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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第80号)

発行日:平成18年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 幼少年教育の失敗−「教育公害」

2. 幼少年教育の失敗−「教育公害」(続き)

3. A小学校始動

4. 第69回フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

幼少年教育の失敗−「教育公害」

1 「子どもは宝」が前提

  子どもが「宝」であれば、子どもが一番大事で、一番中心である。家族は全力で「宝」を守り、「宝」に奉仕する。結果的に「子宝の風土」の養育は「過保護・過干渉」の傾向に陥らざるを得ない。それゆえ、「子宝の風土」は、子どもを護る事は満点でも、子どもを鍛える事は難しい。子宝の風土が過剰な保護の抑制機能を失った時、風土病とでも言うべき鍛練の欠落が発生する。その時、日本は到底「一人前」を育て上げる事はできない。
  伝統的な日本は大事な「宝」には「旅をさせよ」と言い、「他人の飯」を食わせよと言ってきた。幼少年は成長の各時期に、親元を離し、「守役」に預け、「世間の風」にあててきた。その思想こそが過保護の抑制機能であった。子育てには「三分の寒さ、三分の飢えこそ肝要」とは、貝原益軒の卓見である。益軒の名言はもとより「虐待のススメ」ではない。過保護に走る「子宝の風土」への「さじ加減のススメ」である。「三分の寒さ、三分の飢え」を通らなければ、「子宝の風土」の「耐性」は育たない。
  戦後教育は「子宝の風土」に欧米流の「児童中心主義」を重ねた。子どもが宝で、児童が中心でなければならない、とすれば「社会」はどこへ出てくるのか?現代の子どもに「耐性」が欠落し、「社会性」が育っていないのは当然の結果なのである。児童中心主義を導入したのは占領政策であるが、信奉したのは戦後の学校であり、教育行政である。かくして子育や教育における「保護」はますますその比重をまし、「一人前」の修養や鍛練はますます軽視された。「小1プロブレン」は起るべくして起ったのである。やがて、教室は「児童」や「生徒」になれない子どもに占領され、規範を身につけていない若者が世間に溢れるだろう。そこから「教育公害」が始まり、すでに社会に蔓延する気配を見せ始めている。
  以下の小論は当然、「子宝の風土」が前提である。「子どもが一番大事」、「子どもが中心」である事が前提である。だからこそ教育は、地域においても、学校においても「指導者」を中心にしなければならないのである。卒業式に「仰げば尊し」を歌わせたのは明治以降の学校教育の重要な智恵であった。教育方法は社会生活の「型」を厳しく反復し、「半人前」のわがままや勝手に振り回されてはならない。それでようやく風土病の「過保護」とのバランスが取れるのである。

2  「欲望の野放し」を「価値の多様化」と呼ぶな!

  近年の教育の失敗は「欲望の野放し」を保護者や社会一般の教育観における「価値の多様化」と混同したことに起因している。とりわけ幼少年教育の失敗は、いまだ未熟な子どもの「自我」を「超自我」による抑制をせずに「子どもの主体性」と同一視したことから始まる。社会のコントロールが及ぶと及ばないとにかかわらず、子どもは生物学上の欲求を有する。食いたいものを食いたいといい、やりたいことをやりたいという。もちろん、その逆もまた真である。子どもの自我を放置することは、フロイド心理学のいう「快楽原則」に支配された「欲望の野放し」である。家庭も、教育界も子どもの単純な「欲求」を「子どもの興味・関心」と置き換えてはこなかったか?子どもの「欲望の表現」を子どもの「主体性や自主性」と取り違えてこなかったか?
  社会規範や日常生活のルールを子どもの「主体性を縛るもの」と考えれば、その瞬間から子どもの快楽原則に則った行動は制御できない。欲望は野放しになり、子どもはやりたい放題になる。「好き・嫌い」だけで動く子どもを制御できなければ、礼儀は崩壊し、作法は壊滅する。礼儀作法がすたれれば、やがて約束は成立せず、社会的資源の配分の秩序に混乱が生じる。ジャングルの獣と同じになる。
  共同生活に秩序を取り戻すためには、ルールを強制し、子どもに「超自我」を内面化しなければならない。それが保護者や指導者を通して学ぶ現実原則;社会規範や日常生活のルールである。
  いささか単純に過ぎる事を承知で言えば、「自我」は子どもという車のアクセルとハンドルの一部であり、「超自我」はハンドルとブレーキの役目を果す。両者のバランスが崩れれば車は方向も出力も定まらない。それゆえ、社会規範は子どもの自我を抑制しながら、子どもの行為の「方向」と「中身」を指示するのである。しかも、社会生活上の重要な規範は子どもの生まれる前から既に決まっている。子どもに相談したり、子どもの意見を聞く必要など毛頭ない。誰もが同意できる主要なものは恐らく以下のようであろう。「親や指導者に敬意を払え」、「他人のものは黙ってとるな」、「弱いものは虐めるな」、「自分のことは自分でやれ」、「辛くても責任と役割は果せ」。これらは社会が受け継いできた人生の基本ルールである。それゆえ、これらの考え方(「価値」)が子どもに教えられない時、家庭内暴力も、対教師暴力も、万引きも、いじめも、不作法も無責任も当然の結果である。

* 「自我」とは、フロイドのいう性欲エネルギー源である「イド」から分離して発生したもので、他者と自分を区別する意識であり、行動原理は本人にとっての快・不快を基準(快楽原則)とする。
* 「超自我」は父母を代表とする社会的現実の「掟」であり、「快楽原則」だけで生きようとする「自我」に社会生活上の現実原則への適応を強要する。


3  「強制」は「非教育的」か?

  昨今の教育観は「強制」を真っ向から否定する。「強制」は子どもの「主体性」と対立し、「非教育的」という見方が支配している。学校教育を中心に幼児の保育や教育において信仰に近い。しかし、本当に「強制」は「非教育的」なのか!?
  子どもに「強制」せざるを得ない状況に立ち返って考えてみれば答は自ずと明らかであろう。第一は「危険の回避」である。無知かつ未経験な子どもが危険な状況に近づこうとすれば、親ならずとも必死で止めるだろう。本人の危険を避けるためには強制力を持って阻止するのである。第2は「他者への迷惑の回避」である。周りの危険や不快を回避するためにも聞き分けのない子どもには強制以外の手段はない。大人の世界でも法律上の禁止や道徳上の不文律の多くは強制を意味している。言葉を飾らずにいえば、「強制」とは「力づく」を意味する。「強制」の裏づけは道徳的非難の「恐怖」と法律上の「罰則」にほかならない。幼少年には彼らの無知と未熟のゆえに、法や道徳上の罪を問わないだけである。
  多くの論者が幼少年に対する「強制」は非民主的で、非教育的だと言うが、時と場合による。「強制」を全否定する一般論は極めて危険である。「強制」が子どもにとってマイナスに働くのは、子どもが一定の年齢に達し、その経験や知識が子ども自身の判断力を向上させた後のことである。特に、幼児期は「強制」こそが教育の原点である。「型」にはめるのも、「しつけ」の糸でとめるのも、時に、物理的に「力づく」で抑制するのも、「三つ子」の将来のために「危険回避の判断と共同生活の魂」を植えつけるためである。幼い子どもは尻を叩いてでも火や熱湯にひとりで近付けないのは彼らが無知で、未熟でその危険を回避できないかも知れないからである。危険な道路で必ず手をつなぐのも、海水浴で赤い旗の向こうには絶対に行ってはならないと叱るのも危険の回避に教育的強制がもっとも有効で重要だからである。幼少年教育は先ず正当な「強制」から始めなければならない。友だちに向かって固いものを投げたり、棒で叩いたりした場合には時に大怪我を引き起こす。その子は煥発を入れずに、強制的に止めなければならない。その子は「恐怖」と「罰則」によって二度と同じことを繰返さないように「条件付け」をしなければならないのである。棒をもった「手」を叩き、相手の子に石を投げた子どもの「尻を叩く」くらいの「体罰」は瞬間的に不可欠なのである。
  現代の幼稚園や保育所や愚かな保護者が"悠長に"やっているように、「相手の子どもも痛いのだから・・」とか、「固いものがあたったら怪我をするでしょう」などと「教育的説諭」などをする暇はない。
  人間の存在は「個体」である。「個体」は他者の痛みは実感できない。人間は原則として他者の痛みを分け持つことはできない。相手の身になって考えることは極めて高度な共感能力を必要とするのである。それゆえ、通常、子どもにできるような事ではない。いじめが止まらないのも、暴力が止まないのも、相手の痛みが自分の痛みではないからである。しつけや教育において「やったらただではおかない」という社会のメッセージが伝わっていないからである。苛めっ子は相手のことなど屁とも思っていない。まして、説諭の言葉などが耳に入るわけはない。だからこそ「他者の痛いのなら3年でも辛抱できる」のである。要は相手のことが分からないから、石を投げたり、棒で叩いたり、いじめを続けたりするのである。
  過日、何処かのスーパーでエスカレーターに首をはさまれて重体になった子どもがいた。しつけや教育における「強制」が正常に働いていれば、事故は回避できたはずである。「よい子の皆さんはエスカレーターの近辺で遊ばないようにしましょう」という程度のメッセージで悪ガキの行動が抑制できるなどと思う「子ども観」がまちがっているのである。浅薄な子どもの「主体性」論や「人権」論に振り回された教育論は「強制」を「非教育的」と断じがちであるが、断じてそうではない。将来、社会での共同生活をさせたいと思うのであれば、幼少期の教育は「危険回避」と「迷惑防止」の「強制」から始まると言っても過言ではない。
  「しつけ」が大事である、と言っただけでは意味が通じない時代になった。「過保護」は行けません、と言っても過保護の人々は自分が過保護であるとは思っていない。それゆえ、幼少期の指導はもっと具体的に言わなければならない。「訳なく他所の子を叩いたら、即座にその子の手をたたけ」、「お前が訳もなくこのように叩かれたらどう思うか!」と厳しく叱れ!子ども自身に叩かれることの痛さと屈辱を思い知らせよ!。「親を侮辱したら容赦なくその子の尻を叩き、そういう口を2度ときいてはならぬ!」と厳重に叱るべきである。「危険の制止を無視した時は手でも足でも尻でも容赦なく叩き、大声で2度とするな!2度と触るな!2度と近づくな!とどなるべきである」。親や指導者の心配と怒りの真剣さが子どもの身体に染み込まなければ抑止の効果はない。

4 「なる」から「する」へ−甘い日本語発想

  日本語の教育発想はいかにも甘い。我々は"いい娘になった"と言う。"立派な跡継ぎになった"とも言う。あたかも山の木々が自然に"大きくなった"かのようである。ほとんどの人間の子どもは、実際には、多くの人の手が加わって「いい娘」に「した」のであり、「立派な跡継ぎ」に「した」のである。青年や成人はいざ知らず、幼少年教育の本質は「なる」ではなく、「する」である。幼少年教育は基本的に「他動詞」で語らねばならない。
  「学力保障」の考え方も原理は同じである。「学力」が「つく」のではない。「学力」を「つける」のである。繰り返して論じたように、体力と耐性を欠落すれば学力は育たない。それゆえ、「学力」を「つける」ためには、「体力」も「耐性」も育てなければならない。両者を欠けば、「集中」と「持続」が不可能となり、あらゆるトレーニングがなりたたないからである。体力がなければ身体的努力の持続は困難を極める。耐性がなければ心理的・精神的に踏ん張りがきかない。「学力」を「つける」ためには、少なくとも一定期間の「集中」と「継続」が不可欠である。それゆえ、学力向上のための耐性とは「集中」と「抑制」の能力をつけてやらねばならない。
  「学力」も「生きる力」も「つく」のではなく「つける」のである。育児も教育も第3者の手が加わった「他動詞」であることを理解すれば、子どもは基本的に「育つ」のではなく、「育てる」のであり、少年は社会生活に必要な諸々の知識/技術を「理解させ」・「体得させる」のである。子どもの発達が別名「社会化」と呼ばれるのも同じ理由である。「教育」は確かに「教える」部分と、自然に子ども自身の内在する力によって「育つ」部分を含んではいるが、原則的には「教えて」、「育てる」というように他動詞を二つ重ねることが正しいのである。幼少年期の教育は子どもの成長が「自転」を始めるまで、「学び」のあらゆる領域において、その子にかかわるものが背中を押してやらなければ先へは進めないのである。社会が「教育」を「義務」にしなければならなかったのはその為である。少年教育の原点は「する」であって、「なる」ではない。

 

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