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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第42号)

発行日:平成15年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 二本足の伝統と戦え!

2. 遅すぎたモデル

3. 「子育て支援」システムの貧困

4. 子どもプログラムの条件 (第35回生涯学習フォーラム報告)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

二本足の伝統と戦え!

結婚のための5カ条の憲法

   ジェンダーフリー、アファーマティヴ・アクション、エンパワーメント、イコールパートナー、セクシャルハラスメント、DV等々等々。男女共同参画問題の表現には横文字が多い。外国からの借り物「概念」も含めて男女共同参画の理屈は山ほどある。概念はもちろん大事であるが、理屈や概念だけをいくら並べても現実に当面する課題は解決しない。その典型が農業後継者の結婚難であろう。

   山口県の研修会でお一人の参加者の手が上がった。彼は町の「心配事相談員」である。彼の町にも結婚難に苦しむ農業後継者が多勢いるという。なんとか彼等の力になって、手伝いたいが方法はあるだろうか、というご質問であった。研究者はこの種の問題を解けるか?敵は「二本足の伝統」である。久々に血が騒いだ。

1   敵は農村文化の伝統である

   すでに何回か論じた通り、農業後継者が結婚できない最大の理由は彼等を取り巻く伝統を女性が拒否しているからである。農村文化は、女性を「二流の市民」としてしか見ない。女性を男性と対等に扱わないのは農村の慣習であり、しきたりである。それゆえ、結婚難の敵は「伝統」と思い定めなくてはならない。伝統と言っても抽象的な思想やしきたりが問題なのではない。問題は青年自身の感性であり、価値観である。さらには、青年を取り巻く生きた人間関係である。中でも最大の敵は農村文化を担い、実践している身近な人々である。慣習も、伝統も、具体的には、日々、人々の実践を通して受け継がれる。仮に、筆者の提案を青年が実行しようとした時、青年を弾圧し、指弾するのはそうした人々である。彼等は青年の身近にいて、青年を愛している分だけ、「敵」としては最も手強い相手である。

   「女」を下に見るのは、青年自身のこともあり、両親である場合もある。それゆえ、青年を取り巻く「歩く伝統、二本足の伝統」こそが真の「敵」である。「女ごときが、、」と言って来たのは時に青年自身である。「嫁」を「労働力」と見て来たのは親である。「息子」や「嫁」を思い通りにしたいと考えて来たのも親である。農村文化のしきたりや慣習を押し付けて、女性を意志決定に参加させなかったのも親であり、地域の先輩たちである。

   真に女性の共感を得てこれからの結婚を望むのであれば、青年は、自分自身を含め、先ず身の回りの「二本足の伝統」と戦わなければならない。青年自身が自分自身を変えられると仮定して、次の最大の「敵」は親であろう。その次は近所の「声や眼」であろう。したがって、親との戦いの覚悟はあるか?近隣との戦いの覚悟はあるか?家族内のもめ事がおきた時にかならず妻の側に立つという覚悟があるか?先輩の圧力を跳ね返すことができるか?

2   憲法第1条 人生は二人で相談してきめる

   従って、対応策を言葉で書くだけなら簡単である。妻を守るためには父のいうことも聞かない。母のいうことも聞かない。先輩のいうことも聞かない。近所の声と眼には「余計なお世話」であると宣言する。それが具体的な「伝統」との戦いである。それができるまでに自分を確立し、信念を持てなければ、自分と結婚する女性を守ることはできない。この点を曖昧にして、「判断」は「時と場合による」などと”はぐらかす”ようでは慣習やしきたりと戦うことは出来ない。「人生は二人で相談してきめる」。そのことを断固として宣言する。それなくして女性の共感は得られない。これが結婚を志向する農業青年の憲法第1条である。憲法を遵守するか否か、青年自身に聞かなければならない。

3   憲法第2条 家事・育児への共同参画

己の内なる「筋肉文化」を否定できるか?

   青年自身が変われないのは自分が身に付けた「筋肉文化」を否定できないからである。男の方が女より偉いと思っている感性を捨てなければならない。”男が女を守る”とか、”それは女のやることだ”とか、偉そうな口を聞いてはならない。青年自身にとっては、決して簡単なことではないが、「自分が習って来た”男らしさ”の条件の大半は誤りであった」と思い定めるしかない。まずは「男子厨房に入るべからず」などという格言と縁を切る。「九州男児」とか「長州男児(?)」とかいう感性とも縁を切る。自己改造は、「男らしさ」を限定した時代遅れの概念を捨てる事から始める。家事、育児への参加は筋肉文化の自己否定を実践する第1歩である。

   人間の歴史において「労働」と「戦争」はつねに最重要事項であった。文明が生み出した機械や動力が「筋肉」に取って代わる前は、筋肉において優った男の優位は動かなかったのである。その時代が生み出した思想や感性こそが「筋肉文化」である。「筋肉文化」があらゆる生活場面において男性を優位に置いたのは必然であった。性役割分業が一つの結果である。「男らしさ」・「女らしさ」の定義も一つの結果である。それらは男性支配の文化が定義したものである。それゆえ、筋肉文化は男達にとって快い。男達が変わりたくないのは、その快適条件を放棄したくないということである。

   結果において、筋肉文化は女を下に見る。女性を二流の市民として遇する。DV(男が女に振るう暴力)はその最悪の発現形態である。「変わってしまった女」が筋肉文化にどっぷりと浸かっている男と結婚したいと思う筈はないのである。自分の力自慢、腕力自慢と決別して、少なくとも、筋肉文化が推賞して来た「男らしさ」の半分を捨てられるか?ハードボイルド小説のいうように、世間は「タフ」でなければ生きられないが、「優しく」なければ男女共同参画時代の男の資格はないのである。農業青年は女性の感性を「輸血」して、日々の家族へのやさしさの実践力を身に付けなければならない。それは家事・育児への共同参加から始まる。家事・育児に共同参加する意志のない者は結婚を諦めよ。これが憲法第2条である。

4   憲法第3条 独立分離の生活空間

   伝統と戦い、自分たちの人生を生きるためには、親から独立した生活空間を確保しなければならない。間違いなく親は「二本足で歩く伝統」を代表している。親からのプライバシーの確保は若い二人の自立を維持する基本条件である。大きな家に同居をする場合でも、生活空間の仕切りは物理的に遮断して、別にしなければならない。特に居間と台所と風呂場の独立は不可欠である。従って、食事、洗濯、掃除を初め、職業としての農作業とそれ以外のプライべートな生活は分離するのである。それが妻の独立、自らの自立を守る方法である。そのうえで、食事を共にすることも、お互いを手伝い、助け合うことも自由である。共同とは自立した人間同志の助け合いである。共同の前提は「自立」であって、「助け合い」ではない。三世代同居の生活環境においても、若い二人の生活空間を分離する事は農業青年の結婚の前提条件である。二人だけの暮らしの場を作ることが憲法第3条である。

5   憲法第4条 二人のための「家族協定」策定

 パートナーシップのための診断と処方

   農業青年は自らの同類を誘ってグループを作り、自らを診断しなければならない。何が現代の女性を自分達から遠ざけているのか?自分が対等のパートナーとなるための処方はなにか?それらは風呂の順番から、農業休日、小使い銭、子どもの育て方にいたるまで、家族の意志決定を「二人できめること」が原則である。先ずは女性を抑圧して来た男達が自己改造の原案を作らなければならない。

   診断と処方は、日常の生活習慣から始まり、ものの考え方、感じ方まで農業生活、人間生活のすべてを網羅する必要がある。それらの結果は、いつか意中の女性に出会った時、彼女に提示して説明できるまでに自己の内で反芻し、納得しておかなければ説得力には結びつかない。処方には、共同の生活基準、ふたりの活動計画、それぞれ独立の活動の自由を保証するルールとシステムが含まれる。要するに結婚後の生活デザインが必要になるのである。女性にとっておそらく我慢がならないのは自分が決定に参加する余地のないしきたりや慣習が先行決定されていることである。それらは、女性を下に見るに留まらず、がんじ絡みに女性の行動・判断の自由を束縛する。農業青年は女性を対等な「パートナー」として遇する宣言を生活デザインに込めるのである。それも人から言われてやるのではない。自分自らが考えて診断と処方を書かなければならない。現在、農業行政が提案している「家族協定」の精神は対等の伴侶(パートナーシップ)のための処方箋である。憲法第4条は二人の「家族協定」をデザインすることである。

6   憲法第5条 「向上する意志」の継続と生涯学習の実践

   生涯学習の時代が到来して女性は勉強をしている。公民館でも、カルチャーセンターでも、スポーツセンターですらも、生涯学習や生涯スポーツを支えているのは圧倒的に女性である。農業青年も農業の勉強はしていることだろう。しかし、それだけでは現代の女性には太刀打ちできない。女性は自分自身も、生活も高めようと日々努力している。それゆえ、外国語も、料理も、インテリアも、文学も、歴史も勉強している。エアロビックス、ダンス、水泳など、スポーツも欠かさない。女性は生涯学習や文化活動を取り入れて、生活を楽しもうとしている。それは日々の姿勢に出ている。

   女性は生活を個性的に演出し、人生を自分流に生きようとしているのである。しかも、ここでも女性が志向する活動の基本は男女の共同参画である。農業青年も女性と一緒に向上する生涯学習を始められるか?女性と話し合って、二人の流儀にかなった人生を築く意志を宣言できるか?憲法第5条、問われているのは「向上する意志」と生涯学習の実践である。

7   公表は公約である

   覚悟さえ決まれば、5カ条の憲法を公表し、実践することである。それが結婚の条件である。公表はいまだ見えない相手への公約である。女性はすでに「変わってしまった女」である。彼女達の共感を得て、お互いを同志・戦友と認めあうまでには伝統との激しい戦いが予想される。それは己の中の「変わりたくない男」との戦いでもある。夢、政治家のようにご都合主義で己の「公約」を反古にすべきではない。その時もっとも傷つくのは青年自身である。

8   提案者の資格

   筆者は外国の女性と結婚した。30数年前のことである。それゆえ、伝統との戦いに付いてはいささかの経験がある。結婚に付いても、子育てに付いても、生活スタイルのあらゆる面で、日本という「伝統」と「偏見」が弾圧者であった。日本文化こそが最大の敵であった。この間、少なくとも上記の憲法第一条だけは堅持した。誰がなんと言おうとも、二人で決めたことは、曲げない。それが提案者の資格であり、異文化からやってきた相手への礼儀である。

若い女性とその母の意見は?

農業青年が以上の「憲法」を守ったら、彼との結婚を考慮してもいいと思うであろうか?感想を聞きたいものである。

 

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