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生涯学習通信

「風の便り」(第102号)

発行日:平成20年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 男女共同参画の核心-「なぜ家事はそんなに辛いのか!?」

2. 非権力行政」としての「社会教育」推進

3. お知らせ: 第84回生涯学習フォーラムin行橋-福岡

4. 形式と内容 -社会的承認と親睦のさじ加減-

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

非権力行政」としての「社会教育」推進

1  「社会教育局長」を囲む会

  九共大古市勝也教授のご要望にお応えして昔話を記録しておきます。教授のご質問は「社会教育」と「社会教育行政」を初めて峻別した時代にさかのぼります。キーワードは「非権力行政」としての「社会教育」です。30数年前のことです。
 当時、筆者はアメリカから帰国して、はじめて国立社会教育研修所に職を得ました。見習いの「教務係」でした。表題の文言をお聞きしたのは当時の文部省社会教育局長今村武俊さんを囲んだ非公式セミナーの席上でした。当時の国立社会教育研修所(以下社研)には最長3ヶ月にわたる社会教育主事の研修があり、都道府県から派遣された社会教育主事の先生方はそれぞれが選択した課題の小論文の執筆を課されており、みなさん苦しんでおりました。今村局長は月に一度くらいの割で霞ヶ関から上野の社研にまでお出でになり、研修生を集めて「社会教育局長を囲む会」という非公式なセミナー形式の学習会を主催していました。多忙な局長が自ら指導に乗り出すということは前例のないことで、筆者の知る限りこの時以前も、この時以後もなかったことだと思います。もちろん、当時の社研が組んだ正規の研修プログラム外で行われたことでした。「見習い」の筆者も局長に許しを得てセミナーの末席に座っておりました。

2  「社会教育を行うもの」と「社会教育を行うものを支援するもの」

  今村局長が最も強調されたことは、「行政は社会教育の中身に直接関わったり、立ち入ったりするな」、という一点でした。学校教育の例を引かれて、「教育を行う者(先生)」と「教育を行う者を支援する者(学校教育行政)」とは区別されなければならないということでした。学校の場合は、「教育の中立性」を保証するということが建前上前面に出ていたことは周知のことですが、残念ながら先鋭化した組合運動の中で「中立性」が守られなかったこともまた周知の事実でした。児童・生徒には「中立性」が守られていようと、いまいと為すすべがないことは明らかでした、しかし、社会教育の場合は事情が異なります。今村局長には、社会教育における、「先生」と「先生を支援する行政」を峻別し、任務分担を明確にすることで、社会教育における市民の主体性を確立するという意図があったことは明らかでした。学ぶべき「先生」も「中身」も、選ぶのは「市民」であるという明確な原則に基づいていました。市民は学習の主体であり、自己教育の主体であり、したがって、社会でおこなわれる社会教育の主体であるべきであるという発想が根本にありました。現在では、アメリカの生涯学習法(Lifelong Learning Act of 1972)の精神に倣って、日本でも「生涯教育」の用語は、学会などを除いてほとんど使われなくなりました。学習を選択するのは「市民」であるという観点から、「生涯教育」は「生涯学習」と言い換えられたのです。発想の根本を「市民の主体性」に置いたという点で今村発想は時代に先行していました。なるほど当時の社会教育行政は、市民の意向に関わらず、社会教育主事のような行政関係者が市民の中に出向いて講義や実技指導を行うのは普通のことでした。
  局長の指導を経て私たちは「社会教育主事」の役割を主として4分野に限定したのです。分野の設定は「市民の要望」を前提として帰納的に導き出されたものであると考えて間違いないでしょう。第1は個別の学習プログラムの立案と編成、第2は地域全体を配慮した学習支援計画の作成、第3は社会教育施設の配置計画(まだ、当時は施設が未整備でした)、第4は社会教育関係職員の研修と配置でした。翻って、「社会教育主事」が直接市民の学習指導に当たることは固く戒められたのです。


3  「非権力行政」サービスとしての「社会教育」推進

  筆者にとって印象的だったのは、「非権力的行政」という言葉でした。局長によれば、行政の99.9パーセントは「権力作用」であるということでした。「権力作用」とは、市民に対する指示、命令、禁止などを行い、それらの行政意志が貫徹できない場合には、行政権限に基づく処罰、報償、補助あるいは補助の停止などを行うということです。根拠は「法令」と「規則」です。但し、社会教育行政や福祉行政の一部だけがこの「権力作用」に依存することのない「非権力的」行政サービスであると言うのです。換言すれば、「非権力行政」とは具体的に、「指示はしない」、「命令はしない」、「強制はしない」ということでしょう。
 逆に、「非権力的」行政は、その目的を達成するために、「法令」や「規則」に頼らず、「水路付け」、「動機付け」、「応援」、「つなぎ」、「紹介」、「社会的承認」、「行政事務の代行」などを行うということになります。社会教育推進の「行政サービス」は「サービス行政」であるべきだということだったと思います。いわゆるお役所仕事では社会教育の推進はできないということです。したがって、公民館主事や社会教育主事に要求される最重要の資質は「人間関係の応援機能、調整機能」に集約される、というのが筆者の理解でした。「こまめ、足まめ,愛嬌と笑顔」が不可欠要因であるということです。あれから30年この実感は変わっていません。
 先月は中・四国・九州地区の第27回目の生涯学習実践研究交流会でしたが、多くの発表事例の成功の背後には、例外なく、内容論・方法論に先行する担当者の「応援と調製」の優れた機能が潜んでいることが分かります。
 また、この27年間で、生涯学習実践研究交流会(以下「交流会」)への参加を職員研修の代替機能に指定した自治体がいくつかありました。拝見した限り、こうした自治体の試みのほとんどは失敗に終わりました。
 「交流会」にはお金がありませんので、大部分の方々は手弁当で、ご自身の興味と関心を拠り所にして参加されます。ところが、出張旅費が出た上、人間に興味がなく、お役所仕事しかできない人々は、まず大会仲間と話が合いません。そもそも大会の中身にも関心がありません。研修義務の重圧から逃れるために、途中で蒸発して博多へ遊びに行くか、大会の裏方を手伝ってくれた女子大生にちょっかいを出すかで、邪魔になりこそすれ、大会から学ぶことはなかったでしょう。
 権力行政の哀しさは、「水路付け」、「動機付け」、「応援」、「つなぎ」、「紹介」、「社会的承認」,「行政事務の代行」などを自らの「必要機能」として認知しなくても、「法令」と「規則」の通りに仕事をすれば務まるということです。「愛嬌」」や「人間味」がなくてもお役所仕事はできるということです。「交流会」が通常の行政研修会とまったく異なった雰囲気を持ち続け得たのは、「参加義務」がなく、すべてを「手弁当」の論理と手法で構成していたからです。結果的に、参加者の主流は「非権力的サービス」の意味を痛切に分かっている人々になりました。「交流会」は、「水路付け」、「動機付け」、「応援」、「つなぎ」、「紹介」、「社会的承認」の交流だからです。
 生涯学習が環境から健康まで人間生活のあらゆる分野に広がっていることを思えば、生涯学習推進行政が教育委員会から市長や県知事が所管する首長部局へ移行することに理論上は大賛成です。しかし、最大の問題は首長部局の大部分の職員は「権力行政」には慣れていても、「非権力的」な「応援と調製」のサービスのトレーニンングは受けていません。人間関係を根幹とする「サービス行政」(行政サービスではない!)のトレーニングを受けていないということです。それゆえ、市民が自ら実力をつけて行政と向き合う日が来るまで首長部局の生涯学習支援は「法令」と「規則」と「口先」だけの冷たいものに終始することになるでしょう。「非権力的社会教育推進行政」がふたたび希薄化するという点で、今村局長の指摘が不幸な現実を招来することになるだろうということです。前号にも書きましたが,「衣食住」に「生涯学習」を加えて「衣食住学」の時代に入ったのに,生涯学習推進行政が後退の一途を辿っているのも、時代はすでに「非権力的サービス行政」を忘れ去ったということなのです。


 


 

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