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生涯学習通信

「風の便り」(第90号)

発行日:平成19年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. しつけを不能にし、教育を崩壊させる「子ども観」(教育公害を助長する「論理」と「実践」−その3)

2. しつけを不能にし、教育を崩壊させる「子ども観」(教育公害を助長する「論理」と「実践」−その3) (続き)

3. しつけを不能にし、教育を崩壊させる「子ども観」(教育公害を助長する「論理」と「実践」−その3) (続き)

4. 原点は「学習交換」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

5 子どもの機嫌をとってはならない
  教育の成果は「なる」ではなく「する」です。もちろん、子ども自身の自得によって、「なる」(「自動詞」)を含みますが,その大部分は関係者の「する」(他動詞)と言う「枠」の中の「なる」です。成長は自然発生的ではないということです。山の木々がいつのまにか大きくなったりするとは訳が違うのです。子どもはいい若い衆になったり,いい娘に「なる」のではありません。その子の関係者が全力を挙げて「いい若い衆」や「いい娘」に「する」のです。それゆえ、「する」ための「中身」と「方法」の吟味は重要なのです。
  幼少年期の教育に「物わかりのいいこと」は往々にして有害です。幼少年期の教育の本質は「物わかりの悪いこと」だからです。子どもの「欲求」にたがをはめることだからです。子どもが何を言おうと、「悪いこと」は「悪い」のです。「譲ってはならないこと」は「譲ってはならない」のです。教師や親が子どもの機嫌を取る姿勢や、理解しようとする態度が日常化すると、子どもは自分の欲求が通って当たり前と考えるようになります。自分の欲求が通らないのは相手が悪いのであり、相手が自分を愛していないのだ、と思うようになります。子どもが教師や親の奉仕に慣れ、「ちやほや」されて当たり前ということになれば、時に、彼らの自尊感情が極端に走ります。社会のルールや道徳の「壁」にぶち当たって、親や教師が子どもの行動を禁止したり、強制するとき、既に心身共に「お子様」に成り果てた子どもにとって、自分の欲求を否定したり、拒否するものは、「敵対的な存在」になるのです。子どもの欲求を独走させれば、欲求を否定するものは「敵」になります。それが親であれば、親は「自分を愛していない」という解釈になるのです。教師であれば、自分を否定し、自分を理解しようとしないということになるのです。不登校も、引き蘢りも直接的原因は、「欲求不満耐性」の欠如ですが、間接的原因は、自分と他者が「対等」で、教師や親と同じように「えらい」と思っている子どもの挫折です。「我慢する能力」が備わっていないことと「我慢しなければならないと思っていないこと」は裏表です。幼い頃から欲求を野放しにされた子どもの挫折には両者が同時に作用しているのです。
  思ったようになる筈のない世の中で、思ったようになる筈だと思い込まされて、実際は、思ったようにならないことに当面して怒り、傷ついているのです。不適応は「半人前」の自己中心的な「反抗」と「傷ついた自尊感情」の現れでしょう。子どもは「宝」だと慈しんで来た「風土」は、いったいどこで間違えたのでしょうか?子どもは疑いなく日本社会の「宝」ですが、「半人前」であることもまた明らかな事実なのです。「半人前」は「半人前」の世界に押し込めておけば、世間の仕打ちや教育の強制や教師の否定に傷つかずに済んだ筈です。先人の知恵は「宝」の価値と「半人前」の限界を同時に理解していたのです。「宝」であるからこそ、決して、「半人前」を「一人前」に扱ってはならないのです。
  「一人で大きくなったような口をきくな!」「誰のおかげでメシが食えると思っているのか!」これらは一昔もふた昔も前の、今や時代遅れの台詞ですが、決して間違ってはいないのです。子どもにはまだ「独立」・「一人前」の資格がないことを常に思い出させることが必要です。教師や親が子どもより「えらい」のは当たり前なのです。

6 「社会人」を育てるには、個性より「型」、創造性より共通の「規範」が必要です

  幼少年教育の原則は表記の表題に尽きます。子どもの個性より生活の基本を「型」として学ぶことが先です。子どもの創造性より他人に迷惑をかけない共通の規範を身につけることが先です。その指導者が親であり、教師・指導者だった筈ですが、物わかりのいい格好をしたがった教育者と法律上の子どもの人権を教育に持ち込んだ「人権主義者」が重大な間違いを犯したのです。
  一方で子どもを管理し、抑圧し、社会への適応を強制しておきながら、他方で子どもを尊重したり、子どもに共感したりすることは出来ません。したがって、第1に、子どもが将来必ず必要不可欠になることはかならず「やらせておかなければならない」のです。「やったことのないことはできない」というのが教育の第1原則だからです。それゆえ、「強制」の原理を欠落した育児も、教育も失格と言わなければなりません。親や教師に「強制」をためらわせる教育論は「子どもはのびのびと」の発想であり、子どもの「主体性」、「自主性」を第一順位に置き、子どもの「やる気」、子どもの「興味・関心」を中心とした指導法なのです。この種の発想の問題は、子どもに「のびのびさせておいて」、「自分からやらなかったとき」の準備ができていないのです。突然強制すれば、「のびのび」にも、「主体性」にも明らかな裏切りになるではないですか!
  第2は、「教えてもらわなければ分からない」というのが人間です。まして経験未熟な「半人前」の子どもはそうでしょう。したがって、子どもにその気があろうとなかろうと、教えるべきことはきちんと教えるのが指導者の使命です。家庭では日々生活をともにしている保護者が子どもの個別事情をある程度は考慮することが出来るでしょうが、学校ではそうは行きません。学校は集団生活、共同生活を基本としているからです。学校で、「個人教授」や「個性」教育を徹底しようとすれば必ず集団や全体のルールと矛盾することが起きます。絶対に時間が足りないではないですか!教室では、一人一人の個性や個人的事情を生かし切ることは原理的に出来ないのです。それゆえ、一人一人に合った指導が出来るかのような「幻想」を振りまいてはならないのです。まして、他の子ども達が存在する中で、普通の教師に個別指導や一人一人に合った授業など出来る筈はありません。仮にそうした授業をやろうとしたら、その間、教師の指導が受けられないほかの児童はどうしているのでしょうか?学校は原則として個別事情に振り回されてはならないのです。授業はきちんと一斉授業をすることが基本です。掃除もさぼったりする子どもがでないように必ず教師がついて一斉清掃を最後まできちんと果たさせることが大事です。
  第3は一斉の中から遅れた子どもの指導・補習が大事です。練習が足りなければ上手になることはありません。昔は宿題一つ忘れてもよく残されました。先生は教室で別の仕事をしておられましたが、子どもは解けなかった問題を解き、練習の足りないドリルのノルマを果たし、昨日やり残した宿題も先生に見てもらってから帰宅が許されました。習い事があったり、物騒な世の中に対処する集団下校など面倒な問題はありますが、「学童保育」などに残っている子どもの事情と比較すれば、決して出来ないことではないのです。多くの勉強は基礎から積み上げて行くものですから、分からないままに放置すれば、次からますますわからなくなるのです。理解と体得は大体が練習の量に比例するのです。

7 朝日新聞の「先生へとへと」論−「子どものため」の視点と「社会のため」の視点へ−

  朝日新聞が「先生へとへと」論を特集しました(2007.6.3朝刊)。調査の結果、教員の労働時間は、毎日ほぼ11時間にも及ぶと説明がありました。調査に関わった東大の小川教授のコメントは「先生の長時間勤務なしに学校経営が成り立たなくなっている(以下略)」というものでした。
  なぜそうなるのか?新聞の分析も、引用された識者の解説も現象面だけを見ているに過ぎません。確かに、議会は何かと言えば教育批判を行い、行政はその矛先をかわす為に数多くの役にも立たぬ「学校調査」を命じています。会議や研修が多すぎることも一因ではありましょう。
  しかし、根本原因を見落としています。現代は保護者から政治家まで子どもの欲求と権利に振り回されています。結果的に、公立学校は「受容」の過剰な現代の「子ども観」に振り回されることになります。学校では、ひ弱で、わがままで、自己中心的な子どもの世話に手がかかり,次から次へと問題が起こります。学校外では、そうした問題に対して,受容過剰な子ども観を真に受ける保護者や政治家の教育への「異議申し立て」や「働きかけ」を止められないのです。行政は大部分保護者や政治家の言うがままでしょう。先生方が保護者の対応に追われ,学校が「洪水」のような調査に忙殺される主たる原因はここにあります。
  その点、塾やスポーツ指導の団体は「子ども観」に振り回される被害が少なくて済んでいます。なぜなら、塾が掲げる「合格」の目標も「能力の向上」の約束も、塾やクラブへ加入する為の所与の条件だからです。「今のままでは合格できない」ことも、「現状の成績では満足できない」ことも、「選手になれない」ことも自明だからです。このことを納得した上で入塾し、クラブに参加します。自分が「未熟」であり、「半人前」であり、「まだまだ」であることを親子共々自覚しているのです。それゆえ、子どもはあらゆる面で「ガンバロウ」とし、指導に従うので教育・トレーニングが可能になるのです。「指導の通りにやらなければ」、目標には到達せず、本人の「向上はなく」、「選手になれない」ことが明らかだからです。指導の原則は子どもの向こうにある「目標のため」なのです。目標の達成こそが子どものためになるからです。
  これに対して、現代の学校には「社会のため」の視点が欠落しているのです。社会人としての「未熟」と「半人前」と「まだまだ」を親子に自覚させる前提がないのです。朝日新聞がたった一行だけ、先生方は「評価に納得のゆかない保護者に罵倒されるようにもなった」と書いていますが、この一行こそが最大の問題であることに記者達は気づいていないのです。子どもの向上を願う親は、塾やクラブを辞めさせる覚悟がない限り、評価が納得できなくても指導者を罵倒することはないからです。そこには目標の達成を「付託」した「指導者中心主義」がまだ生きているのです。
  現代の学校には保護者も子どもも自分たちの満足を求めています。現代の学校に蔓延したものは、未熟な子どもの「主体」が教室の中で教師に突きつける「対等」と「自由」と「権利」の要求です。結果的に,大変な害をもたらすのは、「半人前」の「ヒト科の動物」の「欲求」を野放しにした「無秩序」です。
  反対に、学校が失ったものは社会的な目標であり、教えを乞う親子の「謙虚さ」と指導者への「尊敬」です。先生は「ヒト科の動物」のむき出しの欲求に振り回され、「我が子主義で身勝手な」親の要求に付き合わされてへとへとになるに決まっているのです。
  朝日新聞が掲げた「子どものため」の「小見出し」こそが「先生へとへと」の真の遠因なのです。学校教育の基本目的は,社会の要請の下に、「社会の一員として」,「社会のため」に生きる子どもの育成です。決して,社会から分離された「子ども」のためにあるのではありません。今こそ学校は,「社会の視点」と「子どもの視点」のバランスを回復し、教師中心主義への転換を行う時期に来ているのです。

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