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風の便り
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「風の便り」(第107号)
発行日:平成20年11月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. 教育公害の足音
2. なぜ家事はそんなに辛いのか
3. 豊津寺子屋の男女共同参画
4. 「一筆啓上家族への便り」
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
なぜ家事はそんなに辛いのか-男女共同参画の障碍物- 一体、家事はなぜそんなに辛いのでしょうか?具体的な家事は「些細なこと」と言ってしまえば身もふたもありませんが、事実、大体は簡単なことでしょう。しかし、男女共同参画が私生活に導入できるか、否かは、その「些細な」家事の分担にかかっているのです。家事の一つ一つは些細なことでも、積み重なり、連続すれば、「重大事」になるのです。 家事はまちがいなく辛いのです。そうでなければ、家族生活のなかから家事がこれほど「外部化」された理由の説明がつかないでしょう。現実に家事の大部分を分担している女性にとっても、その分担を回避して来た男性にとっても、「家事の辛さ」の理由は多岐に渡ります。以下は参考書の業間を読み取り、女性の不満をメモしながら、筆者が分析した結果です。考えるヒントは、「筋肉文化」の特性の中にあり、実際の日常生活の繰り返しを勘案すればそれほど難しいことではありませんでした。 歴史的な起源から、具体的な日常生活上の根拠まで男女両性が「家事」にこだわる理由は以下の通りです。 (1) 男がすべき重要な仕事ではない 「筋肉文化」は男に筋肉を必要とする仕事を分担させました。主役は生産労働と戦争です。やがて男は社会の主導権を握り、頭脳を必要とする仕事も分担するようになり、結局は社会システムを維持する重要な役割はすべて男が担当するようになりました。この事実をひっくり返せば、男のすることは総じて重要であると錯覚を生むことになります。それゆえ、「女、子どものすること」は「些末なこと」になるのです。男性支配の社会生活は、男がすることが主要で、女のすることは副次的になったのです。男社会にとって、唯一の例外的な女の重要事は「出産」だったでしょう。単純に、男にはできないことだからです。 人生におけるこのような評価序列は、つい最近まで、あるいは現在も続いていると言った方が正確でしょう。評価序列をシステム化した結果が「性役割分業」です。「家事は男がすべき重要な仕事ではない」ということになったのです。多くの男性は今でもそう思っていることでしょう。だとすれば、現代の女性がそうした発想に寛容でいられる筈はないのです。 (2) 社会的評価の対象にならない―「妻に定年はないのか」 家族が分担する家庭内労働は、長い間、社会的評価の対象になりませんでした。筋肉文化は男の労働だけを社会的労働と認知して来ました。女性の家庭内労働は「私的」であり、「奉仕」としてしか認知されませんでした。家庭内労働の中で、唯一社会的労働と認知されたのは、「奉公人」や派遣家政婦のような外部労働力を導入した場合だけでした。しかし、現代社会においては、「扶養家族」概念に異議を唱えて来た女性の主張を聞くまでもなく、「家政」は明らかに家事の外部化に伴って「社会的労働」であることが認知されるようになりました。「家政婦(夫)」に代表される職業もすでに長い歴史があります。介護の派遣業務は現代の注目すべき職種になりつつあります。 家族による家事を「社会的評価の対象にならない」として経済行為から除外する考え方は「内助」という表現に代表されて来ました。「内助の功」は久しく男性支配の社会が使用して来た概念です。しかし、今や、法律上の取り扱いが変わり、「内助」は「外助」と同等として認知されました。熟年離婚時の「夫の年金」の「分割」が妻に保障されるなど「社会的評価の対象」になったのです。 それゆえ、定年後の男性が家事を分担せず、家事の辛さと困難を正当に評価しないことは女性の労働と貢献を正当に評価しないことに通じているのです。「妻に定年はないのか!」という女性の側からの指摘は、家事労働の社会的意味を理解しない男性に対する精一杯の皮肉なのです。 (2) 「個性」や「創造性」の余地が少ない 家事の大部分は日常の繰り返しです。それゆえ、慣れてしまえば、家事の大部分に「個性」や「創造性」の余地が少ないと言っても誤りではないかも知れません。おもてなしの料理を作ったり、家計を工夫して投資計画を立てたりするような例外もありますが、お昼をお茶漬けで済ませたり、皿を洗ったり、玄関を掃いたり、ゴミを出したりすることに特別な能力は要らないということです。しかし、高度な能力を必要としないことだから「男性の仕事ではない」、ということでは女性もだまってはいられないでしょう。家事や介護や日常の日常業務にはすべて当てはまるのですが、必要であっても「繰り返し」で「退屈」、不可欠であっても「単調」で「辛くて」、時に「汚い」というような業務は、英語で「Dirty Work」と言います。欧米の先進国はダーティー・ワークを安い賃金で、外国人労働者に請け負わせることが常でした。これからもその風潮は続くでしょうが、やがて開発途上国の生活レベルが上がれば、「ダーティー・ワークの国際分業」もできなくなる時代が来ます。その時のことを考えてみれば、みんなで分け合って「退屈」や「辛さ」を分散するしか方法がないではないですか?家族の中も同じでしょう。家事も介護もみんなで分け合って「繰り返し」や「辛さ」を分散するしか方法がないのです。これまでのように担当者を女性に限定すれば必ずその不公平に女性の不満や怒りが集積してしまうのです。これからは労働分野においてもダーティー・ワークだからこそ余分なお金を支払うことが常識になる時代が来ると思います。妻だけが家事の日常業務を分担しなければならないのはアンフェアで不公平というものです。 (3) 誰でもできる 通常の家事なら誰にでもできます。訓練さえすれば、子どもにでもできます。「だれでもできるのなら」「あなたでもできるでしょう」というのが女性の論理ではないでしょうか?特別パーティーのシェフは務まらなくても、料理も、炊事も、洗濯も少しの練習で日常のことは簡単にできるようになるのです。だから誰にでもできるのです。子どもの家事手伝いもしつけの一環として当然のことであり、男性の分担もまた当然ではないでしょうか? (4) 「繰り返し」と「連続性」 家事の最大の問題は「繰り返し」と「間断なく続く」ということです。毎日、あるいは、いつかは、誰かが汚れた皿も、衣類も洗わなければならないのです。掃除もしなければなりません。定年後に男性の決まった任務がなくなる以上、女性が男性に「間断なく続く」生きるための作業の分担を願うのは当然のことでしょう。 「繰り返し」と「連続性」は時に苦痛です。重いものを持って同じ道を繰り返し登らなければならないシジフォスの神話のように、考えようによっては家事は延々と繰り返される辛い「罰」なのです。人間が食うことと排泄を止めない限り、家事だけは死ぬ迄続くのです。余暇時代が到来し、定年後の生涯時間は80年と言われるようになった現在、間断なく続く家事の繰り返しは女性の分担であるとする根拠は分からず屋の男性にも見つからないでしょう。 (5) 「奉仕する側」と「奉仕される側」に分かれる 家事はファミリー・サービス(奉仕)です。それゆえ、家事の分担が男女どちらかの一方に偏れば、片方は「奉仕する側」となり、他方は「奉仕を受ける側」になるのです。妻が自分のことに熱中している最中に、突然"灰皿"、"しんぶん"、"めしはまだか"などと言われて頭に来るのも分かろうというものです。恐らく、男性の側には労働組織の中の部下と上司の関係に慣れ過ぎた感覚も残っているのでしょう。また、長年家の外の労働で言うに言われぬ苦労をして家族を養って来たという自負があり、家では「奉仕される側」に坐る事は当然だと思っているのかも知れません。 しかし、外部労働における男性の労苦の歴史が事実であったとしても、妻が遊んでいたわけではありません。しかも、定年は男性が根拠として来た外部労働の終わりなのです。ここからは新しい歴史が始まるのです。まして、共稼ぎで過ごして来たご夫婦の場合は、男が家事を分担しない理由はまったくあり得ないでしょう。 「自分で時間を過ごせる活動を見つけて」と妻たちが言っているように、定年は労働から活動への「移行期」です。この時、従来の分業は終わり、新しい家庭内協業が始まるのです。過去は過去、これからはこれからです。その思考法に夫がついて行けないとき、妻にとっても夫にとっても、定年は地獄になるでしょう。 (7) 「家事力」は「生活力」 妻たちは家事力を日常の「生活力」と呼んでいます。したがって、家事をおろそかにすれば、生活が崩壊します。家事は退屈であろうがなかろうが、間断なく続き、家事を怠ればその日の生活が停滞するからです。したがって、家事を分担しない者は、「生活力」に欠け、日常の負担になるのは当然なのです。「負担」は心身のストレスです。定年後、家事を分担しない男はストレスを引き起こす原因である「ストレッサー」だということです。負担は実質的負担と心理的負担の双方に股がっています。家事における「奉仕」と「被奉仕」の関係を固定化すれば、日常の人間関係は、時間の上でも、作業量の上でも、支配と被支配の関係に転化し、主従の関係に転化し、家事をし続ける側の物理的独立も心理的独立もその両方を犯すことになります。 夫が定年で帰って来た家庭の妻の健康に着目した黒川順夫氏は近年一躍時代の脚光を浴びました。「何一つ家事をしない夫」、「相も変わらぬ支配的な夫」、「部下に対処すると同じように妻に対処する夫」などが妻の健康を著しく害しているというのです。指摘されてみれば当然のことですが、ストレッサーが家の中にいるということになるのです。それが有名になった「主人在宅ストレス症候群」(*1)です。その症状は,胃潰瘍、気管支ぜんそく、高血圧、慢性肝炎、脳梗塞,うつ状態などの症状になって現れるといいます。家事を侮ってはいけないのです。家事の背景には男女の対等、夫婦の共同、終ることのない「繰り返し」と「連続性」の「負の課題」が潜んでいるのです。いつの時代も「苦労を分け合う」ことは夫婦が夫婦であり続ける基本です。人生の前半は家を買ったり、子どもが小さかったり、必然的に夫婦は苦労を分け合わなければ家庭は崩壊します。しかし、これら家庭の一大事が一段落したあと,人生の後半に家事や介護の負担が女性だけに偏ったとき、「苦労を分け合う」夫婦の前提は崩れます。熟年離婚の最大原因はそこに存するのではないでしょうか。 (*1)黒川順夫(くろかわのぶお)、「主人在宅ストレス症候群」、双葉社、1993年 、新「主人在宅ストレス症候群」は2005年 追記;関連の参考論文で「夫が自分と暮らしていることが死亡に繋がりやすい」(愛媛大、藤本弘一郎グループ、1996-1998の間、60-84歳、3000人調査)があります。
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