HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第81号)

発行日:平成18年9月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 日米のコミュニティ・スクール観−視点の違い

2. 平成18年度 夏学期「豊津寺子屋」 子ども評価

3. 第70回生涯学習フォーラム論文概要

4. 第70回フォーラムレポート『子育てネットワークinふくおか』

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

平成18年度 夏学期「豊津寺子屋」 子ども評価

1 子どもの興味・関心、感動の対象は千差万別

  寺子屋は異年令の集団である。当然、発達段階が異なり、体力、気力、知識、技術、背景を為す体験の厚みも異なる。その分、興味の対象も、感動の対象も異なる。したがって、子どもの記憶に残った「誉められたこと」も、「叱られたこと」も異なる。子どもが「頑張ったと感じたこと」も、子どもが「楽しいと感じたこと」も、「子どもが初めて出来たと感じたこと」も千差万別である。両親に「自慢したいこと」はさらに具体的に細かく分かれる。
  寺子屋プログラムは目標とする子ども像に添って編成されなければならないが、同時に様々な個性に対して多様でなければならない。指導者層の豊かさと多様性が活きるのはこの時である。「へなへなの子ども」を見れば身体を鍛えることは寺子屋の中心課題であるが、そこにも多様な方法があり、多様な感じ方がある。ドッジボールやプールから始まって、キャンプやカヌーやニュースポーツのカロリーングやアジャタにいたる多様性は極めて重要である。また、「耐性」の鍛え方も同様に多様であり得る。酷暑の中、冷房のない体育館の活動に耐え、プール、カヌー、キャンプに挑戦し、宿題、昼寝、掃除、後始末などルールに律せられた生活を送る。「難しかった」という子どももいれば、それが「楽しかった」という子どももいる。全体プログラムを見れば、ところどころに苦手な活動があっても、集団の中で「みんなそうする」から「私もそうする」という「同調行動」がいつのまにか子どもを鍛えて行く。「多様性」と「変化」と沢山の指導者の「複眼の評価」こそが寺子屋の真骨頂であろう。

★夏休みの寺子屋でいちばん頑張ったこと  
(1項目回答:回答者120名、回答分類総数27)(数字は回答者数)

1 手話・指文字24
2 スポーツ(ドッジボールほか)19
3 宿題の勉強17
4 竹細工8
5 魚釣り8
6 発表会(練習を含む)6
7 いろはカルタとり(暗唱とゲーム)5
8 プール/水泳5
9 カレーづくり4
10 下級生の世話4(以下省略)


2  子どもの「回答」は重複し、錯綜している

  質問紙の調査項目は一応領域別に分類している。「努力の対象」はなにか、「困難体験」はなにか、「成就感」はどこからきているか、「子どもは何を楽しんだのか」、父母には「どのような報告をしたいのか」、「誉められたこと−叱られたこと」は何かなどなどである。後の分析に都合のいい領域分類である。しかし、子どもの「回答」を読むとこれらの調査者側の分類があまり有効ではなく、分類が意味を為していないことが多い。当然ながら、子どもの「回答」は領域をまたぎ、連続し、相互に重複・関連し、錯綜しているのである。
  子どもにとっては「努力したこと」は「困難な課題」と同じであり、その結果、できるようになったことも「困難な課題」であり、「成就感」も、「達成感」も「努力した困難な課題」から湧いてくるのである。それ故、父母に報告したいのも同じ課題である。指導者への便りでは多くの子どもが、各自のそれぞれの「努力の対象」や「困難な課題」を取り上げ「○○を教えてくれてありがとうございました」と書いている。それゆえ、子どもの回答の「関連性」・「連続性」は領域別の設問に現れた「頻度」を別々に見ただけでは分らない。この種の調査の限界である。
  ひとり一人の子どもの回答の中で多様に「分散した」のは「楽しい体験」だけであった。努力の結果「達成したこと」の楽しさもあるが、気晴らしや仲間との競争のように「努力」や「頑張り」を必要としない楽しみもたくさんある。「楽しみ」では子どもの回答が一気に分散する。また「楽しみ」は沢山あって、5つも6つも書いている子どもも多い。回答総数が量的に増大するのはそのためである。
  それゆえ、寺子屋のプログラムは子どもの「楽しみ」だけを追求してはならない。子どもの興味・関心を過度に重視して編成される活動プログラムでは、活動が「拡散」せざるを得ない。「拡散」したプログラムで子どもの「鍛練」を実施することは難しい。子どもの「楽しみ」を優先すれば、子どもが「拒否する」課題は導入が難しくなるからである。「子どもの主体性」重視論に依拠したプログラムが危険なのはそのためである。子どもの「自主性」といえば一見聞こえが良いが、現代の未熟な子どもの「自主性」にはわがままも勝手も混入している。現代日本の「欲求の野放し」状態を「価値観の多様化」とか「自主性」と呼んではならない。まして、自己制御のできない子どもの肥大化した自我を「主体性」や「自主性」と置き換えてはならない。
  それゆえ、鍛えるべき発達上の課題や、育てるべき成長期の行為・行動が曖昧なまま、子どもの指導にあたってはならない。明確な子ども像、明確な発達支援の方向が打ち出されていない子育て支援では、「努力」や「挑戦」や「成就感」や「誇り」や「自信」を生み出すことは難しい。子どもの欲求に追随しがちな「児童中心主義」の危険はこの点にある。

★「できるようになったこと」
(2項目回答:回答分類総数41項目)

1 「手話」−「指文字」「うえを向いて歩こう」45
2  竹細工(竹で箸を作れるようになった)28
3  囲碁 22
4  将棋 17
5  プール(泳ぎが上達した) 17
6  ドッジボール(ドッチビー) 13
7  カローリング 11
8  カレーライスの準備・野菜切り、火を燃やすこと 9
9  「あめにもまけず」の朗唱 8
10 新しい歌を覚えた/キャンプの歌を歌える7(以下省略)


3  寺子屋は「非日常体験」の場であった

  子どもにとって夏の寺子屋は「非日常体験」の場であった。もとより家庭は日常そのものであり、学校もまた日常化している。寺子屋だけが普段には存在しない「非日常」の空間であり、環境である。それ故、始めてやったことも多く、ほとんどの体験は「新鮮」である。毎日10時間の異年令集団の共同生活も初めてであろう。地域の熟年を中心とした第3者の指導も初めてである。小学校時代は「種まき」の時代である。近い未来に「たね」がどのような芽を出すのか誰も分らない。少年ラグビー指導者の名言のように、中学校へ行き,部活動で『野球』の芽が出てもいい。高校で『サッカー』の花が咲いてもいい。大学で『テニス』の種が育ってもいい」のである。
  寺子屋は「詩人」の種も、「研究者」の種も、「政治家」の種さえ播いている。しかも、方法は机上の学習ではない、全身で取り組む体験を通した「体得」である。子どもの管理と安全だけを主たる目的とする「学童保育」が不十分であるのは、体験の巾も、体得の指導も欠如しているからである。

4  楽しいことのなかった子どももいた/心に残ったことは何もない

 「草取り」ですら楽しかった子どもがいた一方、たった一人ではあったが、「楽しいことのなかった」子どももいた。「ない」、「なし」、「ない」と書き続けるアンケート用紙の向こう側に子どもの不幸が見える。荒涼たる回答の背景は、集団への適応に失敗したのであろうか。それとも、友だちもできず、指導者にも心を開かなかったのであろうか。夏休みに寺子屋へ通わなければならない事情にも納得していなかったのかも知れない。具体的に、問題を解く鍵はないが、実行委員会も指導者も「心に残ったものはない」と答えた少年が居たことを忘れてはなるまい。

★楽しかったこと
(複数回答:回答分類総数38項目)

1  スポーツ・ドッジボール 70
2  プール 32
3  魚釣り 17
4  トランプ 17
5  カレーづくり 17
6  キャンプ 16
7  カローリング 16
8  上をむいて歩こうの手話(指文字をふくむ) 13
9  へびおに 12
10 むかしあそび 11(以下省略)


★難しかったこと
(2項目回答:回答分類総数42項目)

1  手話(指文字を含む) 43
2  竹細工のおはしづくり 36
3  新スポーツ・カローリング 24
4  魚釣り 20
5  キャンプのフォークダンス 11
6  カルタ取り(覚えること) 10
7  手芸・ブローチづくり 9
8  そめもの 7
9  カレーづくり 7
10 プール 6(以下省略)


5  よくぞ誉め、よくぞ叱って下さった

  子ども達は誉められたことは鮮明に覚えている。子どもに対する指導者の細かい観察と気配りが「誉められた子どもの記憶」の中に生きている。しかし、叱られたことは、特別記憶に残ったもの以外は"幸運にも"忘れてしまっている。「忘れた」とか、「叱られていない」という回答がいちばん多いのはそのためであろう。あれだけ「へなへなで」、あれだけ怒鳴られていて、叱られていないはずはないのであるが、子どもは叱られたことを当然と受取り、その場で行為・行動の修正をしたことであろう。あるいは、叱られた不幸を蓄積していないということは、その場で修正はしても、反省してはいないということかも知れない。「特別記憶に 残ったもの」は反省材料である。「叱られた項目」の一覧表を見れば一目瞭然、指導者は叱るべきところを外していない。見過ごせば、寺子屋活動が阻害され、時に事件・事故に繋がりかねない。よくぞ誉め、よくぞ叱ってくださった、ということであろう。

★ほめられたこと
(1項目記述:回答分類総数42項目)
1  朗唱の声が大きく出た時 9
2  そうじをがんばったとき 9
3  手話が上手にできた時 7
4  昼寝をちゃんとした 6
5  速く整列できた時 5
6  先生の話をよく聞いた 4
7  宿題がよくできた 4
8  みんなの靴をそろえた 4
9  荷物をきちんと整理した時 3
10  班を良くまとめた 3(以下省略)

★しかられたこと
(1項目記述:回答分類総数32項目)

1  ありません 29
2  昼寝をしないでしゃべっていた(あばれた)15
3  あばれたとき・戦いごっこをした時8
4  すぐならばなかった/きをつけをしなかった 6
5  けんかをした時 5
6  宿題の時騒いだ 4
7  バスケットゴールに登った時 4
8  姿勢がわるい 3
9  先生の話をきかなかった 2
10 いじめ・ふざけて嫌がらせをした時2(以下省略)

★父母への自慢 (3項目回答:回答分類総数45項目)

1 手話(指文字を含む)を覚えたこと 67
2 いろはカルタ・論語カルタが全部(半分)言える 29
3 初めの歌「あめにもまけず」をおぼえたこと 25
4 料理・炊飯・カレーをつくること 17
5 竹細工で箸をつくった 17
6 手芸/バッチづくり/花づくり(コサージュ)14
7 将棋が強く(うまく)なった 14
8 囲碁ができるようになった 10
9 4か条の心得が言えるようになった10
10 ドッジボール・ドッジビー10(以下省略)

6  紋切り型のお礼

  昨年度も同じであったが「指導者への通信」は型通りの紋切り型である。面白くも何ともない「お世話になりました」、「ありがとうございました」が続いている。「無記入」も多かった。
  設問は「先生方にお便りを書こう」、であった。それぞれのご指導場面に思い出がないわけではないだろうが、一般論の設問が悪かったのであろう。漠然たる「便りの指示」ではまだ子どもに書く力がないのはこの2年間であきらかであった。「頑張ったこと、難しかったこと、楽しかったことなど、これまで習った先生のご指導で思い出すことがあったら、お礼を込めて書いてみよう」というような設問にしたら書くことはまだまだあったかも知れない。
  アンケートの最後は「なげやり」になる。文体も、文字も乱雑でひどい。多くの子どもに書き続ける意志の欠如が感じられる。子どもには記入を続ける「丁寧さ」とその背景を為す「耐性」がいまだ足りないのである。「耐性」のトレーニングは、寺子屋の指導過程はもとより、日本の幼少年教育の中心課題である。

★指導者通信(自由記述:回答分類総数39項目)

1 「色々ありがとうございました」「色々できるようになりました」などのお礼40
2 もう一度魚釣りがしたい2
3 まいにちたのしかったです。また、おねがいします。2
4 網中先生、厳しくて、恐かったです。2
5 まいにちたのしかったです。また、おねがいします。2
6 息継ぎを教えてくれてありがとう。
7 トランプのマジックを教えてくれてありがとう
8 ほめることにも怒ることにも感謝、色々教えてもらって感謝。頑張ろうと思いました。
9 寺子屋には暇な時間がない。でも、友だちはいっぱいできました。
10 竹細工教えてくれてありがとうございました。(以下省略)

 

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002-, Seiichirou Miura ( kazenotayori@anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文等の転載についてはこちらからお問い合わせください。