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(第45回生涯学習フォーラム参加論文)

「学力」についての自問自答−学力の構造と学力向上の条件−

平成16年4月17日(土)

福岡県立社会教育総合センター

三浦清一郎

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1. 「学力」の構成要素 −学力テストで測定したものが当面の「学力」である

「学力」には様々な要素が含まれている。知識も、技能も、応用力も、批判力も、表現力も、時には、創造力も「学力」の内だという。また、「学力」は「基礎・基本」が重要であるという。それゆえ、「学力」には「基礎・基本」と「基礎・基本以外のもの」がある、ということになる。それゆえ、何を重視するか、どこを見るかで「学力」の定義は分裂する。しかし、世間が「学力」に注目するのは、学力テストの点数が下がったからであろう。テストが子どもの能力あるいは学力のすべてを測れないということは誰もが知っている。しかし、学力テストに現れた学力が学力の一部であることもまた、誰もが知っている。したがって、当面の心配は学力テスト結果の低下である。学力テストで測定されたものはたとえ「学力」の全部ではなくても「学力」であることに間違いはない。能力の全部ではなくても、その一部であることは否定できない。2002年全国の小中学校で学力テストが実施された。以後、個々に様々なテストが行なわれている。結果は、10年前より成績が低下している。1999年の「ゆとり教育」の導入は失敗ではなかったのか?「生活科」や「総合的学習」は「生きる力」の向上を目的に導入されたが、「生きる力」は向上しているのか?「生きる力」と「学力」はどんな関係にあるのか?学校は「学力」養成の専門機関ではなかったのか?小学校で問われる「学力」と、上級学校で問われる「学力」を同じように論じてもいいのか?「2002年度からの新学習指導要領の廃止を求める国民会議」も発足している。和田は上級学校における理数軽視を危ぶみ、学力崩壊を憂い、学力再建を訴え続けている(*1)。当面の疑問は「学力」の定義、その構成要素の分析から始まる。

(*1)  和田秀樹、学力崩壊、PHP研究所、1999年、同著者、学力再建、PHP研究所、2001年

 

2. 「学力」定義の分裂                                     

ある人はペーパーテストで測れる程度のものは「学力」ではない、という。例えば、町野は「学力がつくこととペーパーテストの点がとれるのとでは似て非なるもの」である、という。それゆえ、塾の勉強は「学科上の知識や情報の総量が増え、実践的ドリル力がついてきただけの話で知の質量にかかわるものではない」(*2)ともいう。残念ながら町野の説明には、「知の質量に関わる学力」の定義はない。同じように、小宮山は「みかけの学力」という概念を使う。「みかけの学力」は「質問の答を出せる」だけで、「考える力」、「創造する力」が入っていないと言う(*3)。しかし、小宮山は「質問」の「質」を疑ってはいない。そもそも「考える力」や「創造力」を測るテストや測定法が可能か、否かも疑っていない。

野口も中山治氏の「親子でのばす学習戦略(宝島社、1995年)」を引いて、「学力」と「得点力」は異なるという趣旨のことを書いている(*4)。通常の試験で測定できる「学力」には「批判力」、「応用力」、「創造力」などを含めることは難しいという意味であろう。また、野口は学力とは「重要なことに集中できる能力」である(*5)と言っているので、「学力の対象」には「重要なもの」と「そうでないもの」があると考えているはずである。そこから野口の『「超」勉強法』なる書物が生まれる。

これに対して陰山は「揺るぎなき基礎は多様性に転化する」と確信を持って断言する。「揺るぎなき基礎」とは「読み・書き・計算」のような基本的な知識とそのドリル対応力である。したがって、上記の論者の言葉を借りれば、陰山が実践する「読み・書き・計算」とは、「ペーパーテストの点が取れる能力」であり、「見かけの学力」であり、「得点力」である。

しかし、陰山は小学校教育の実践で「基礎学力」が様々な能力・資質に転化して行く可能性を証明してみせた。「読み・書き・計算」の基礎が確立されれば、それが応用力や考える力や子どもの意欲にさえも転化して行く(*6)、と自らの実践の中から報告している。問題は子どもに期待される応用力や考える力の範囲である。範囲を限定せずに「応用」や「思考」を抽象的に論じては陰山の実践に対してフェアーではない。文脈から察するに陰山のいう「応用力」は、現行の小学校カリキュラムが想定する知識と考え方を指すのであろう。少なくとも、陰山の実践は、「揺るぎなき基礎は多様性に転化する」ことを証明したのである。かくして、町野と陰山の「学力」観から導き出される指導原理・指導法は真っ向から対立せざるを得ない。学習内容の編成論も大きく分かれる。

(*2)  町野叔司、塾と学校の授業はどこが違うか、なぜ授業は壊れ、学力は低下するのか、プロ教師の会編著、洋泉社、2001年、p.92

(*3)  小宮山博仁、よく学びよく遊ぶ子の育て方、ごま書房、1995年、まえがき

(*4)  野口悠紀雄、「超」勉強法、講談社、序、p.15

(*5)  同上、p.35

(*6)  陰山英男、「読み書き計算」で学力再生、小学館、2002年、pp.20-21

 

3. 「新学力観」の混乱                                     

文科省がいう「新学力観」になると更に定義が錯綜する。「新学力観」では、通常の方法では到底測定不可能な子どもの「姿勢」や「態度」や「関心」や「意欲」を「学力」概念に加えているからである。恐らく、「ペーパーテストだけでは測れない学力」という議論はここから始まっている。調査書の重視などという論議もここから発生する。当面の「学力」問題は、学力テストの結果が心配だというところから出発する。それゆえ、子どもの姿勢や態度や関心や意欲は「学力」向上の条件にはなり得ても、「学力」そのものではない。学力テストは「姿勢」や「態度」や「関心」や「意欲」を測定しようとはしていない。これらを「学力」の一部に含めるのであれば、最小限国民に提示できる評価やテストの対象に含める努力をすべきであろう。もちろん、現実に、子どもの精神や生活態度の実態をペーパーテストで測定できるはずはない。これらは昔から「資質」と呼ばれ、「学習の構え」と呼ばれてきた。したがって、資質は能力の一部と成り得ても、学力を構成する要因ではない。それゆえ、当然、「学力」と「能力」も異なる。通常、「能力」の条件は遥かに複雑で、多岐に渡っている。「学力」はそのほんの一部に過ぎない。能力には、体力があり、耐性があり、学力があり、判断力が問われ、分析力が問われ、決断力が問われ、思いやりや感受性まで問われる。学力についても、学年が上になる程、知識やドリル力以外に分析や判断の力が問われる。「学力」の概念も期待される能力の拡大に従って拡大する。学力も能力も諸々の要素の「総合」であるが、どこかで限定しなければ、中身も、指導方法も論じることは出来ない。もちろん、「学力」を論じるためには、「学力」を向上させてきた「資質」も論じなければならない。しかし、両者は同じものではない。能力はこうした諸因子の総合を意味する。「資質」を詰めて行けば、人間関係能力を含め、社会的適応力の総計となる。ダニエル・ゴールマンが提案した「感情値(EQ)」の考え方に近くなる。EQも人間生活の大切な能力構成要因ではあるが、「学力」ではあるまい。「学力」問題を資質や能力の問題と混同して論じれば、教科内容の編成も教科指導の方法の特定も難しい。

 

4.  指導原理ー指導方法の分裂                             

スポーツには科学的トレーニング法が研究され、実践されている。勉強は少なくともスポーツ・トレーニング法の段階まで進歩して然るべきではあるまいか、とは野口の指摘である (*7)。学力には今のところ教育実践の経験則しか存在しない。当然、「学力」の指導法も確立してはいない。「学力」の定義が分裂することはそのまま指導法の分裂となって現れる。俗称される「詰め込み」と「ゆとり」が指導原理の分裂の典型であろう。

行田は「『詰め込み』強化の方向では、いじめ、不登校、学級崩壊などに示されている子ども達の苦悩は克服できない」と断じる。行田によれば、子ども達から喜びを奪い、学校生活の閉塞感を作り出しているのが「詰め込み教育」であるという(*8)。行田は「学力」を「知識の量」プラス4つの要素であると表現している。4つの要素が加わった時、「学力」に「血」が通うのである、という。「知識の量」とは「基礎・基本」のことであろう。4つの要素とは、第一に、「五感を通して見る、聞く、考える」、第二に、「問いを育てる」、第三に、「学んだことを表現する」、第4に、「自分を探す」ことである(*9)、という。重視すべきは「知識の量」ではなく、行田のいう4つの要素である、ということになる。

これに対して陰山は「読み・書き・計算」で学力を再生するという。指導法はいわゆる「型」の「詰め込み」である。読む力を育てる指導法は、「詰め込み」で”悪名高い”「音読、暗唱」である。書く力を育てるのは、主として漢字の単純反復である。当然ながら、読書指導、読解指導は平行して行う。計算力を鍛えるためには陰山が岸本裕史の実践をヒントに開発した陰山メソッドなる「百マス計算」ドリルを用いている。陰山メソッドは勉強をゲームや記録会に変えた。子どもは記録の向上を楽しみ、競争を喜ぶ。進歩と向上は楽しいものだからである。実践総括で陰山は次の8点を指摘している(*10)

  (1)  教育訓練で基礎学力は上がり、定着する

  (2)  「基礎学力」が育てば「ゆとり」が生まれる

  (3)  教育の適度な「負荷」は子どもの成長を加速する

  (4)  子どもの記憶能力を生かせ。子どもは記憶力の旬である。

  (5)  身体で覚えることの競争と向上は両立する

  (6)  学力が上がるとIQも上がる

  (7)  学力が上がると精神の安定と自信に繋がる

  (8)  学力が上がれば表現力、創造力が拡大する

野口も最終の結論は陰山と一致する。「若い時に詰め込み教育を受けるのは、大変意義があることだ」。「『創造力のための教育が必要』といわれるけれども、創造は学習からしか出て来ない」(*11)。「『ゆとり』で子どもの教育を受ける権利を奪うな」。「『詰め込み』なくしていかなる創造もあり得ない」。「能率的な勉強法を教える以上にあたたかい方法があるだろうか」と指摘している(*12)

(*7) 野口悠紀雄、「超」勉強法、講談社、序、p.18

(*8) 行田稔彦、学力を育てる、旬報社、2002年、p45

(*9) 行田、同上書pp.6970

(*10) 陰山英男、読み・書き・計算」で学力再生、小学館、2002年、pp.148〜159

(*11) 野口悠紀雄、「超」勉強法、講談社、序、p.252

(*12) 同上、p.257

 

5. 資質と学力の相関                                     

資質と学力とどちらが先かと問われれば、疑いなく資質が先である。勉強する気がないものに勉強を教えることは至難である。体力的に持続力のないものも問題外である。精神的に耐性や集中力のない者も指導には耐えられない。興味や関心を持っている子どもが、持っていない子どもより勉強に身が入るのは当然であろう。学習習慣ができている子ども、勉強のコツを分かっている子どもはそうでない子どもに比べれば成果が上がり易いのは当たり前であろう。それゆえ、どちらが先か、と問われれば「資質」の向上が先である。もちろん、人間は総合的だから、「学力」を鍛える中で、「資質」を育てることもできる。指導が適切であれば、集中的なドリルや受験勉強が子どもを鍛えることができるのはそのためである。

 

6. 「見える学力」と「見えない学力」                              

岸本は「学力」を二層構造で捉える考え方を提出して久しい。達見である。それが「見える学力」と「見えない学力」である。岸本によれば「見える学力」は「見えない学力」に支えられている。「見えない学力」とは子どもが積み重ねる直接経験の種類と頻度の多さであり、直接・間接の経験によって培われた言葉の理解力、表現力、読書能力である。岸本は「見えない学力」の三要素は言語能力と根気と先行体験であると指摘する(*13)。子どもが個別の体験を通して体得したことの積み重ね、読書により獲得した様々な知識や表現形式、交流を通して開発した言語や態度の表現の力が勉強に繋がらないはずはない。カリキュラムが想定している知識や技術は人類の歴史の中の他者の体験の集大成である。そのうちの重要なものが「学力」の「基礎・基本」である。「基礎・基本」の習得こそが「見える学力」を構成する。「見えない学力」は子どもの体験の蓄積量の総体である。果たして、現在の学校は「見えない学力」を育成できるのか?「生活科」や「総合的学習」は体験を重視するがそこから岸本がいう「見える学力」、「見えない学力」は育つのか?学校は、伝統的に、教科教育の専門機関である。学校は「見える学力」を指導する専門機関である。それでは「見える学力」とはなにか?岸本は「見えない学力」が成績をあげる、といっている。成績とは「見える学力」と解釈すべきであろう。そうであれば、岸本のいう「成績」も、「見える学力」も、学校が教えるカリキュラムの範囲の知識と技術の理解と応用に限定すべきであろう。

(*13) 岸本裕史、家庭でのばす「見えない学力」、小学館、1992年、pp.9〜10

 

7. 価値の先在性                                        

筆者はたびたび子どもが「学ぶべきこと」は社会が先に決めているのだ、と主張してきた。それが価値の「先在性」である。社会が決めているのは知識や技術だけではない。「一人前」が到達すべき条件も、やさしさや思いやりの重要性も社会が事前に定めるのである。価値が先在するということは原理的に子どもの意見は聞かない、ということである。したがって、何を価値とするかは、原則的に子どもの選択は認めない。「学力」との関連で言えば、何を教えるか、何を学ばせるかは社会が決める。それゆえ、あるべき「学力」の内容については子どもの意見は聞かない。教育論の中には子どもが学習の主体であるという主張もあるが、それは決められたカリキュラムの「枠」の中での主体に過ぎない。少なくとも「学力」の中身を子どもに決めさせることはできない。学習において子どもを主体にすれば「学力」の低下は避けられない。もちろん、子どもが楽しく学ぶことは重要である。勉強が楽しいのであれば、それに越したことはない。しかし、楽しく勉強が出来るということと、「学力」が向上するということは同じではない。多くの場合、楽しく学ぶのは指導者の腕の見せ所である。「学力」に限ったことではないが、少なくても「学力」に関しては子どもが楽しくなくても学ばせなければならない。それゆえ、多くの場面で、子どもと指導者の衝突は必然なのである。衝突しても、原則として、子どもの要求に屈してはならない。したがって、学校は楽しくなければならない、というのは「神話」である。楽しかろうと楽しくなかろうと学校へ行って、学ぶことに子どもの選択の余地はない。子どもは社会から独立して生きて行くことは出来ない。不登校が問題なのはそのためである。

 

8. 「学力」低下の原因                                   

「学力」の低下は複数の要因による。それゆえ、学力向上も低下の防止も、総合的に考慮せざるを得ないのは論を待たない。しかし、学校教育において、抜きん出て重要なことは二つである。二つとは教える側と学ぶ側の条件である。「学力」は基本的に教える側と学ぶ側の問題である。教える側が教えなければ、「学力」の向上はない。教える側は「学力」の中身を決め、教え方を決めるからである。

一方、学ぶ側が学ばなければ、もちろん、「学力」はつかない。幼少の学習者は基本的に受け身である。学習の時間的・空間的制約に耐え、学習の中身に耐え、指導者の教え方に適応することが出来なければ、学習は行われない。子どもに学ぶ条件がなければ、教育は成立しない。何をどのように教えようとしても効果は空しい。現代の子どもの実態を見れば、学力問題の大半は学習者の条件に関わっている。学習者は学習の構えも、資質も備えていない。体力がなく、耐性が低く、集中力に欠け、課題の達成・成功体験が欠如し、指導者を尊敬していない。怖がってもいない。怖がっていれば少なくとも一生懸命指導の指示に従おうとする。それが子どもである。

「基礎・基本」派と「ゆとり」派の家庭教育への助言を読むとそこにはあまり大きな違いは見えない。陰山は“学力向上策は自立と耐性が鍵である”として家庭教育論を展開する。自立と根気と会話力が主要な論点である(*14)。一方、「みかけの学力」ではだめだ、として「考える力」、「創造力」の重要性を唱えた小宮山も学力向上には子どもの意欲や学習環境が重要で、母親や教師の子どもへの接し方、やる気を育てる「しつけや遊び」が有効であることを強調する(*15)。表面的には似たような提言に見えるが、根本の相違点は「子どもの位置付け」である。陰山理論は子どもを重視するが、主体はあくまでも指導者である。これに対して、小宮山理論は断然子どもが主である。小宮山にとっての問題は家庭や学校が子どもの主体性を十分に配慮していないことにある。「ゆとり教育」論者の共通点は「子ども主体論」である。日本の学力問題も、少年の危機も最後は子ども観によって左右される。

(*14) 陰山英男、学力は家庭で伸びる、小学館、2003年、目次

(*15) 小宮山博仁、よく学びよく遊ぶ子の育て方、ごま書房、1995年、まえがき

 

9.「子ども」観の分裂−授業(教育活動)が先か、子どもの「構え」が先か?−

教育活動が先か、それとも子どもの「構え」が先か?一概にこの問いの答は出せない。両者のバランスが大切である、という場合もバランスの取り方をいわなければ意味はない。子どもに学習の「構え」ができて、学ぶ条件を整えていれば、授業やその他の教育活動を先にしてなんら問題はない。しかし、子どもに学ぶ条件が整っていなければ、「子どもを変えること」が先である。子どもを「変える」とは学習の「構え」を作ることである。学習の「構え」が出来ていない子どもに通常の学校教育は届かない。少なくとも学校教育はある程度学習の構えが出来ている子どもを想定している。教室に座って、授業を聞こうとする子どもを想定している。その程度のことが出来ない子どもが教室にいる時、教育は成立しない。「授業」の前に子どもの「しつけ」が必要である。子どもの「しつけ」を学校教育の役割と混同して論じてはならない。あるいは、抜本的に、学校教育の役割に「しつけ」を含めることを論じるべきである。

先生方が一生懸命教えても、子どもが学ぼうとしなければ、子どもの学ぶ条件を整えることが先である。それは学ぶことに耐える能力を鍛えることである。「学力」指導を通して鍛えてもいい。学力以外の分野で鍛えてもいい。出来れば両方を総合的に行うことが大切であろう。岸本がいう「見える学力」にも、「見えない学力」にも、「学力」を獲得するには条件がある。「学力」をどのように定義しようと、「学力」を支えるのは、子どもの「学ぶ条件と資質」である。「学力」を論じるためには「学力」の中身と「学力の獲得条件」の二つを論じなければならない。「学力」は2層構造であり、その獲得条件を入れれば、3層構造となる。したがって、「学力」の危機は、三つの危機に分解できる。第一は、学習の危機、第ニは、体験、体得の危機、第三は、耐性の危機である。「学力」低下の危機は、勉強不足だけではない。体験が欠損しているだけでもない。根本は、学習の継続にも、体験の蓄積にも耐え得る条件を備えていないことである。根本は行動耐性や欲求不満耐性を欠如した少年の危機である。

 

10. 「半人前」を「一人前」に扱ってはならない                    

子どもの主体性論を押し進めると教育は成立しない。教育は先在的価値及びその価値に従って「社会が必要と判断したもの」を子どもに伝えることが任務である。指導場面における人間関係は、教師・指導者が「上」で、子どもが「下」である。学習の中身は社会が決定し、指導者が伝える。価値が先在するということは教育場面における主客の人間関係を前提としている。ところが、子どもの主体性論は指導場面の上下関係を崩してしまう。主客の原理も崩してしまう。上下関係が崩れれば、子どもは指導者に従う理由はない。やりたくないことを我慢してやる必要もなくなる。家庭でも親子の上下関係は崩れている。この当たり前のことを大幅に崩したのが戦後教育の特徴である。子どもが楽しく学ぶのは大いに歓迎すべきだが、子どもの好きにさせれば教育が崩壊するだけである。「半人前」を「一人前」にするのが教育の使命であれば、教育は「半人前」を「一人前」に扱ってはならない。学校の主役は教師である。学校では子どもは自分の好きなように振る舞うことは出来ない。学校では子どもは様々な制約に遭遇する。やりたくなくてもやらなければならないことは多い。ルールとも、教師とも、他の子ども達とも必ず衝突は起る。それゆえ、挫折も起る。挫折を回避するために、衝突が起らないように、登校拒否児童に個人指導の教員を派遣してはならない。学校へ行くというのは学業のためだけではない。制約や衝突を突破して「一人前」の力を付けようとした時、子どもは始めて主体になろうとするのである。「一人前」の条件はそこから出発する。家庭教師を送って修学の代わりにするのは、登校・修学の「偽装」である。学校制度は子どもの生活の枠であり、社会的壁である。学校の中で子どもは制約にも、衝突にも遭遇する。学校は勉強を強要する。学校は子どもの思い通りにはならない。それ故に子どもは成長するのである。

 

11. 子どもの「質」が悪い−学校は「鍛錬学校」になるべきである        

参考にした書物の中に次のタイトルがあった。「授業がダメになるから学級が崩壊するのか、学級が崩壊するから授業がダメになるのか」(*16)である。恐らくどちらでもない。授業がダメになるのも、学級が崩壊するのも、学校に対する子どもの「構え」と「耐性」が欠如しているからである。学校も教師もこの根本原因に目をつぶっている。もしかすると、子どもの主体性論に発想を呪縛されて、子どもの「心身の鍛錬」から始めなければならないことに本当に気付いていないのかも知れない。誰も表立って言わないが、現代の子どもの「質」が悪いのである。学習も教育も成り立たない程に学ぶ「構え」ができていないのである。

なぜ、子どもが悪いと言わないのか?なぜ、学習の前提条件の確立に取り組まないのか?

プロの教師達も恐らくは漠然と気付いている。世間も正面から議論すればいずれ分かってくれるであろう。今や、学校は昔の学校ではない。児童・生徒も昔の生徒ではなく、恐らく通常のやり方では授業は成り立たないのである。教師は職業柄自分の指導力を棚上げにして、子どもが悪いとは言えない。教師としての職業上「子どもが悪い」と言うことは辛いだろうが、事実は事実である。学習の前提条件を確立しない限り、「学力」は論じられない。善意で真面目な教師まで苦しんでいる状況を見れば、子ども自身の「質」にこそ真の原因がある、と判断しなければならない。子ども自身を根本から叩き直さない限り教育も、学習も成り立たない。結果的に、学力も付く筈はない。然るに、学校はまず「鍛錬学校」になるべきである。諏訪は「子どもは生徒と同じではない」ということに多くの人が気付いていないと指摘している(*17)。その通りである。「鍛錬学校」とは「素材としての子ども」を「児童」や「生徒」に変えるところから始めるのである。しつけのできていない子どもが児童や生徒になった時初めて、教室が機能し、学校が機能する。教育効果も出て来る。学習効果も上がる。結果的に、習得を期待された知識や技術のレベルも向上する。岸本は「見えない学力」の三要素は言語能力と根気と先行体験であると指摘するが、核心は根気である。根気を抜きにあらゆる努力は成立しない。授業も、学校も子どもの努力を要求する。根気は体力と耐性に分解される。かくして「学力」論は「学校とは何か」と言う議論に繋がる。もちろん、「学校」論は、しつけのできていない子どもを「児童・生徒」に変えるところから出発する。現代の「学力」は「学力の前提条件」を問うているのである。「学力」は、再び、体力、耐性、集中力の問題に帰着するのである。

体力と耐性が混合された「行動耐性」、「欲求不満耐性」こそが努力の鍵であり、「学力」の鍵である。したがって、人生の鍵でもある。

(*16) 河上亮一、授業がダメになるから学級が崩壊するのか、学級が崩壊するから授業がダメになるのか、なぜ授業は壊れ、学力は低下するのか、プロ教師の会編著、洋泉社、 2001年、p.66

(*17) 諏訪哲二、あとがき、同上書、p.215

 

12. 「耐性」の意義−困難の相対性−                         

生老病死が人間の宿命であるように、「困難」もまた人生の必然である。「無菌室」の生活があり得ないように、「困難ゼロ」の人生もあり得ない。したがって「危機予防」の原則は、病気の場合と同じく、もろもろの困難に対する抵抗力を養うことである。困難に対する抵抗力は「耐性」と呼ぶ。「耐性」には「行動耐性」や「欲求不満耐性」などの種類がある。要は心身の辛い時に踏ん張って我慢する能力を言う。「耐性」が重要なのは、我慢できるものの多くは、本人にとってすでに「困難」ではないからである。それゆえ、子どもにとっての「我慢」の基準が極めて重要である。「困難」の基準は「我慢の」基準と裏表の関係にある。「我慢」の基準を低くすれば、人生は「困難」だらけになってしまう。我慢が出来ないことはすなわち困難だからである。定義基準が低くなった分だけささいな辛さが「困難」になってしまうのである。低い「我慢」の基準が社会の基準となれば、結果として些細な辛さに耐えられない「いくじなし」が異常発生する。現代の子どもはまさに「我慢」の基準の崩壊によって困難に取り囲まれているのである。

人生は限り無い困難に満ちている。子どもも大人も生きる事はいつも、どこかで「無理」をする事に通じている。「やりたい事」は簡単には「やれない」。「欲しいもの」も簡単には「手に入らない」。「やりたくなくてもやらなければならない事」は多い。徳川家康が言った通り、人それぞれに「人生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」である。少年も例外ではあり得ない。人間に慾がある限り、この世は思うようにはいかないのである。

それゆえ、困難を凌ぎ、挫折に抵抗することは決定的に重要である。思い通りに行かないことが山ほどあって、どうにも我慢できないということになれば、「切れる」か「籠る」か「拒否する」しかない。世の中はせわしなくなって、確かに少年のストレスも大きい。言われるように受験のプレッシャーも厳しく、学校も管理主義で面白く無くなった事も本当であろう。報道で見聞する限りはいじめもひどいものである。しかし、それらを全部ひっくるめたとしても昔の少年に比べれば、現代の少年は恵まれたものである。それゆえ、「学力」の危機も、少年の危機も、その大部分は困難の存在が原因ではない。困難に対する「抵抗力」の低下が原因である。「抵抗力」が落ちれば風邪でも重体になりかねない。「耐性」が低下すれば子どもの日常に起こる些細な出来事が少年の挫折に繋がるのである。

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