HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第86号)

発行日:平成19年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「男女共同参画」−男の履修義務−

2. 「風」の教育機能−集団の治癒機能

3. 第75回移動フォーラム:子どもフォーラムin綺羅星7 

4. 第2回「ひとづくり・地域づくりフォーラムin山口」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「男女共同参画」−男の履修義務−
1  男たちの覚醒? −柳沢発言の功罪−

  今回の柳沢大臣の「女性は産む機械」発言ははからずも筋肉文化(労働と戦争を筋肉が支配してきた時代の男性主導の文化)の中で支配的な位置にいる男たちの本音が出た、ということであろう。
  発言を受けて、「筋肉文化」に対する女性の怒りが爆発した。女性の猛反発を受けて頭の固い男たちも少しは「少子化」問題の本質が分かったとすれば、「発言の功績」は大きい。当然のことであるが,子どもを産むか産まないかは女性の意志である。子どもを健やかに育て得るか、否かの将来予測も女性の判断による。少子化の防止は女性の納得と協力がなければ一歩も進まないのである。「子育て支援策」の本質もそこにある。それゆえ、「養育にお金がかかる」という判断で少子化が進み、子どもの「教育が心配だ」という判断で少子化は更に進む。「子どもだけで留守番させるわけにはゆかない」という判断で、「男女共同参画−女性の社会参画」は足踏みし、男の協力が得られないという不安と諦めの中で子どもを産もうとする意志そのものがしぼんでしまうことだろう。そこを理解しない男たちが「家庭の教育力」や「少子化対策」発言を繰返しているのは誠に滑稽で馬鹿げている。男たちが企画する少子化防止策は相も変わらぬ現行行政の福祉と教育の分離を前提とした「分業」・「縦割り」の発想からほとんど一歩もでていない。文部科学省は「教育の不安」にしか対処しようとしない。厚生労働省には「保育」や「保健」の発想しかない。"偉い男たち"はなぜ少子化対策が複合問題であることを理解できないのか?

2  少子化も男女共同参画も晩婚化も非婚化も熟年離婚も根っ子は一つである

  「筋肉文化」は女性を対等に扱ったことはない。戦いと労働において人類史の過去数十万年女性が主役になったことはなかったからである。「女・子どもは引っ込んでいろ」、「女のくせに」口を出すな、はその象徴的表現である。
  女性は「産む機械」発言の裏側には子育ては女の役割という思想があり、女性は男性を支えていれば良いという感性がある。専業主婦を「扶養家族」として位置づけてきたのも同根の発想である。
  それゆえ、青少年育成の大会に行くと、いつでも「家庭の教育力」が問題となり、しつけは家庭が責任を持って行えという大合唱が起り、しかもそれが結論である。現状で、家庭を責めることが女性を責めている事になることを発言した当人も自覚していない。育児の大半は女性が担当せざるを得ない実態は明らかである。「家庭の教育力」を問題にするのであれば、家庭教育に関わって来なかった男のあり方をこそ問題にしなければならない。チョボチョボと「オヤジの会」が動き出したくらいで男が子育てに参加したことにはならない。それを自覚した時初めてこの国の男たちの働き方が問題になるであろう。少子化は明らかに複合問題である。当然、単なる経済・財政問題ではない。従って、結婚奨励金や出産手当や児童手当の問題だけではない。政治は思想や理念を施策に「翻訳」しなければ、政治をしたことにはならないが、「翻訳」の手法が行政の既存分業体制に縛られて総合的計画が立てられないところに、一向に少子化防止策が進まない理由がある。
  男女共同参画の思想は文化の問題であるから、政治施策のように今日、明日の議会決定で変わるようなものではないが、問題の根源が「筋肉文化」にある以上、文化の修正を可及的速やかに施策化しなければならない。

3  男女共同参画のシークエンス(優先順位の配列)

  男女共同参画の基本計画を見ると、育児書の助言と同じように国も県も対策は常に「総花的」である。もちろん、基本計画や条例に書かれたことはすべて正しいのであるが、問題は限られた予算や時間の中でどれから取り組み、どこが基本なのかを見極めて実施することである。換言すれば、正しいことは沢山あり、大事なことも沢山あるが、それらの中でもっとも緊急を要する「優先事項」を決めて、施策実施の順序を明確にすることである。政治も、教育も、男女共同参画も、施策や方法の優先順位とそれらの組み合わせによって中身は全く違ったものになるのである。例えば、学校が言う「知・徳・体」の「調和的発達」は全く正しい教育論であるが、ここに示された「順序」のとおり、知的な基礎学力から取り組もうとすれば、現代の少年教育は是正できない。筆者が主張してきたように、子どもの「生きる力」が衰退著しい現在、学校は従来の「知・徳・体」概念の「順序」を入れ替え、「体・徳・知」の順序にしなければ、「教科指導」の成果は上がらないのである。「知・徳・体」も、「体・徳・知」も含まれる要因が同じなのだから、どのような順序で言おうと同じだろうということはまちがいである。それが「シークエンス(Sequence)」の重要なところである。住宅建築の要因が「基礎」と「土台」と「柱」と「壁」と「屋根」であるとしても、「柱」から工事に着手する人はいない。教育も同じである。現代の多くの子どものように、45分の授業に集中することもままならない「体力」や「耐性」を前提にしてはどのような知的あるいは道徳上のトレーニングも大いに困難である。個々の教師の努力にも関わらず成果が上がらないのは、指導の「受け手」である子どもの学習する基本条件が整っていないからである。「基礎学力」や「豊かな心」が重要であることは論を待たないが、それだけを取出して子どもに指導することはできないのである。教育指導には順序性があり、優先事項の選択と組み合わせによって教育成果は変わり、学校の特色も変わるのである。
  政治のマニフェストも、行政の年次計画も同じである。大事なことを並列して列挙しただけでは内閣の「特性」は分らない。何を一番に持って来るか、で内閣の特性が決まるのである。
  少子化の防止や男女共同参画の推進も同じことである。国は男女共同参画を推進する第2次基本計画を決めたが、実行をどのように担保するのか?大事なことであっても「総論」・「抽象論」を並べただけでは前に進まない。
  筆者の提案はたった一つである。少子化を止めるためには現在の女性の負担を軽減するしかない。方法はいくつかある。第1は、男が家事や育児を分担し、男女共同参画理念を履修することである。第2は,「保教育」の理念に立った「養育の社会化」を一気に推進することである。第3は、女性を意志決定過程に参加させることである。そのためには政府に強制能力のある現行の行政システムの中の女性管理職を一気に拡大する事である。これからの5年間で女性の研修を徹底的に強化し、その成果を受けて現在の公的システム;なかんずく役場や市役所の人事に女性の管理職を一気に増やすことである。女性の意志と発想が意志決定過程に反映できるようになれば、そこから先は女性の自己責任で事が進む。そうなれば「女性は産む機械」発言も、子育て支援と子どもの遊びの奨励を混同するような愚かな施策を発想する政治家も消えるだろう。それでも少子化が止まらなければ、それこそが国家の選択として甘受しなければならない。

4 「男女共同参画」−男の履修義務  −家事への共同参画は男を救う−

  男に求められているのは,家庭生活における「対等」の「実践」であり,「対等」の「負担」である。女性が家庭の外の「社会的領域」に進出した分だけ,それに応じた男性の「私的領域への参加」が不可欠である。私的領域とは育児と家事に代表される日常生活の責任であり,役割である。社会的活動における男女共同参画は既に法的に決定されたが、法が縛ることができないのは私的領域における男女共同参画である。育児・家事への男性の参加は社会の建前にすぎない。
  家庭の男女共同参画は法や行政計画の建前から最も遠く,社会運動の中で進み方のもっとも遅い領域なのである。育児・家事の大部分は女性が担当しており,このことは妻が常勤の場合でも変わらないと数年前の厚生白書も指摘している。それゆえ,女性の不満は子どもが成人し,独立した後に沸騰する。子どもがいる間は,家事の負担が女性に偏っていたことに敢えて目をつぶっていたとしても、二人だけの生活が始れば、なにゆえに炊事,洗濯、掃除,風呂の準備まで女性が日常負担のすべてを追わなければならないのか?なにゆえ、自分だけが追うべき責任と役割が残ったのか,疑問は当然であろう。
  私生活において男が女を「対等」に処遇してこなかったことは夫の定年後に明白になるのである。問題は男たちの自覚と感性にある。「稼ぎの主力」であったという自負が妻の「不満」・「負担感」に対する男の鈍感の背景であろう。国のシステムですらも、「扶養家族」概念に象徴されるように、主婦の労働貢献を正当には認めてこなかった経緯がさらに男の感性を鈍感にしているのである。
  男の履修カリキュラムは料理,洗濯,掃除などこれまで当然女性の仕事としてきたことを率先して学んで,実践することである。そこから先の新しい共同生活はそれぞれの家庭が築いて行く男女の創造的領域である。どう抗弁しようと私生活における男女の共同において男はフェアーではないのである。「変わってしまった女」は「変わりたくない男」の不公平な思想や感性には決して寛容ではなくなったのである。熟年離婚はそこに発生する。
  女性が家族に求めているのは家事の「外部化」ではない。ましてや家事の電化でも,機械化でもない。求められているのは男性の全面協力である。「女は家事をやれ」という男の思想と感性の変革である。女性の側のこの単純な主張が分からない政治や行政がいくら子育て支援策を講じようと少子化は止まらない。若い世代であっても、育児支援策以前に、「変わってしまった女」は筋肉文化の教育を受けた「変わりたくない男」とは結婚をしたがらず,女性にとって現状で自分の基準に合った男性に巡り会うことも決して簡単ではない。
  自立した女性にとって,男性優位のシステムの中で結婚することは,己の主体性と自由を放棄することを意味している。自由を失うことは社会的・心理的コスト以外のなにものでもないのである。「晩婚化」も、「非婚化」も男性優位の思想と感性に対する女性の抗議を象徴しているのである。「変わりたくない男」が変わらない限り「少子化」も当分は止まらない。

 

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002-, Seiichirou Miura ( kazenotayori (@) anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文の転載等についてはメールにてお問い合わせください。