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生涯学習通信

「風の便り」(第58号)

発行日:平成16年10月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「戦力」のグレイゾーン

2. KJ法の威力と男達の呪縛

3. 「寺子屋」効果と「母の便り」

4. 第50回生涯学習フォーラム報告 「素読、朗誦、暗唱の教育論」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「戦力」のグレイゾーン


1  プロ野球の見過ぎか!?
  プロ野球を見ていると選手の移り変わりが激しい。日本の球団でもそうだが、メジャーリーグの試合を見慣れるとなおさらの事である。選手は目まぐるしくチーム間を移動する。二軍へ落ちることもあれば、別のチームが採用してくれることもある。アメリカの競争システムは、失敗しても、失敗してもどこかで誰かが試してくれる。イチローの居るシアトル・マリナーズを「戦力外」として首になった一塁手のオルルッドが松井秀樹の居るニューヨーク・ヤンキースの一塁手に返り咲いたのは、この夏の事である。アメリカンリーグの優勝戦にそのオルルッドがホームランを打ってボストン・レッドソックスを下したゲームを偶然テレビで見た。私は拍手を送って彼を讃えたが、首にしたマリナーズの監督はヤンキースにおける彼の活躍をどんな思いで見たであろうか?結果的に、今年のマリナーズは大敗し、オルルッドを首にした監督自身がシーズン終了とともに監督職から解雇された。評価が厳しいのはプロの風土であるが、それにしても「戦力」基準は明確である。オルルッドに限らず、アメリカ社会は、「敗者」に、惜しみなく「復活戦」の機会を与える。「戦力」への挑戦権は、アメリカ社会の最大の特徴の一つなのである。
  裏返せば、アメリカ社会の厳しさは評価の厳しさである。プロ野球に限らず、「戦力」か、「戦力外」かを常に試される。もちろん、それぞれの職場や仕事に「戦力」基準が存在し、それに挑戦することは許されるが、しくじれば降格や解雇が待っている。プロ野球を見ていると選手を「戦力」と「戦力外」に二分する「二分法」思考に慣れてしまう。

2  「戦力外」通告
  プロ野球には「戦力外通告」という厳しいシステムがある。要するに、「首」だということである。したがって、プロの世界では、基本的に「戦力」と「戦力外」の2種類の人間しかいない。筆者は長い間、日本の組織はプロスポーツの厳しさに少しは学ぶべきである、と主張を繰り返して来た。相撲や将棋はその極端な事例である。
  一方、見聞と体験の範囲で、大学も、行政も余りにも人事管理が杜撰である。そこには「能力」と「意欲」についての評価がほとんど存在しない。もとより仕事によって評価基準が複雑であることはいうまでもない。スポーツのように明確な実績評価ができる仕事ばかりではない事も分かっている。しかし、どんな仕事であろうと、「仕事ができるか、否か」、「仕事に意欲をもって取り組んでいるか、否か」ぐらいは明らかであろう。
「仕事をする力のない者」に仕事を任せてはならない。ましてや「仕事をする意欲もない」人々に仕事をさせてはならない。大学管理の経験の中で、筆者はまず、その程度の事を問題にして来たのである。日本の行政や大学組織は、「戦力外」はもとより「仕事をする意欲のない」者すら「淘汰」できないために、仕事が停滞し、税金を浪費する状況を改革できないのである。しかも、「仕事をする力も、仕事をする意欲もない」人々が組織の其処かしこに跋扈し、大声で発言して、改革の足を引っ張るのである。プロスポーツにおいて、「戦力外」の選手が、試合に出ることは問題外である。ましてや、試合の進め方に発言するなどということは考えられないことであろう。任務遂行上の歯止めは職務契約以外にはない。契約とは、仕事の仕方・仕事の成果についての「約束」である。「戦力外」を通告されたプロスポーツ選手に再契約はない。「戦力の有無」を問う以上、評価と「契約」は裏と表の関係であり、契約制度なしに約束を履行することはほとんど不可能である。
  ところが、これまでの日本社会の労働システムは、基本的に終身雇用制を採ってきた。終身雇用制は原理的に、短期的な契約も、戦力評価も認めない。終身の雇用を保障すれば、評価結果が「不可」と出た人々を排除することができない事は明らかである。多くのプロスポーツが「契約・年俸制」を取るのは評価の厳しさを反映している。評価の厳密化は国際化の象徴であり、国際基準の反映である。優れた製品が求められ、優れたサービスが評価され、優れた人材が勝ち残る。競争相手は世界の国々である。企業が競って「ISO」の基準を取得しようとするのはそのためである。競争に破れれば、現在、日本人が享受している豊かな生活の条件は失われる。国際基準で仕事をすすめるしか国際化の時代を生き抜く方法はないのである。日本の労働システムが、終身雇用制を否定する方向に動いているのは、評価ー契約ー国際化ー自由競争の必要がもたらした必然である。評価は「合格」と「不合格」の二分法を採る。通常、中間はない。"どちらとも言い難い"、と言う曖昧さが許されるのであれば、そもそも評価の必要はない。
  しかし、実際生活における人間は多くの場合、「合格」と「不合格」のはざまで生きている事もまた事実である。

3  「人材(人財)」概念の落し穴
   地域の活性化を論じる時、ボランティア論は欠かすことができない。そして、ボランティア論を論じる時、社会教育は通常、「人材バンク」を創設し、「人材登録」や「人材活用」を進めて来た。しかし、「人材」という概念は「人材」を大事にするが故に、プロ野球と同じように「人材」と「人材外」の二分法を人々に意識させる。筆者もその二分法に囚われた一人であった。実際はそれほど明確には分けられるはずはないのだが・・・・・。
   20年前、アメリカの「自由大学」構想を参考にして、福岡県宗像市に生涯学習における相互学習のシステムを導入した。当時の社会教育関係職員のなみなみならぬ努力が結実して、特技や能力を持った市民が「指導者」となって、他の市民の学習を支援するシステムが誕生した。事業は「市民学習ネットワーク」と名付けられ、「人材」は「有志指導者」と呼ばれた。「市民学習ネットワーク」事業は、特技を持った市民の方々が、その特技を介して他の市民に生涯学習の機会を提供し、合わせて、新興住宅都市の住民間交流を促進することが目的であった。事業は成功して今年20周年を迎える。この間、何十万人の市民の生涯学習を支えて来た。副産物としての「住民交流」も見えない成果である。ボランティアの募集は、推薦制を採用したが、推薦の対象はあくまでも特別の能力・技能を有した「特技保有者」であった。したがって、事業を支えたのは意欲と能力に恵まれた「有志指導者」である。たくさんの関係者がこの事業を支えたが、結果的に、最も活躍したのは指導者であり、お元気を保ったのも「指導にあたった方々」であった。この事業は日常の生涯学習を支えるため、「戦力」をもった市民だけに着目した事業であった。幸か、不幸か、事業が成功した分だけ、筆者の認識はその後も「人材」と「人材外」の二分法に囚われる結果になった。

4  「戦力」のグレイゾーン
   「人材」や「戦力」概念を二分法で発想する習慣は最近の子育て支援の「寺子屋」パイロット事業においても変わらなかった。それゆえ、ボランティアの募集は、『皆さんの腕をコミュニティに貸して下さい』、『皆さんの特技や能力を子ども達の為に生かして下さい』という呼びかけになった。これでは「腕」に覚えのある人しか推薦の対象にはならない。特技や特別の能力を持たない方々は引っ込み思案になるだろう。推薦者も推薦を受ける側も、募集方法の二分法に制約を受ける結果になるのである。
   ところが、推薦をいただいた50数名の「有志指導者」の中に頑強に自分は、『特別の技術は持っていない』、『子どもの看取りだけならできるが、指導はできない』と辞退を申し出る方々が居た。二分法を当てはめるなら、自分は「特技保有者」ではない、というお考えであったろう。
  しかし、「寺子屋」ではこれらの方々にも、当然、「有志指導者」として活動をお願いした。夏休みの連日の活動で、「有志指導者」はフル回転であった。「特技は持っていない」という方々も、中心的指導者の助手として、補助として子ども達の指導にあたった。毎日、朗誦の指導も見学した。その内、ご自分で指導を始める人も出て来た。慣れるのにほとんど時間はかからなかった。かつて労働の第一線で活躍された季節を思い出すのにほとんど時間はかからなかったのであろう。みるみる立派な指導者に変身したのである。
  こうした状況を見聞して、遅ればせながら筆者もようやく気付いた。寺子屋支援の高齢者は、「白か、黒か」という戦力の二分法では分けられない。「戦力」と「戦力外」の間には、「グレイゾーン」が存在するのである。しかも、このグレイゾーンは人数的には最も多いと考えられる。グレイゾーンの方々の多くは、日本社会を第一線で支えて来たかつての「戦力」であった。それゆえ、活動に参加して、心と頭と身体を使いはじめれば、遠からず往年の「戦い」を思い出すのであろう。
  逆に、グレイゾーンにいる方々は、活動に参加しなければ、心も頭も身体も使う機会はない。使い続けない限り人間の器官や機能は急速に衰退する。衰退が続けば、熟年は、たちまち「戦力外」に転落する。活動の舞台を必要としているのは、「特技保有者」も、「特技を持たない」普通の熟年も変わりはないのである。今年の寺子屋の「有志指導者」の募集・確保は、「指導」と「看取り」の二つの活動分野で推薦を依頼する。寺子屋事業の隠れたカリキュラムが熟年の元気を維持することであれば、「グレイゾーン」にいる熟年にも当然活動の機会が必要である。生涯学習は、すでに老衰して日常の自立が困難になった高齢者のお世話はできない。それは医療と福祉の仕事である。しかし、「幼老共生」をいう時、「特技保有者」の熟年と幼少年の協働だけをいうものではない。「特技をお持ちでない」熟年も「看取り」の形で子育て支援に参加できる。「幼老共生」の子育て支援は戦力の「グレイゾーン」にいる方々にも適用が可能なのである。

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