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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第64号)

発行日:平成17年4月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「一石数鳥」と「温故革新」

2. 社会復帰の"実践的"処方箋

3. 忘れられた被害者、人権問題の断片−原因と結果−

4. 第56回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「一石数鳥」と「温故革新」

1  新しいスローガン
 

    「一石数鳥」とは山口県のセミナーパークの壁のポスターにあった表現である。一瞬とまどったが従来の「一石二鳥」では足りない意味だと分かって納得した。財政窮乏時代の生涯学習施策のスローガンとして誠に的を射ている。一つの事業で「数鳥」をねらう以上、プログラムは複合的に構成しなければならない。現在、軌道に乗りつつある「豊津寺子屋」が子どもの元気はもちろん、熟年の元気も、女性の元気も、学校のコミュニティへの開放も同時に追求していることは、まさしくこのスローガンに合致していた。
    次の「温故革新」は日本経済新聞で学んだ用語である。記事は京都の西陣織が古来の伝統を踏まえながら、洋装にもマッチする様々な商品を開発して市場の反応を見ている、とあった。古き伝統をもとにしながらも、その形式や発想にとらわれない全く新しいものを創造する挑戦を意味している。
佐賀県多久市では「温故創新」という指針を掲げていると聞いたが、その趣旨は西陣織の場合と同じであろう。孔子を祭り、その思想を継承しようとする東原廠舎と呼ばれる「学問所」を有する多久市では小学校の校長先生が中心になって「論語かるた」を開発した。現状では、少年たちの論語教育は極めて困難であろうが、かるたに工夫することによって、一気に身近なものとなった。多久市では子どもたちの論語かるた大会を開催している。ささやかではあるが「創新」の一例であろう。
    過日、広島県生涯学習センターが主催したボランティア・コーディネーター研修にお招きいただいた。関係者の熱意に突き動かされて朝からすべての事例発表をお聞きした。ほとんどすべてのボランティア活動が子どもの居場所づくりや体験活動の推進に集中していた。以下は順不同になるが、上記の新しいスローガンに触発された筆者の感想である。意見が率直に過ぎるところは寛容にお許しいただきたい。

2  「人材」概念の呪縛

    すでに一度「戦力のグレーゾーン」という一文を書いたことがある。「寺子屋」事業を支援して下さっている高齢者は、戦力の2分法では分けられないことに気付いたからである。「人材」概念と「人材外」概念の間には、どちらにも分類が難しい「グレーゾーン」が存在するのである。社会教育が「人材」概念に縛られると、人材か、否かの2分法になる。それゆえ、まだどちらとも言えない「グレーゾーン」にいる方々を見落とすことになる。しかも、このグレーゾーンは人数的には最も多いと考えられる。特筆すべき特技や能力をお持ちでないとしても、グレーゾーンの方々もまた、日本社会を第一線で支えて来たかつての「戦力」であった。それゆえ、活動に参加して、心と頭と身体を使いはじめれば、遠からず往年の「実践」を思い出す。
    逆に、引退後、活動に参加しなければ、心も頭も身体も使うことは極端に少なくなる。活動しなければ、到底自分の日常に対する「社会的承認」は得られない。世間の拍手を得ることもかなわず、心身の機能も使わなくなった時、人間のあらゆる器官、あらゆる能力は加速度的に衰退する。衰退する熟年はやがて加齢と共に事実上の「戦力外」に転落する。それゆえ、心身の機能を維持するためには、活動の舞台が必要である。活動の舞台を必要としているのは、「特技保有者」も、「特技を持たない」普通の熟年も変わりはない。社会教育が「人材」概念に囚われて、「協力者」を募集した時の落し穴がここにある。広島の皆さんには、特定領域における子どもの「指導」ができる方々と、そこまでは出来ないが、「安全」を確認し、活動する子どもの「応援」や「看取り」ができる方々も、ともに「協力者」・「支援者」として加えて下さい、とお願いした。2分法は「人材」概念の呪縛である。「人材」という言葉を使っている限り、人間の観念は「人材」と「人材外」の二つしか認識できない。「一石数鳥」の発想から「子どもの居場所」事業を分析すれば、子どもの活動を支援しながら、支援者である熟年の元気を維持することができる。それは老衰の予防措置であり、介護の予防措置である。それゆえ、「グレーゾーン」にいる熟年にこそ活動の機会が必要となるのである。生涯学習はすでに老衰して日常の自立が困難になった高齢者のお世話はできない。それは医療と福祉の仕事である。しかし、「幼老共生」をいう時、「特技保有者」の熟年も、「特技をお持ちでない」熟年も様々な形で子育て支援に参加できるのである。「幼老共生」を目指す時、2分法による「人材」の考え方は、参加者を呪縛し、プログラムの企画を呪縛し、活力の落ち始めた人々に活力を取り戻すための「一石数鳥」の機会を逸することになるのである。

3  「無償の加勢」

    日本のボランティア論は「無償の加勢」を求める。日本社会でいう「無償」とは「ただ」を意味することが多い。ボランティアは外来の文化概念である。だから、未だに「カタカナ」で書く。それゆえ、「温故知新」ならぬ、「温他知新」をすべきである。他国を尋ねて新しきを知る、である。典型はアメリカのボランティア振興法であろう。欧米文化における多くのボランティアは労働の対価は受取らないが、活動に必要な費用の支援は受ける。ボランティア活動は社会への貢献である。貢献の度合いを高めるための工夫がボランティア活動を振興するための様々な支援措置である。日本でも、国がやらないのであれば、自治体はそれぞれにボランティア振興条令を定めるべきである。支援措置の第1は行政がいうところの「費用弁償」である。ボランティアは日本型共同体における「勤労奉仕」概念ではない。発表をお聞きした限りでは、少年教育に関わるボランティアも「ただ」が多い。ボランティアは、本人の「主体性」を原則とするが、費用弁償がある時の「主体性」とそれがない時の「主体性」は意味が異なる。多くの場合、後者はほとんど「義理立てをする」とか、「無理をする」ことと同義である。張り切って始めたボランティアも「無理」が続けば持続しない。欧米文化と日本文化とではボランティアを受け入れる社会的土壌が違うのである。一定の支援システムが整っている欧米文化では、人々の主体性に訴えれば済むであろう。しかし、ボランティアを支援する風土が欠けている日本では、呼びかけが「無理をお願いすることになりかねない」。「翻訳ボランティア理論」をそのまま受け入れて、日本人の「主体性」に呼び掛ければボランティア活動を振興できると考えるのは大いに間違いである。


4  「受益者の負担」
    かぎっ子が社会の問題になった時も、女性の就労が進展し、男女共同参画が問題になった時も、子どもの放課後や週末の過ごし方が話題になった時も、「受益者負担」はそれほどの問題にはならなかった。背景には「お上の風土」がある。新しい問題の解決には、行政がなんらかの手を打つべきである、という発想があったのであろう。
    学童保育についての小論文を書いた時、これほど重要な事業がなぜ30年もの長い間「放置」に近い状況におかれたのか、疑問であった。最近、ようやく一つの結論に達した。「お上」の風土において、人々の行政依存体質が社会的「病理」に近くなった時、「保育」のような「私事」に至るまで公金による行政保障を求めたのである。日本社会の運営原理において、社会の成員を育成する義務教育は社会が保障しているが、その他の子育ては明らかな「私事」である。「私事」である以上、費用の負担は受益者の責任で行うべきである。この単純な原則が守られなかったが故に「学童保育」の長い停滞が続いたのである。現在、少年教育の重点課題となっている「居場所づくり」についても原理は同じである。義務教育時間外の子どもの居場所の確保は基本的に「私事」である。塾やスポーツクラブに会費を払うように、あらゆる子どものプログラムにも応分の「受益者負担」が求められるべきである。負担に耐え得ない家庭については別途行政的に配慮すればいい。この原則を厳守しないから、「負担者」の意見が届かず、行政主導のプログラムが安易になるのである。「ただより高いものはない」と日本語のことわざはいう。「辻音楽士に曲を注文するのは金を投げた者だ」と英語のことわざはいう。「学童保育」が教育プログラムを提供できないのも、「居場所」づくり事業のプログラムが「生きる力」にほど遠い、甘いものになるのも「受益者」が「負担」せず、参加者の声が届かないからである。行政主導の生涯学習プログラムの多くが、「安かろう、悪かろう」になるのも「受益者」に「負担」を求めていないからである。
    民間の生涯学習事業が進出する理由がここにある。彼らは「質」で勝負をしようとしているのである。民間保育各社が夏休み向けのサービスを競っている(日経H.2004.7.17)のも、スポーツクラブが繁昌しているのも、プログラムの質をもって「受益者」の「負担」に応えているからである。かくして、人々の「選択」の結果は、生涯学習の「格差」をますます拡大させるのである。

5  公金投入の成果はあるか?
    「受益者負担」を求めず、乏しい予算で、貧しいプログラムを実施すれば、結果は明らかである。プログラムの質で勝負が出来なければ、「お客」は呼べない。それなりの公金を投入したにもかかわらず、事業への参加者の延べ人数が少ないのはそのためである。年間を通しても、時に数百人では誠に微々たるものである。「費用対効果」の行政評価の欠如は明白である。「一石数鳥」のスローガンからも遠い。総体として、子どもの「生きる力」を育てようとする以上、一部の子どもだけが問題なのではない。子どもの全体が問題なのである。絶対参加人数を問い、かけた予算の投資効率を問わなければ、社会教育や生涯学習の貢献が人々に認知されることはない。最近、財政難に伴い、政治判断によって社会教育施設から職員を引き上げる自治体が出て来たが、社会的貢献度が低いのであるから仕方がない。
義務教育レベルの学社融合が不可欠なのは、何よりも参加人数の確保が可能になるからである。週末の子どもプログラムを実施しても、参加者数は保護者の意識によって制約されている。"教員の推奨があれば、社会教育プログラムの参加者が増えるのですがね"と教育長が嘆かれるが、学校の協力は稀である。現行の「学社融合」は、学校外の生涯学習資源を学校の都合に合わせて活用しているだけである。今後ますます生涯学習への公金投入は厳しくなって行くだろう。「受益者負担」であろうと、「学社融合」であろうと、あらゆる工夫を傾けて、我々は公的生涯学習の社会的貢献の成果を世間に見せなければならない。

6  情報誌の自己満足
    情報公開の時代である。したがって、情報氾濫の時代でもある。我が家にも様々な教育や福祉の情報誌が届く。点検してみれば明らかだが、中身は「過去」の話が多い。未来への提案は少なく、革新の工夫も足りない。結果的に、事業の成果は顕著ではない。他の領域を結ぶ横のネットワークも不在である。仲間内の報告であれば、情報誌を一般に配る必要はない。かくして、率直なところ、ほとんど読む意味はない。表現については御容赦いただきたいが、組織を作ったら情報誌を出す、というのは「ばかの一つ覚え」になっていないか?
    昔から「ばかとハサミはつかいよう」ともいう。情報誌も使いようであろう。出せば良いというものではない。当然、以下のような点検が必要である。情報誌は想定した相手に喜ばれているのか?かけた「お金」と「時間」と「エネルギー」で情報提供の目的は達成しているのか?誰のために出すのか?何のために出すのか?目的は達成しているのか?これらのことは、筆者も「風の便り」を書きながらいつも反芻している課題である。報告のためであれば、企画書やプログラムを残しておけば十分である。どの情報誌も予算書を見れば結構なお金がかかっている。情報公開が必要であれば、コンピューター上に事務書類を留めて、ホームページを作っておけば済むことであろう。情報誌にかける情熱と予算をプログラムにかけなければ中身は進化しない。プログラムが進化して、社会に貢献すれば、黙っていても現代のマスコミが取り上げてくれる。マスコミも「殺し」や「詐欺」や「不祥事」よりは明るい話題に飢えているであろう。にもかかわらずマスコミに登場する生涯学習ニュースですら貧しいのである。政治が公的な生涯学習予算を削減し、公民館から職員を引き上げる背景がそこにある。

7  子どもアンケート調査の徒労と浪費
    教育の原則は明快である。やったことの無いことは出来ない。教わっていないことは分らない。練習していなければ上手には出来ない。子ども達は「一人前」の条件の多くをクリアしていない。そのような子どもの意見を聞いたところで何も出るはずはない。意見の多くは、現状の子どもがやったり、教わったりした範囲に制約される。プログラムは未来を志向しているのではないのか?プログラムは子ども達のやったことのないこと、まだ教わっていないこと、練習の足りないこと、子どもの挑戦や冒険を志向しなくていいのか?教育における子ども民主主義は総じてナンセンスである。指導者は何のためにいるのか?活動の中身や方法を子どもに聞いて編成すれば、現代っ子が理解した範囲、やったことの範囲でしか答は出て来ない。現代の子どもには「生きる力」が不足しているのである。「生きる力」の向上が教育行政と学校の最大の目的なのである。そのような時に、子どもの欲求と意志だけでプログラムを組んでいいのか?
    子どもの主観的な感想を聞いても何も変わらないことは明らかである。問題は、"教育プログラムが意図した「変容」が起ったのか、否か"の評価である。子どもを対象としたアンケート調査の徒労と浪費は止めるべきであろう。
    子どもの自主性や主体性は大切であるが、それは教育指導の「枠」の中で活かせばいい。指導の方向が決まった時、活動の枠の中で"君だったらどうする"、と聞くことは重要である。しかし、「半人前」の主体性を過大評価してはならない。「生きる力」が向上しない理念上の原因の一つは、子どもの主体性や自主性を過大に評価して、プログラムを組んだり、指導が行われたりしていることである。
 

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