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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第42号)

発行日:平成15年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 二本足の伝統と戦え!

2. 遅すぎたモデル

3. 「子育て支援」システムの貧困

4. 子どもプログラムの条件 (第35回生涯学習フォーラム報告)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

子どもプログラムの条件 (第35回生涯学習フォーラム報告)

 「青少年グループの活性化」

   5月は第22回生涯学習実践研究交流会を実施したため、フォーラムはお休みであった。一回飛ばしたあとの集まりはどうであろうかといささか心配であったが杞憂に終った。あちこちから沢山の方々が初めて参加下さった。今回のテーマは表題の通り、具体的な子どもの活動プログラムを論じた。実践事例の発表は春日市春日北小学校の今村隆信校長と「障碍のある子もない子も共に演劇を!劇団きらきら」の田中靖子代表のお二人であった。劇団「きらきら」は5周年を迎えた。今村校長は同時に子供会育成会の会長でもある。論文参加は「子どもの活力向上プログラムの創造−5W2H」(三浦清一郎)である。

 指導の前提条件の欠落

   教育にも指導にもレディネスが不可欠である。子ども会の活動にも、劇団の活動にも同様の条件が必要である。レディネスは広く体力、気力、忍耐力、好奇心に関わる。おそらくそのすべてが基本訓練とそれを支えた生育環境の賜物である。これらの条件が整っていない時、教育も、指導も不可能である。レディネスの形成はほとんどが体験の賜物である。自分でやってみない限り、体力以下すべての基本条件は獲得できない。

   今村会長は保護者を説得しながら子ども自身による主体的実践の機会を創造した。活動舞台の素材は、子ども新聞であり、子どもベンチャー・ビジネスとも呼ぶべき「仕入れ−加工−販売」のプロセスを実践した各種夏祭りの出し物であった。売り出したのは手づくりのロウソクであり、団扇であり、金魚すくいであった。「きらきら」では5年間の公演を重ねながらどの子も主役を演じられるように工夫した。

   両者とも世間の喝采と共感を得て、次の活動のエネルギーを発電している。田中代表には、演劇の練習過程の厳しさを尋ねることを忘れたが、週末も、春休みも、ゴールデンウィークも返上で練習に没頭したと言うから、相当に厳しいものであったであろうことは想像に難くない。その姿勢こそが体力、気力、忍耐力、好奇心を醸成する。子ども会も同じであろう。子どもが自分で動くことでレディネスを作り出す。一つの活動がレディネスを高めながら、次の高度な活動を導き出すのは挑戦プログラムの魔法である。

  フォーラムにお招きする事例発表は通常成功事例である。したがって、多くのグループはここまではできていない。関係者は指導しているつもりでも、その多くは世話と指示に名を借りた過保護と過干渉に過ぎない。結果的に、体力、気力、忍耐力、好奇心は育っていない。これらの4条件を欠けば、社会が必要とするほとんどの指導は不可能である。こちらは、「基本条件の欠落」−「教育・指導の不可能」−「苦痛と逃避傾向の発生」という悪循環に陥る。

 「順序性」、「段階性」認識の欠如

  今回の論文は、子ども会プログラムの分析で書き始めたが、途中から思い直して、内容を修正した。子ども会プログラムがダメなのは、すでに分かっている。ダメになった理由は、多くの保護者が子育て知識の順序性、段階性を理解していないためではなかろうかと感じたからである。そこで最近5年間に出版された育児書を分析の対象とした。近年の公刊であるから現代われわれが当面している「少年の危機」の現状は当然考慮に入れて書かれているはずである。案の定、筆者の予感は当たったようである。

大半の育児書は養育条件の重要度、順序性、段階性などを考慮していない。それゆえ、以下のような感想を持った。

  1. 沢山の子育ての条件を同等に並列している。
  2. 養育行動の場面ごとに助言を並列すれば、保護者への指導項目が多くなりすぎる。結果的に、保護者は具体的場面で混乱する。50も、100もの助言など頭に入る筈はない。
  3. 土台と建物、必修と選択、基礎と応用、必要条件と十分条件の識別が稀薄である。
  4. 「学習」と「体得」もかならずしも識別されてはいない。「口では大阪の城も立つ」。「生きる力」の大半は「学習」では得られない。
  5. 訓練と教育、鍛錬と指導の識別もない。「訓練」、「鍛錬」への歴史的な反発が消えていない。
  6. 子どもの「他律」と「自律」の微妙な区分も意識されてない。
  7. 「子宝の風土」と「児童中心主義」の概念上の区別もない。

 

親子同行

   筆者の結論は簡単である。

   親は子どもを愛していることを毎日行動で知らせる。それが親子同行である。遊びも一緒にやる。料理も一緒にやる。掃除も一緒にやる。一緒に飯を食い、一緒に風呂に入る。一緒にテレビを見て、一緒に本を読む。愛していることが伝わっていれば叱ることができる。叱られた子どもは叱られたことが身に染みた上で、傷つかない。親子同行すれば、伝わりにくいものも伝わり、分からない事もいずれ分かる。お互いの信頼も強くなる。それゆえ、次に子どもが守るべき単純な基準を決める事ができる。

  ルールも基準も最小限でいい。基準とは、たとえば、親を大事にする。自分の事は自分でやる。弱いものは助ける。ルール違反は体罰を含めて断固として叱る。あとの理屈は学校や社会教育に任せておけばいい。その意味でほとんどの育児書は細かすぎる。子育ての日常で、個別の細かいことを間違っても、上記の原則を守っていれば何も恐れることはない。時に間違ったとしても、必ず、修正も和解もできる。

   しかし、現代の家庭の多くは上記のことを誤解する。同行は過保護・過干渉となり、結果的に断固叱ることも出来ない。子宝の風土の副作用の悪循環に入っているのである。

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