総合的学習の破産−文教政策の清算
「総合的学習」の多くは学校が主催する「ごっこ遊び」である。学力向上の視点からも、学力以外の「生きる力」の視点からも、総合的学習は破産している。限られた100時間余の枠の中で農業体験から国際交流まで子どもの体験プログラムが実行できるわけはない。あらゆる指導の前提となる体力も耐性も付かない。やったことのない教員はくたくたである。100時間余の授業時間を削れば当然学力は落ちる。学校も教員も努力には限度がある。それにもかかわらず、学校は社会教育と全く連携しようとはしていない。したがって、地域の教育プログラムは貧弱の限りである。行政指導をするのなら腰を据えて学校と社会教育の連携を指導すればいい。かつて世話になったところを厳しく批判するのは心苦しいが、文科省は少年の危機も大学の改革も分かってはいない。文科省は自らの誤りを認めて、解決の試行錯誤を開始すべきである。株式会社に学校経営を任せるのも一案である。日本の企業は世界で勝負をして来たのである。世界には優れた大学が沢山ある。
外国の大学を招聘・認知するのも一案である。日本に進出した世界の大学を「各種学校」としてしか認知しないのは日本のクズ大学を守るためであると言われてもしかたがない。
制度的にはすでに自民党が研究している「チャータースクール」もある。株式会社が創る大学には教授会を認めてはならない。周知のとおり大学改革を拒否してきたのは教授会である。そのことを文科省は知らないわけではない。知っていて何もしないのは未来を損なう不作為の罪である。地方分権に先駆けて県や政令指定都市に教育の工夫を任せて見るのもいい。小泉内閣の「特区構想」をもっともっと活用すべきであるのに、ほとんど何もやろうとはしない。教育をすべて文科省が律する時代は終わったのである。中央教育審議会も学力の危機に当面して、ようやく自らの誤りに気付いた。総合的学習を清算して学力向上を明確に打ち出すべきである。学校は教科指導の専門機関である。審議会メンバーは大方入れ代わっているはずではないか。過ちを認めようとしないのは文科省自身なのである。民主党は「学校週6日制」を言い始めた。合併問題の賛否を住民に問うように、学校週五日制の是非を保護者に問えば、疑いなく「六日制」に賛成が得られるであろう。学校週五日制はもともとが文部科学省の表現上のごまかしを含んでいた。実質は教職員の週休二日制である。「ゆとりと充実」のスローガンも何ら実現の保証はない。充実したプログラムがないのに、「充実」が生まれる筈はない。自由時間ができたからと言ってそれが充実に繋がるのであれば、定年後の熟年も苦労はしない。「毎日が日曜日」は苦しくて、長い「自由の刑」である。無聊が辛いのは熟年も子どもも変わりはない。信州大学の調査結果が示すように三分の一の子どもは「やることがなくてつまらない」のである。
河村建夫文科省は民主党の学校六日制案を人気取りのポピュリズムデあると一蹴したそうだが、民意に従うのが民主主義と講釈して来たのではなかったか?新指導要領の見直しが行なわれた現在、学校は政治に倣って、マニフェストを示して体力、耐性、道徳性、学力、思いやりのプログラムを実行すべきである。それが出来ない校長は交替させ、評価に耐えない問題教員は速やかに学校以外のところに配置変えをすべきである。文科省のやることは多いのである。 |