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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第67号)

発行日:平成17年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「名」 は 「体」 を 表 す −「看板」を変えれば、「中身と方法」が変わる−

2. 試案:異年齢集団のオリエンティールング

3. − 学 校 か ら の 便 り − 「型の指導」(世阿弥)と「訓練された無能力」(ヴェブレン)

4. 第58回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第58回生涯学習フォーラム報告

第58回のフォーラムの事例は、2か月連続で、永渕美法さんに分析をお願いした。対象事例は熊本県南小国町の市原小学校の実践「6年生子どもエージェントからの提唱・アクション"きよらの里づくり" ?「ツアーガイド」から「子どもヘルパー」まで?」である。
  論文発表は、「新しい日本人」の生涯学習プロジェクトーNPO法人の挑戦ー」(三浦清一郎)である。発表は執筆者が欠席したので、代わりに福岡県穂波町の森本精造教育長が説明を担当して下さった。記してお礼申し上げる。

1  「子どもの視点」と「社会の視点」

   子育てにも、教育にも二つの対極的な視点がある。それが「子どもの視点」と「社会の視点」である。総合的な学習が義務付けられて、量的な取り組みは一気に増えた。それぞれの学校の特性や地域の実態を踏まえた創意工夫も行なわれるようになっている。しかし、問題はプログラムの多くが子どもの「社会貢献」を問うてはいない。大部分のプログラムは、「地域・社会が子どもの為に何かできるのか」という視点に立っており、「子どもが地域・社会の為に何が出来るのか」という視点は極めて少ない。報告者の関心は教育における「社会の視点」にある。地域や社会の一員である子どもを大切に保護することは当然重要なことであるが、それだけで「一人前」が育つか!?「社会の一員であるということがどういうことなのか」現代の子どもが自らに問うことは稀である。それゆえ、取り上げた事例のように、自分が動くと周囲がどう変わるのかということを、体験することは「社会の視点」を体得する上で極めて有益である。市原小の実践は、子ども自身が、保護される存在であると同時に、地域や社会に貢献できる存在であるということを自覚する重要な通過儀礼である。


2  事例の特性

(1) 「子どもが地域や社会の為に何ができるのか」という視点に立った事例である。

(2) 子どもが「まちづくり」という視点を意識化することを可能にした事例である。
  教育する側に、子どもも町に住む市民であるという意識、次世代育成のねらいを併せ持ち、大人になる前段階のトレーニング(教育)としての意識が明確にある。

(3) 実際にまちづくりに貢献できる事例である。
  教育する側に、子どもをまちづくりエージェントとしての活躍を期待する気持ちが明確にある。子どもたちが町に出かけて調べるうちに、まちづくりに関心のある大人たちを刺激し、子ども発のまちづくりを狙っている。

(4) 今のまちに何が必要かを探る段階から、企画・立案・実施まで、まちづくりを「提案」し、「実行」するスキルを体得できるように配慮されている事例である。

  分析の詳細は事例報告に譲るが、現代の子どもに最も欠けている事は「体得」であり、「実践」であり、「社会貢献」である。学校教育の視点に最も欠けているのも同様の発想である。あらゆる少年プログラムは「体得」と「実践」と「社会貢献」の視点を導入する事によって蘇るはずである。なかんずく「ごっこ遊び」に終始する多くの総合的学習の教育的意義を高める上で不可欠の要因である。


3  論文が問うたもの −新しい潮流;NPO−

  以下は論文の中の部分抜粋である。NPOを考える上で最も需要であると筆者が考えた視点である。

 (1)  「公益」と「共益」
  日本文化の中では、仏教も、神道も、儒教ですらも、「個人」の主体性を強調するよりは、共同体の共益を強調した。それゆえ、われわれの日常は、ボランティアの精神からも遠いのである。
   日本社会の相互の助け合いは、「共同体の義理」として、「報恩」や「共同義務」の観念を基本とした集団管理型のシステムであった。それは言わば「公益」ではなく、「共益」を追求する思想である。共益とはマンションの「共益費」の考え方である。「共益費」には、払うか払わないか選択の余地はほとんどない。払わない限り、共益は分配されない。町内会への参加にも、その共同作業にも、慣習上、選択の自由はない。それはお互いの利益を守るという「大義」のための、共同の義理であり、共同の義務である。参加しない者には、多くの土地で、罰金すら課される慣習が生き続けている。それゆえ、「共益」とは、閉じられたグループ内の相互支援システムの思想である。マンションの共益費がマンションの住人を越えることがないように、町内会の助け合いが、町内の境界を越えることがないのはそのためである。伝統的共同体社会に「市民活動促進」のための法律が存在しなかったのは当然だったのである。

(2) 「市民」とは誰か?
   NPO法は名称の出発点から「市民」と言う用語にこだわる。市民社会と言う時の「市民」とは、思想的な存在であり、思想的な用語である。「そこに住んでいる人」という意味であれば、「住民」でいい。また、自治体の規模によって呼び方を変えるという時は、「都民」、「県民」、「市民」、「町民」、「村民」という。これは「単位別自治体住民」の呼称である。もちろん、市民社会と言う時の「市民」は、単位別自治体住民のことではない。
   また、日本社会には「公民」の概念がある。公民館の「公民」概念である。語感から言えば、市民社会と言う時の「市民」は、「公民」に最も近い感覚であるが、日本社会では「公民」概念の使い方を限定してしまっている。「公民」とは、「国政に参与する地位における国民又は旧市町村制度において公務に参与する権利・義務を有した者」(広辞苑)である。したがって、公民権とは、"国会または地方公共団体の議会に関する選挙権・非選挙権を通じて政治に参与する地位・資格"(広辞苑)ということに意味が限定されている。
   こうした状況では、「市民」の概念もまさしく混乱せざるを得ないが、NPO法が想定している「市民」は、市民社会と言う時の市民である。広辞苑は、市民社会とは、「自由経済にもとづく法治組織の共同社会」、「その道徳理念は自由、平等、博愛」であると説明している。したがって、市民とは、そのような社会を支える構成員のことである。

 (3) 「促進」と「支援」の意味
  意識して使用しているかどうかは別として、NPO法の解説書には、「促進」と「支援」の用語が登場する。言葉の意味をいちいちあげつらうつもりはないが、促進はpromoteで、支援はsupportである。支援も促進の一部であるが、支援を受けて活動する場合と、自ら頑張って活動する場合では、団体の「気合い」と「姿勢」が違ってくる。NPO法の出発点は市民活動の促進である。当初案に冠された「市民活動促進法」という名称における「促進」の思想は、直接的な支援を意味するものではなく、新しい日本人の活動のための環境整備をする間接的応援である。

 (4)  2種類の「日本人」
  共同体の住民組織はそのほとんどが「お上」によって育成され、保護されて来た団体である。町内会も、衛生組合も、子供会も、婦人会も、青少年育成会も、PTAも、直接的被支援団体である。これらはすべて共同体を基盤とする組織である。個人の自発的な選択によって組織された団体ではない。旧来の組織は、補助金交付から、団体事務局機能の代行にいたるまで、行政の直接的「支援」によって支えられている。現在、おそらく、行政の直接的支援無しにはこれらの組織が存続することは不可能であろう。
   個人の中にも、集団の中にも、新旧2種類の日本人が混在している。したがって、行政による異なった応援の仕方が混在しているのもまた当然なのである。それが「促進」と「支援」の違いになって現われている。
 

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