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(第65回生涯学習フォーラム 参加論文)

2007年問題3 熟年期の社交と交流

平成18年3月11日(土)

三浦清一郎

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熟年期の社交と交流

  「あなたがいてよかった」と思える人はいるか?「あなたがいてよかった」と言ってくれる人がいるか?前者は「心の支え」である。後者は「居甲斐」である。人生の活力はまさにこの2点にかかっている。高齢期の活力も当然この2点が支えている。

1  孤立と孤独の不可避性

   高齢社会はみんなが長生きになる社会でも、長生きをした人々がすべてみんな幸せになれる社会でもありません。人々の寿命の平均値が伸びるということであり、長生きした結果の幸福は個々人に保留されている社会を意味しています。高齢化が平均値である以上長生きできる人々の「ばらつき」は必然的に発生します。夫婦は必ずしも「とも白髪」になる迄添い遂げられるとは限りません。仲好しの仲間も同じです。結果的に、寿命のばらつきは生き残る高齢者の人間関係の貧困化をもたらします。自分が生き残った分だけ周りの親しい人々が先立ち、交流の輪が小さくなってしまうからです。大切な人々に先立たれた時、人は「心の支え」を失うことになります。それゆえ、生き残ることは時に高齢者の「孤立」と「孤独」を意味することになるのです。人間関係の貧困化は情緒的貧困化と重なり、淋しさや不安をもたらします。「孤立」も孤独」も心の支え、気持ちの拠り所となって来た人々を失うことと同義だからです。
  高齢期こそ生涯学習の役割は社交の創造と人間関係の社会的「補充」に努めなければならないのです。高齢期になるとそれ迄人々を支えてきた「血縁」、「地縁」、「職業(結社)の縁」など従来の人間関係を形成してきた伝統的な「縁」はほとんどその効力を失います。「血縁」を支えてきた家族も親戚も皆老いて行きます。家族の核家族化に加えて現代では子どもの親元就職も極めて難しくなりました。「スープの冷めない距離」に住むことすら難しくなるということです。
  地域社会で一緒に過ごすことの多かった「地縁」の方々も同じように老い、あわせて急激な生活スタイルの都市化は従来の共同体的人間関係は消滅して行きます。定年後10年もすれば、「職場の縁」も薄くなる一方でしょう。
  日本には欧米社会のように教会などを核とした日常の宗教活動が希薄です。それゆえ、一方で人々を繋ごうとする新興の宗教がつぎつぎと起りますが、他方では伝統的な縁に代わる「新しい縁」が重要になります。「新しい縁」とは「活動の縁」です。「学習の縁」、「ボランティアの縁」、「同好の縁」などを意味しています。志を同じくする縁ということで「志縁」と呼ばれています。これらこそ老後の人間交流を支える新しい縁;「生涯学習の縁」なのです。

2  「生きる力」の順序性

  マズローの「欲求のハイラーキー」説に倣って、「生きる力」にはハイラ−キー(順序性)があり、それぞれの段階の適応能力には優先順位があると指摘しました。人間の欲求が「生存」を前提とする以上、高齢期の生涯学習を論じるにも「生存」と「安全」が保証されていることは前提条件です。「生存」と「安全」のためには「人々の体力(肉体的健康)−耐性(気力、意欲、精神の健康)−経済力(老後の財源)」などが不可欠の条件になります。これらの前提条件が確立された上で、次に、日々の社交と交流を通した人間関係を確立するということになります。人間関係の目的は人々の「帰属」や「愛情」の欲求を満たすことです。社交や交流はそのための手段であり、方法であり、目的になります。「生存」や「安全」が第1段階とすれば、「帰属」や「愛情」は高齢期に満たすべき第2段階の条件になります。
   精神的、経済的、社会的に自立していれば、一人になってもそれは「独立」と呼ばれます。しかし、生活の自立が達成できていても他者との交流が絶えて社会に取り残されれば、「独立」は「孤立」に転じ、やがて「孤独」に繋がってゆく恐れがあります。建築家の高橋氏は介護に「命の介護」と「文化的介護」の2種類があると指摘しています。「命の介護」とは文字どおり生きるための介護です。「生存」と「安全」の確保が目的であると言い換えてもいいでしょう。一方、「文化的介護」とはより良く生きるための介護を意味しています。換言すれば、「文化的介護」とは、高齢者を、高齢者が苛まれる孤立感、疎外感から解放する手だてを含んだ介護であると言うことができるでしょう。高齢者の介護は「さびしさ」との戦いが大事な仕事になります。社交のある文化的介護を、高橋氏は「さびしさ産業」と呼んでいます(*1)。
生涯学習や福祉プログラムには高齢者の孤立と孤独に付いての配慮が決定的に欠落しています。介護を企画する現役世代は交流も社交も巧まずして日常生活の要素になっています。それゆえ、企画者自身が「老い」の「孤立」や孤独」を自らの危機として末だ感じることができていないからでしょう。
   従来、「さびしさ」は個人が乗り越えるべき私的な問題でありました。原理的に「人付き合い」は個人のプライバシーに属し、他者の介入を許しません。しかし、「生き残った者」が次々と親しい人々を失う高齢社会では、人々を孤立から守る「社交の創造」がプロの仕事になりつつあるのです。かつての「見合い結婚」に「仲人」が必要であったように、高齢期の社交や交流にも「仲人」が必要になって行くことでしょう。果して、生涯学習や福祉の担当者は、それぞれに課された仕事の中でどの程度「社交の創造」や交流支援の役割を自覚しているでしょうか。学校は子ども達に世代間交流の意味や実践を教えているでしょうか?いないでしょう!特に福祉の分野では生涯学習や交流支援の経験が希薄なため、余りにも「生存と安全」の問題だけが強調されます。そのことは「介護予防」の教室の名称や指導内容に明らかに反映されています。社交や交流が廻り廻って熟年の活力を引き出しているメカニズムに気付かないのは行政が教育と福祉の「縦割り」にこだわり、余りにも分業的に線引きして区分けしてきたからです。高齢社会では、高橋氏のいう「文化的介護」のために、福祉と生涯学習のドッキングが不可欠になるのはそのためです。

3  経験の共有と「同じ釜の飯」

   心身が衰えた上にひとりぼっちになれば、到底、人はいきいきとは生きられません。多くの人が頑張ってきたのは誰かを守り、誰かのために役に立つことを願ったからです。その誰かを失い、人生の喜怒哀楽を分かち合うことが無くなった時、人々が生きる意欲を失うのは当然の結果でしょう。人々の心を支えるには「親しい他者」が必要です。社交が重要になるのは高齢期に失われる「親しい他者」を再発見し、確保するためです。家庭を営み、労働に従事している間は、人は、好むと好まざるに関わらず、社交の中にいます。若い時の生活や仕事は交流なしには成り立ちません。社交とは、対人関係を維持することだからです。対人関係は、特に労働や活動の中で育まれます。中根千枝氏が夙に指摘した通り日本人の交流は「経験の共有」によって生まれ、「同じ釜の飯」を食べた時間の長さに比例して付き合いも深まる傾向にあります。労働にせよ、活動にせよ、経験の共有に際して、私たちは時に、気を使い、心を働かせ、精神を躍動させ、時にお互いの我慢を要求します。社交は人間関係を起点とした活動です。

4  「やり甲斐」と「居甲斐」

  仕事や趣味や社会貢献は「やり甲斐」の対象ですが、人間関係は自分がそこにいることが人々に必要とされるという点で「存在する甲斐」すなわち「居甲斐」と呼んでいいでしょう。「やり甲斐」も「居甲斐」も活動の中で自然に絡み合って「生き甲斐」を形成することが多いので、通常は特別に区分する必要はありません。ところが労働の季節が終り、日常の活動そのものが縮小して行く高齢期にあっては、生活を通して人間関係を自然に補充することは困難になって行きます。公民館もデイケアセンターも活動プログラムの提供は意識的に行ってきましたが、社交や交流の仲介をどの程度意識化したでしょうか?社交の目的は「居甲斐」を実感することです。「居甲斐」は帰属や愛情の欲求が満たされた時初めて実感できるものです。高齢期のグループ・サークル活動が重要になる所以です。要するに、人は社交によって社会における自分の位置を確認するのです。社交によって孤独や孤立を免れ、新たな活動に挑戦する意欲や気力を取り戻すのです。社交や交流を仲介・支援することが高齢期の「生きる力」の支援になるのはそのためです。
  人間にとっては、労働(活動)と社交を同時に進行させることは心身の機能を使い続けることを意味します。定年によって労働から離れた熟年にとっては活動が唯一残された社会との接点です。労働から活動へのスムーズな移行がどれほど重要であるか明らかでしょう。活動を失うことは社会との接点を失うことを意味しているのです。

5  交流は活動の副産物

  生涯学習の意義は学びと交流をほとんど同時に生み出すことにあります。しかし、交流を深化させて行くのは活動です。「経験の共有」の時間が付き合いを深めて行くことは疑いありません。社交の創造に「生涯学習の縁」が重要になるのもそのためです。労働にも労働以外の活動にも人々の出会いを他律的、強制的に要求する場面と機能を内蔵しているからです。人々の協力を必要とする活動には他律的に交流を強制する機能が含まれています。協力しなければ活動が成り立たないということは当該活動が人間の交流を前提にしているのです。活動と社交が熟年期の活力を生み出し、ボケを防ぎ、心身の衰耗を先に延ばすのです。程々の「負荷」をかけて感覚体を働かせることが「生きる力」を保持することに繋がっているです。「負荷」の程度については高齢期になればなるほど個体差が大きくなるので一律の基準を断定的にいうことは極めて危険でしょう。しかし、向老期の個人的実感でいえば、「現有能力の一割程度」が程々の「負荷」にあたるでしょう。「10%ほどがんばって努力する」ということが「生きる力」の処方です。社交の創造は高齢社会の活力を維持する重要な処方の一翼です。だからこそ「社交」の促進にプロの参加が必要になるのです。公民館の職員の任命にあたって、現在の行政は、定年の危機、「労働」から「活動」への移行の失敗、高齢化による心身の衰弱の悲惨、「社交」と「交流」の貧困化の意味などは教えていないであろう。定年後、活動を停止してしまうことが如何に危険であるか、人間関係の輪がどんどん小さくなって行くことがどんなに危険なことか、果たして高齢者行政は分かっているだろうか?活動と社交によって防衛することを忘れた高齢者は無為と孤独に少しずつ悔い殺されて行くのだと思う。人間関係の貧困化がもたらす衝撃を分かっていない役所の職員をほとんど無意図的に生涯学習行政にたらい廻しにする愚行にいまだ地方のトップは気付いていないのではなかろうか。

(*1)  高橋英輿、老後をさびしく耐えますか、ともに楽しく生きますか、風土社、1998年、pp.44-45

6  人生は「活動」で出来ている−生涯学習の役割

  (1)  新しい「縁」の創造

   人生は「活動」で出来ている、と喝破したのはスイスの老年学者ポール・トゥールニエでした。生活の糧を稼ぐことがあまりにも大変で、重要であったが故に、我々はややもすると「労働」が主役であるかのように錯覚しがちでした。もちろん、現在でも平均寿命が短く、経済発展が滞っている国では、実態として人生は「労働」で出来ていることでしょう。しかし、日本の場合には、トゥールニエの指摘を受けてみれば、労働は「生産活動」であり、「サービス活動」であり、活動の特別な形態に過ぎないことに気付かされます。何よりも人生80年時代に突入した今、定年後の労働の空白;残された時間は労働以外の「活動」によって埋めなければならないことは誰の目にも明らかになったのです。ところが「労働」から「活動」へのスムーズな移行は言葉で言うほど簡単ではないことを見落としがちなのです。周りを見渡せば、これ迄の「労働」が厳しい義務であった分だけ、労働の反対語は「無為」となり、「安逸」となりがちです。その故でしょう。労働の終りが活動の停止になってしまう人は数多くいるのです。しかし、人間の活力:心身の機能を維持してきた要因は労働という活動の特別形態にあったのです。仕事を通して人は「頭を使い」、「身体を使い」、「気を使って」機能を維持し続けてきたのです。労働から解放されて人々がその持てる機能を使わなくなれば、脳味噌であれ、筋肉であれ、おそらくは内臓であれ、その働きは一気に衰えます。労働の終りが活動の停止になった時、その後の人生にとって如何に危険であるか明らかでしょう。活動の停止は急速な機能の衰退と下降を意味するからです。
  一人になったあともお元気に活動を続ける高齢者は、定年後の活動に心身を使い続けることによって自らの活力を維持し、活動を通して絶えず人間関係のネットワークを補充しているのです。「活動」の「やり甲斐」と「社交」が生み出す存在の実感;「居甲斐」が熟年のお元気を支えていると断言してまちがいありません。しかも、上記の通り、熟年の活動も人間関係もその多くは、血縁、地縁に基づくものではありません。もちろん、高齢期は定年をとっくに過ぎている以上、職縁に基づくものでもありません。新しい人間関係の大半は「生涯学習の縁」であり、「ボランティアの縁」から始まっています。それらは志を同じくする人々の「志縁」と呼んでもいいでしょう。学習をともにすれば「学縁」が始まり、趣味や楽しみを共有できれば「同好の縁」が広がります。これらの「縁」は活動をすすめる役割を負っていますが、ほぼ同等の重みで「社交」を維持する機能を果たすことになるのです。そして「社交」こそが心の拠り所として新しい人間関係を開拓して、老後の孤立から人々を守ることになるのです。それゆえ活動は社交を通して新しい人間関係を生み出し、その仲間が反応しあって次の新しい活動に進化して行くのです。かくして活動と交流は相互に影響しあって熟年の生涯を豊かに保って行くのです。生涯学習は沢山の人々を活動に招待する義務と責任を負っています。これまで三十余年に渡って行政が主導した生涯学習の時代は多くの日本人を自発的な創造者に変えました。しかし、全体を見ればまだまだその成果が行き渡っていないことは明らかです。特に、人々の労働が終焉した高齢期には労働以外の活動を通してしか他者と巡り会う機会はないのです。行政主導の生涯学習の振興・推進策は高齢期の人々を重点対象として展開すべきだと思います。高齢期の「活動」のやり甲斐の創造はもちろん重要ですが、活動を新しい「縁」に繋げて行く仲介機能こそが高齢社会の熟年の孤立を回避するもう一つの大事な役割なのです。

(2) 「社交」舞台の創造−「心の支え」を得る−「居甲斐」を見付ける

   「心の支え」を得るとは信頼できる人々が存在することを意味しています。また「居甲斐」を見つけるとは周りの人々から自分が必要とされ、自分が愛されているという実感を持てることを意味しています。要するに、「心の支え」とはあなたが愛している人々の存在であり、「居甲斐」の実感とはあなたを必要とする人々の存在です。「あなたがいて良かった」と思える時私たちは「心の支え」を得られます。同じように、「あなたがいてよかった」と言ってくれる人々がいて私たちは「居甲斐」を実感します。「心の支え」と「居甲斐」はお互いに支えあう双方向の人間関係から生まれてきます。それゆえ、通常は経験の共有が不可欠であり、活動をともにすること
が双方向の人間関係を発展させる条件になります。生涯学習が対等の人間関係を重視するのはお互いに支えあう双方向の目的を同時進行的に達成する上で原理的に重要だからなのです。
  世の中にはやむを得ない事情によって「一方的な奉仕」や「一方的な依存」もたくさんあります。しかし、生涯学習の縁に連なる人々の人間関係は対等であり、双方向的であることに最大の特徴があります。そこには利害得失の要素や人間関係が相対的に希薄です。生涯学習は活動そのものの意義が重要でありますが、活動の過程が対等で互恵的であるので、人々はより容易に双方向的な人間関係を発展させ易いと思われます。お互いの貢献を認めあうことによって、人々は「心の支え」も、そこに「居た甲斐」も実感するのできるのです。ややもすると生涯学習も、ボランティア活動も、活動の「中身と効果」が重視され、「やり甲斐」が注目されますが、あらゆる社会的活動には副産物としての人間関係が含まれています。高齢期の生涯学習の支援に際しては、行為の中身や方法に加えてその過程で形成される人間関係にもう少し意識的な仲介の機能を持たせることが重要であると思われます。あらゆる社会的活動の副産物は人間関係であり、社交であるということは原理的に正しくてもすべての人が理屈通りに交流の恩恵を被るとは限らないからです。「心の支え」も「居甲斐」も人々の交流と社交によって進化して行くものですが、あらゆる活動に得手、不得手があるように人間関係の形成にも得手不得手があると想定すれば、活動の企画者による仲介支援は極めて重要な意味をもちうるのです。活動の「やり甲斐」と人間関係の「居甲斐」と「心の支え」があいまって人々の「生き甲斐」を創造するのです。
  時に、人々が心身の衰耗の結果、具体的にほとんどの活動が出来なくなったあとも、過去に形成した人間関係が孤立の回避になっていれば人は己を支えることができるのです。愛し愛されてお互いを必要とすることが確認できた時「居甲斐」は人生の鍵になります。「居甲斐」こそが生きる力を支える最後の拠り所になります。もちろん、横沢氏の言うように”人と会うのは力仕事”(*2)ですから誰かの助けが重要になるのです。人と会うのは疲れることなのです。だからこそ社交にはトレーニングが必要になると横沢氏は指摘しています。おそらく人は誰でも心の支えを見い出したい、自分の居る甲斐を見い出したいと願って、最終的に人との出会いを求めていると思います。一人ではほとんど何もできず、一人で生きるよりは支え会って生きる方が楽しいからです。社交を促進する仲人機能が大事なのは、人付き合いに必要な「力仕事」を応援して、楽にすることが不可欠だからです。熟年者に対する生涯学習担当者の主要任務は交流の「応援」と「仲人」機能であるのはそのためです。それゆえ、高齢社会の公民館職員や社会教育主事の基本資質は愛嬌と親切を基本とした対人交流能力であると言っても過言ではないでしょう。特に、高齢者の生涯学習プログラムに愛嬌と親切心のない社会教育職員を配置してはならないのです。

(*2) 横沢 彪、それでも「人と会おう!」、新講社、2001年、p.28

  (3)  「ふれあい」プログラムだけで人を結ぶことは難しい

   人間の出会いをパーティーや集団見合いのような出会いのプログラムだけで演出することはとても難しいことです。人々は経験を共有する活動の過程を共にくぐってはいないからです。同じように「居甲斐」もまた出会いを目的とした単独のプログラムでは作り出すことが難しいのです。人に出会っただけで自分が必要とされる場面に出会えると考える方が無理というものでしょう。日本文化に限らず人間関係の形成は「同じ釜の飯」に象徴される経験の共有、活動への共同参加が促進するものだからです。交流の促進は常に能動的な活動の副産物として生じるものだからです。「ふれあい」プログラムの大半が愚かなのは、子どもの場合も大人の場合もパーティーやコンパで「ふれあえば」人間関係が生まれると錯覚していることです。「お見合い」は日本の伝統文化が発明した人間関係の出発点ですが、「お見合い」が機能したのは、自由な交際が保障されず、身分制度や身分意識に伴う制約があまりにも厳しかったからでしょう。このような文化的・制度的強制力の背景が存在したからこそ事前に設定された「お見合い」で人間関係を作って行くしか選択肢がなかったということです。だから制度の強制力が消滅した現在では、表面的な紹介や出会いのプログラムが人々を交流へ導くことは稀であることは当然の結果なのです。まして、自分が他者に必要とされ、己の存在感を実感できるほどの「居甲斐」に導ける筈はないのです。
   特に、「縦社会」(中根千枝)と総括される日本文化において、単なる「ふれあい」が社交や居甲斐に繋がることは少ないのです。夙に、中根氏が指摘したように、日本人の交流の深化には活動をともにする時間が必要でです。仲間との連帯は「経験の共有」によって形成され、深化されて行きます。「ふれあいパーティー」も確かに活動の一種ではありますが、心身の機能の動員のレベルがいかにも軽いのです。物事を成就するための活動と「ふれあいパーティー」では双方に必要とされる心身のエネルギーの量が大きく異なるのです。要するに、個人にかかる活動の「負荷」が違うのです。活動の「負荷」が高いほどわれわれは全身全霊を打ち込んで対処しなければなりません。「パーティー仲間」の連帯が「戦友」の絆にかなわないのは、「同じ釜の飯を喰った」時の「負荷」の大きさの違いなのです。苦労をともにした仲間が強いのは、共有する「経験」の質が連帯の堅さ、絆の強さに比例しているからです。
   高齢期の生きる力を保持しようとすれば、心身の機能に負荷をかけ続けなければならない。感覚体の機能は使わなければ衰退するからである。高齢期の活動が生きる力の保障になるのはそのためである。さらに、「苦労をともにした仲間」の絆が強いのは、「負荷の高い」経験を共有していることである。だとすれば、己を支える居甲斐を探す場合も原理は同様であろう。楽しいパーティーの仲間は「軽い」。”戦友”の絆は「堅い」。軽い仲間は気晴らしにはなっても、「心の支え」にはならない。それゆえ、確固たる居甲斐を探すのであれば、人はそれぞれの「戦場」に赴かなければならない。ひとびとがある意味で難儀なボランティア活動の中から大いなる生き甲斐や新しい”戦友”を発見するのは、そこがある種の「戦場」だからである。同志は「負荷」に耐えてともに難問を切り抜けた「経験」を共有している。その意味で「活動」こそが居甲斐の源泉であり、「負荷」の高い活動こそ優れた仲間に巡り会う「戦場」を提供する。多少の困難に耐えて「同志」を探すことが、心の支えを発見する必要条件である。老いて「楽」なことだけを求め、社会的活動から遠ざかれば、心身の機能が急降下するに留まらない。孤立と孤独を防ぐべき「居甲斐」に出会うこともなくなるのである。社交は活動の副産物であることを再確認しなければならない。しかも、「負荷」の高い活動こそ交流を深化させる。生涯学習における「ふれあい」論の愚はこの原理が分かっていない。
 

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