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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第92号)

発行日:平成19年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 小学校における実践研究の基本視点

2. 小学校における実践研究の基本視点 (続き)

3. 1年生の熱狂 ―寺子屋キャンプの子ども達―

4. 報道の目−『井関夏休み子ども元気塾』

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

1年生の熱狂  ―寺子屋キャンプの子ども達―

  今年の寺子屋キャンプは、河川プールやキャンプファイアーに加えて、炎暑の中で「けり野球」と「ドッジビー」に興じました。子ども達、中でも新1年生の熱狂は見ものでした。通常の寺子屋の基本訓練を受けていない夏休みにだけ参加した子どもが半数いました。彼らにとっては初めての外泊、恐らくは初めての異年齢集団の中のぶつかり合い、「けり野球」も、「ドッジビー」も2日間に亘る徹底した班別のリーグ戦による勝負のつぶしあいでした。試合が進むにつれ、彼らの興奮は極致に達しました。
彼らにとって初めての猛暑の試練は幸運にも熱狂的ゲームに終始しました。それゆえ、今年の酷暑の炎天にも耐えました。私たちは熱中症の危険にハラハラしながらも、"帽子をかぶれ"、"お茶をまめに飲みなさい"、試合のないチームは木陰に入れ!!"等と声を嗄らし続けました。
  一人の子どもが夕食のカレーライスの食べ過ぎ(?)で食後に戻したので、保護者と相談の結果、自宅に帰しました。残りの児童は最後までがんばり続けました。上級生の慢性的偽善と違って、1年生はいまだ上手な口はきくことが出来ません。指導者の目を盗んで、楽をしたり、「楽な」作業だけを渡り歩く「要領」も体得していません。上級生の「慢性的偽善」とは、罰せられれば動き、恐い人のいうことだけを聞くという状況です。声の小さい女性の指導者、優しいアプローチをする年配の指導者の指示はあたかも聞こえなかったかのように振る舞います。学級はこのようにして崩壊して行くのだろうと垣間みた思いがします。
  これに対して、キャンプ初陣の1年生は、荷物運びも、掃除も、食事の準備も不器用でしたが一生懸命にやりました。彼らの中には「寺子屋4か条の心得」の条項が生きていました。「なにごとも前向きに力を尽くそう」も、「熱意には熱意をもって尽くし、一生懸命には一生懸命をもって応えよう」も生きていました。なるほど「鉄は熱いうちに鍛えよ」です。


● 欲求の囚人 ●

  キャンプで観察した多くの子どもたちは、1年生を除いて、「欲求の囚人」とでも呼ぶべき状況でした。「やりたい」事だけをやりたいと主張し、やりたくない事からは知恵の限りを尽くして逃げ回ります。子どもの主体を過剰に受容し、彼らの興味関心にひたすら奉仕する事を「愛情」や「教育」と勘違いして来た日本の子育て、日本の教育のつけが出たのだと確信しています。
  少年犯罪者の多くが自分の欲求を妨害された時に犯行に及んでいるように、彼らを律しているのは理性ではなく欲求なのでしょう。上級生の多くは自らの好きなことをやっている間だけ、1年生と同じように熱狂し、プレーに興じますが、それ以外の義務的役割を進んで履行することはほとんど全くありませんでした。しかも、楽しいゲームの中でさえも、大人の隙を見て平然とルール違反を犯します。「勝ちたい」という欲求の前には彼らの理性は崩壊するのです。今年の上級生は下級生に対する「手加減」の余裕も見せませんでした。
  「鬼の塾長」が仕事の関係でお留守の間は、筆者が「鬼の顧問」を名乗って、下級生の「負の手本」となりかねない上級生のルール違反者は容赦なくその尻を叩きました。私が行く所、上級生の「ワル」どもは素早く避けて、働いている振りをし、目を伏せます。整列のときも、掃除のときも、ゲームの「ズル」もすべて見つめているとすこしずつ「かげひなた」が消えて行きました。子どもには教えた規範が心身に根を下ろすまで、絶えざる「鬼の監督」が不可欠なのです。教育界のいう子どもの主体性や自主性に期待して放任する事は教育の放棄に近いのです。子ども性善説に基づく「良心」に期待するだけでは、少なくとも、安全で、楽しいキャンプは出来ないのです。
  欲求を野放しにすれば、「いじめ」が根絶できないのも当然なのです。孔子を引用するまでもなく「君子は一人を慎み」ますが、霊長類ヒト科の動物は己の欲求を最優先します。結果的に、子ども集団の秩序は崩壊します。子どもの日常に社会生活の規範の監督者・体現者がいなければ、参加者が役割を分担し、上級生が自分を律して下級生をいたわり、ゲームをフェアプレーで楽しむなど到底無理なのです。彼らは自己中心的な欲求の囚人なのです。日々トレーニングを受けて来た豊津寺子屋の子ども達でさえも、教育公害の到来は不可避である事を予感させるのです。


● 教育の遺産 ●

  慢性的偽善に染め上げられ、欲求の囚人となった上級生の子ども達に引き換え、キャンプに参加した豊津のボランティア指導者の働きぶりはまさに獅子奮迅の様相でした。焼けるような炎天下で働いていない人はいませんでした。誰もが次から次へと不満や愚痴を言いつけにくる子どもの世話を喜んで続けました。先輩のみなさんの活力にも、働きぶりにも、戦中または戦後初期の教育の遺産を垣間みた思いです。少なくとも「豊津寺子屋」はこの方々が体得している勤勉と奉仕とチームワークの精神を抜きにして語る事はできないと実感しました。すでに小学生の時代から「欲求で凝り固まった」「慢性的偽善者」をどうしたら先輩指導者のように育てて行くことが出来るのでしょうか?
  子ども達には現代の「子ども宿」で親元を離し、体力、耐性、規範の体得を半強制的に教え込む事が大切なのです。
 


 

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