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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第44号)

発行日:平成15年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「受動と擬似」環境からの解放 −少年の「日常」とは何か?−

2. ようやく、学校開放! 繰り返すか?独善と蒙昧

3. 「非常」の顔

4. 第37回生涯学習フォーラム報告 「サマープログラム」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

ようやく、学校開放! 繰り返すか?独善と蒙昧

1   1万4千校を開放

   8月28日の日経(朝刊)は文科省がようやく放課後や週末の学校を開放すると報じた。「来るべきもの」が来て、「やるべきこと」が始まった。通い慣れた学校こそが最適の遊び場であり、子どもの生涯学習プログラムの安全な舞台である。遅きに失したが大歓迎の方針である。ここから「学社連携」が本格的に始まる。とりあえず学校施設とその機能が社会教育に開放されるからである。

   施策の目的は「子どもの居場所」を作ることである。現在、1万4千校を想定している、と記事にあった。学校施設が開放されたあとは社会教育の出番である。文科省は学校施設の開放に伴って、指導員を配置し、ボランティアの発掘や活用をすすめるコーディネーターも創設するという。固定的な「指導員」が機能していないことはすでに見ての通りであるが、コーディネーターの創設は、近年のヒット政策である。子どもこそが最も大切な宝であるとする「子宝の風土」では、少年の育成指導を引き受ける人々の中からボランティア立国の道が開ける可能性を秘めている。

 

2   唯一の安全策

   また、週末や放課後の学校の全面開放は大阪、池田小学校の児童・教師殺傷事件の教訓を検討し直した立派な施策である。これまで論じた通り、学校の門を閉めたとしても狂気や悪意の「確信犯」は止められない。学校の安全は、逆説的ながら、「学校の開放」と「地域指導者の招聘」の中にしかない。学校は全面的に開放して子どもの味方を沢山学校にお招きして自らの安全を保証するのである。対少年犯罪の抑止力は保護者や地域の方々が学校にそそぐ「熱意と目」である。コーディネーターが創設する地域指導者のネットワークは子どもの活動の活性化を意味するに留まらず、学校の安全に大いに役立つことは疑いない。子どもの安全に「絶対」はないが、おそらくは唯一の安全策である。

 

3   「アウトソーシング」発想の欠落

   開放される学校の問題は「指導員」の役割とコーディネーターの能力である。見聞する限り、これまでの指導員は子どもの活動メニューの創造はしていない。指導員の多くはその看板に反して、子どもの活動を十分に指導していない。その証拠に指導員がいてもいっこうに地域の子ども活動は活性化していない。失業対策で意欲のない指導者を雇えば、指導の代わりに留守番や施設管理でお茶を濁すことは目に見えている。嘱託であろうと、非常勤であろうと、指導員のための予算は生きたお金にはなっていない。「子どもの居場所」を作っても「今まで通りの指導員」では活動は始まらない。固定した指導員を配置するよりは、分野ごと、場面ごとに意欲ある指導者をアウトソーシングすることが必要である。指導員の固定した賃金に代えて、活動の状況に応じて有能な指導者を外部から戦略的に発掘する「報酬」の予算を増額する。もちろん予算は「活動指導」費に限定して使用する。どこから、誰を、何のためにアウトソーシングするかがコーディネーターの役割である。アウトソーシングの対象には当然ボランティアが含まれる。したがって、ボランティアの功績を社会が認知し、その活動を支援する「費用弁償費」を創設することも不可欠である。ボランティアの「無償制」を、日本流に「誤解」した「ボランティアただ論」を修正する絶好の機会でもある。

 

4   「居場所」を作っただけでは活動は生まれない

  居場所を作っても活動は生まれない。福岡県の青少年育成の特別プログラム「アンビシャス広場」の轍を踏んではなるまい。今更言っても愚痴になるが、学校を開放すれば大金を投じて沢山の「広場」を作る必要はなかったのである。その金は活動のソフトに廻せたはずである。子どもの興味関心を刺戟し得る豊富なメニューを準備し、指導者への報償やボランティアの費用弁償に廻すことができた筈である。「地域の教育力」とは地域で行なわれる「活動プログラムの総体」である。教育環境と活動プログラムは弁償法的に相互に作用する。確かに環境はプログラムや意欲を生み出すが、百花繚乱のプログラムもまたいきいきした地域の教育環境を創造するのである。どっちが先きかと問われれば、プログラムの創設が先きである。子ども達がいきいきと活動を始めれば、必ず地域の雰囲気が変わる。腕まくりして加勢を申し出てくれるボランティアも生まれる。結果的に環境が変わるのである。外国のコミュニティ・スクールを研究すれば、学校活用のモデルには事欠かない。そこで行なわれるプログラムの事例も山ほどある。足りなければ日本流に発明すればいい。学校を舞台に「土曜スクール」を創設した優れた教育長はすでに実践している。文科省は学校開放を言う前にどんな活動メニューが可能なのか福岡県穂波町へ聞きに行くべきである。「居場所」を作って、在り来たりの指導員を配置するだけでは、子どもの自由活動が活性化する保証はほとんどない。

 

5   なぜ、いつまでも「放課後児童健全育成事業」(「学童保育」)を無視するのか?

   文科省は、少年の施策を担当しながら少年の総合的な教育・福祉を考えていない。それゆえ、案の定、今回の学校開放構想においても学童保育には全く触れていない。「学童保育」と言う表現は運動体や政治の手垢が付いた名称だから、法律の文言通り、「放課後児童健全育成事業」(児童福祉法第6条)と呼んだ方がいい。「児童の健全育成」であれば、教育に関係ないと言う抗弁はできまい。しかし、文科省の施策は、今回も、結果的に、己の縄張りだけを考えることになった。それゆえ、学校開放施策も既存の保育プログラムを無視した相変らずの独善と蒙昧に終わる。

   周知の通り、男女共同参画は女性の願いであり、国の方針である。今やどの町でも女性の就業率は上がることはあっても下がることはない。それゆえ、ほぼ例外なく「放課後児童健全育成事業(学童保育)」を実施している。核家族社会において女性が就労すれば、子どもが学校から帰っても家には誰もいない。「放課後児童健全育成事業」はたまたま福祉行政の担当であるが、放課後や週末の居場所を作るということにおいて何ら目的は変わらない。学校を開放するのであればまっ先にこの事業を学校施設に受け入れるべきである。これまでその利用を拒否して来たことの方がおかしいのである。社会的かつ学業上の成長期にある学童の保育は、同時に教育指導を兼ねていなければ意味が半減する。「健全育成」とはそういう意味である。しかし、新聞発表で見る限り今回の施策と学童保育との連携の視点はまったくない。その新聞発表も、おそらくは文科省記者クラブの担当記者が役所の発表を鵜呑みにして記事にしたのであろう。勉強不足の記者には学校開放施策と学童保育を連携させる視点はない。したがって、批判もない。現代の「見張り役」を自認するメディアも又不勉強であり、論理的な批判精神がない。構造改革における「特区構想」において、「幼保一元化」を認めようと言うのであれば、放課後の学校開放と「学童保育」の連携もまた自明のことであろう。メディアの不勉強の故に、役人の縄張り根性と不勉強がまかり通るのである。記者は己の不勉強の恥を知るべきである。

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