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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第42号)

発行日:平成15年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 二本足の伝統と戦え!

2. 遅すぎたモデル

3. 「子育て支援」システムの貧困

4. 子どもプログラムの条件 (第35回生涯学習フォーラム報告)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

遅すぎたモデル

 「国際試合」で「日本人」になる

   台所で皿を洗っていたら付けっぱなしのテレビから、音頭朗々と誰かが「君が代」をうたうのが聞こえた。今のはなに?、と手も休めずに家人に聞いた。新聞を読んでいた妻もよくは見ていなかったらしい。”名前は知らないがテレビで時々見る若い人気歌手だよ”という返事だった。

   6月8日、日曜日の夕刻、日本−アルゼンチンのサッカー親善試合直前のことである。試合開始前のセレモニーで歌ったのだという。観衆も歌手に和して国歌を歌ったという。ようやく大リーグ野級やNBAアメリカバスケットボールの公式戦の開会式のモデルが採用されたということであろう。サッカー界は日本の地球化に付いても、外国人監督の実力主義的採用に付いても、これぞと思う世界モデルの導入に際して、進取の気性に富んだ実験の精神が旺盛で偉い!

   サッカーにくらべれば、同じような人気スポーツである大相撲やプロ野球は情けない。テレビの画面をあれだけ占領しておきながら、なぜ同じような努力や工夫が出来ないのか。なぜ世界のモデルを試してみようという精神が欠如しているのか?優れた野球選手が次々とメジャーリーグへ出て行くのも、日本人新弟子の確保が難しいのも同根の理由である。自己革新が出来ないのである。外の世界と「他流試合」をしたことのないものは、これまでやって来たようにしかやれない、これまで考えて来たようにしか考えられない。それゆえ、変革の機会も、実験の機会も訪れない。新しいものを試そうとしない老人と同じく、同じスタイルで長く生きて来たものほど「精神の固定化」が甚だしい。「伝統」がいつのまにか「マンネリ」や「進歩の敵」となって自らを滅ぼすことになるのは、人間も、組織も同じ宿命なのかも知れない。

 学校現場の苦悩

   相撲界も、野球界も、学校が国歌の指導でどんなに苦労して来たか知らなかった筈はなかろう。特に、大相撲は毎回器楽の演奏による国歌のテープ(?)を開式時に流して来たのである。文部科学省も現場の苦労や対立のすさまじさを知っているのになぜ相撲協会やプロ野球のコミッショナーに頭を下げて、当代の「人気者」を動員した、国歌による開会セレモニーの実施を依頼しなかったのか?世界にモデルはあったではないか!

   サッカーも、野球も、大相撲も、巨大なエンターテインメントである。当代の人気歌手と組み合わせた場合、何百、何千の学校の努力を一気に越える教育効果を発揮したであろう。

 「物神性」論議の不毛

   エンターテインメントの各部門が参加すれば、国歌を巡る学校現場の不毛のイデオロギー対立はずっと以前に終止符を打つことが可能になったであろう。もともと国旗にせよ、国歌にせよ、「もの」に戦争責任を負わせることは原理的に困難である。責任を負うべきは、国旗や国歌を特定の政治イデオロギーに利用したシステムと思想の責任である。単純化していえば、殺人に使われた医学用の「メス」に殺しの責任を問えないことと同じである。しかし、われわれは少年非行や子どもの事故は、「刃物」に責任があるとして、「刃物を持たせない運動」をやって来た。ものに責任を負わせる”物神化”の「前科」がある。”凶器”に利用され得るものは「悪」であるという論理が、国民を動かしてきたのであろう。反体制運動を指導して来た側に、粉砕すべき「政治悪」を代表する国旗や国歌のような「象徴」が必要であったことも理解できないわけではないが、そんな単純な発想でシステムの改革はできない。彼等の論理に従って、現行の国旗、国歌に代えて、別の旗、別の歌を掲げたところで、それらは別のイデオロギーの象徴として受け取られるだけの事である。

   日本の教育行政は勉強不足の上に感度が鈍い。国旗や国歌に戦争犯罪の責任を背負わせるか否かでイデオロギーが対立している政治・教育状況で、学校や個々の教師に国歌指導の責任を負わせるのは酷というものである。一部の組織の教師が強硬に反対し、一部の親も強硬に反対する。それもなまじっかの反対行動ではなく、実力闘争を含んでいた。「国歌を歌え」という文部行政の指示と、「歌うな」という反対派の板挟みになって広島県のある校長先生がみずから命を断たれた例さえ出た。誠にもったいなく、なさけなく、酷い話である。残された御家族はどんな思いでサッカー場で声張り上げる若者の「君が代」をお聞きになったであろうか?

 「国際試合」で「日本人」になる

   サッカーの試合であれば、若い人気歌手に倣ってみな生き生きと国歌を歌うではないか!ましてや相手は強剛アルゼンチンチームである。選手も応援席も、日本は打って一丸とならねば勝負にはならない。国際化も、地球化も最大の課題は「国際試合」である。戦うのは日本である。野球界の開拓者となった野茂投手の勇気を讃えるのも、イチローに拍手を送るのも、彼等が、結果的に、日本を背負って「他流試合」に奮戦しているからである。世界の舞台で「他流試合」をするとき、国歌も国旗も初めてその意味が分かる。日本人は「国際試合」を通して再び「日本人」になるのである。分からない人は、視察や物見遊山ではなく、たった一人で外国との「他流試合」に出かけてみるといい。反国旗・反国歌運動のリーダーにも、教育行政のリーダーにも勧めたい。今、一流のスポーツ選手達は国際化・地球化の先陣を切って、再度「日本人」になろうとしているのである。

 

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