HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


(第63回生涯学習フォーラム 参加論文)

熟年の「生きる力」

平成18年1月21日(土)

三浦清一郎

論文一覧へ


1  老少の「生きる力」

  「生きる力」は人間が生きて行く上での「必要条件」を意味しています。人間の必要条件である以上、男女差や老若によって「生きる力」の基本的意味は変わりません。人間は自然の一部として生き、また社会を構成する存在として生きます。「生きる力」には人間の自然力と社会生活を営む社会的能力の2種類があることになるでしょう。
  自然的存在としての「生きる力」は体力や環境への適応力のようなものでしょう。一方、社会で生きるための能力は教育を通して学ぶ学力や共同生活上の資質や能力を意味するでしょう。両者ともに生きて行くための必要条件である以上、少年にも年寄りにも共通でなければならず、「生きる力」の構成要因に老少の違いはないはずです。そこで熟年の「生きる力」を論じるにあたって現在大問題になっている少年の「生きる力」から問題を解きほぐしてみたいと考えました。成人や熟年と違って、白紙に近いと言われる子どもの発達上の課題は明確で、具体的で、構成要因の順序性・段階性が分りやすいことが特徴です。生まれてくる子どもは保護者に全面依存しなければなりません。生存能力がゼロに近い状態から育てて行くわけですから子どもの発達過程を分析して行けば、「生きる力」の順序性や構成要因相互の関係性がより明瞭に見えるのではないでしょうか?子どもの「生きる力」の発達過程と対比してみれば、熟年の「生きる力」の保持存続方法もまた具体的に見えて来ると考えたわけです。但し、少年はこれから自らの「生きる力」を育てて行く「進化の進行形」ですが、熟年はすでに開発した「生きる力」が衰えて行く「退化の進行形」です。少年は「無」からいかに作り上げるかを問われ、熟年は老いによる衰えの中でどうしたら人間の最終章に向かって最も上手なソフトランディングができるかを問われます。少年の場合も熟年の場合も、「生きる力」は発達上の問題であり、生涯学習や生涯スポーツの問題に繋がっています。義務教育が少年の生活にとって義務であり、必修であるように、生涯学習もスポーツも熟年にとって生きることを支える「衣食住学」の必需品となったのです。

2  「生きる力」とはなにか

 (1) へなへなの子ども達

   現代の少年は心身共にへなへなになりました。子どもが余りにへなへななので、多くの小学校から伝統的な「朝礼」が消滅してしまいました。子ども達は校長先生の訓辞の間姿勢を正して立っていることが難しくなったからです。また、多くの低学年児童の学級では、45分間の授業に子ども達が集中して先生のお話を聞くことが難しくなり、「学級崩壊」とか、「授業崩壊」とかいう新しい日本語を辞書に付け加えることになっています。
  時に、世間は教師の指導力不足を批判しますが、それが主たる原因ではありません。昔も指導力が不足した教師はきっといたはずだからです。主たる原因は子どもの体力の低下と耐性の欠如にあります。子ども達はがまんすることができなくなり、集中力や持続力を失ってしまったのです。彼らが日常、簡単に「切れる」というのも忍耐力の低下の現われです。現代の子ども達はその親の世代の子ども時代よりも平均体力が劣っています。文部科学省が体育の日に過去20年に渡って子どもの体力が落ち続けていると警告しているのも由々しきことです。総じて少年達はひ弱で、「へなへな」なのです。そこで教育界は総力を上げて子どもの「生きる力」の向上を指導の共通目標に掲げました。しかし、客観的、公平に見て、子どもの「生きる力」は向上していません。学校を始め、関係者が手抜きをしている時に「結果」がでないのは当然です。しかし、関係者が熱意を持って努力しているにもかかわらず「結果」が出ない時は、教育プログラムの中身と方法を疑うべきでしょう。正しいプログラムが実践されていなければ、「結果」が出ないのはこれまた当然なのです。かくして「生きる力」の中身と方法とプログラムのあり方を点検することが急務であると考えました。

 (2) 「中身」と「方法」を疑え!

  まず、「生きる力」の定義が抽象的に過ぎます。「生きる力」とは「子どもが問題を発見し、それを自ら主体的に解決する能力」であると文科省の資料に書いてあります。校長先生の研修会でも、教育長の研修会でも多くの皆さんがこれらの資料に基づいて、子どもの「問題発見能力」、「問題解決能力」こそが「生きる力」であるという趣旨のことをおっしゃいます。抽象的にはご指摘の通りでしょう。しかし、子どもの日常の行動に即して、「問題を発見する」とか、「問題を解決する」とは具体的にどういうことでしょうか?校長先生も教育長さんも説明は千差万別です。筆者はしつっこく次のような質問を投げかけてみました。
  "子どもが問題を発見するとは具体的に何を、どのようにした時なのでしょうか?""発見した問題を子ども自身が主体的に解決するとは、日々の行動に即して、何をどのようにすればいいのでしょうか?""「問題発見能力」や「問題解決能力」が「生きる力」だとしてそれはどうすれば身に付くのでしょうか?""現在行われている「総合的学習」で「生きる力」は向上するのでしょうか?""「生きる力」が向上したか、否かはどのように検証するのでしょうか?"
  先生方の答も、教育行政関係者の答もまずバラバラです。説明は「具体性」に欠けています。「生きる力」の「検証」の方法も不明です。指導にあたっては子どもの日常の行動に「翻訳」ができません。したがって、指導の中身も方法も「論理性」が欠如しているのです。要するに、「生きる力」の定義は抽象的に過ぎて役に立たないということです。では、どのように再定義するか!?再定義は中身と方法を具体的かつ論理的に提示することができるか!?この一点が問われているのです。

 (3) 「欠損体験」こそが「生きる力」の低下原因

  大人も子どもも「やったことのないことは出来ません」。「教わっていないことは分りません」。「練習を積まなければ、上手にできるようにはなりません」。人間は人生に必要なことは「学習」と「体得」によって獲得します。「学習」は主として脳味噌で、「体得」は全身全霊の五感を総動員した体験によって学びます。この時最も重要なのは生きて行く上で中心的な意味を持つ体験です。教育界ではそれを「核体験」と呼んでいます。これらの重要にして、中核となる体験が子どもの成長の過程で「欠けたり」、「損じたり」した場合が「欠損体験」です。
  筆者は、子どもの成長を「保護」から「自立」への過程と捉え、「一人前」になるとは社会の中で、自分のことは自分でやり、自分のことは自分で決め、日々の糧は自分で稼ぐ力をつけることだと考えて来ました。自立のトレーニングの過程で「自然接触体験」、「自発的活動体験」、「社会参加体験」、「困難体験」などを「核体験」の具体例として論じて来ました。これらの体験は人生と社会生活を支える思想や資質の「学習」と「体得」の基本になると考えたからです。
  「自然接触体験」は人間の自然性を自覚し、自然から学ぶためです。なぜなら子どもも自然の一部であり、自然を離れて人間が生きることはできないからです。「少年自然の家」などの施設は子どもが自然に触れる機会を保障するために設置しているのです。「自発的活動体験」は子どもの「自発性」を養うことが目的です。「自発性」は自立の基礎であり、自分でできるようになるためにも、自分で決められるようになるためにも、自発的・主体的態度は、自発的活動の体験を通してのみ獲得できるものだからです。「社会参加体験」は世間で生きるための「予行演習」です。世代間の交流も、縦集団の体験も、合宿のような親元を離れた共同生活の体験も、手伝いも、役割の分担も、地域の行事への参加も社会生活の練習を意味しています。「困難体験」は人生の予防注射です。誰の人生でも思うようにならないことは多いはずです。願いが適わないことも、思いが通じないことも、やりたくてもやってはならない状況も、やりたくなくてもやらなければならない状況もすべて人生の困難です。これらの困難に耐えられなければ、生きること自体が難しいのです。成長の過程で困難に挑戦し、少しずつ失敗や挫折に耐える体験を積んでおかないと、青年期以降の更に大きな困難には到底耐え得ないでしょう。
  それゆえ、筆者の主張は子どもが「保護」から「自立」へ向かう成長の過程でこれらの主要な体験を教育的プログラムに編成して実施すべきであるというものでした。それを「欠損体験」の教育的補完と呼んで来ました。現在、学校も、家庭も、もちろん、地域社会もこれらの「核体験」を子どもに十分提供する条件は整っていません。一つはプログラムを提供する集団とシステムが弱体化してしまったためです。もう一つは、子どもの権利論や「主体性論」に振り回されて、教育界がこれらのプログラムの重要性を見失ってしまったからです。こうして筆者は各地の青少年育成に関わる大会などで「体験」と体得」の重要性を説き、「欠損体験」を教育的に補完しなければ、少年の「生きる力」は決して向上しないと主張して来たのです。ところが「生きる力」はもっと具体化する必要があると筆者が考えるようになった小さな事件に遭遇しました。
 

「欠損体験」

  子どもの成長には様々な体験が不可欠である。発達過程における体験の欠損は子どもの「体得」の貧しさに直結している。責任感も、協力の態度も、危険の回避も、その他の重要な社会規範も子どもは自らの実体験を通して体得するものだからである。それゆえ、自然を知らずに育った子ども、異年齢の集団の中で暮らしたことのない子ども、家庭や地域社会の役割りを果たしたことのない子ども、挑戦や失敗や挫折を味わったことのない子どもはそれぞれに自然接触体験が欠損し、縦集団体験が欠損し、社会参加体験が欠損し、困難体験が欠損する。これらの体験が乏しい分だけ彼らの「一人前」の資質も貧しくなる。豊かな社会で過保護に育てられた子どもはとりわけ上記の諸体験を欠損しがちである。欠損体験の教育的補完は現代教育の最重要課題である。

 (4) あるお父さんからの抗議

  あるPTAの幹部研修会にお招きを受けた時のことでした。筆者は上記のように「欠損体験」こそが「生きる力」の低下原因であるという趣旨で「核体験」の重要性を訴えました。特に子どもが辛さに耐えて困難な課題に挑戦する「困難体験」は人生の予防注射ですと説明しました。「可愛い子には旅」とか、「他人の飯を食わせよ」とか、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」という昔ながらの子育ての教訓やことわざが念頭にあったことは言うまでもありません。
  その時会場のあるお父さんのお手が上がりました。お父さんの指摘は意訳するとおよそ次のようなことでした。

   ア  「欠損体験」の概念は文科省の「生きる力」の概念よりは具体的であることは認める。
   イ  しかし、講演者のいう「欠損体験」を補完する教育プログラムを作るためには体験の中身とレベルを示さなければ素人の親には分らないではないか!
   ウ  例えば「困難体験」というとき、小学生の低学年にどのレベルのどんな中身の困難プログラムをどんな風に与えればいいのか。それを言わなければ具体的方法を提案したことにはならない!。

  お父さんの指摘は図星でした。筆者は舞台上でへどもどして恐らく真っ赤になったことでしょう。言われて見ればまさにその通りですからしばらく言葉を失いました。ようやく気を取り直して苦し紛れに思いつきの質問をしました。"恐縮ですが、お父さんはご自分を一人前の男であるとお考えですよね。!?"ますます御機嫌を損じたお父さんは"当たり前だ"と言う意味のことを吠えるように言いました。大恥をかいて気が動転しましたが、怒鳴られて覚悟が決まりました。次の質問をしました。"お父さんはご自分の体力をお子さんにも付けてやろうと何か指導はなさっていますか?"なぜなら"お父さんの体力こそが「一人前」の体力だからです。困難への挑戦は身体づくりから始めるべきだと思います。"質問と説明を始めてようやく筆者の頭も回転し始めました。窮地に追い込まれましたが、「火事場力」でアドレナリンがでたのでしょうか。「攻撃は最大の防御」ですから筆者が質問者に廻りました。筆者は矢継ぎ早に質問し、矢継ぎ早に説明を加えました。筆者が指摘したのはおよそ以下のような点です。

   ア  お父さんは「一人前」の男です。それゆえ、お父さんの体力は一人前の体力です。子どもが「一人前」になるためにはお父さんの体力に近づく身体づくりから始めては如何でしょうか?お子さんの身体を鍛えるために一緒になにか為さっておられますか?
   イ  鳥も獣も人間も「体力」がつきた時に生存が終ります。生きる力」の第1条件が「体力」であることは疑いがありません。
   ウ  現代の子どもはへなへなです。それゆえ体力のトレーニングは子どもにとって最も身近な困難への挑戦です。具体的な目標はお父さんご自身の体力です。
   エ  お父さんはお仕事でも、日々の暮らしでも多くのがまんを為さっているはずです。「がまんする力」はお子さんには伝えているでしょうか?宿題でもお手伝いでも欲しいものを買ってもらえない時でも、がまんして耐えることこそが「困難」のトレーニングではないでしょうか?
   オ  鳥も獣も人間も群れを作りますが、社会を形成するのは人間だけです。社会は人間の約束の上に成り立ちます。やりたくてもやってはならないことは多く、逆にやりたくなくてもやらなければならない役割も責任もあります。
   カ  ルールを守るのも、責任を果すのも「がまんする力」が基本です。
   キ  一人前の男ががまんする力を息子さんにも教えてあげて下さい。困難体験はそこから始まります。ここでも目標はお父さんご自身です。

  会場にいた皆さんの拍手が筆者を救ってくれました。このお父さんの質問のお陰で、後日筆者は「生きる力」の再定義を発見できたと思っています。
  
 (5) 動物の力と人間の力

  お父さんの質問に答えているうちに筆者の頭の中で「生きる力」の具体的な要素が広がって行きました。「生きる」ということは動物として生きることと、社会人として生活し、世間の人間関係の中で生きるということの両方があります。動物としての人間が生きることと、社会的人間として生きることとは様々な条件が異なるのです。もちろん動物としての資質が基本で、社会的人間の条件はそのあとにきます。この時心理学者マズローが考えた「人間欲求のハイラーキー」の発想が参考になります。マズローは人間の欲求には段階性があると考えました。マズローによるとまず「生理的または生存の欲求」を満たさなければならないと考えました。欲求の第1段階は動物的欲求を満たすということです。次に「安全の欲求」を満たすのです。安全という問題は動物的欲求と社会的人間の欲求の中間ぐらいのところに位置すると考えて間違いはないでしょう。
  そこから先は社会的人間の欲求です。すなわち、「愛情および帰属の欲求」を満たし、それらが満たされた上で「社会的承認の欲求と尊敬の欲求」を満たし、最後に「自己実現の欲求」を満たすというのです。マズローの指摘を図示すると次のようなピラミッドになります。


 
図1 マズローによる人間欲求のハイラーキー(*)
 (*) A.H.Maslow, Motivation and Personality, Harper and Brothers, Newyork, 2nd ed. 1970


  「生きる力」の分析にも同じような発想が適用できると考えました。マズローが分析したように、人間は「動物的存在」であり、同時に「社会的存在」でもあります。人間の幸福のためには動物的欲求も、社会的人間の欲求も順序があり、それぞれ段階的に満たさなければならないのです。同じように、「生きる力」の向上にも動物としての生きる力と社会的に生活する上での「生きる力」にも順序性があり、その両方が段階的に達成される必要があるのです。

(6) 「生きる力」の構成要因の順序性

   人間の欲求が「動物的欲求」と「社会的欲求」に分けられるように「生きる力」も動物的な力と社会的な力に分かれます。「体力」が尽きた時に鳥も獣も人間もその生存を終ることを考えれば、動物にとって「生きる力」の第1は「体力」であり、「運動能力」ということになります。すなわち人間における動物的な個体としての「生きる力」の基本は、基礎「体力」や基礎的な「運動能力」のことを意味します。これが「生きる力」の第1条件です。基本条件の第2は社会的動物が生存を続ける際の基本条件です。それは「個」が「集団」の要請に従い、集団との衝突や矛盾を回避するための「がまんする力」です。社会的動物が集団の中で生きるためには、「個体」は集団の「掟」に従わなければなりません。「がまんする力」は個体としての自分の欲求にブレーキをかけて集団的行動を取るための条件になります。犬を始めとして、動物のしつけなどの事例から考えるとがまんの能力は動物と人間の両方にまたがる資質であると思われます。通常、人間の場合、「がまんする力」は「耐性」と呼ばれます。自分の欲求に相反する状況や己の心情のいらだちに耐える力の意味です。それゆえ、耐性は必要な行動を実行する力を意味する「行動耐性」と自分にとって不本意な状況の中でも社会の約束に従って努力を続ける「欲求不満耐性」に分かれます。「行動耐性」は体力と重なっていて、かなり動物的な能力です。一方、「欲求不満耐性」の方は人間の社会的欲求や感情に関係しているので、極めて社会的な能力であることが明らかでしょう。実際の生活の中では両方とも分ち難く組み合わさって人々が困難に立ち向かう力になっています。
  「生きる力」を考える上で大切なことは「生きる力」を構成する諸要素の「順序性と段階性」です。マズローが欲求の「ハイラーキー」を示して、人間の幸福が「生存の欲求」や「安全の欲求」を無視してより上位の「愛情や尊敬や自己実現」の欲求を満たすことができないと指摘したように、「生きる力」もまた「体力」や「耐性」が備わっていないのに学力や道徳性などより上位の社会的能力を開発することは極めて難しいということです。

(7) 土台は「体力」と「耐性」

  以上の通り「生きる力」の順序性と段階性を考慮すれば、その基本は「体力」と「耐性」であるということになります。この両者がその外の「生きる力」の構成要因を獲得するための土台になります。家を建てることに例えて考えてみれば、基礎工事の重要性は明らかでしょう。土台が固まっていないのに柱や壁を作ることは到底不可能なのです。屋根を葺くことなど思いもよりません。それゆえ、「生きる力」を構成する様々な要因を想定することは可能ですが、最も重要なことは構成要因には順序性・段階性があるということです。土台を無視して柱や屋根を作ることはできないのです。
  それでは子どもがこの世で生きて行くための力にはどのようなものがあるでしょうか?人間が人間である以上、時代が変わっても変わらないものもあれば、変わるものもあるでしょう。職業ひとつをとっても時代が変われば要求される資質や能力も変わるはずですから、「生きる力」の構成要因もまた時代とともに変わる部分もあると考えるべきでしょう。そうなると時代が変わっても変わらないものが土台で、時代が変われば変わってしまう要因はその土台の上の上部要因ということになります。
  それゆえ、生き物の基本となる「体力」と「耐性」はいつの時代も土台です。柱はそれぞれの時代の職業を支える知識や技術;子どもの場合は基礎学力ということになるでしょう。熟年の場合は国際化の知識やコンピューターリテラシーのようなものでしょうか?
  また、人間は社会の中で生きて行くのですから社会の決まりや約束を守る道徳的実践力も重要です。もちろん、価値や倫理は時代によって変わる部分も大いにありますので時代に照らして絶えざる検証を続けることが不可欠であることはいうまでもありません。共同生活のあり方も変わりました。したがって、協力の仕方も分担のやり方も変わりました。やさしや思いやりという言語上の表現は同じでも、それを行為や態度に現わす場合の表現方法も表現対象も多いに変わりました。
  しかし、原理的に言えることは、「生きる力」の構成にどのような資質や要因を追加しようとも、土台なくして上部要因を積み上げることはできないのです。「体力」も「耐性」も獲得していない子どもに学力や道徳的実践力を教えることは不可能です。自分を制御するだけの力が備わっていないものに、どうして「思いやり」の行動や「やさしい態度」などをのぞむことができるでしょうか。子どもが授業に集中し、先生のお話を持続して聞くことができない時、学力のトレーニングはできないということです。子どもが自分を制御できない時社会のルールに従えというのは無理というものなのです。子どもの学力が向上しないのも、子どもが簡単に切れるのも、それらの原因は「生きる力」の土台の欠如;基礎工事の不十分さにあるのです。
  原理は熟年期の場合も同じです。熟年が遭遇する「老い」は「体力」を衰弱させ、それに伴って心身の「耐性」が衰退します。「生きる力」の土台が崩壊することによって、結果的に人々を支えて来たその他の要因まで失わせることになるのだと考えられます。老少いずれの場合も「生きる力」の土台が問題なのです。子どもが遊びやスポーツなど身体運動によって体力を養うように、熟年も生涯スポーツを続けることによって若い時に獲得した「体力」を維持し、生涯学習によって心身の「耐性」を存続させることができれば、熟年期の活動も社会貢献も続けることが可能です。熟年期も「体力」と「耐性」さえ維持できれば、時代が要求する新しい知識を獲得し、社会の変化に対応した生き方を持続することはそれほど困難なことではない筈です。

 

「耐性」

  一般的に「がまん強さ」のことをいう。耐性には、アルコール耐性とか、薬理耐性のような特別な使用法もあるが、子どもの発達に関わるものは「行動耐性」と「欲求不満耐性」である。行動耐性とは体力を基本とした身体的適応力や慣れを意味する。はじめは辛かったり、難しかったりすることでも、身体の慣れや適応力がついて、できるようになった場合「行動耐性」が向上したと言う。他方、「欲求不満耐性」の方は、心理的・精神的適応力を意味する。私たちが種々の生涯、妨害、困難により、欲求の実現が阻まれることがある。その時の緊張や不満が欲求不満である。緊張と不満の苦痛に耐えて、状況を判断し、適切な現実処理ができる能力を「欲求不満耐性」と呼ぶ。この能力が乏しいと状況の苦痛に耐えられず、感情的、防衛的に不適切な反応を起こしやすい。「きれる」というのがそれである。この能力を高めるためには、発達の各段階において、適度の挑戦、緊張、失敗、挫折など「欲求不満」を伴う体験を通っておくことが必要である。


(8) 「生きる力」の再定義

  筆者は「生きる力」の基本要因を五つに定めました。土台は「体力」と「耐性」です。残る3つは「学力」と「道徳的実践力」と「思いやりの態度」です。学力は職業生活上の必修条件です。道徳的実践力は社会生活・共同生活上の最低条件です。そして思いやりの態度ややさしい行為は社会生活・共同生活においてお互いを幸福にする必要条件です。
  付加できる資質はまだまだあることでしょう。しかし、「生きる力」は人間が一人前であるためのミニマムエッセンシャル:最低必要条件です。これらを欠如すれば子どもは一人前に到達せず、年寄りは一人前から転落するのです。かくして「生きる力」の定義は教育行政が言って来たような鍛えるべき領域と方法論を欠落した抽象的な説明では実際の役には立たないのです。「問題を発見し、問題を解決する」というような定義では何をどのようにすれば指導すればいいかが全く分らないからです。

  筆者の定義は次のようなものになります。

  「生きる力」を養うとは、「体力」と「耐性」を土台とし、その上に職業の基本となる学力を獲得し、社会のルールに従う最低限の道徳的実践力を身につけ、お互いの幸福な共同生活を成り立たせる思いやりの態度を発達させることです。知識や概念や関係性は脳味噌を使って読書や講義など座学でも学ぶことができます。しかし、体力にしても、耐性にしても、態度や行動のあり方にしても、教室や教科書で学ぶことはできません。実技は実際にやってみない限り身につけることはほとんど不可能です。昔から「畳の上の水練」は役に立たない教育の代名詞になっているのです。
  したがって、上記五つの要因のうち「学力」以外はすべて体得によって学ぶべきものです。その他の資質は土台も含めて学校教育が進めて来た脳に依存した座学や教科教育の学習方法では学ぶことができません。教育方法としての「体験」・「体得」が重要になるのはそのためです。それゆえ、現行の学校のように指導の大部分を教室の中の教科書や先生方の授業に依拠したやり方で「生きる力」が開発できないのは当然の結果なのです。


3  生涯学習格差は「生きる力」の格差

 (1) 「学習者」が主体

  生涯学習は「教育」ではなくて「学習」にこだわります。なぜなら、教育はかならず「教育を行うもの」と「教育を受けるもの」に二分してしまうからです。生涯に渡って「教育」が必要であると言った時、「教育を受けるもの」は市民だとして、誰が人々の生涯に渡って「教育を行うもの」となるのか、大きな問題です。そこで生涯学習は「教育」の概念から訣別して、学習を行う者に、中身も方法もすべての選択権を託すことになったのです。したがって、個人的に行う「自学自習」でも、先生に付いて指導を受ける従来の教育でもどちらでもいいのですが、すべて学習者である市民に任せることにしたのです。アメリカの法律も、それを参考にした日本の法律も『生涯学習振興法』という名称になったのは「学習者」が主体であるということを表しているのです。「学習者」が主体であるということは選ぶのは学習者であるということを意味しています。この点で生涯学習は市民の「選択」が最重要の原理となります。

 (2) 生涯学習は「選択」が原理

  生涯学習は教育の原理と違って「教育者」を前提としていません。換言すれば、学習者が主体です。学習者が主体ということは、先生を選んでもいいし、選ばなくてもいいということです。時間も場所も学習の対象に付いても学習者が選択するという点では同じです。生涯学習がかかげる「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」というスローガンはこのことを簡潔に表しています。「選択の自由」ということは、最終的には市民は生涯学習を選んでもよく、選ばなくてもいいということになります。選択の結果責任は市民が負うことになります。ここから必然的に選択結果に伴う「格差」が発生するのです。伸び盛りの子どもや、急激に衰える年齢に達した高齢者では生涯学習や生涯スポーツを「選んだひと」と「選ばなかったひと」の格差は巨大なものになります。

 (3) 生涯学習格差の必然

  学校週五日制の導入で土曜日が休みになりましたが、二日続きの週末を子どもがどのように過ごすかは子どもの成長に大きく影響することは言うまでもありません。現在の調査結果が示すようにTVやファミコンで何時間も週末を過ごしている子どもと、課外のスポーツや生涯学習を楽しんでいる子どもとの間には1年も経てば大きな違いが生じるのは当たり前のことでしょう。それでなくとも子どもの成長は日々著しく、タイミングを外したり、時間を無駄にすれば結果ははっきりと出るのです。
  行政は学校週五日制を「ゆとりと充実」に繋がると喧伝しましたが、それは生涯学習や生涯スポーツを選んだ子どものことであって、週末に「充実のプログラム」を選ばなかった(選べなかった)子ども達には当てはまらないのです。まして、学校が週末の子どものために何一つ準備していない状況でどうして学校週五日制を「ゆとりと充実」に繋げることができるでしょうか。学校週五日制は制度の導入を心配するPTAや関係者の怒りをかわすために文部科学省が教職員の週休二日制をカムフラージュして言い換えた用語だということは現在の学校の無策からも明らかなのです。休みが増え、自由な時間が増えるということは子ども達の選択の自由も増えるということです。その結果が学校週五日制に伴う生涯学習格差なのです。
  熟年の場合も原理は同じです。生涯学習や生涯スポーツで心身の機能を維持している人と何もしていない人の格差は如実に現れます。昨今指摘されている定年うつ病や生き甲斐の喪失や心身の衰弱は明らかに労働という特別活動を終えたあとの活動の喪失や停滞に関わっています。使わない機能は衰退し、やがて消滅することは生理学上の法則だからです。
  熟年期の生涯学習やスポーツは本人の健康や機能維持を目的とすると同時に彼らが依存する福祉や医療システムを存続する上でも極めて重要な働きをしているのです。肉体も、頭脳も、精神ですらも使うことを止めれば直ちに一気に衰え始めます。熟年期の生涯学習やスポーツには心身の機能を保持存続させるという大事な目的があるのです。定年までは特別な工夫をしなくても「労働」という活動が心身の日々のトレーニングを受け持ってきました。しかし、「労働」の季節を終った熟年にはそれに代わる活動が必要になるのです。人間の活動は心身の能力を発揮させ、その活力を維持する働きをするからです。生涯学習も生涯スポーツもそのための一つの仕組みです。それゆえ、「老人憩いの家」のプログラムも、老人学級や高齢者大学などの社会教育のプログラムもそれなりの効果を発揮したのですが、ゲートボールやグラウンドゴルフ、歌と踊りと風呂と趣味と教養を組み合わせた高齢者プログラムでは熟年の「生きる力」を支えることは到底不十分でした。ましてこれらのプログラムにすら参加していない人々は坂を転げ落ちるように心身衰弱の道を辿っているのです。それが生涯学習格差です。

(4) 楽しみの活動だけでいいか?

  定年後の熟年の活動は楽で、楽しいだけでいいのでしょうか?熟年のための教育行政も、同じく福祉行政も基本的に施策を間違ったと思います。熟年はその労働を通して社会から必要とされることの意義を学んでいるからです。「存在必要」の実感は定年がその分かれ目でした。
  熟年は定年によって社会から必要とされない「無用の存在」に転落しているのです。自分の存在が人々から切実に必要とされない時、人が生きる意欲を失うのは当然でしょう。生きる意欲がしぼんで行けば、生きる力を保持することも難しくなって行くでしょう。熟年にとって向老期に社会に貢献し続けるボランティア活動やパートタイムの労働などが重要なのはそのためです。関係行政は高齢者の賃金体系を変えたり、ボランティア活動の「費用弁償制」を創設してでも、高齢者の社会参加を促すべきだったのです。多くの生涯現役の方々がお元気なのは心身の機能を使い続けているに留まらず、その活動を通して世の中のお役に立っているからです。無為、無活動によって衰弱した高齢者は、今や医療制度を破綻に追い込み、介護保険の大部分を大赤字に転落させました。高齢者に楽をして、遊んで暮らしてもらうというプログラムがいかに間違っているかはすでに現行福祉制度の困難によって証明されているのです。
  生涯学習の「選択原理」は、生涯学習格差を生み出し、熟年期にこれらを「選ばなかった人々」をも、そしてそれらの人々が依存している社会制度をも直撃するという副作用を生んでいるのです。
 

論文一覧へ

ホームページ

Copyright (c) 2002-, Seiichirou Miura ( kazenotayori@anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文等の転載についてはこちらからお問い合わせください。