HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第51号)

発行日:平成16年3月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 生涯学習の構造改革分析−市場検証の実験

2. 今、なぜ子どもの「居場所づくり」なのか?

3. 第44回生涯学習フォーラム報告 「行政による子育て支援システムの創造」

4. 見えない証 『自分の子どもがこの学校に来れればいいのにね!』

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第44回生涯学習フォーラム報告 「行政による子育て支援システムの創造」


   第44回フォーラムは「行政による子育て支援」を取り上げた。福岡県の「アンビシャス広場」から文部科学省の「子ども教室」まで子どもの「居場所」を確保しなければならないという意識は社会に定着しつつある。問題は"居場所で何をやるか"である。「居場所」が出来たところで、現在はほとんど何もやっていないに等しい。養育は社会が引き受けるべき時代が来たのである。散発的事業では対応出来ない時代が来たのである。事例発表は宗像市子ども課の日野砂男課長にお願いした。宗像市においては少なくとも子育て支援行政を「子ども課」に集約しようという意図は明確である。論文参加は「『養育』の社会化ー行政による子育て支援の必然性」(三浦清一郎)である。


■ 1 ■  「子ども課」への集約
  宗像市の「子ども課」は教育行政に属している。主な事業だけでも実に多彩であり、盛り沢山である。「子育て講座」、「子育て支援ボランティア養成講座」、「家庭教育学級」、「子育てサロン支援事業」、「コミュニティ子育て交流事業」、「通学合宿」、「子ども祭り」、「子ども新聞」、「小学校セカンドスクール事業」、「中学校職業体験事業」、「ニュージーランド交流事業」、「学童保育所施設改修事業」などである。日野さんの迷いは教育行政の限界に関係している。首長部局と連携できなければ、学校外の総合的なアプローチは出来ないのではないか、という疑問に発している。子どもの「居場所」を準備しなければならない状況で散発的な事業を積み重ねても問題の核心には迫れない。総合的な対応も不可能である。宗像市も相変わらず子育て支援と学校は無縁である。学童保育の施設修理を特別に予算計上しなければならないのが象徴的である。講座は沢山あるように見えるが、子どものすべても、保護者のすべてもカバーできる筈はない。学習や交流の必要な人々に必要なプログラムが届いている保証もない。
  日野さんの直観は当たっている。福祉と教育を統合した子育て支援が不可欠になったのである。しかし、教育行政の中ですら学社共催の子育て支援事業は出来ない。まして、福祉との統合事業は困難である。「子ども課」は事業を総合化し、統合化し、分野横断型のプログラムを可能にするはずであったが、散発の事業と教育行政の壁がそれを阻んでいる。現行のシステムを抜本改革するか、分野横断型の「プロジェクトチーム」を創るかしない限り総合化は実現しない。なぜなら、教育行政の認識には未だ「養育」の社会化発想は存在しないからである。

■ 2 ■  「外部化」の必然
  家事の外部化は女性の社会進出がもたらした必然である。もちろん、それを可能にしたのは豊かな社会の分業の進化である。企業は、今になって「アウトソーシング(戦力的外部委託)」の重要性を言うようになったが、家族はその構成員の能力的制約に鑑みて、多くのことを「外部委託」せざるを得ない宿命にあった。近代家族においては「教育」がそのはしりであった。教科教育は家族の能力を越えている。かくして、学校教育はその道のプロに委託せざるを得なくなった。最近では「介護」も同様の方向を辿っている。外部化が進む理由は、「委託」を可能にする財政能力と「委託」せざるを得ない家族の状況である。保護者の多くは"共稼ぎ"の労働形態に移行し、多くの家庭は「委託」の可能性と「委託」の必要性の両面で子どもの外部保育;社会の子育て支援を必要とするようになったのである。

■ 3 ■   家族における養育・教育の機能の喪失
   子どもの養育に関して家族の構造が著しく変化した。変化の第一は「核家族化」であろう。変化の第二は「女性の就労」である。核家族化は結果的に、育児の知識も、技術も前の世代から伝達されない。「かぎっ子」から始まった家庭の養育力の衰退は、保育所の拡大や「学童保育」の誕生に繋がったが、いずれも失われた養育力を補完するに至っていない。家庭の養育力は衰えるにまかせた。家庭の子育てはますます危機的状況を深めたのである。家族は自らの養育機能の衰退を意識し、自覚し、危機を感じている。しかし、もはや家族の対応には限界がある。教科教育のような専門分野の「外部化」に疑問は持たなかった行政や家族も、養育の「外部化」には大いに抵抗があった。「養育」は歴史的に最も基本的な「私事」であったからである。それが親の「子育て責任論」である。「製造責任論」という人もいる。民法は子育ての「私事性」を「親権」という思想で保証している。
   しかし、一方では、男女共同参画の思想が普及すると共に、女性の就労、女性の社会参画は増大の一途を辿っている。女性が外に出れば、従来の性役割分業は崩壊する。育児の分業の代わりに育児の「共業」に移行できれば、養育をここまで危機的な状況に追いこまずに済んだかも知れない。しかし、社会は変わらず、男も変わらなかった。子育ての「共業」は全く進まなかったのである。逆に、「子育て以上に大事なことがあるか?!」というのが「変わりたくない男」の決り文句であった。同じことは「性役割分業」を承認した「専業主婦」も主張した。その思想は「女性よ、家庭に帰れ」のスローガンが代表している。筆者を含めた研究者の多くも子どもの現状を心配して、家庭の「子育て責任」を唱えた。学校関係者も「家庭の子育て責任」を唱えた。男女平等は文言に留まり、男女共同参画は社会の「多数派」の意識をとらえるに至っていなかった。もちろん、文明は急速に進化したが、「パワーステアリング」も、「自動化」も、男女の「筋肉」機能の相違を消滅させるまでには至っていなかった。従って、「筋肉文化」は揺るがず、「養育」の社会化はいまだ社会の認知するところではなかった。結果的に、制度的な子育て支援は遅々として進まなかった。もちろん、男が育児を担当することは皆無に近い。当然「しわ寄せ」は子どもに集中した。「子育てが大切である」ことを認めながらも、「女性の就労」も「女性の社会参画」も同じように大切であることが認め始められた。「どっちを取るのか?」と多くの女性が選択を迫られた。最終的に女性は「社会参画」を選択した。男支配の「筋肉文化」も渋々それを認めた。しかし、「筋肉文化」を変革することなく、「養育」の社会化を具体化せずに、子育てと女性の社会参画を両立することは不可能である。結果的に、家族は養育・教育の機能をますます失いつつある。経済的必要が女性の労働力を必要とし、社会的思想が女性の社会参画を促し、「変わりたくない男」が変わろうとしなかった時、多くの家庭は子育てを断念せざるを得なかった。「少子化」は女性の決断である。「少子化」は必然であった。

■ 4 ■  少子化の脅威
  男性が育児に協力しない(できない)現状では、女性の社会参画と健全な子育ては両立が難しい。かくして、今度は「少子化」こそが社会の未来を脅かし始めたのである。「人口は今よりも少ない方が暮らし易くていいのだ」などというノーテンキな論者もいるが、彼らは人口が少数安定に達するまで社会がどのような激震に曝されるかについては気が廻らない。「介護」を社会化し、老後の生活を社会が保証しようという制度を維持しようとする限り、「少子化」は明らかに国家の福祉制度を破壊する。多くの高齢者は路頭に放り出される。まして、団塊の世代が定年を迎えるこれからが高齢社会の問題が噴出する時期である。
  家族は今や沢山の子どもを育て切れない。女性を中心に「子育て」を負担と感じている現代の家族は複数の子どもを育てたいとも思っていない。それを決めるのは主として女性の意志である。総論的に言えば、「少子化」は男支配の文化とシステムへの女性からの「絶縁状」である。「少子化」を止めるためには女性に納得してもらうしか方法はない。女性を納得させる方策は二つある。第一は「変わりたくない男」が男女共同参画文化を理解して自己変革を遂げることである。第二は、社会が養育の相当部分を引き受けることである。食や洗濯やもろもろの日常生活を外部化したように、養育の外部化が必要になったのである。核家族化が定着し、就労する女性が増加し、すでに現代の家族は子育て機能を衰退させてしまった。子どもの健全な発達のためにも、家庭外の安全な場所での子どもの集団の遊びや活動が必要になったのである。

 ■ 5 ■   養育の社会化の必然
  "共稼ぎ"の家族にあっても、実際の家事や子育て負担は女性の肩にかかっている。男女共同参画を進め、女性の社会参画の条件を整えるためには、社会による養育の支援が不可欠である。
  憲法の規定はもちろんのこと、個別の分野においても、男女雇用均等法が施行され、続いて男女共同参画社会基本法が制定されて、法的に男女は対等になった。しかし、法律は文化を律することはできない。伝統もしきたりも、法には従わない。従って、法律で「男の生活態度」は変わらない。男支配の文化で育ってきた男達は心情的にも変わりたくはない。女性の育児負担が変わらないのはそのためである。
  一方、文明の恩恵によってすでに男女の能力差はほとんど存在しない。女性自身の希望もあって社会は法律によって女性の権利を再確認し、その社会参画を明確に支援している。当然、女性は従来の男支配の文化に異議を唱える。女性の意識も女性の生活態度も大きく変わってしまったのである。「変わってしまった女」と「変わりたくない男」が衝突するのは不可避であった。衝突の結果は、晩婚化であり、非婚化であり、少子化であり、熟年離婚である。将来的には「生き残る妻」の「衰える夫」に対する「介護拒否」さえ予想させる。死後の墓ですら「変わろうとしなかった夫」と一緒には入りたくない、と公言する女性も登場した。社会は「変わりたくない男」に変革を迫ると同時に、日常的な子育て支援の制度を整えない限り、衝突の副作用はますます増大するだろう。様々な家族機能の外部化の中で「養育」は最後に残された領域である。外部化を促進するのは女性の社会参画である。「育児」の重要性、育児の幸福論はそれぞれに正しいが、同時に育児に要する時間とエネルギーと能力を考慮すれば、育児こそが女性の社会参画を阻害する最大要因である。「少子化」は「子育て」が阻害要因として働いた証明である。育児が女性の社会参画の阻害要因でなければ、「少子化」は起らなかった筈である。女性の社会参画を保証し、併せて「少子化」に歯止めをかけようとすれば、養育の社会化は不可欠の施策になる。

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002, Seiichirou Miura ( kazenotayori@anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文等の転載についてはこちらからお問い合わせください。