、「安楽」な余生を送ることを指針としています。心身の機能を使わずに安楽な暮らしを続ければ、機能そのものが衰退するのは人間の必然です。若い時にだけトレーニングが必要で年をとったら、ひたすら無理をしないというだけでは年寄りがダメになることは当然でしょう。現役の研究者は、人生の期間が急速に変わったことから発生する生き方の変化や壮健な自分を基準にして引退者を特別扱いしていることに気付いていないのではないでしょうか。それゆえ、僭越ながらカッコ内に筆者の提案と「生きる基準」の転換の困難点を個人的な感想として付け足してみました。『  』内の助言は小見出しの文章構成上、内容は変えていませんが、若干原文と表現を変えています。

熟年者の体力トレーニング −「言うは易く、行なうは難し」I

●ルール1 『無理はするな』というけれど

  (根性も、頑張りも、限界への挑戦も、労働の季節のスローガンです。それは戦前の富国強兵から戦後復興・経済成長期を生き抜いた人生50年時代のスローガンを引き継いだものです。熟年者に無理がよくないことは分かっているのですが、しかし、「いつまでもお若いですね」とか、「生涯現役で頑張ってください」とか、相も変わらずおだてているのは世間です。その気になって頑張るのはわれわれ熟年ですから往々にして無理をしてしまうのです。だからといって、「無理をしない」という助言をいいことに日々を安楽に暮らせば身体はなまり、脳細胞は死滅し、精神は退嬰的になることは不可避です。「頑張り過ぎること」は危険でも、「頑張ること」は大切です。日本の高齢者が急速に衰えたのは引退後に社会的活動から離れ、心身のトレーニングを怠り、十分に「頑張って来なかった」からだと思われます。「無理をしない」という助言が文字どおり「がんばらない」ということに受けられたら熟年には大変危険なのです。)

●ルール2 『勝ち負けにこだわらない』のも難しい

  (スポーツに限らず、勝ち負けがないあらゆる競争は面白くないのです。こと「勝負事」に関して、生涯スポーツとチャンピョン・スポーツとの分離は出来ていないではないですか。市民マラソンからグランドゴルフまで記録や勝負にこだわるのは総じてスポーツ人です。サッカーくじからゴルフまでお金を賭けるのは日常のことでしょう!結果的に参加者も「がんばり過ぎる」ことになるのです。ゲートボール殺人も記憶に新しいところでしょう。
  極端に走らない限り「勝ち負け」にこだわって面白くスポーツに参加することは大切なのです。第一、多くの人々にとって面白くない運動は長続きしないでしょう。熟年期の体力維持活動は継続することこそが最も大事なのです。)

●ルール3 『やれば必ず報われる』−その通りです!

  (予備校にも似たようなスローガンがあります。「やれば必ず報われる」というのは競争原理のスローガンですね。「報われる」と言われれば言われるほど私たちはがんばります。それゆえ、『無理はしない』というルール1と『やれば必ず報われる』というルール3は時に相反する結果をもたらすことになるのです。皆勤賞、努力賞、敢闘賞は日本社会の労働の季節の応援メッセージです。問題は「がんばり」は知らず知らずに無理をすることに通じていることです。しかし、極端な無理をしない限り、日々のトレーニングは必ず報われますから、熟年の体力維持には極めて大切な考え方だと思われます。)

●ルール4 『人それぞれ』は日本文化に反するのです

  (『人それぞれ』だから自分にあったやり方で行きなさい、という助言ですが、個人主義、自分主義は日本の流儀に反するのです。老人クラブを見ても、ゲートボール仲間を見ても、私たちは仲間と一緒にやっていると安心で、楽しいのです。少年の時代から「足並みそろえて」とか、「みんな一緒に」とか、「人並みのことだけは」と言ってきました。自分は自分だということは分かっていても仲間から外れることは淋しいものです。日本文化においては他者に「合わせること」ばかり習ってきたのです。突然に「個性の時代」の到来に合わせて「自分流」で行け、と告げられても「一斉主義」・「一律主義」からの転換は難しいですね。日本文化の中の熟年は「みんな一緒」と「人それぞれ」を上手に組み合わせて工夫することが大事なのだと思います。何ごともみんな一緒に励ましあってこそ持続するのであって、自分一人では続けるべきことも続かないのが実際ではないでしょうか?)

●ルール5 『目標にこだわらない』ことはこれまでの生き方に反するのです!

  (年老いた今になって若い時の生活の基本方針を転換する事は極めて困難です。私たちは労働の季節において、何十年にも亘って、社会を上げて、「目標の明確化」、「目標の達成」、「目標に向かって進むこと」を学習して来たのです。引退したからといって今さら急に「目標にこだわらなくてもいいのだ」というのは180度の方向転換です。人生の基本方針を転換する事は極めて困難なのです。第一、時間を持て余して、どこへ行ってもいい、何をやってもいい、という熟年期は、目標がなければ、日々の行動が決まりません。仕事や務めを持っている現役の研究者にはそこが分かっていないのです。何をやって良いか分らない「毎日が日曜日」のなかで、目標がなければ老後の時間を漂うだけになります。『目標にこだわるな』ということは、極めて危険な助言なのです。『目標にこだわらない』ことは「無理をする」ことを避けるためでしょうが、目標がなければ体力維持の努力そのものが続けられなくなるのです。熟年期こそ目標をもって社会貢献活動や体力トレーニングに取り組むべきです。このような助言が出る原因は、青壮年期と熟年期を分離して発想するからです。その背景には高齢者はすでに社会に必要とされず、老齢で無力だという前提があるのでしょう。現役の研究者の無知と無礼はこの種の助言に象徴的に現れているのです。)

●ルール6 『できる範囲で』でやっているだけではダメです!

  (「自分の可能性に挑戦しろ!」とか、「限界を突き破れ!」とかは戦後日本の主導的スローガンでした。人生50年時代のモットーでもありました。「習い」はすでに日本人の「性」になっています。現代の熟年が「できる範囲で」無理をすることが目に見えるようじゃないですか?しかし、それでいいのではないでしょうか?「できる範囲で」ということが「負荷」を掛けないということであれば明らかな間違いだと思います。年寄りを年寄り扱いするから熟年が一気に衰えるのです。熟年もまた程々の範囲で頑張って自らを鍛え続けるべきです。「できる範囲」にこだわって「がんばり」を止めれば、「老い」の衰えを抑止することはますます難しくなるでしょう。熟年期もまた己に「負荷」を掛けてがんばるべきです。「負荷」を掛けない心身の機能の鍛練法があるとはどうしても思えないからです。)

●ルール7 『号令をかけない』

  (草取りも、どぶ掃除も、日本人は回覧板ひとつで一斉にやっています。「一律行動」も、「一斉行動」も日本の文化です。子ども会から老人会まで、町内会行事を見れば一目瞭然でしょう。熟年の生涯スポーツだけを「号令」から解放する事は本当に難しいのです。筆者が毎週観覧しているゲートボールの始まりは号令によってラジオ体操が始まります。それでこそ多くの熟年は身体を動かすことができるのです。個々に列挙された助言のように『目標にこだわらず』、『人それぞれに』日々を暮らし、『むりをしない』で、『できる範囲で』しか物事に関わらず、誰一人リーダーとして『号令をかけなければ』、日本人は、熟年に限らず誰も何一つ達成できる筈はないのです。現役の研究者は上記のような助言が真に熟年に役立つと本気で思っているのでしょうか?)

●ルール8 やる気を重視

  (医療費が破綻寸前になろうとも、介護費が大赤字でも、生涯学習や生涯スポーツを義務化できない以上、問題の核心は「選択」と「やる気」であることは当然です。しかし、「選択」と「やる気」こそが「格差」の原因になっているのです。個性の時代、選択の時代がきたとして、そもそも「やる気」のない人にはどう助言したらいいでしょうか?「やるき」が「ある」のと「ない」のでは、体力格差も、健康格差も、交流の格差も確実に広がります。「やる気」を重視する分だけ「生涯学習格差」は拡大します。少年教育はもちろん、熟年者の「やる気」はどうしたら育つのでしょう。問題は体力づくりの助言だけではダメだということは明らかです。熟年の生涯スポーツこそ熟年の生き方を反映しているのです。「頑張ることを止めた熟年」、「安楽な余生を送っている熟年」が衰えるのは必然なのです。)

(*8)   中村好男・中島葉子、中高年者のスポーツ・体力づくりの原則、田島、武藤、佐野編、中高年のスポーツ医学、南江堂、1997、PP.23〜24

●2●  ストレスとは何か

  ストレスとはカナダの生理学者ハンス・セリエによって医学に導入された概念です。ランダム・ハウスの英語辞書を引いてみると、ストレスとは強調点であり、力点であり、「有機体の平衡状態に外部から加えられた刺激」であるとあります。したがって、環境の変化から始まって、怒り、悲しみ、不安、不満など自分を取り巻く全ての条件変化がストレスとなり得るのです。それゆえ、完全な意味での「ストレス・フリー」の状態は現実の人生には存在しません。だとすればストレス防衛の方法はたった一つです。ストレスと上手に付き合うしかありません。「上手に付き合う」とは、生活の基準を変え、ライフスタイルを工夫してストレスを回避し、緩和し、よく休み、運動や修行によってストレス抵抗力を向上させ、心の持ち方を変えることです。人によっては自分にとってのストレスの解釈を変えることも重要なことでしょう。多くのトラブルは昔から「気のもちよう次第」なのです。
  今や、われわれの日常生活にはストレスを生じさせるものが満ちあふれています。ストレス要因の増加は、結果的に、われわれに心身の連続性をより明確に認識させることになりました。肉体と精神の連続性は、はからずも現代社会の「ストレス」が証明したことになるのです。
  子ども達を見れば、歴然としているように、ストレスは「抵抗力の関数」であり、「心のもち方の関数」です。必ずしも、「ストレス」一般が存在するわけではないのです。心身の抵抗力すなわち「耐性」の低い者にとっては、どんなささいなことでも時にストレスになり得るのです。がまんする力がなければどんなことでも辛くなるという理屈です。それゆえ、客観的なストレス状況や一般的なストレス影響論のみを問題にしても問題は解決しないのです。
  抵抗力のある人にとって、抵抗力のない人のストレス要因のほとんどはストレス要因にはならないのです。さらに、ひと「それぞれ」という個体差の要素も加わります。人は誰でも、心の持ち方如何によって、特定の条件にこだわったり、とらわれたりするものです。従って、A氏のストレスが必ずしもB氏のストレスとはならない場合は多いのです。確かに現代はストレスだらけの世の中ですが、それで病いに陥る人も入れば、涼しい顔で暮らしている人もいるというのが何よりの証拠でしょう。「耐性」も「心のもち方」も考えようによっては現代の不思議であり、「養生」や「健康能力」の基本となるのです。「気」の問題が重視されるのはそのためでしょう。


●3● 「心身一如」の連続通路

  騒音からコンピューターの使い過ぎまで、ストレスの原因となるものを英語で「ストレッサ?」と言います。ストレッサ?は「間脳から脳下埀体・副じんと続くシステムを通じて人体に影響を与えるもの」と考えられています(*9)。肉体と精神をつなぐ「連続性の通路」がここにあります。昔から「心身一如」と言われて来たのはこの「連続通路」が存在した故でしょう。
  体力や身体的機能について実に様々な概念が氾濫しているように、心と精神についてもこれ又各種の病名や概念が氾濫していて呆れます。
  ここまで病名が錯綜してくると、専門家が病名を発明することによって、病気を作っているのではないかと疑いたくもなります。筆者が見つけたものを参考までに列挙してみましょう。以下はストレスに関係した氾濫する「症候群」の名称です。

*氾濫する「症候群」

1  清潔症候群と呼ばれる「自己体臭恐怖」、「醜形恐怖」
2  「アダルト・チルドレン」
3  「大酒家突然死症候群」
4  「高層ビル症候群」
5  「燃え尽き症候群」
6  「過食症」/「拒食症」で知られる「摂食障害」
7  「生き甲斐喪失症候群」
8  「空の巣症候群」
9  「過剰適応症候群」
10  「ピーターパン症候群」
11  「出勤拒否症」、「登校拒否」、「学生無気力症」
12  「広場恐怖症」
13  「休日拒否症」
14  「主人在宅ストレス症候群」
15  「疲れた症候群」
16  「子育て困難症候群」
17  「仮面うつ病」、「微笑うつ病」
18  「不定愁訴」
19  「不安障害」、「恐怖性障害」、「強迫性障害」、「心気障害」
20  「薬物、ギャンブル、アルコール、ニコチン」など様々な事物に対する依存症
21  「引きこもり」・「閉じこもり」

  うんざりしますが探せばまだまだあるのでしょう。この他にも、「心が病んで起こる身体の不調」という病気は人体のあらゆる器官に及んで発生しています。日々を健康に過ごすことがどんなに難しいことかと思わず考え込んでしまいます。「病いは気から」気持ちの持ち方ストレスの受け止め方を原因とする病気を図示するとなんと1頁が埋まってしまう程なのです。まさに「病いは気から」ということです。
  「病いは気から」という趣旨の本を書いた鈴木はストレス要因による病気を列挙した図式の中で、不眠、食欲不振、歩行困難など数え上げると43項目の不調・疾患を紹介しています(*10)。今や、人びとは各種のストレスを自分自身が造り出しているとしか思えない状況です。上記の「休日拒否症」や「主人在宅ストレス症候群」などのように、家族とのかかわりですらもがストレスになる時代なのです(*11)。ストレスに捕まった人間は、もはや逃げ場を失いつつあるということでしょうか。

(*9)  小田晋、imidas'99, 集英社、P.761およびP.765
(*10)  鈴木弘文、「病いは気から」の健康学、かんき出版、1994年、P.127
(*11)  小此木啓吾、現代用語の基礎知識1997、P.800


●4● 精神科医がすすめるストレスマネジメントの10か条(*12)

  肉体の衰弱予防に運動処方があり、トレーニングの方法としてフィットネスの概念があるとすれば、当然連続体としての精神にも老いに対する適応と準備の活動が必要となります。それゆえ、「マインド・フィットネス」や「ストレス・マネジメント」という方法が生まれました。対象となる卑近な事例は心身症であり、ノイローゼであり、上に列挙した様々な「うつ」や「○○症候群」と呼ばれる一連の心身の病いです。すでに紹介した通り、小田晋は心身症を「心に起こる身体の病気」と言い、ノイローゼ(神経症)を「精神的原因による心の不調」と定義しています(*13)。原因の大部分はストレスにあります。従って、ストレス防御の方法と智恵が心身の健康を守る一つの鍵であることは間違いありません。
  以下に紹介する10箇条は、身体的な助言を除けば、人生80年時代の熟年の心の「持ち方」の原則です。「体力」向上の運動処方の助言と同じく、ストレス・マネジメント助言が部分的に正しいことは間違いありません。しかし、この場合も人生50年時代の教訓と人生80年時代の指針の歴史的転換が明確には意識されていないのです。
  それゆえ、多くの助言はわれわれがいままで身に付けて来た事と大きく矛盾することが多いのです。熟年期に入って高齢者が突然新しい考え方・態度に転換することは決して簡単ではないのです。基準の転換の難しさは、運動やスポーツの分野に限ったことではありません。精神の分野での態度・発想の転換は、運動処方の場合と比較して、己の精神が己の精神をコントロールしようというのですから一層むずかしいのです。この点、「養生訓」の作者;貝原益軒の助言は極めて簡潔です。彼によれば、対ストレス・トレーニングは「心気を養う」ことです。邦光は「心気を養う」を「心を柔らかにする」「気を平らかにする」、「怒りと慾を抑える」、「憂いと思いを少なくする」と解釈しています。「結論は心を苦しめず、気を損なわないということです(*14)が、それこそが最も実行が難しいことなのです。
  以下の『  』内は脳神経外科の専門医師、吉井信夫の10項目の助言です。それに対して(  )内は筆者の感想と留意点です。熟年の「体力トレーニング」の助言に倣って、熟年期を特別扱いするな、ということ、人生50年時代と人生80年時代の生き方と人生訓の落差を自覚して、助言の論理矛盾を調整すべきであることを指摘してみました。

*「ストレスに負けない心のトレーニング」10か条−「言うは易く、行なうは難し」II−

(1)  『気分本位は止めること』

  (「目標の明確化」と「原則の保持」は、労働の季節の鉄則だったはずです。それゆえ、定年によって労働が終焉し、労働時間の管理という「他律」によってコントロールして来た生活リズムが突然すべて自分本位の「自律」に任された時、「気分本位」になりがちかもしれません。「気分本位」を止めるためには、一定の活動に参加して日々の行動の目標や原則を造り出し、日常の生活リズムを確立しなくてはなりません。要するに、熟年になってもそれぞれが選択した活動領域で心身の機能を一定のリズムで使い続けることが重要であるということでしょう。長い目で見た時、気楽で、安易な、いつ、何をやってもいいという「安楽な余生」が精神にとって有害だということでは誠に同感です。)

(2)  『「いい加減」のすすめ』は無理というものです

  (労働の季節は「いい加減」を禁じています。働きづくめに働いた人生50年時代も、もとより「いい加減なことをするな」と教えてきました。それが突然、定年を迎えたからといって、生き方を変えよ、と急に言われても180度の転換は極めて難しいのではないでしょうか?。第一、上記助言の1番『気分本位はやめること』と矛盾しているのではないでしょうか。「いい加減」とは多くの場合「気分屋」を意味します。「気分本位」で生きることこそ「いい加減」の代表選手ではないでしょうか!?一方で、「気分本位」を禁じ、他方で、「いい加減」をすすめるということは、精神科医の日常用語の使用法が混乱しているということではないでしょうか?)

(3)  『過去にこだわらないこと』

  (「日々反省」を怠らず、「過去の経験に学ぶ」ことは労働の季節の金言であり、人生50年時代の黄金律でありました。人はすべて過去があって現在があるものです。「自分史」が流行するのも「過去にこだわらざるを得ない」熟年の傾向なのです。人生の終りを予感せざるを得ない熟年期において思い出の反芻と来し方の総括は必然です。昔話から逃げられず、思い出話に花を咲かせている今、突然「過去にこだわるな」と言われても180度の急転換は困難なのです。精神医学的には、「こだわり」が「ストレス」を産むという警告は分りますが、「こだわる生き方」から「こだわらない生き方」に転換するための方法を教えてくれなければ、実際への応用は不可能です。ましてや熟年には過去を思い出す時間だけはたっぷりあり、未来のために生きる活躍の舞台は極端に少ないのです。ここでも精神医学は年を取った後の社会的活動の意味を見落としているのです。ある施設の高齢者が孤立して意固地になり、集団活動では何ごとにも協力しなくなった時、新入りの若いスタッフに出会い、太平洋戦争のレイテ沖海戦の話を数十回も聞いてもらったそうです。その後この年寄りは若いスタッフの指示に従って集団行動が取れるようになったということでした。過去へのこだわりをほぐしてからでないと新しい出発が出来なくなっている高齢者もいるのでしょう。)

(4)  『ひがみに陥らないこと』

  (定年の表のあいさつは、長い間のお仕事「ご苦労さまでした」という意味です。しかし、裏の社会的メッセージは、「あなたはすでに必要とされず」、「世の無用人(藤沢周平)」になるという意味です。定年を迎えた熟年には、原則として、社会を支える職業上の出番はないのです。日常、スポットライトを浴びることもめったにないでしょう。定年と同時に活躍の機会は若い世代に委譲したのです。隠居も隠退も社会から「隠れる」ことを意味しています。昔の名刺は使えなくなり、過去の活躍や栄光は記憶する人もいなくなり、忘れられます。年をとって、過去の肩書きにこだわり、過去の思い出や自慢話に終始するのも「忘れられた熟年」のひとつの宿命です。熟年の社会的活動のメニュー・舞台を準備することなくただ「ひがんではならない」と言うだけでは熟年の状況は何一つ解決しないのです。老いたりといえども、衰えたりといえども「わしも未だ捨てたものではない(藤沢周平)」、「私も未だ世の中の役に立っている」という実感がなければ、「ひがむな」という方が無理なのです。精神科医に限らず、若い研究者は未だ老境に行ったことがなく、熟年の孤独や「世の無用人」と成り果てた者の悲哀が分らないから、「どうしたらひがまないですむか」という具体的な方法論のない安易な助言に終始することになるのです。)

(5)  『適度な運動』

  (人間の心身は繋がっており、身体の快調が精神の快調に影響することは日々実感するところです。まして、熟年は「衰弱と死に向かって降下」する存在ですから助言はまさにその通りでしょう。『適度な運動』は身体によく、身体に気持ちのいいことは精神にもいいことはいうまでもありません。身体の故障は直ちに気持ちに触ることは私たちが日々経験済みだからです。問題は「適度な運動」の「程度」の目安はなにか、ということでしょう。ストレスマネジメントの基本は「負荷」を掛けないということのようですが、体力維持の方法は身体に適度の「負荷」を掛けることです。適度というのは個体差があり、状況の差があるのでしょうが、一番大事なのは若い時と違って、自己調整が簡単にできるということです。熟年が無理をせずに、微調整ができるという目安は自分の現有能力の5〜10%の負荷を掛けることでいいのではないでしょうか?使い過ぎれば壊れ、使わなければ退化するというのが、心身の機能の法則ですが、5〜10パーセントの範囲であれば微調整も効くというものです。程々の「さじ加減」は大事な言い回しですが、処方を探している熟年にとって数字のない「適度」は具体的な提案をしたことにはならないのです。)

(6)  『腹式呼吸をする』

(7)  『必ず休息を』

  (上記二つの助言はまさにその通りでしょうが、呼吸を整えるのも、休息を取るのも「活動」が前提です。休息は活動があって初めて意味を持ちます。呼吸を整えよ、といっても、休息が大事だとしても、「安楽な余生」を送るということは休息の連続なのです。休息だけでは人間の機能が退化するのは当然なのです。それゆえ、助言は休息と活動を一対のものとして提案すべきです。それゆえ、休息が必要になるくらいの活動を継続せよ、ということになります。肩の力を抜いて呼吸を整えることが大切なのも、活動時の緊張をほぐすためでしょう。熟年期にこそ活動の意味を再吟味する必要があります。休息だけの助言は極めて危険です。筆者の感想は、「必ず活動を、その間、必ず休息を」、という一対の助言でなければならないということです。)

(8)  『目先のことにこだわらないこと』

  (人生50年時代はもとより引退前の労働の日々は、毎日の「目標をもて」と教えられてきました。それゆえ、反省と目標は一対であり、着実な「目標の達成」を重視して来たことも当然でしょう。「今日できることを明日に延ばすな」としつけられて来た私たちには「目先のこと」から片付ける習性が出来上っているのです。いかに精神科の助言とは言え、「目先のことにこだわらないこと」も、「いい加減のすすめ」もなかなか実行できないのは無理からぬことなのです。むしろ老いは老いなりに衰える心身をなだめながら、これまでどおり目先のことも着実にこなして、日々の社会的活動に従事する方がストレスの管理にはいいのではないでしょうか。年寄りは自分を打ち込むものがないからこそ「目先のことにこだわる」と考えた方が正しいのです。少なくとも労働が終り、次の活動を見出せない熟年の最大の問題は「打ち込むものがない」ということにあるのです。)

(9)  『腹を立てないこと』

  (近年の人間の開放、人間の自由は人生の目標は「自己実現」であると教えてきました。自己実現とは、己の可能性への挑戦を意味します。実現すべき期待も、要求も、希望も、すべては人間の欲求から生じているといって間違いではないでしょう。それゆえ、自己実現とは、人間の欲求の実現と同義です。自由を讃歌し、人間の欲望の実現を肯定する文化の中で「足るを知る」ということは大変難しいことです。「腹を立てない」ためには、人間が「寡慾」、「小慾」に生きなければならないことを意味しています。今はここにない「自己」を「実現」したいという生き方から、今ここにあるあるがままの「自己」を「受容」するという「生き方」への転換はなんと難しいことでしょう。精神科は高齢者に無理を言い過ぎているのです。それでなくても熟年は何から何まで若い時のようには運ばないことに苛立ちがちなのです。日々「怒るな!」ということは、"言うは易く、行なうは難し"の代表です。何十年も「欲求」を解放してしまったあとで、急に「知足」、「寡慾」、「少慾」をすすめることは時代の論理矛盾なのです。「腹をたてるな」と言っても自己コントロールは決して簡単なことではないのです。ここでもまた熟年の能力と活動目標のバランスを取りながらできる範囲の自己実現を最後まで目指す方が健全なのだと考えざるを得ないのです。ささやかでも自分が活躍する場があれば腹もそれほどは立たないのではないでしょうか?)

(10)  『不安を受け入れること』

  (これができれば「達人」ですね。「言うは易く行なうは難し」の典型です。仏教で言う「無常の悟り」であり、「妄執を去れ」ということでしょう。有名な森田療法では「あるがままの受容」にあたるのです。しかし、この種の答は「己の出来ないことを人に要求するなかれ」ということのモデルです。生涯学習は、人間に無理なことを言っても答を出したことにはなりません。残念ながら、現在のストレス・マネジメントはこの程度の助言しかできないのです。人生の終りが各人の「秘事」になるのはそのためです。老いと死の不安を解消する答がまだ老いに到達していない研究者から出て来るはずはないのです。)

(*12)吉井信夫、まだムリがきくと思っているうちに読む本、情報センター出版局、1992年、PP.192〜194
(*13)小田晋、imidas'99, 集英社、P.765
(*14)「心気を養う」要領(邦光史郎、死ぬまで元気:新養生訓、光文社、1995、P.41)
 

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