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(第70回生涯学習フォーラム 参加論文)

小学校教育における指導原理の再考〜「児童中心主義」理論に振り回されてはならない〜

平成18年9月16日(土)

三浦清一郎

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1  家を建てる「順序」−教育・指導原理のシークエンシング法

  家を建てる際に基礎を固めずに柱から立てる人はいない。住宅建築にはその順序が決定的に重要である。まず「基礎」を平らにして良く固める。固め方が足りなければ柱や壁を立てた後に沈んでくる。当然、基礎工事は最も重要である。次は固めた基礎の上に土台を平らに置く。この時初めて床の基礎を土台をつないで、柱を立てる準備が整う。柱は家の大きさや間取りや耐久性に深く関わっているが、その耐久性の根本は地固めから土台に至る基礎工事である事はいうまでも無い。
  柱が立てば、柱をつないで壁をつくり、梁を乗せ、柱と柱の間、梁と床の基礎の間に更に柱をかすがいに入れたりして強度を補強する。こうしてようやく屋根の重みを支えることができる。屋根は風雨に耐えなければならない。風が吹き込んでめくれたり、雨が染み込んで雨漏りがしないよう幾重にも重ね葺きをする。出入り口をつければ辛うじて住む事ができる。窓や廂や、屋内外の調度や飾り物はあるに越したことはないが、不可欠では無い。子育てや教育の論理もその基本において住宅建設の論理と順序性に変わりは無い。基礎や土台を抜きに柱から始めるわけには行かない。子どもの発達要因、教育や指導の基本領域の「順序」性と「組み合わせ」の重要性に最も留意しなければならない。それが教育・指導原理のシークエンシング法である。


2  教育要素の配列・組み合わせ(シークエンシング)法

  生物の個性は遺伝子の塩基の配列の違いによって決定される。政治の特性は政策の配列と組み合わせによって決まる。政治学の場合ポリシー・シークエンシング法と呼ばれる。想定される政策項目は変わらなくても、それらの優先順位や組み合わせによって、政治の方向も、政治姿勢も大きく変わる。子育てや教育も同じ事である。それゆえ、政治学の表現法を借りて「教育要素のシークエンシング法」と呼ぶことにする。想定される発達要因や指導項目は沢山ある。それらをすべて同時並行的に実行できない以上、どこから始め、どのように組み合わせるか、を決めなければならない。それが「シークエンシング」である。住宅建設に基本の順序があるように、遺伝子にも、政策にも基本の順序がある。マズローによれば幸福にすらも順序性があって、「生存の欲求」 −「安全の欲求」−「帰属の欲求」−「社会的承認の欲求」−「自己実現の欲求」の順である。下位の欲求が満たされなければ、当然、より上位の欲求は満たす事が困難である。人間の世界では大抵の物事に基本の順序があるのである。
  もちろん、子育てや教育の方向性や結果も子育て要因・指導要因の優先順位と組み合わせで変わってくる。子どもに指導すべき要素は無数に存在する。子どもに学ばせたい課題も無数に存在する。育児書を読んでも、教育書を読んでも、沢山の発達要因が並んでおり、山ほどの課題と助言が並んでいる。しかし、大部分の参考書の叙述は「並列的」で、「総花的」である。それぞれの要素が大事であることに異論はないが、実際にどこから始めるのか?限られた時間とエネルギーの中で全部に手が廻るはずはない。育児書でも、教育書でも、指導原理の配列や組み合わせの「順序」性の意識が欠落している。子どもに発達上の基礎/基本が整っていない時、識者が「並列的」に、かつ「総花的」に子育て論や教育論を説く事は著しく有害である。まずは、親が総花的な育児書の指導をつまみ食いしてあれもこれもと中途半端に試みる。親は素人なのだから育児書や教育書に振り回される事は仕方がないが、結果的に子育ての混乱は免れない。住宅建設において、基礎や土台や柱や壁や屋根の要素は並列的に論じられてはならず、同時並行的に建設ができるものでもない。
  にもかかわらず、教職のプロが担当する現行の学校の多くは教育要素を総花的・並列的にならべて子どもを指導しようとしている。がんじがらめのカリキュラムの中で、総花的に「あれも」、「これも」を指導しても、基礎が固まっていないところに柱を立てようとすることに似ている。それぞれが真面目に取り組んだとしても、指導の順序を間違えれば、配列も、焦点化も適切にはできない。結果的に子どもは「生きる力」も、「一人前」の基本も修得できない。
  そもそもどんな子どもに育てたいのか!?子ども像を明確にし、その構成要因に向かって努力を焦点化しなければ教育目標の実現は難しい。努力の焦点化とは子ども像を構成する諸要因の選択と集中を意味する。換言すれば、要因の優先順位を決定し、それらの配列と組み合わせを工夫しなければ、「生きる力」といわれる最も重要な教育目標を実現することはできない。発達にも順序性があり、教育指導にも基礎と基本がある。どこから始めるか、どの要素を組み合わせるかは決定的に重要である。どこに重点を置くかも決定的に重要である。そこが分らないで「知・徳・体」のバランスとか、「ゆとり教育」とか、「総合的学習」などと総花的でかつ抽象的な事を言っていても教育効果は上がらない。指導には明確な指導の論理と順序が不可欠である。それが「教育要素の配列・組み合わせ法」である。


3  指導は「他動詞」である

  「学力」も「生きる力」も「つく」のではなく「つける」のである。「つける」が第3者の手が加わった「他動詞」であることを理解すれば、子どもは基本的に「育つ」のではなく、「育てる」のであり、少年は社会生活に必要な諸々の知識/技術を「理解させ」・「体得させる」のである。子どもの発達が別名社会化と呼ばれるのも同じ理由である。「教育」は確かに「教える」部分と、自然に子ども自身の内在する力によって「育つ」部分を含んではいるが、原則的には「教えて」、「育てる」というように他動詞を二つ重ねることが正しいのである。特に、幼少年期の教育は子どもの成長が「自転」を始めるまで、「学び」のあらゆる領域において、その子にかかわる人々が背中を押してやらなければ先へは進めないのである。社会が「教育」を「義務」にしなければならなかったのはその為である。少年教育の原点は「する」であって、「なる」ではない。「可愛い子には旅をさせよ」も、「他人の飯」を食わせよも、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」も、「若い時の苦労は買ってでもさせよ」など過去の子育て格言もほとんどすべてが「使役の他動詞」である。「子宝の風土」の子育ては当然「宝」である子どもが中心である。それ故にこそ、「子宝の風土」の教育は「指導者」が中心でなければならない。現代の学校は風土の特性に照らして本末が転倒している。子ども中心の風土の学校は断じて「先生」が中心でなければならない。指導が他動詞でなければならないのはそのためである。
  戦後、占領政策によって導入された「児童中心主義」は、「大人中心社会」の教育論である。教育のあり方は当然文化の一端であり、それぞれの風土の固有の制約を受けているのである。「児童中心主義」が間違っているというのではない。「児童中心主義」を「子ども中心」の「子宝の風土」と組み合わせたことが間違っているのである。

4  「主体性論」に振り回されてならない

  欧米流「児童中心主義」の教導者は二言目には子どもの「興味・関心」が重要だといい、子どもの「主体性」・「自主性」を尊重せよという。それゆえ、「子どもの目線」が大事で、「社会の視点」は相対的に大事ではない。これらの主張は「大人」が中心で子どもの主体性が軽んじられている社会では正しい。西欧社会のように子育てにおける「社会の視点」が重視されている社会においては正しい。
  しかし、すでに子どもが中心で、子どもの欲求がほとんど野放しになりがちな「子宝の風土」では断固間違っている。考えるまでもなく、子どもの「興味・関心」も、「主体性」も最初から子どもに備わった所与の条件ではない。乳幼児は基本的に教育上は「白紙」である。自分の事もまだ自分では出来ない。自分の事もまだ自分では決められない。世の中の価値も当然、弁えてはいない。これらはすべて「育てる」ものである。自律的に学ぶものではない。他律的に教えるものである。「すぐれた少年」は彼らが「なる」ものではない。われわれが「優れた少年」に「する」のである。
  子どもは「学習の主体」になる以前に「教育の客体」である。従って、子どもが備えるべき条件は基本的に教育や他律の結果である。社会や家族が子どもに教えるべき大部分のことは子どもが生まれる前から決っている。教えるべきことの大部分は生活の「型」であり、従うべき「しつけ」である。家族や幼児教育・保育施設の指導は指導者が中心である。子どもの「興味・関心」や、「主体性」という名の移り気なわがままや勝手に振り回されてはならない。学校が当面している「小1プロブレン」は、家族と世間が子どもの放縦を許した結果である。子どもの「食」の崩壊は子どもの「主体性」を野放しにした結果である。「食育」で対応することはできない。日本の学校は子どもの「主体性論」に振り回されてはならないのである。


5 学校教育失敗の根本原因

  発達途上にある子どもの「興味・関心」から出発し、子どもの未熟な主体性や自主性に決定を任せれば、結果も未熟な独り善がりに終らざるを得ない。欧米の「児童中心主義」は、欧米の社会が「大人中心主義」であることを前提としている。欧米の子育て風土は原則として厳しい他律の中で子どもをしつける。言う事を聞かない子の「スパンキング(尻を叩く)」はしつけの常識である。かつては「スパンキングボード」と呼ばれる板で尻をたたいていたことも知る人は知っているであろう。そのような風土だからこそ教育者は、子どもへの過度の抑圧を防止するため、子どもが主役であり、学習者が中心であるべきことを説いたのである。
  一方の日本は「子宝の風土」である。子どもは大事にされ、「たからもの」として護られ、大人は子どものためであれば、献身的に奉仕する。そのような風土を前提にして、「半人前」に日々の決定権を委ねるのは教育の放棄に等しい。失敗の根本原因は重ねてはならないものを重ねたことである。戦後日本の教育は「子宝の風土」に、欧米型の「児童中心主義」を重ねてきた。子どもに尽くす風土に、子どもを尊重する思想を重ねてきた。児童中心主義は子どもの「興味・関心」を尊び、子どもの「主体性」を重視する教育思想である。子宝の風土と児童中心主義の結合は文字どおりの「屋上屋」を重ねたことを意味する。重ねてはならないものを重ねれば、子どもの決定権が異常に肥大する。未熟で、自己中心的な子どもが決定すれば、わがままと勝手が増殖する。好きな事しかやらないのは、それが子どもの「主体性」であるという解釈がまかり通るからである。やりたくない事をやらないで済むのは子どもの「興味・関心」を抑圧するな、と尤もらしく教育論で語る人がいるからである。
  「好きなものしか食べない」のは子どもの「主体性」を重視した結果である。「嫌いなものは拒否する」のも子どもの興味関心が一人歩きした結果である。食生活が乱れるのはわがままで、勝手な子どもがやりたい放題にやった結果である。今ごろ「食育」の必要を説くのは誠に迂闊なことであった。


6  「生きる力」とはなにか?その構成要素に順序性はあるのか?

  筆者は「生きる力」を「体力」から始まって、「やさしい行為」に至るまで5つの基本要素に分解している。もちろん、その構成要素に順序性はある。
  「生きる力」の分析とその構成要素の順序性へのこだわりは、文科省のいう「生きる力」の概念が曖昧かつ抽象的に過ぎる事への批判から出発している。教育施策も行政施策と同じである。先ずは「具体的」でなければ、解決の処方は見出せない。掲げた目標が重要であっても具体的な日常行動に「翻訳」できなければ、具体的な指導の中身も指導法も提案できるはずはない。しかも、限られた時間と財政とエネルギーのなかで実施しようとすれば取組み内容が制約を受けるのは当然である。一定の時期・期間で特定の教育目標を達成しようとすれば、達成すべき施策要因の優先順位と組み合わせを決定し、その理由を明確にしなければならない。
  その点で現行の定義のような「生きる力とは、子どもの問題発見能力とその解決能力の総体である」などという概念の説明は全く指導上の参考にはならない。
  「生きる力」は家の建築に例えることができる。「生きる力」を5要因−5段階に分解して提案すれば、基礎工事に当たるものが「体力」である。体力が尽きれば、生き物は死ぬ。体力こそが生き物の「生きる力」の基本中の基本である。土台は固めた基礎の上に置く。社会生活の基本もあらゆる学びを可能にする集中と持続の礎石は「耐性」である。「耐性」は行動にも、気持ちや感情にも跨がる複合的な「がまんする力」である。通常「がまんする力」は、「行動耐性」や「欲求不満耐性」の概念に分けられ、肉体も精神も心も関係する自己制御の総合能力である。「体力」と「耐性」の上にあらゆる「修得」が可能になる。
  「柱」や「壁」に当るものを何に例えるべきかは教育者の視点によって若干の違いはあるだろうが、「柱」は就業に備えた「基礎学力」、「壁」は社会生活・共同生活に備えた「社会規範への服従と道徳的実践力」とした。屋根は、「潤いのなる人間関係を維持するためのやさしい行為や親切な態度及びそのもとになる感受性」であろう。
  教員集団はこれらの目標を日常の指導プログラムに「翻訳」し、優先順位に従って、順次実践に移すべきである。教育の成果は子どもの発表会と教員のプログラム分析を公開して外部の評価を定期的に受けるべきである。
  したがって、期待すべき成果の第1は体力の増強である。体力が向上すれば、肉体の試練にたえることができる。次は耐性の訓練である。子どもががまん強くなれば、日々の困難に耐えることができる。もちろん、「困難」とは「子どもの願いが願った通りにはならない状況」であり、子どもの「期待が期待通りにはならない状況」である。「耐性」はルールに従い、規範を守る力である。子どもには、やってはならないことはやりたくてもやってはならないことを教えなければならない。やりたくなくてもやるべきことは「やりなさい」と教えなければならない。それ故、耐性の基本は「欲求不満耐性」である。「辛さ」に耐えて子どもが丈夫に育つのも、「艱難」が子どもを「玉」にするのも耐性が成長の基本であるという意味である。学校のプログラムには「鍛練遠足」以外に様々な「鍛練プログラム」が必要となるのはそのためである。具体的には、親元を離れたキャンプや野外教育、世間の評価を受ける公開の発表会及びその準備のための集中的な訓練、体力向上を目指した記録会、学力の成果を問う試験と試験勉強、学校外へのボランティア活動など現行カリキュラムの範囲でできることは多い。
  学校は田植えごっこや飼育ごっこや英語遊びのようなアホな総合的学習は止めて、すべてこの種の「鍛練プログラム」に振り向けるべきなのである。基礎と土台ができれば、学力指導も、道徳指導も決して困難ではない。体力がつけば、持続力がつき、姿勢も、行動も保つ事ができる。加えて「がまんする力」が向上すれば、「耐性」は子どもの意欲に反映し、物事に対する集中も踏ん張りも利くようになる。自侭な欲求に対する抑制力もつく。この時、計算の練習や漢字の反復、朗唱、作文練習などを組み合わせれば間違いなく基礎学力を積み上げる事ができるだろう。表現技術は特別な練習を積まなければならないが、それもまた学校と地域の協力があれば、指導して頂く人材の確保は決して不可能ではない。
  あらゆる困難は「基準」次第である。だから子どもができるようになったことはすでに子どもの困難ではない。体力がついて集中ができれば、授業に参加することは困難ではない。がまんができればルールに従うことも、責任を果すことも困難ではない。要は、自己抑制の心身の力の育成から始めればいいのである。授業が崩壊し、子どもが好き勝手に駆け回る荒れた学校の失敗は教育指導における発達要因の順序性を理解しないところにあるのである。


7  集団行動能力の向上と体力の増強

  運動会の練習も、発表会の練習も、共に体力・耐性・基礎学力の準備期間である。集団行動は体力と耐性の賜物である。ひとり一人に体力がなければ同時行進はできない。他者に合わせようとする自己抑制の機能がなければリズムは揃わない。運動会の整然たる集団行動はひとり一人の子どもの気ままや気まぐれを抑制できなければ達成できないのは自明である。整列や行進やプログラムの演技は「体力」と「耐性」の反映の結果であり、自己制御や集中は学力向上の基本である。整列も行進も満足にできない子どもに学力の向上はあり得ない。それゆえ、基本は体力向上プログラムである。
  小学校の現状では、「体力トレーニング」は体育を中心とした毎日のトレーニングである。まずは、筋肉や肺活量や走り続ける意志を鍛える「走り込み」であろう。「へなへなの子ども」に「速く走れ」というと事故になる恐れがある。初めは「止まらずに走り続けよ」という指示が重要である。どんなにゆっくり走っても持続することは心身の「耐性」を要する。「行動耐性」も「欲求不満耐性」も要する。加えて、体育の時間には子どもの各種動作の基礎をつくるトレーニングが重要である。その一例が「サーキットトレーニング」である(註*1)。学年や発達段階によって種目や組み合わせが異なるが、事故を防ぎ、持久力を向上させるためには、原則として毎日実施する事である。結果については定期的なスポーツテストによって進歩の過程を測定できる。しかし、多くの健康運動の挫折が証明しているように、簡単な事でも毎日継続して実践することは極めて難しい。学校の課程に組み込まなければならないのはそのためである。
  筆者が体験した現状では、子どもは「手拍子」一つ、「足拍子」一つ合わせる事すら難しい。行進もバラバラである。手は振れていず、足は上がっていない。「全体とまれ!」もバラバラに止まる。他者の行動に一体化(シンクロナイズ)することは、集団行動にも、全員の朗唱にも、歌の合唱にも不可欠な能力である。
  子どもにとっては、5分間といえども走り続ける事は「きつい」。サーキットのトレーニングもいくつかの種目はきちんと実行する事すら困難であろう。どんなトレーニングも身体が慣れて、耐性が出来るまで、初めは「きつい」。特に「へなへなの子ども」にとっては辛くて、いやな事であろう。だから必ず楽をするために、手を抜こうとする。時には具合が悪くなった事にして見学に廻る。教師の指導力が問われるのはその時である。「半人前」の「主体性」に振り回されてはならない。『お前たちならできる!』、『筋がいい』、『先が楽しみだ!!』と各種の応援のメッセ ージが不可欠である。手本を示し、共感を示す師弟同行も不可欠である。口だけで嫌がる子どもの指導はできない。子どもは成長への刺戟を待っている。それだけに上達も、向上も速い。教員が確実に指導できれば子どもの体力が短時日の内に向上する事は疑いない。しかし、教員自信がモデルを示す事ができるか?師弟同行で多少なりとも実践を共にする事ができるか?学校が問われているのはその事である。

  (註*1) 以下は小学校上学年に採用した事例である。

  サーキットトレーニングには体育の時間の初めの10分を当てる。簡単な準備運動の後、6種類の連続運動を行なう。@はしごを使ったステップ(1回)、Aバービー(10回)、B足の裏タッチ(10回)、C腕立て伏せ(10回)、D反復横飛び(20回)、EV字腹筋(10回)(@〜Eを2セット行なう)。下学年用はもっと負担の軽いメニューに入れ換え、回数を減らして工夫する。


8  基礎学力向上のチャレンジ・プログラム

  音読/朗唱は全身運動である。東北大学の川島隆太教授が証明したように前頭連合野を最も活性化する事のできる脳の準備運動でもある(註*2)。それゆえ、発表会には、表現力と日本語学習を兼ねて「詩の朗唱」を計画している。生活習慣や礼儀・作法と同様に言葉も又「型」である。「型」の修得は反復練習に優るものはない。それは頭脳による学習を通り越した心身の総動員による「体得」である。A小学校では、学年別の複数の朗唱課題と全学年一斉の朗唱を同時進行させようとしている。できれば保護者と一緒に歌う事のできる歌唱指導にも取り組む。集団行動は耐性の基本であり、耐性は持続力・集中力の基本であり、それらは学力向上の前提条件だからである。
  算数には計算チャレンジを導入し、漢字の習得には「漢字チャレンジ」を導入する。いずれもドリル形式で集中的に反復して行なう。学期末にはまとめの問題(50問)に挑戦させ、達成率100%を目指している。
  読書についてはどの学校も「特別な読書タイム」を設定しているが、子どもに集中や持続の能力が整っていなければ効果は上がらない。「読みきかせ」も同じである。「楽」なことは「負荷」が低い。「負荷」が低いという事は子どもへの要求水準が低いという事である。ボランティアとの交流機会は望ましい事だが、学校の限られた時間の中でその優先順位は低い。読書の時間も、読みきかせの時間も、教師が選んだ教材の音読に費やすべきである。目も耳も口も頭も心身の全機能を総動員して本を読み進んだ方が効果は大きい筈である。音読も又読書である。読書や読みきかせに代えて音読読書であれば毎日やるべきである。読みきかせボランティアには読みきかせの代わりに音読の指導をお願いすればいい。

  (註*2) 川島隆太、脳を育て、夢をかなえる、くもん出版、2003年


9  異年令集団の活動と交流

  学校に欠けるのは異年令の共同活動である。教科教育を主たる任務とする学校の宿命であり、知識/技術の指導の宿命である。学校が同年令集団でクラスを編成するのはそのためである。学習者のレベルが揃っていなければ、知識・技術の一斉指導は極度に難しい。知識も・技術も連続性・段階制があるからである。下位の段階が分らなければ、上位の知識にはたどり着けない。分りやすくいえば算数を飛ばして一気に数学には行けないのである。それゆえ学校の異年令活動は意図的・意識的に創造せざるを得ない。縦割り班活動の目的は教科以外の社会性を開発することである。地域の子ども集団が消滅しつつある現在、学校が異年齢・異学年の交流を体験させない限り子どもは「体力差」も、「能力差」も、「技術差」も、「体験の巾の違い」も実感する事はできない。「やった事のない事はわからない」からである。異年令の交流から始めないと社会の構成員の多様性を実感させる事はできない。体力も、能力も、考え方も違った仲間の中で、共同行動を要求した時、子どもは初めて「手加減」、「いたわり」、「背伸び」、「援助」などの必要に当面する。「縦割り班」活動は、子どもを能力や経験の異なる異年令集団に放り込む事によって、協力、共同、思いやりの行為、いたわりの態度、支援の技術、上級生のモデリングなどを育てようとしている。問題は現代の学校のプログラムが想定している課題が甘い事である。ここにこそキャンプや遠足や自然教室などの「鍛練」プログラムの導入が必要である。


10  「手を上げない」子どもを置いて行かない

  授業の指導に入って気付くことがある。設問に活発に反応する子ども、分りが速く常に手をあげる子どもがいる一方、必ず数人の消極的な子どもがいる。子どもの「意見をきき」、「手を上げさせ」、「子どもに答を要求する」授業を続けて行くと、結果的に反応の稀薄な子どもを無視せざるを得ない。しかし、彼らは必ずしも答が分かっていないわけではない。意見がないわけでもない。ちょっとシャイで、引っ込み思案で、恐がりで、時に誇り高い。「手を上げさせる」だけの授業では彼らを置いてきぼりにする結果を招く。子どもの「主体性」に過度に重点を置けば、主体的・積極的な表現に乏しい子どもは当然取り残されるのである。それゆえ、授業をすべて子ども中心に行なってはならない。誰に当てるかは時に顔と反応を見ながら教師が決めなければならない。
  学校の全体学力は子どもの平均点である。"できる子ども"の底上げも大事だが、"遅れがちの子ども"の底上げはもっと大事である。
  手を上げない子どもは学力指導の面だけではない。発表の場面でも、スポーツの練習機会でも消極的な子どもを置いてきぼりにしない事が大切である。全体発表の中でみんなの声に紛れているが、口をはっきり開けない子ども、声がお腹から出ていない子ども、朗唱の姿勢がきちんと取れていない子どもの存在を無視してはならない。事は朗唱・発表や歌や体力トレーニングのような具体的なところから始めることが肝要である。そこができればやがて算数にも国語にも積極性・正確さがでてくる。
  現在の学校には「遅れた子ども」をフォローするシステムがない。筆者が主張している教員のフレックス・タイム制は放課後の補習のためである。多くの学校で教職員は遅くまで学校に残っている。現実の実態に制度を合わせるのに何をためらうのか?「サービス残業」こそは教員の最も嫌うところではなかったのか?せめて「加配教員」のフレックスタイム制は焦眉の急である。学力保障のために「加配」しているのではなかったのか?クラスの中に級友について行けない子どもがいるのにその対処策を考えない学校教員の態度こそが現代の不思議である。


11  役割の全員分担と教職員の連帯

  分担も協調も言うは易く、行うは難いことである。連帯は更に難しい。しかし、限られた学校のカリキュラムの中では常に締切りに追われて時間がない。それゆえ、いつまで経っても「発表会」の準備は整わない。それゆえ、学校の実践は締めきりを決めることから始め、発表会から逆算して指導の中身を設定すべきである。限られた日程、制約された資源の中で、準備を進め、練習を重ねて評価を問うべきである。役割は全員で分担し、スケジュールを立て、発表プログラムに向けての指導領域別の担当制を取る。発表会の説明も管理職に依存しないよう担当の各教諭から取組みの過程と考え方を保護者や外部の参加者に説明できるようにしなければならない。教員の主体的参加はその過程で始まる。
  また、発表会をやる時、「発表会のための発表会」でいいのかがいつも問題になる。子どもに対する指導内容を「発表会」のメニューに集中し、「発表会」のためだけに指導していいのか、という疑問はどの「モデル事業」を行なう際にも必ず出る疑問である。学校も又連続的・総合的な発達環境である以上、子どもの指導を特定領域に限っていいか、という疑問は先生方の中にあるだろう。
  筆者はいつも次のように答える事にしている。発表会は教育が目標としている山の頂きに至る登山道の区切りである。発表会の中身が教育の目標と合致している限り、発表会のための指導は当然である。区切りの目的地がなければスケジュールの設定も努力目標も立てることはできない。内外部の評価にさらされなければ、指導者も子どもも達成感や成就感を味わう事はできない。発表会を行うと決めた以上発表会以外のことには目をつぶって集中と選択を実行すべきである。子どもも又「一道に通ずるものは二道、三道に通ず」である。指導領域を集中し、努力を焦点化する過程で教員集団も又自己責任と協調を体得する。連帯はその努力の結果である。


12  学校と家庭の連携

  家庭は子どもにとって最も影響力のある学習環境である。子どもが人生を学ぶ期間もおそらくもっとも長期にわたっている。父母は最も影響力のある指導者であり、支援者である。それゆえ、むかしから「父母の恩」と言う。それは「山よりも高く、海よりも深い」。父母を評するこの言葉は、家庭の影響力の大きさを象徴している。あらゆる面で子どもの成長と「一人立ち」にとって家庭が「鍵」であることは昔も今も変わらない(註3)。その意味では、人々が声高に叫ぶ「子育ては家庭の責任」論は原則として間違ってはいない。しかし、原則と現実は異なる。原則的に子育ての責任が家庭にあるとしても、実態はそうなってはいない。家庭の育児は多様な問題に直面し、しつけも不十分、食育はなっていず、基本的生活習慣は穴だらけである。結果的に、子どもたちは自分の事も自分ではできず、自己決定の能力も、結果責任を取る社会性も更に不十分である。子どもが加害者になる事件の頻発は教育の失敗が積み重なった「教育公害」のはじまりである。
  重ねて論じてきた通り、教育活動の基本は「他動詞」である。子どもは健全に「なる」のではなく、健全に「する」のである。そのため、学校の指導プログラムも、家庭の指導プログラムも決定的に重要である。現在の家庭教育に期待が持てない以上、学校は新しい工夫を模索しなければならない。その一つが「親子の約束」である。
  子どもを教育する営みは関係者の共同参画が基本である。それゆえ、通常のスローガン通り、家庭と学校と地域の連携は誠に大事である。しかし、ことはいつもスローガン倒れに終っている。関係者が具体的な中身と実施方法を提示し得ていないからである。
  ここで「共同参画」とは子どもの発達に関わる関係者の間の指導指針の「相互補完」である。ポイントは学校も家庭も地域社会も指導の「一貫性」である。それゆえ、現代の学校は自校の教育方針を具体的に確立し、公開し、保護者に提示した上で、家庭と学校が一体となった指導に取り組まなければならない。
  子どもの健全な発達は、保護と自立のトレーニングが相補いあって、達成される。それゆえ、子どもに対する応援と鍛錬は表裏一体である。学校の応援も大事であり、家庭の応援も大事である。もちろん、学校が行なう自立のトレーニングも、家庭が行なうしつけの実践も相互に協調し、相互にバランスを取り、一貫した指導が重要である。「親子の約束」に学校が立ち会い、家庭と協力して子どもの生活習慣を一つずつ確立して行けば、かならず成果は上がる。その時学校は真の「守役」になるのである。

  (註3)  拙著、子育て支援の方法と少年教育の原点、学文社、平成18年、p1


13  親子の約束と約束の中身

(1)  社会生活原理の再確認と生活習慣の再建

  家庭が教えなくてはならない事は子どもが生まれる前から決まっている。それは生きて行く上で不可欠の原理である。親を尊敬し、親のいう事をよく聞け。他人の物を黙って使ったり取ったりするな。人間も、動物も虐めるな。間違ったら謝れ、親切にはありがとうと言え。学ぶ課題が多すぎれば子どもは混乱するから、社会生活原理の基本は以上のようなところであろう。
  次の課題は日々の生活習慣の再点検である。家の手伝い、整理整頓、日々の行為の準備と後始末、生活ルールと生活リズムの遵守などであろう。これらの事も親のいいつけをきちんと守っていれば大体は達成できる事である。しかし、現実には出来ていない。だからこそ改めて「親子の約束」を結び、生活習慣を立て直さなければならない。現代の日本は教育論に名を借りた「子どもの主体性」・「子どもの興味・関心」が最優先され、結果的に、子どものわがままと勝手が一人歩きをし、自己増殖を続け、親の指導は子どもに届いていない。親も子どもの要求に従う事がそれほど悪い事だとは思っていない。結果的に指導は不十分になる。
  時には学校ですらもが、子どもの主体性とわがままを勘違いして適切な指導が出来ていない。
  学校と家庭の連携による家庭教育の修正と補強は不可欠なのである。当面考えられる約束の中身は全国の家庭が当面している課題の中から選べばいいであろう。ここでも欲ばっては実践の効果が上がらないので一月に1項目、あるいは二月に1項目ぐらいから始めるべきである。子どもはすでに現状の惰性の上に暮らしており、崩れ切った生活習慣をまず否定し、次に再建しなければならない。幼少期のように「白紙」の上に絵」を描いて行くようなわけには行かない。再教育 −修正作業は辛抱強く反復練習を繰返して行かない限り、成果は期待できないからである。

(2) 「親子の約束」運動の展開

  PTAと学校が協力し、一定の期間を区切って保護者と子どもが生活規範の確立を目指して行動目標を宣言し、約束し、実行する。約束の実行は、親子の話し合いを原点にして、学校の立ち合いのもとに、一つ一つ日常の基本的生活習慣を確立し、検証して行く試みである。
  「約束」の具体的中身については既存の各種家庭教育調査の結果を活用して、保護者アンケートを作成し、親子に選択して貰う手法を使用する。

(3) 保護者用アンケート調査票の原案と「親子の約束」宣言様式

  このたび学校では子どもの「基礎学力」を向上させ、基本的生活習慣を確立するため"生活習慣の確立プログラム"に取り組みました。つきましては学校と保護者の皆さんとの協力で子どもたちの日常を一つ一つ改善して行くため、学校は体力増進と学力向上のプログラムを、ご家庭には子どもの社会性を培う「親子の約束」運動を同時に展開して参りたいと考えました。以下はアンケート用紙の形にした協力のお願いでございますが、各学級の担任とご相談の上、それぞれのお子さまのご指導をお願いできれば誠に幸いでございます。

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  「親子の約束」宣言(様式)

  ご家庭でお子さまに学ばせたい事がありましたら下記の一覧を参考にしてお子さまと相談の上、2つだけ"我が家の課題"を設定してください。お決めになった指導項目については、お子さまが完全に自分でできるようになるまでやり通す事が前提です。次の「授業参観・保護者研修会」の際に子どもと保護者の皆さんとの「調印式」を設定します。子どもたちの決心を促し、約束の重要性を自覚させるため、学級担任を立ち会わせて「親子の約束」宣言書に署名の儀式を執り行ないます。
  当日ご欠席のご家庭は後日「宣言書」に署名の上、各学級の担任までご提出いただければ幸いでございます。運動の過程と成果については、後日PTAの役員会と学校が協力してまとめを行ない、学期末あるいは年度末にご報告申し上げます。なお、選びだした項目は、原則としてそれぞれ2か月間ずつ、学年度末まで連続して繰返し指導し、日常の習慣として定着するよう配慮します。学校側でも各ご家庭のご指導を十分勘案した上で、児童の日常に気を配る所存でございます。


  我が家では学校と協力して「親子の約束」運動に参加します。

  最初の(   )月〜(  )月は以下の事を日々実行する事を約束します。
    『                            』

  次の(  )月〜(  )月は以下の事を日々実行する事を約束します。
    『                            』
                          年    月    日(  )

      保護者氏名______________________
      児童氏名_______________________


(4)調査に基づく家庭に必要な指導項目の事例

( ) 朝のあいさつ、就寝のあいさつ、帰宅のあいさつ、お礼のあいさつなど日常のあいさつをき
   ちんとする      (具体的な約束の内容:               )

( ) テレビの視聴時間、ゲームで遊ぶ時間を決めて守る
      (具体的な約束の内容:               )

( ) 夜は決まった時間に床に着き、朝は決まった時間に自分で起きる
      (具体的な約束の内容:               )

( ) 朝ご飯をはじめ好き嫌いをいわずにきちんと食事を食べる
      (具体的な約束の内容:               )

( ) 毎日決まった勉強時間を決めて自習する
      (具体的な約束の内容:               )

( ) 家の手伝いを決めて毎日実行する
      (具体的な約束の内容:               )

( ) 毎日「本」を読む
      (具体的な約束の内容:               )

( ) 身体を鍛える運動をがんばる
      (具体的な約束の内容:               )

( ) これまで家の人にやってもらっていた事の中からいくつか選んで自分でするようにする
      (具体的な約束の内容:               )

( ) その他各ご家庭で特に指導なさりたいとお考えの項目  
      (具体的な約束の内容:               )
 

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