HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第61号)

発行日:平成17年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「主体性」の原則と謙譲の美徳 −ボランティア文化の異質性−

2. "シリアスゲームジャパン"

3. 部分課題から全体課題へ−教育課題から政治課題へ−

4. 第52回&第53回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「主体性」の原則と謙譲の美徳 −ボランティア文化の異質性−

  『豊津寺子屋』は男女共同参画の提言書から出発し、文科省の「子どもの居場所づくり」事業の補助金をいただいて具体的な事業が実現した。補助金をいただいた上で補助制度を批判するのは気が引けるが、きちんとした指導者を確保できていない居場所づくりはほとんど意味がない。『豊津寺子屋』は熟年を指導者とした子育て支援の未来モデルである。中身は「保育」と「教育」を総合化している。「保・教育」の中核は活動の中身とそれを実現する「指導者」の存在である。もちろん、隠れたカリキュラムには熟年の活力を維持する目的もある。地方の教育行政にはすでに財源はない。ボランティアの腕を借りることが唯一の対応策である。
  「寺子屋」では、平成16年度は52名の「有志指導者」が推薦され子ども達の指導にあたった。平成17年度は新たに68名の指導者が推薦された。この人々こそがまちづくりの「戦力」である。本年1月は二日間を割いて「有志指導者」の養成研修講座を行った。寺子屋の有志指導者の活動は「費用弁償制」と「推薦制」が支えている。養成講座を担当してふたたび豊津方式の正しさを実感した。「寺子屋」の成功を見れば、これまでボランティアについて提言して来たことは間違っていない。改めてボランティアを巡る日本文化の葛藤を整理してみた。

 ● 1 ●  「個人の時代」が来ている

  日本に「個人の時代」が来ている。もちろん、現状の日本には、いまだ「共同体の文化」と「個人主義の文化」が混在している。生涯学習施策の多くも二つの文化の間で分裂・混乱している。それゆえ、一方で、個人の主体性や自主性の重要性を説きながら、他方では、伝統的な共同体文化の「連帯」や「一斉行動」を維持しようとしている。しかし、原理的に両者は共存できない。「個」を優先すれば、全体の「共同体」は後回しにせざるを得ない。逆に、伝統的共同体の価値を優先すれば、多くの場面で個人の意志は無視せざるを得ない。
  ボランティアは「個人主義」の文化から生まれたものである。ボランティア活動は当然「個」を優先する。それがボランティアの「主体性」原則である。従来の日本には存在しなかったものである。当然、ボランティアの発想は輸入文化である。したがって、ボランティアは外来語であり、未だに「カタカナ」で書く。それゆえ、ボランティアの用語自体は現代日本に定着しても、ボランティア文化と日本文化の間には依然として、微妙で、深刻な「溝」がある。「溝」の背景には、個人主義社会の「主体性」原則と「共益社会」の共益奉仕(勤労奉仕)原則の衝突がある。もちろん、個人主義を「自分主義」を取り違えた日本の状況も文化的葛藤に拍車をかけている。ボランティアの混沌は今後もしばらく続くことにならざるを得ない。


 ● 2 ●  ボランティア活動と労働の峻別

  従来言われて来たボランティア論の2大原則は「主体性」と「無償性」である。「無償性」はボランティア活動と労働を峻別し、賃金や報酬を受取らないという意味である。それは「労働の対価」を受けない、ということであって、「活動の費用弁償」を受けないということではない。しかし、我が国のボランティア研究においても、福祉を中心とした実践においても、大部分の人々は「無償制」の原則を「ただ」と受取って来た。政治や行政においてこの傾向は特に顕著である。したがって、交通費や弁当代の「費用弁償」を支払うシステムは「有償」のボランティアと呼んで来た。「無償」の反対は確かに「有償」であるが、無償性の原則が「労働の対価として賃金や報酬を受取らない」という意味であれば、有償とは「労働の対価として賃金や報酬を受取る」という意味でなければならない。それゆえ、ボランティア活動に要した費用の「弁償」は「有償」の概念に含めるべきではない。「費用弁償」は断じて「労働の対価」ではない。
  筆者が「ボランティアただ論を排す」と主張すると関係者は「ああ、有償制であるべきだということですね」と独り合点する。違うのである!!!
その理解は文化の異質性を考慮しない単細胞の早とちりである。無償性の意味を勘違いした「ただ論」にも、独り合点の「有償論」にも日本文化が色濃く影を落としている。現在、福祉分野で活躍している「さわやか財団」が、ボランティアに支払った「費用弁償」を税務署が課税の対象としたという件を巡って裁判中であると聞いた。これまでの研究者の報告を間に受けて、税務署はもちろん、裁判所も又「有償制」の意味を取り違えていなければ幸いである。


 ● 3 ●   「主体性」原則と「勤労奉仕」原則の衝突

  「ボランティアただ論を排す」とは、広く、文化の原則が異なる事を指摘している。筆者が主張しているのは、具体的には、ボランティアを「ただ」で使うな、ということである。社会が貢献を受ける以上、活動の費用弁償を支払え、ということである。社会の感謝を「形」にすべきである、ということである。換言すれば、ボランティアを日本文化の「勤労奉仕」の観念で理解してはならない、ということである。「勤労奉仕」は共益社会の「義務的」かつ「半強制的」な共同作業である。地方によっては「出方」と呼ばれる。「出方」とは、共同体の構成員がみな一斉に奉仕作業に出なければならない、というシステムである。一斉行動である以上、自分の意志で参加したり、参加しなかったりする自由はない。勤労奉仕が個人の「主体性」論とぶつかるのはそのためである。個人が共益の「分け前」を受ける以上、当該個人が共益のために貢献することは当然である。自治会のどぶ掃除も、公園の草取りも、公民館の清掃も、それを利用する人々の共同負担で行うという原理は同じである。かつて、マンションの「共益費」と同じであると指摘したのはそのためである。「共益費」は利益を受ける人に課される「義務的経費」である。同様に、勤労奉仕は「義務的労役」と呼んでいい。
  しかし、ボランティアは日本型共同体の共益を分け合う人々の「勤労奉仕」ではない。ボランティアを生み出すことの無かった日本文化は、個人の社会貢献と集団構成員の共益貢献(勤労奉仕)を混同しがちである。それゆえ、日本人のボランティア理解は、感覚的に「勤労奉仕」の「訳語」をあてることになるのである。「勤労奉仕」であれば当然、「労働の対価」もなく、「費用」の「弁償」もない。それが「ボランティアただ」論の感情的背景である。「個人の時代」が浸透しつつある今、ボランティアの勧めの掛け声はあちこちから聞こえて来るが、活動者の底辺は極めて脆弱である。人々は今更半強制的で、ただの「勤労奉仕」に戻ることなど真っ平だと感じている。自らはボランティアなどやったこともない政治や行政が人々にボランティアを説く時、その思いは一層強くなる。それがボランティア停滞の理由である。「個の時代」を生き始めた日本人が、今更、 「勤労奉仕」に戻れるはずはなく、「ただ論」のボランティアが広 がるはずもない。

 ● 4 ●  「手を上げる人」はあぶない−「主体性」の原則と謙譲の美徳−

  さて、日本文化と「主体性」問題である。主体性とは「自分で選ぶ、自分で決める」ということである。流行りの「自己責任」と言ってもよい。英語では、Does anybody volunteer?と聞く。誰か手を貸してくれる?、という意味である。しかし、ボランティアの「主体性」原則もまた日本文化の「フィルター」を通してろ過する必要がある。ボランティアを生み出した文化においては個人の選択も、個人の決定も個人の自己責任も当たり前である。それゆえ、理屈の上で「主体性」原則が正しいとしても、日本文化に戻って考えなければならない。理論として「主体性」原則が正しいとしても、それはボランティアを生み出した欧米文化の特性に照らした時のことである。日本のように文化の特性が異なる風土に、「主体性論」をそのまま持って来ても必ずしも同じようには機能しない。日本は「謙譲の美徳」を柱とする文化である。「能ある鷹は爪を隠し」、「下がるほどその名は上がる藤の花」、「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」である。「謙譲の美徳」を前提とすれば、主体的で「声の大きい人」や「手をあげる人」は時に「あぶない」のである。謙譲の文化とはへりくだった人間が信頼され、自分を誇らない人物が尊敬される文化である。それゆえ、「主体性」論はなかなか機能しない。「謙譲の美徳」を前提とすれば、「表向き主体的で」、「声の大きい人」や「手をあげる人」は「あぶない」のである。極端な一般化はいささか危険であるが、謙譲の美徳はボランティアにも適用される。読者もそれぞれに経験したところであろうが、進んで手を挙げる人には用心しなければならない。日本の選挙において、「出たい人」より「出したい人」というスローガンがあるが、この発想は謙譲の文化の核心をついている。政治家の質がなぜ悪いか?理由は想像するまでもあるまい。欧米の「主体性」原則に基づいて「出たい人」が出られる仕組みを取り入れたからである。立候補には最低何百人かの推薦状が必要ということにすれば、すこしは政治の質も向上するかも知れない。「私は、私は」は鼻持ちならず、「俺が、俺が」は油断がならないのである。
  かくしてボランティアの「主体性」原則は日本文化の謙譲の美徳と衝突する。文化要素を考慮すれば、日本のボランティアは「立候補制」ではなく、「推薦制」に限るのである。


 ● 5 ●  実践の証明

  過去20年に亘って宗像市の「市民学習ネットワーク」は「推薦制」を採用し、「費用弁償制」を堅持した。20年もの長きに亘って、活動がエネルギーを失わずに継続出来たのはこの二つの原理を堅持したためである。宗像の歴史的体験を踏まえて、現在進行中の「豊津寺子屋」も同様に、「推薦制」と「費用弁償制」を踏襲している。「費用弁償制」はボランティアに対する関係者の感謝の象徴である。「推薦制」は「謙譲の美徳」文化への配慮である。「費用弁償制」によって参加者は、自らの役割と必要を認識し、世間の評価を理解する。同様に、ボランティア活動は、心理的に強制される「勤労奉仕」ではないことを実感する。当然、「推薦制」は他者の推薦をいただくだけで自らへの評価をいただいたことを意味する。被推薦者は自分が手を上げたわけではない。他者が「見るべきもの」を見てくれたというだけで誇らしく思うのは自然であろう。
  責任は「推薦者」が半分、「推薦された者」が半分負うことになる。それゆえ、被推薦者は推薦者の信頼を裏切るわけには行かない。推薦者のお顔をつぶすことはできない。「被推薦者」が律儀に約束を守り、それぞれの責任を果たすのは謙譲の文化の美学が拘束しているからである。ボランティアの自主申告・立候補制が失敗するのは、日本文化の「人物ろ過機能」を軽視し、個人の「主体性」を過信する故である。日本文化が有している美学の拘束力を甘く見るからである。異文化と日本文化の葛藤にはどれほど注意しても注意し過ぎることはない。
  確かに、気持ちが高揚して、心的エネルギーの漲った時のボランティアはできる。しかし、人間の気合いにも、意欲にも落ち込んでしまう谷間がある。その時、世間の賞讃、社会の承認を受けられないボランティアは長続きしない。文化の美学によって拘束を受けない行為は続かないのである。「推薦制」も、「費用弁償制」も、謙譲の文化と矛盾すること無く、ボランティアと社会との契約の精神を支えたのである。
 

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002, Seiichirou Miura ( kazenotayori@anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文等の転載についてはこちらからお問い合わせください。