シリアスゲームと教育学研究の政治性

 昨日の教育工学とシリアスゲームのエントリについて、東大の中原さんからコメントをいただいたので、またそれをネタにしつつ、関連するところを書きます。
 中原さんの記事:ゲームと教育工学
 http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/03/post_108.html
> まぁ、僕は学習研究者なので、上記のようなテーマを聞くと、あいかわらず「それは学習だよなぁ」
> と思ってしまいますが(笑)。「箸が転がっても」、「それは学習の問題だよなぁ」と思ってしまう、
> 「学習バカ」の僕は、このさい、放っておきましょう。なるほど、了解しました。
いや、その点では僕も相当なバカものなので、意味するところはわかります。
この場合は、学習も密度の濃さや状況の違いによっていくつかレイヤーがあって、それを「経験」と呼んだり、「認知」や「態度変容」や「動作習得」、あるいは「刷り込み」のようなものもあると思います。それを僕らのような教育研究者の側からすると「学習」と捉えればしっくり来るし、マーケティングの人は「宣伝」だったり、社会活動家のような人からすれば「啓蒙」なのかも知れないですが、そういう形でそれぞれの立場で別のくくり方をしてシリアスゲームを捉えていることも、コミュニティにおける相互の学習にはプラスに作用している面は大きいし、学習という概念についての理解を深める上でもプラスに働くと見ています。
> 要するに、「ポリティカルなもの」をそのまま伝達しても、子どもや大人には獲得できない。だから、
> ゲームという形式をつかって、彼らが楽しんでいる間に、獲得させちゃおう、正当化させちゃおう、
> という開発者のねらいみたいなものを感じます。
これはおっしゃるとおりで、教育的意図で作られたゲームであっても、扱う題材によっては政治的な意図が含まれることを避けられないと思います。シリアスゲームのメーリングリストでも、政治的な意図をユーザーに楽しませながら伝えられるという効果に対して、懸念する意見や慎重論も出ていて、継続的に議論されています。
たとえば、このことを考えるちょうどいい例として、September12というゲームがあります。
September 12th
http://www.newsgaming.com/newsgames.htm
 数分プレイすれば、このゲームが伝えんとするメッセージが伝わってくると思います。これを「テロに対するミサイル攻撃がいかに無意味か」と理解するか、「たちの悪い政府批判だ、けしからん」と理解するかは、それぞれの政治的立場で解釈が変わってきます。また、米陸軍が志願兵のリクルート用に作ったシューティングゲームもあります。これもプレイしているうちに、就職先として軍も悪くないなと若者たちに考えさせることを意図して作られたマーケティングツールです。他にも、中国の政府系機関がスポンサーになって、南京大虐殺のゲームを作ったというあからさまな例もあります。
 こういう微妙なテーマを扱えば扱うほど、そのゲームの持つ政治的な意図が問題になってきます。これは昔からいかなるテクノロジー、メディアにおいても同じような議論がされてきていますが、ゲームもそのインタラクティブな特性によって、他のメディアとは異なるパワーを持ったメディアとして避けられない問題だと思います。そういう意味では、たしかに社会学とかメディアスタディとか、いろんな立場の人が研究テーマとして取り上げて、理解を深めていくのが望ましいと思います。
 僕個人は、この問題については「いかにポジティブや中立であろうとしても、悪意や利己心を持った受け手がメッセージを歪めて捉えようとするのは避けられない」という前提で、そういうセコい悪意など無力化できるくらいにポジティブさを維持していこう、というスタンスを取ります。自分たちのやることが影響力を持てば持つほど、権力やオカネの問題が絡んできて、積極的に自分たちの立場を守らなければ、悪用されてしまうケースも出てくると思います。そう考えた場合に、メディアとしてのゲームの使い方についても、慎重に進んでいくよりは、どんどんトライアルを繰り返して試行錯誤する中で、十分な経験や知識を獲得しておく方向で進む方が、あとあと助かるだろうなと。
 関連する話で、インストラクショナルシステムデザイン(ISD)の研究者達が、教育システム変革論に関心を持つようになった、という流れがあります。ISDは教育現場のデザインが主要な関心なのですが、それをうまくやろうとしたり、学校全体やさらに広範に普及させようと考えた際には、どうしても学校や学区、より上位の教育システムといったマクロなシステムの動きを考慮した取り組みが必要になります。ISD分野きっての理論家であるライゲルースはISD研究における教育システム変革論の第一人者でもあるし、ペンステートのISD研究者カイル・ペックは、地域のチャータースクール開設の際に重要な役割を果たしました。日本で「インストラクショナルデザイン入門」という訳書が出ているウィリアム・リーも、「企業は研修の改革で組織も改革できるような幻想を抱いているけど、ISDのアプローチだけではそういうニーズには応えられない。より上位の教育システムへのアプローチ手法を身につけないといけないことを後になって理解した」と指摘しています。「より上位の教育システムへのアプローチ」には、そのシステムにおける文化的、政治的な状況把握と、それに基づいたある種の政治的な動きというのは当然含まれてきます。政治的動きというと、何やら怪しげな感じがしますが、状況を望ましい状況に持っていくため手段の一つとして捉えればいいと思います。
(建前は政治的でない日本のアカデミックな世界が、その中での各自の行動は、暗黙の政治的配慮とかルールに縛られていて、エライ人ほどすごく政治的だったりするわけですし、その中で研究の中立性を保つには、時には積極的な防御手段も必要になってくるのかなと懸念してます。)

シリアスゲームと教育学研究の政治性」への2件のフィードバック

  1. 「ヘルスコミュニケーション」バカ

    いつも勉強させてもらっているanother wayさんの
    エントリ
    シリアスゲームと教育学研究の政治性
    およびそのきっかけになった
    東大の中原先生のブログエントリ
    ゲームと教育工学
    に、??

  2. 非常に身につまされるエントリありがとうございます。
    自分が自分の分野で考えていることと非常にリンクします。
    インタビューさせていただいた内容(第4弾)とも少し
    関係しますね。
    ちょっと散漫な内容になってしまいましたが、
    思ったことを書きましたので
    トラバさせていただきました。

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