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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第58号)

発行日:平成16年10月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「戦力」のグレイゾーン

2. KJ法の威力と男達の呪縛

3. 「寺子屋」効果と「母の便り」

4. 第50回生涯学習フォーラム報告 「素読、朗誦、暗唱の教育論」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

KJ法の威力と男達の呪縛
「 参 画 」の 魅 力
  ある県の生涯学習センターが「プランニング・マネージャー」養成講座を企画した。近年珍しい、同一対象に対する5日間の長期研修である。主題は事業計画や活動プログラムの立案実習である。それぞれの興味関心の領域で新しい事業を立ち上げてください、というのが県側の思惑である。
  当然、活動の舞台はそれぞれの地域である。したがって、地域の課題を分析し、そのうちからそれぞれの判断で取り組むべき事業テーマを決定し、その実行計画を立案するというプロセスを想定した。参加者は意欲、経験、知識、職業ともにばらばらである。通常の講義や演習では参加者は受け身である。教室にいるだけでは、どんな名講義が行われても、能動的な「参画」はしない。座学で「プランニングマネージャー」が養成できればこんな簡単なことはないが、教室で実践者が育った試しはない。そのことはすでに大学が証明済みである。どんな講義を聞いても行動者は育たない。行動者は行動の試行錯誤の中からしか生まれない。
  研修に先立って、筆者は、参加者に、実践を約束してくれ、と頼んだ。研修を受けても、計画したことをなんらかの方法で実行してみなければ、机上の空論である。何かを実行したいと思わない人にこの研修は意味がない、と言った。実践なくして発言権なしだと言った。実践しない人のための計画立案演習は税金の無駄だ、とも言った。半年ぐらい後に実践の経過報告を持ち寄って同窓会をやろうと主催者が提案してくれた。さて、どうなるか?
  立案の順序は、地域課題解決のための診断と処方である。診断にも処方にも、迷わずに、KJ法の手法を選択した。どんなに正確な診断を示したところで、自分が下した診断でなければ、人々は本気で処方箋は書かない。どんなに優れた計画でも自分が立てたものでなければ、人は本気で実行してみようとは思わない。参加者が「参画者」にならなければ、計画には"実戦"の気迫がこもらない。また、意欲、経験、知識、職業ともにばらばらの参加者が何とかそれぞれの思いを伝えあうためには通常の議論は役に立たない。課題に付いてより多くを知っている者、声の大きい者が議論を牛耳ってしまうからである。

*** 参画の保障  **************************************************
  「参画」を目指す以上、全員の発言がカギである。全員が診断にも計画作成にも自分の意見を発言しなければならない。筆者にとっても本格的に数段階のKJ法を積み重ねて行くのは久々の事であった。
  KJ法のルールは特別に提示し、ことあるたびに強調した。特に、KJ法の第一段階:ブレイン・ストーミングと「短冊づくり」は全員参画のカギを握っている。全参加者の発言のチャンスを公平にしたいと願って、記録係を輪番制にした。さらに発言が特定のメンバーに独占されないよう、「記録係」を10分置きに交替させた。当然、口の重い方々の発言をためらわせることになる「批判」も、「質問」も禁止した。また男達に一人だけで喋り続ける傾向が見られたので、「演説」も禁止した。第一段階は地域課題の分析である。それぞれの視点で「文句のあることは言おう」、「不満は言葉にしよう」、と呼び掛けた。みんながなんらかの不満を持っているはずだからである。当面の目標は「短冊」100枚・100の意見を出して下さいとお願いした!!ようやく人々の重い口が開いた。全員が発言した。休憩時間も忘れるほどであった。2時間もお互いの意見を交換するとグループの空気が和んでくる。ひとり一人が生き生きとしてくる。『おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざなれ』である。みんなが一斉に喋り出す。KJ法の威力である。KJ法の第2段階は出された意見を直感的に領域別に分類する作業である。記録した「短冊」をテーブルの上にカルタのように広げ、みんなでわいわい言いながら、種類別、性格別に小グループに分類する。分類が終わったら、小グループを一まとめにして、個々の意見を包括するようなタイトルを付ける。ここからがグループ協議である。これまで個々別々であった発言が共同作業の様相を帯びて行く。小グループにまとめた情報のかたまりにどのようなタイトルを付けることが一番相応しいのか?『これでどう?』とか、「こういう言い方もできるとか』、『それがいいとか!』様々な意見が飛び交いはじめる。5人一組の班はようやく生き生きとしたチームになって行く。
   作業の結果は、特別に、素晴らしい分析ができたわけではない。新しい視点で解決策が提案されたわけでもない。むしろ分析も、提案も、陳腐なものが多い。それでものちに提出された参加者の感想には、自分の高揚感や、新しい意欲や、研修への感謝や、チームワークへの驚きの言葉が綴られていた。帰りたいと言っていた人が帰らなくてよかった、と言ってくれた。講義の時に、下ばかり向いていた人も立派に計画案を発表した。研修を終わったあとも個別のお便りをいただいたりした。恐らくは多くの方々にとって、初めての「参画」なのである。最初の「共同作品」の製作なのである。バラバラの烏合の衆の意見が一つの計画にまとまって行くスリルを味わったのである。これらはKJ法の威力である。講義では決して伝えることができない。指導者が方向を定めてしまう通常の演習でも決して達成できない。「参画」と「協働」の魅力なのである。

*** 男達の呪縛 ****************************************************
  研修会は診断と処方のプロセスを経て、事業計画を立案した。女性の思考は概して柔軟であった。若い男性も年輩の男達に比べれば、遥かにましであった。それに比べて年輩の男性の思考は過去の体験と発想から抜けられない。自分が過去の発想に囚われていることの自覚も薄い。あれほど何回も説明したのに、KJ法のルールに従えないのは大抵が男達であった。グループを仕切ろうとするのも男達である。グループによっては女性達が怒り出して、実際に、赤と黄色の色紙を持参した若い女性もいた。サッカーのルールに倣って、ルール違反者に「イエロー・カード」と「レッド・カード」を出そうと決心したのだと言う。笑えない状況であった。
  作成した計画案の発表の段階になると男達の呪縛は一層はっきりする。発表者は「あみだくじ」で割り当てたので男も女も均等に役割を分担している。しかし、発表の際にグループワークの成果を離れて、「私見」や「持論」を交えるのはすべて男達である。グループ協議を忘れて私的な「演説」になってしまうのも男達である。他のグループのメンバーから出される厳しい、批判的な質問に対する回答もグループ内の役割分担で行ったが、質問に自説を交えて答えるのも男達であった。男達は対等のメンバーによるグループワークにも、民主主義にも適応できないかのようであった。恐らくは数十年に及ぶ職業生活で身に付けた習性が抜けないのであろう。「偉い人」の前では、自己を抑圧して自分の意見は言えなかった。その代わり、部下には自分の意見を押し付けてきた。それがリーダーシップだと勘違いしているのであろう。男達の呪縛である。
  生涯学習グループは混成チームである。男達にとって女性は「部下」に近い存在なのであろう。年下の者は男性であっても、心理的には、当然「部下」の範疇である。対等の意見交換の中で、己の意見に固執すれば、協議にはならない。結果的に、他者の発言を封じることになる。筆者は、当然、何度も強調してルールを説明している。『KJ法は全員の発言を保障しているのです』。『全員の発言を記録してください』。男達は記録の当番の時でさえ、発言を止めないのです、と女性メンバーが怒る。結果的に、年輩の男達は生涯学習グループの中で孤立する。彼らは、女達も若い者も眉をしかめていることに気付かない。己への過信と自己主張への固執と女性の違和感への鈍さは年輩の男達の職業体験に発する呪縛であろう。KJ法の第一段階「ブレイン・ストーミング」はそうした男達を黙らせ、女や若い者に発言の機会を与える最善の方法であった筈である。気の毒であるが、筆者は歯に衣着せずに「演説の禁止」、「批判の禁止」、「質問の禁止」「男達も発言を止めて記録者の役割を分担せよ」と大声で指示するのである。しかし、恐ろしいことに男達には馬耳東風である。そうした状況の中で、女性達も、若い男性も良くがんばってグループワークを仕上げた。こちらは天晴れである。チームティーチングで筆者をサポートしてくれた女性の助教授が感想を呟いた。「家庭でもああなのでしょうね」。KJ法は素晴らしい威力を発揮したが、男達の「孤立」の運命も予言したのである。

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