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「風の便り」(第97号)

発行日:平成20年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 男たちに分かるだろうか!? 最後の「アウトソーシング」-「子育て」と「介護」

2. 男たちに分かるだろうか!? 最後の「アウトソーシング」-「子育て」と「介護」(続き)

3. 試作:「部首の構成を音読の方法で覚える漢字練習」

4. 権利が先かそれとも義務が先か?

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

4  筋肉文化が「命じたこと」
  子育てに関する考え方も、介護に対する態度も全て日本文化の産物です。この場合の文化は筋肉文化を指しています。端的に言えば、筋肉に優れた男性が支配した文化という意味です。道具が未発達の長い時代を通して、生産と戦争を制した男の筋肉は、男性の優位を確立し、女性を第2義的、従属的な地位に置く筋肉文化を生み出しました。労働も、戦争も、人間生活の核になる部分を男性の筋肉が担っていたという事実を考慮すれば、当然のことであったと言うべきでしょう。
  かくして、家事や育児や介護は主として女の仕事であるという性役割分業は長年にわたって育まれ、温存されてきたのです。しかもこのような分業は文明が男女の筋肉差を極小にする自動化や機械化が発明されるつい近年まで続いたのです。性役割分業が成立した背景には、それが女性にとって正しかったか、否か、適切であったか、否かに関わらず、筋肉文化が主張するそれなりの必然的理由があります。歴史の「主役」は常に男だったのです。その仕組みの中から生まれたしきたりも、慣習も、考え方も、当然、多くの人々によって繰り返され、歴史として蓄積され、現在の伝統になりました。それゆえ、文明によって、自動化や機械化が実現し、男女の筋肉差の意味が極小になり、女性の考え方が変わったとしても、日本社会の仕組みも、男性の価値観も簡単には変わらないということです。
  文明が進化して、男女の筋肉差が問題にならなくなり、女性が「社会参画」を望むようになったからと言って、文化はおいそれとは急旋回できないのです。子育てにしても、介護にしても、男性の意識の中でも、社会通念上も、いまだ「女性の仕事」なのです。もちろん、子育てや介護は社会的な仕組みであると同時に個人の生き方ですから、それを転換するということは個人の発想を転換し、筋肉文化が培った社会的習慣や仕組みを否定するところから始めなければなりません。
 自立した女性の新しい生き方を文化が許容するためには、社会的な利害得失を調整しなければならないのです。女性の生き方を変えることは、基本的に男の「既得権益」に関わり、これまでの家族のあり方に関わります。男がその既得権益を失うことになれば、一般的傾向としては「失う側」が「抵抗勢力」になるのは自然でしょう。子育ての外部化も、介護の外部化も、おいそれとは実現できないのはそのためです。子育ても介護も「外部化」の準備が整うまでには、制度面でも、意識面でも、多くの摩擦と葛藤を伴い、文化のタイムラッグ(遅滞)をもたらすのです。
  しかし、「少子化」を防止し、女性の社会参画を促す事は大事なことだと多くの男性も認めはじめました。だとすれば、現在、女性が背負っている「負担」を「軽減」する以外に方法がないことは明らかです。男女共同参画を推進することによって、生活のあらゆる部門において、男性の負担が増大することも同じように明らかです。
  女性が新しい生き方を決意した瞬間から、「変わりたくない男」およびその「男たちが支配してきた文化」との衝突は避けられないのです。介護を背負い込んだ家族はその負担の重圧から崩壊の危機に瀕します。共稼ぎで子どもを育てようとする家族も同じです。日常の具体的な作業を分担するのは大部分が女性です。結果的に、女性は自分の能力も、職業も、自分の時間も、自分の人生すらも諦めることになるのです。
 介護の重圧によって身体を壊した人々の大部分も女性です。現状の仕組みの中では「変わりたくない男」は女性の社会参画と引き換えに自分も介護や子育ての平等分担を強いられることになります。男たちの労働環境は、家事や育児や介護の平等分担を許さない筋肉文化を引きずっていますが、介護の負担が余りにも大きくなったので、さすがの男たちも介護の社会化を認めざるを得なくなったのです。
一方、子育ての方はそれほど簡単ではありません。「女性」が「産む性」であることも、子育ては女性の仕事であるという論理を支えています。育児休暇を取りたくない男性の多いことを考慮すれば、子育ての平等分担はさらに遠い目標にならざるを得ないことは明らかでしょう。
 したがって、これ以上、子育ての一方的負担に耐えられないと判断した時、女性は子どもを産むことを止めるでしょう。子育ての負担も拒否するでしょう。
 若い男女の交際の中で、男性が、子育ても介護も「女性の仕事」であるという思想の片鱗を見せただけで、女性はその男を人生の伴侶として想定することは止めるでしょう。その時から、「晩婚化」も「非婚化」も始まります。結果的に、少子化は止め様がなくなるのです。

5  女性解放という「外圧」
 文化が永続的で安定しているのは、基本的に関係者の利害が調整され、文化の掲げる価値が人々を沈黙させ、人々が諦めるか、あるいは自足しているからです。それゆえ、文化を変える圧力は外から来ることが多いのです。「男女共同参画」:「女性解放」の思想は、外から来た「改革圧力」の典型であったと言っていいでしょう。
 日本にもかすかに「女性解放」運動は存在しましたが、1970年代のアメリカのウ?マンズ・リブ運動が巨大な力を持つまでは、政治の主たる課題にも、文化の主たる話題にもならなかったのです。フェミニズムから始まって「男女共同参画」に関わる主要な用語がほとんど皆カタカナ:外来語であることは象徴的です。定着した訳語がつくれないのも、日本の文化に内在する考え方ではなかったからでしょう。アファーマティブ・アクションも、ジェンダーフリーも、エンパワーメントも、セクシャルハラスメントも、ドメスティック・バオレンスもその一例です。
 しかし、もちろん、日本における女性の社会参画問題の本質は、外国の影響が大きかったとか、「横文字」の用語が多いということではありません。日本の女性もまた、自立の意志を持ったということであり、外来の理念を借りてでも男女共同参画の改革を断行しなければならない状況に達したということです。しかし、社会の仕組みも、文化の価値観もおいそれとは変わりませんでした。その結果が、「少子化」であったと言って過言ではないでしょう。
 女性を従来の文化の価値観で縛って、家の中に閉じ込めることは出来なくなったのです。働く女性が増え、経済的、社会的に自立を主張する女性が増えるに従って、女性の「社会参画」の機会拡大も「待ったなし」になったのです。だとすれば、女性の家事、育児の負担を軽減しない限り、就労も、その他の社会参画も不可能です。それゆえ、子育ての外部化も、介護の外部化も「待ったなし」になったのです。男女共同参画の理念が外から来た理念であろうとなかろうと、少子化と男女共同参画を国家の課題とする以上、子育てと介護を「女性の最終責任」としてきた伝統も、その伝統を支えてきた「筋肉文化」の仕組みも変わらざるを得ないのです。社会も男たちも、少子化を防止し、男女共同参画を実現するためには、これまでの「心情」や「価値観」を捨てて、子育てと介護の家族機能を外部委託;すなわちアウトソーシングの対象とせざるを得ないのです。少子化防止と男女共同参画は、異なった政治課題でありながら、課題解決の方法は同じです。第1は、男が従来の意識を変えて、男女共同参画の生き方に転換すること、第2は、女性のアンフェアな家事・育児分担を外部委託してその負担を減らすことです。しかし、「変わりたくない男」は変わらないでしょう。そうなれば「外部委託:アウトソーシング」しか道がないのです。
 しかし、文化の変革は変革の中の変革、困難の中の困難です。最も「抵抗」の多い変革と言っていいでしょう。文化の変革にはその文化を守って来た多くの人の痛みを伴います。当然、文化の変革には意識の変革が伴います。この場合、女性の意識はもとより、男性の意識の変革が最大の課題です。現在の状況が居心地のいいものであればあるほど、意識は変革に抵抗します。「変わりたくない男」が「変わってしまった女」と衝突するのは必然なのです。衝突の結果は、「晩婚化」を助長し、「非婚化」を生み出し、「熟年離婚」を増大させ、さらに、墓に一緒には入らないという「あの世離婚」にまでつながります。農業青年の結婚難も、女性を2流の市民として見下しがちな農村文化に対する女性の側の強烈な抗議の結果であることは明らかでしょう。農家のお嬢さんが農家に嫁がないということは、娘はもとより、農家の母がわが娘を自分と同じような状況におくことを断固拒否しているからに他ならないのです。

6  「アウトソーシング」とはなにか?
 アウトソーシングとは「業務の外部委託」のことですが、人間の生活では古くからおこなわれてきた「専門分業」の手法のひとつです。にもかかわらず、「アウトソーシング」という横文字を使うのは、組織についても、個人についても、環境の変化に伴う新しい「戦略性」の視点を入れたからです。「戦略性」とは、外部委託による「専門性の活用」、「コストダウン」、「戦力の集中化」などが指摘されています(*1)。その目的は組織や人間行動の目標達成効率を高めることと言い換えても言いでしょう。したがって、企業でいえば、経営「方法論」の一つであり、個人であれば、生き方・暮らし方を変える方法論の一つであります。それゆえ、使い方は様々あります。使う方がいい場合もあれば、使わない方がいい場合もあるでしょう。使いたい人がいる一方で、使いたくない人もいるでしょう。「戦略的」というのは、使うか、否かは、暮らしの領域や時期や個人の事情に応じて判断すべきであるということ意味しています。
 子育てにせよ、介護にせよ、外部に頼むことは「アウトソーシング」の原理と変わりません。特に、女性の職業的自立や社会参画との関係で考えた時は、まさに「戦略的」外部委託の特徴を有しています。経済界の場合でも、何を外注して、どこに委託するか、は企業の経営を左右する戦略的判断になります。同様に、女性の個人生活にとっても、彼女の職業や人生を左右する「戦略的判断」になります。それは当該の女性が目指している各種の人生目標を達成するための戦略に直結しているからです。アウトソーシングに期待する機能はそれぞれの領域で異なることは言うまでもありません。原理的には、外部の専門家に任せることによって、「サービスの向上」をはかり、「生産力の向上」をはかり、今まで以上の「創造力を発揮」し、「経済的、時間的、物理的コストを削減」し、人間の生き方・あり方を改革する」ためです。
  サービス機能の外部委託は企業であれ、家族であれ、外部委託によって生まれでたエネルギーや時間を今現在最も重要であると考える目的に傾注するためです。そのようにして、保育も、教育も、食事も、クリーニングも、専門分化し、人々の暮らしを支えて来たのです。少子化に伴って労働力が真に不足して来たとき、初めて終末期の親孝行の倫理観や世間の心理的受容のあり方が変わって、外国人労働力の導入が始まることでしょう。その時こそ「労働力」そのものを外部委託することになるのです。 (*1)ブレイン編著、アウトソーシング、実業日本出版社、pp.12-13

7  「アウトソーシング」の理由
 組織も人間も自らが関わる機能を「外注」しようとする理由は明快です。それは経営の戦略、暮らしの戦略に直結しています。それは組織内に存在しない能力を外部委託することによって「競争力」を強化するためです。それに引き換え、個人の場合は、自分の主たる目標を達成するための、生活機能を「集中化」するためです。競争力の「強化」にしても、生活機能の「集中化」にしても、第1目標の達成であることは変わりません。安心できる「託児・教育」の機能があるので仕事に集中できます、という女性は、育児を外部委託して、職業人としての競争力を「強化」し、仕事に専念できるよう時間を「集中化」したのです。企業は本業を推進し、顧客を獲得するための外部化であり、個人は個人の第1目標を達成するための外部化です。ビジネスの参考書はアウトソーシングの利点を次のように要約しています。

(1) 時間的、労力的、経済的コストが安く済む
(2) 委託先に(「自分のところ」よりも)能力がある
(3) スピードが速い
(4) 全てが「契約」であり、管理上の問題が少ない

 もちろん、市場経済の論理が全て家族や学校教育や子育て支援の機能に当てはまるわけではないとしても、考え方の原則は上記の通りであることは疑いないでしょう。外部委託先のプログラムの良否についての選択原理が働くという点も同じでしょう。魅力のあるプログラムは選ばれ、そうでないプログラムは消えるべきなのです。しかしながら、家族にとっては、学校も子育て支援も介護も、選択の対象となるべきプログラムそのものが限定されていて、貧弱であることが最大の問題なのです。「放課後子どもプラン」に代表されるように施策そのものが実現せず、貧弱な「学童保育」以外は、学童期の子どもの発達支援を外部委託する選択対象すら存在していないのが現実なのです。食や料理のアウトソーシングは外食産業として繁栄し、外部委託すべき選択対象はますます豊富になっています。洗濯を外部化したクリーニング業も同じです。教育はその専門性から外部化しましたが、個人が自由に選択できる対象は「塾」や「家庭教師」などの領域に限られています。
 また、家事の外部化の原理は負担の軽減だけが目的ではないはずです。それは「小さな政府」の原理に共通しています。何から何まで抱え込んで自縄自縛に陥ったり、民業を圧迫したりしないための方法論であった筈です。家族の場合も根本は同じです。複雑に分化した現代社会の中で、家族が何もかも抱え込んでは、質も量もすでに限界です。アウトソーシングは人間を時間と労力の制約から解放します。多くの場合、コストすら削減できます。「内助」とか「扶養家族」という概念が残っている社会での、家事労働のコスト計算は簡単には行かないでしょうが、少なくとも、負担が軽減された女性の選択の可能性を拡大することは間違いないでしょう。換言すれば、家事、育児、介護の外部委託は女性の自由に奉仕することになるのです。問題は何のために、何を委託するかということでしょう。アウトソーシングはそれぞれの必要と目的によってそのあり方が変わってくるのは当然です。
 上記のとおり、産業界のアウトソーシングの売り物は「専門能力」です。自分でやるよりも、「うまくできること」、「安くできること」、「早くできること」などが「専門能力」の条件です。子育てや介護の場合には「安心できること」なども条件に加味されることになるでしょう。ニュービジネス協議会のアンケート調査(*)によれば、すでに日本企業の6割はアウトソーシングを活用しており、外部委託の代表分野は「教育と研修」及び「情報」だということです。まさに、子育てや介護に該当するのです。子育てを教育の一環であることを疑う人はいないでしょうが、介護の領域も、「老人」の健康維持やボケ防止を想定すれば研修の一環であることは疑う余地がありません。
(*)牧野 昇、アウトソーシング早わかり、PHP、1998、p.32およびp.36

8  「アウトソーサー」の不在
これまで論じたとおり、外部委託には外部委託を必要とする根拠と展望が不可欠です。しかし、適切な外注の「受け手」がいなければ全ては机上の空論で終ることになります。子育て支援の「受け手」がいないということがそれにあたります。
「委託」を受ける側を産業界では「アウトソーサー」と言います。保育所や塾は当面のアウトソーサーです。託老所やデイケアセンターも同じです。外注の発想がないからアウトソーサーが育たないのか。それともアウトソーサーが存在しないから外注の発想が育たないのか、おそらく育児と介護の場合はその両方でしょう。行政も世間も育児と介護は自己責任でやりなさいという発想に支配されているかぎり、優れたアウトソーサーを供給するという方向へは進みません。子育て支援が進展しないのはそのためです。
 家族のための新しいアウトソーシングが始まれば、必ず新しいプログラム、新しい人材、新しい運営組織などをもたらす筈です。それは新しいサービスを生み出すということに他なりません。
 外部委託という方法が新しくても、提供されるサービスが陳腐であれば、注文はこないでしょう。現在の「子育て支援」や「学童保育」は質が悪すぎるのです。それゆえ、利用者も少ないのです。たくさんのアウトソーサーが育てば、プログラムの競争が始まり、中身と方法が進化します。それが選択効果です。評価の必然です。結果的にサービス内容は高度化するのです。
 子育て支援も介護サービスもプログラムの供給構造を転換する必要があります。それは家庭を身軽にし、女性の物理的、心理的負担を軽減することにつながります。最終目的は少子化を防止し、女性の社会参画を促すためです。筋肉文化が要求した性役割分業を考えれば、介護と育児は疑いなく最後の「アウトソーシング」となります。もちろん、両方とも従来の家族の中枢機能でした。その中枢機能を外部化した場合、家族は家族でありうるのか?未来の」家族」のあり方がどうなるかは大問題です。しかし、その問いは未来の家族が答えるべき問いである、ということになるでしょう。人間は変化し、進化し続ける生き物であるということだけは変わらないでしょう。

 


 

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