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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第86号)

発行日:平成19年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「男女共同参画」−男の履修義務−

2. 「風」の教育機能−集団の治癒機能

3. 第75回移動フォーラム:子どもフォーラムin綺羅星7 

4. 第2回「ひとづくり・地域づくりフォーラムin山口」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第2回「ひとづくり・地域づくりフォーラムin山口」
(於:山口市セミナーパーク、'07・2・24〜25)

◆1◆  −筆者が行なった総括報告の概要−

●1●  大会の成功は「参加者」でもあり、「運営者」でもあったボランティアのみなさんの活力と気合い気配りの賜物であった。

●2●  参加者の第1感想は「実践は強い」ということであった。中身と方法に賛否両論はあっても、研究者の空論に優っている。

●3●  生涯学習実践は「行政主導」から「市民参画」に移行している。生涯学習理念の浸透が従来の「受け身の学習者」を「創造と実践の市民」に変革しつつあることは疑いない。

●4●  個々の「優れたモデル」は存在する、しかし、「モデル」は孤立し、システムにもネットワークにもなっていない。千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず。「優れたモデル」を見抜く行政の「伯楽」が誠に貧困である。

●5●  個別の発表を通して聞こえてきたのは「学校との交渉が一番大変だった」である。学社連携で気を吐いている学校も登壇したが、いまだ社会の「シミ」のごとくであって、「点」にもなっていない。大半は生涯学習の「抵抗勢力」を形成している。

●6●  「概念」の力に注目したい。「社会体験」なしに「社会の一人前」は育たない。学校文化は教育を「粉飾」するな。子ども問題の発生は「過保護2世」が世に出たからである。コミュニティ・スクールは進化して"School−centered community"を形成すべきである。

●7●  昔の知恵が生きる場合もある。生きない場合もある。伝統が大事な場合もある.伝統が「敵」になる場合もある。過去の経験を現代に適用するためには「干し椎茸」を水に浸して戻してから使うように、使い方が肝要である。しかし、過去の経験が全て有効で使用可能な「干し椎茸」になるはずはないではないか!!!

●8●  次の実践につながらない研修も、大会も全て税金の浪費であり、徒労の時間である。大会の意図が意味あるものになるか、否かは参加者の次の行動にかかっている。ボランティアが支えたという点で希望はかすかにあるか!?


◆2◆   概念の力(1)−「過保護2世」

  「過保護2世」の概念は第2回山口の人づくり・地域づくり大会で飯恷sの森本教育長が提起した言葉である。20数年前、森本教育長や筆者が若かった頃、福岡県のPTAの協力を得て、8,000人の保護者の「養育行動」の調査を行ったことがあった。調査結果は明らかに養育の全分野に及ぶ過保護の実態を浮かび上がらせた。
  筆者の分析の結論は養育における「4つの過剰」であった。4つとは、「保護」の具体的機能を形成する「世話」の過剰,「指示」の過剰,「授与」の過剰、「受容」の過剰である。4つの過剰が子どもの日常生活で継続されれば、当然,子どもの体験は「保護の過剰」によって制約される。「欠損体験」が発生するのは当たり前である。結果的に,多くの子どもはいまだに「自分のことは十分にはできない」,「自分のことを決められない」−「結果責任も取れない」、「モノには不自由しなくなっても,感謝の心を忘れ」、「わがままで,欲求の自己抑制ができない」。筆者は、数年後には,社会規範に従わず、自立できない子どもが氾濫するであろうことを予告した。森本氏によれば、それが「過保護1世」の世代である。従って,「1世」の親は「過保護原世代」である。
  4つの過剰を満身に浴びた「過保護1世」は不幸にもその「欠損体験」を教育的に補完することなく、今や親になったのである。「過保護一世」は当然「過保護原世代」に輪をかけて「4つの過剰」を養育に取り入れたことは想像に難くない。かくして,「過保護2世」の世代は、親の世代に比べてさらに軟弱で、わがままで,自立していない。「やったことのないこと」が多く,「教わったことのないこと」が多く,「反復練習の機会」は少ない。体験の欠損は生活の全領域にわたり,自立のレベルは低い。「生きる力」の基礎を形成する「体力」も「耐性」も極めて不十分である。育児と教育の失敗は社会の病理を深刻化し,"教育公害"を助長する。「過保護2世」の概念は問題の核心を抉りだし,問題発生の原因を直撃している。概念の力である。


◆3◆   概念の力(2)−「教育の粉飾」

  メディアの記事や分析には世間の「受け」を期待したセンセーショナルで,無責任な報道も多いが、真面目な記者の冷静な分析には耳傾けて聞くべきことがあった。山口大会に登壇した読売新聞の南 隆洋氏の学校文化の分析は筆者の疑問を「教育の粉飾」というたった一言の「概念」で氷解させてくれた。まさに概念の力であった。南氏の分析は学校がシステムにおいても、学校文化においても、社会に開かれていない組織であることに集中した。
  取材に行けば学校の風土は外部に開かれていないだけでなく、内部にも開かれていないことが分かるという。学校で発生する問題が社会で共有されないのは「学校は完璧」であり、「学校は間違いを犯さない」という学校の「無謬」神話を信仰する組織文化が出来上がっている、からだという。「完璧性」や「無謬性」の神話を守り通そうとすれば、学校はますます世間体にこだわって、真実や客観性から遠くなるというのである。できていないことをできていると主張し,やれていないことを努力していると置き換え,問題の実態をあたかも問題自体が存在しないかのごとくに総括し,外部の人間の学校への関与を峻拒し、税金でたてた「公的施設」を独占・占有し、外部への情報公開を拒絶する。
  結果的に、学校から出てくる報告には外部のものにとって「教育の粉飾」に近いものが多い。事実は、意図的であれ、無意図的であれ、隠蔽される傾向が甚だしい。決算の粉飾は犯罪であるが,「教育の粉飾」も罪が深い。
  いじめの対応が遅れるのも、説明が2転3転するのも,学校内で挫折した教員や、問題教員の救済や矯正ができないのも、原因の大元は学校の「無謬性」を取り繕う「教育の粉飾」体質にあるという指摘であった。粉飾された決算から経営の実態は診断できない。粉飾された教育報告から子どもの問題の解決策は生まれるはずはない。事実を隠さない診断があってこそ、より適切な処方が可能になる。学校は施設を開放し、情報を公開し、他の分野との連携・恊働を進めて「無謬性」神話と「粉飾」体質から訣別すべきである。
  大会当日は、他の登壇者から、メディアは「犯人探し」、「犯人たたき」をやりがちだという批判にさらされたが、南氏は自分が探しているのは「事実」であって「犯人」ではないと断言した。その事実がなぜ関係者の取材から出てこないのか?経営体の決算は「監査人」が行うが、教育には「監査人」はいない。そこに「教育の粉飾」をとめられない理由が存するのである。学校教育法85条があっても、社会教育法44条やスポーツ振興法13条が存在しても学校が進んで自らを開くことは皆無に近い。同族経営の粉飾決算体質と比較する時、なるほど事実が国民の前に明らかにならない学校組織文化の体質を垣間みることができる。「教育の粉飾」概念は端的に学校が自己変革できない背景を白日の下に曝しているのである。
 

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