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生涯学習通信

「風の便り」(第67号)

発行日:平成17年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「名」 は 「体」 を 表 す −「看板」を変えれば、「中身と方法」が変わる−

2. 試案:異年齢集団のオリエンティールング

3. − 学 校 か ら の 便 り − 「型の指導」(世阿弥)と「訓練された無能力」(ヴェブレン)

4. 第58回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

− 学 校 か ら の 便 り − 「型の指導」(世阿弥)と「訓練された無能力」(ヴェブレン)

1  「考え方」は決まっていない方がいいか!?

  古い友人の友人から1通の便りが届いた。お便りは学校の思考の硬直性を問題にし、発想の「型通り」を批判し、なぜ日本の教育界では「訓練された無能力」が巾を利かしているのか、と問うている。お便りは、日本の教育・指導において、「答」の出し方が画一化していることを指摘し、答が一つしか出ないような問題の作り方に疑問を呈している。具体例は以下の通りである。
『最近、何気なく見たテレビのCMに、その疑問を解き明かす糸口のようなものが、見えた気がする。それは、算数の問題であった。日本は、3+7=□、6+4=□ と問う。ところが、ある国は、□+□=10 と問うのである。どちらの問題も右項は、10である。同じようにみえる計算問題が、どう違うのか。第一に、結論は同じでも前者は、出題する者が解法を決めている。足し算なので、数を数えればおのずと答えが出てくるのである。翻って、後者は、解法に幾通りかあり、あれこれ考えていくうち、答えがひとつではないことを知る。つまり、問題解決には、さまざまな方法があることを学ぶのである。さらに、前者は単純で機械的な発想に映る。当然のことながら、出題者や教える者の考えを押し付けることになろう。それに対して後者は、画一的ではなく創造性を育もうとする。その姿勢には、柔軟性があり、思索を感じるのである。』

   ご指摘は象徴的である。指導の原点を問い直している。子どもの創造性は答を教えてしまっては育たないか?総て算数のように初めから人生のことは「解決の方法」が多様であることを教えた方が良いか?筆者は必ずしもそうは思わない。


2  「型」の指導

  筆者はわが子の子育て以来、自分が大学や大学院で学んだ欧米流の「児童中心主義」から訣別した。今では、教育の基本は「型」の指導から始めるべきであると考えている。それゆえ、近年お世話になった学校にも、顧問を勤める小規模自治体の育児支援事業の「寺子屋」にも「型」の教育を導入している。「型」の指導は「答」の決まっていることから始める。「型」の指導は、原則として、子どもに考えることを要求はしない。いまだ発展途上にあって、「思考」の基本条件を備えていない子どもに「考え」や「判断」を要求することは、無理であり、教育的に「非効率的」だからである。まして、人生の「答」の大部分は子どもが生まれる前から決まっている。
  簡単にいえば、「型」の指導とは、模範「解答」を教えることであり、模倣を奨励する事である。「手本」や「モデル」を提示し、先人の行なった通りにやれ、と教えることである。生活の規範でいえば、「弱いものは虐めるな」、「人のものはだまって取るな」、「先生のいうことは良く聞きなさい」という類いである。これらの規範については子どもの意見は聞かない。議論の余地はない。したがって、指導方針を決めるにあたって、子どもの自主性も主体性も尊重しない。子どもの自主性や主体性が出て来るとすれば、「弱いものを労り、思いやる」という「行動の枠」の中で、「君だったらどうする!?」と聞く時だけである。
  「型」として行動のモデルを決めた時、言葉使いの基本は、「文型」を覚えさせる事である。あいさつは「表現の型」であり、社会的人間関係を反映している。それゆえ、学校や寺子屋に文章の音読を導入したのは、目で読み、耳で聞き、自らの口で発音し、リズムを味わい、意味を理解することによって、全身の5感をもって日本語の基本「文型」を体得させる為である。自由に言わせたところで、自由にかかせたところで基本文型を習得していない子どもに表現はできない。子どものあいさつや作文は聞くに耐えず、読むに耐えないのはそのためである。子どもは、当然、芭蕉や宮沢賢治は越えられないが、真似をする事はできる。先人の文体を丸ごと覚え込むことが最短の指導法である。
  一方、あいさつや作法は礼儀の「型」であり、他者との関係の基本であり、社会生活の「型」である。さらに、礼儀とは道徳の「型」であり、法令遵守の「型」でもある。子どもの欲求と選択に任せれば、行動は無軌道/不作法に走り、わがまま勝手に流れることは現行の教育が証明した通りである。したがって、「寺子屋」が厳しく監督する掃除や後かたづけは責任や役割遂行の基本「型」であり、あいさつや作法と並んで社会生活の「型」である。これらの「型」は、剣道の「型」や空手の「型」と同じく、しっかりと身に付けば、後々の応用や適応や創造や自由行動の土台となる。


3  「副作用」への留意

  問題は、「型」の副作用の危険性である。お便りが指摘するように、教育制度や指導者に柔軟性が欠けている時、「型」の教育は、文字どおり、「紋切り型」を生み出し、「型通り」に固執する。スポーツを例にとれば明らかなように、動作の基本型はあくまでも柔軟で、自在の応用を支えてこそ意味がある。「型」が出来ただけでは試合には勝てない。あらゆる「型」は、「型どおり」のあいさつと同じように、常に次の行動が予測可能だからである。「型」の基本を生かし、なおかつ、「型通り」の陳腐さから抜け出る為には、個人が自由に「型」を崩し、柔軟に応用し、自分なりの方法や中身を臨機応変に付加して行く必要がある。「型」が「型通り」に留まり、ヴェブレンのいう「訓練された無能力」に陥るのは、「型」を教え、「答」を指導する教育制度や指導者が硬直しているからである。寺子屋の危険もここにある。基本型のトレーニングとその応用が自在にできる為には、「応用と適用と型くずし」の指導が不可欠である。3+7=□、6+4=□の答はいずれも10であるが、指導者のちょっとした説明で、10になる数字の組み合わせはいく通りもあるのだ、ということは簡単に教えることができる。このような解き方を習って来た日本人がすべて「硬直化」し、「創造性」を失うことにはならない。学校の硬直化は学校のシステムに原因があるのであって、日本文化や「型」の教育に責任があるのではない。


4  なぜ画一的な答しか出ないのか?

  お便りは学校の問題解決法が画一的である、と指摘している。その原因は、上記の算数の問題に象徴されるように、教育界の指導が一つの「解き方」に限定して行なわれるからではないか?、と疑問を呈している。以下は筆者の解釈も交えて、お便りの趣旨を引用したものである。

『同じ問題に取り組んでも、複数の答があって当然ではないのか?日本の学校が多様性を認めず、試行錯誤の工夫をしないのは、課題の解決方法をひとつしか持たないからではなかろうか。答も、解決法も、ひとつしか持たないものは、代替案がないのでどうしても持論を言い張り、他者の意見に耳傾けようとはしない。問題解決の方法をいくつか持っているものは、選択肢の最適な組み合わせを考えることができるので、己の持論だけを独善的に主張するようなことは少ない。
  解決法をひとつしかもたない者に、互いに他者を理解しようとする受容的な態度は期待できない。解決法をひとつしかもたない以上、「答」は一つしかないからである。つまりいつでも、どこでも、「型通り」の固定発想は弾力的姿勢に乏しいのである。それは、解決法の「無知」と呼んでいい。』

5  「型」よりいでよ

  かつて世阿弥は、「型」より入りて、しかるのちに「型」よりいでよ、と説いた。基本動作や基本表現や基本発想を正確に体得したあとでは、自分の思ったように自由に、柔軟に工夫して見よ、という意味である。基本型が身に付いたあとで、「お前の思ったように試してみたら・・・。」という呼びかけがあれば、自然にその応用ができるようになる。したがって、宮沢賢治の詩も、名句の数々も、全部丸ごと覚えてしまった子ども達にはすこしずつそれらの意味を説明する。学んだ「文の型」を応用して自らの文章を作らせて見れば、驚くほどの応用力を発揮することに気付くであろう。教わった「基本型」は一つであっても、その応用の「答」は決して一つではないのである。
  寺子屋の指導法は以下の通りである。

  (1)  先生方との関係を通して、「あいさつ」、「言葉使い」、「作法」、「整理・整頓」など社会生活の基本を体得する。体得した「基本型」は発表会で新たな表現力として試し、家庭にお願いしてその応用の機会を作っていただく。

  (2)  異年齢集団のあそびを通して、ルールに従い、協力し、いたわりあい、助け合う態度の「基本型」を養う。少しずつ習得した「基本型」を社会に応用する機会を準備する。例えば、保育所の子ども達に読み聞かせをしたり、先生方にお礼の手紙をかかせたり、老健施設の慰問なども可能になるであろう。

  (3)  挑戦のプログラム、身体を思いきり使った遊びを通して「へなへな」の体力・耐性を立て直す。「体力」と「耐性」はあらゆる行動の「型」を支える土台になる。
     
  (4)  日常の生活態度、生活技術・技能は、キャンプ、カヌー、飯ごう炊飯、工作、染め物、各種の遊びとスポーツなど子どもの体験を通して「体得」させる。「通学合宿」や「キャンプ」は生活態度や生活技術の習得の過程であり、同時に、習得した能力を現実に試してみる「試行錯誤」の実践機会でもある。「型」を習っただけではいまだ実践は板に付かない。「やったことのないことはできない。」「教わっていないことは分らない。」「練習が足りなければ、上手にはできない。」「基本型」の応用実践が不可欠になるのはそのためである。

6  システムの原因

  教育界の「型通りの思考」なかでも学校の硬直化は閉鎖集団の「病い」である。「既得権益」と「怠惰」が学校を蝕んでいる。個々の教員は仕事に終われ、日々多忙に暮らしているので主観的にはずいぶん頑張っているという自覚があるであろう。しかし、現行の学校システムの本質は、余計なことはしたくない、余計なことは考えたくない、ということである。学校の硬直性は内部改革では直せない。郵便局や日本道路公団と同じである。職員の身分保障を撤廃し、第3者評価を実施し、雇用の契約制を導入すれば、直ちに学校は弾力化する。
  複数の解決法を思いつかないのではない。思いつきたくないのである。大部分の学校は、「前例どおり」、「型どおり」にやっていれば問題はない「環境」にいるのである。「新しい意見」は現場に混乱をもたらし、新しい工夫は余計な仕事を増やすのみなのである。ここから「訓練された無能力」が始まる。現場に長くいた人ほど熟練した「型通り」のやり方しかできない。近年、社会教育では生涯学習施設に「指定管理者制度」が導入され、民間の企業やNPOが運営に挑戦する機会が廻って来た。当然、新らしい発想が生まれてくる。それができなければ、経営契約の更改はない。
  学校教育の指定管理者制度はいわゆる「チャーター・スクール」である。その実験が始まれば大部分の学校は直ちに柔軟な発想を取り入れるようになるであろう。学校の硬直化の原因は日本の教育方法にあるのではない。その証拠に、日本の企業は十分に創造的かつ挑戦的である。したがって、学校が創造的でない、としてもそれは日本人の創造性の欠如が原因ではない。社会に開かず、世間の意見を聞かず、第3者の評価と助言を排除した「閉鎖性」にこそ問題があるのである。学校という閉鎖集団の「既得権益」と「怠惰」を看過するシステムにこそ原因があるのである。


7  「生きる力」の「型」をこそ教えるべきである

  『目の前にいる生徒、一人一人の人生のゴールは、それぞれに異なっている。それぞれに、みんながHAPPYになることを望んでおり、自己の目的を実現するための目標が進路の選択である。学校現場は、それを導くきわめて重要な役割を担っている。課題の解決法に「無知」な教員の集団では、すまされないし、多様な解決法に対して「無知」であるべきではないと思うのである。』
  原則はお便りの指摘のとおりである。だとしたら、ますます徹底して人生に不可欠な「型」を教えるべきである。「型」の習得を可能にする「体力」と「耐性」を鍛えるべきである。「型」を教えながら、「型通り」で済ませてはいかん、と説く。そこにこそ教育のバランスがあり、指導のさじ加減があるのである。
  「型」は自在に応用し得てこそ基本の意味がある。しかし、子ども達は、初めから自由な応用や発想が可能になるわけではない。学校は逸脱行動の責任を家庭に転化しがちであるが、ルールを遵守させることも、社会規範の確立することも、学校の責任である。それができなければ「できる人々」に学校の経営を代わってもらうべきである。
 

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