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生涯学習通信

「風の便り」(第59号)

発行日:平成16年11月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 幻想ではないのか?−「こころを育む」シンポジューム

2. 幻想ではないのか?−「こころを育む」シンポジューム(続き)

3. 「型」の教育

4. 第51回生涯学習移動フォーラム報告:溺れるほどの「論語」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

5  「見えるところ」を指導する

   心とは自分と他者との関係の意識である。こころを育てるとは関係の意識を育てることである。しかし、意識には形も色もない。形状の無いものを教育は捕らえようがないのである。しかし、多かれ少なかれ、「自分と他者の関係の意識」は子どもの態度・行働に現れる。個人の態度・行働は、人間関係および社会の役割によって規定されているからである。もちろん、人間の意識が態度や行為に直結しているという保障はない。「潜在意識」ということもあり、「無意識」の内にやってしまったということもある。さらに、自らの意識を裏切って考えてもいないことを態度や行為に表すこともままある。行為と意識とが乖離する代表が「偽善」であろう。目に見えないこころにも、目に見える態度や行為にも様々な難しい条件はあるが、教育は「見えるところ」を指導すべきである。「見えるところ」だけが具体的に修正できるからである。「見えるところ」だけが確実な結果として残るのである。「親切心」を言葉で説くことはできるが、それが子どもに届いたか、否かは常に不明である。それに反して「親切」な態度や行為は必ず外に表れる。親切な態度を教えることは可能である。親切な行為の模倣も可能である。それゆえ、反復も可能である。態度や行為は形になって現れ、人々の反応も、子ども達の振る舞いも観察可能である。社会が求めているのは「こころ」であろうが、社会が確実に手に入れることができるのは「態度」や「行為」である。「親切なこころ」が実現できなくても、「親切な態度や行為」が実現できれば、社会は格段に明るくなる。教育が果たすべき役割はそこまでである。教育には「業」や「原罪」の重荷は背負い切れない。慾と煩悩を背負った人間の改変を教育に期待することは「無い物ねだり」に等しい。それらは神や仏の領域である。教育界にいるものが「こころ」を育て得るなどと思い上がった錯覚に陥ってはなるまい。
  「こころ」を育てられないのは「教育方法」が間違っているからではない。「こころ」は教育の手には負えないだけである。しかし、社会生活上期待される態度や行為が育てられないのは、教育が間違っているからである。教育は人間の「業」や「原罪」に対しては歯が立たないが、社会生活上の態度や行為を育成し、曲がったものを矯正することはできる。教育は態度と行為を育てることに徹するべきである。それが作法であり、それが礼儀である。それが社会生活の「型」である。あらゆる行動の「型」は社会の役割によって規定されている。「こころ」を育てることは難しいが、「役割」を取得させることは可能である。何故なら、あらゆる役割は人間関係の中で決定されるからである。社会で生きて行く上での役割は役割取得によって獲得する。それゆえ、「しつけ」は両親を始め、親しい人々との関係の中で身に付ける役割を意味する。そしてルールや規範の遵守は、社会一般の人々との関係の中で身に付ける役割を意味するのである。


6  「偽善のすすめ」

  教育が「こころ」を育てようとするのであれば、「意識」や「言葉」を捨てて、「態度」や「行為」を育てるべきである。「意識も言葉」も、「態度も行為」も他者との関係の中で決まるが、前者は常に抽象的であり、後者は常に具体的である。
  教育におけるこころのトレーニングの対象は、役割意識ではなく役割である。奨励するのは責任感ではない。責任の遂行である。褒めるべきは協同であり、助け合いの言葉ではない。勧めるべきは親切であり、親切な思いではない。一生懸命が大事であると教えるより、一生懸命集中させることの方が重要である。がん張りが大事だと教えるより、努力を継続させることが重要である。辛くても耐えよと口だけでいうより、実際の困難への挑戦こそが課題である。
  教えるべきは態度であり、行為である。たとえそれらが子どもの意識と乖離した「偽善」であったとしても、親切な行為は現実を裏切らない。「かっこ」だけでもいいのである。「かっこ」だけでも付けさせることが大事である。嘘でも仕方がないのである。嘘でもやり続けさせることが重要である。「ばかなまねを3年も続ければ、文字どおりの馬鹿であろう」。同じように、「親切の役割を3年も続ければ真の親切になる」。仮面の「ぺルソナ」が、仮面のおのれを演じ続けることによって「パーソナリティ」に変質して行くのである。心の育み方に機関の違いはない。家庭も、学校も、地域も、「礼」や「徳」を説く代わりに、それらの具体的な行為を教えるべきである。


7  忘れられた概念−体得

  人間が「分かる」ということのなかには、論理的に理解する「学習」と、肉体的・感覚的に実感する「体得」がある。学習も、体得も「学ぶこと」には違いないので、両者をひっくるめて学習という場合もあるのでややこしい。学校教育が行なって来た「授業」の大部分はまさに前者の学習である。したがって、体育を除く教科の大部分は、教科書で学び、教室で学ぶことが出来る。それゆえ、学習の方法も成果もその大部分は言語に翻訳可能である。一方、「体得」は、教科書でも、教室でもほとんど学ぶことは不可能である。体得の方法と結果はその多くが感覚的理解であり、肉体的実感であり、そのプロセスを言語に翻訳することは困難である。
   問題の根本は、学力の大部分は「学習」が可能であるが、「生きる力」の多くは「体得」せざるを得ない、ということである。「こころ」の学び方は不明であるが、態度や行為は体得するしかない。
  体力も、耐性も、道徳性も、感受性も、論理的に「学習」するものではない。身体的、感覚的に「体得」するものである。それゆえ、学力の教授を専門として来た学校にとっては苦手な分野である。学力の大半は授業と演習で学習することが出来るが、「生きる力」も社会生活の態度も、行為も、論理では学ぶことが出来ない。「体得」することが不可欠である。教育行政や学校の最悪の間違いは、教科と同じく、こころを教えることができると錯覚していることである。

8  やったことの無いことは出来ない

  知識は頭で学ぶが、態度と行為は五感を通して学ぶ。こころと言葉を混同してはなるまい。態度と行為を育てようとするのであれば、体得を重視しなければならない。学校に教科の領域があるように、体験にも領域がある。日本語は国語を通して学ぶように、特定の行為は特定の行為体験を通して学ぶ。責任ある態度は責任の遂行を通して学ぶ。−やったことの無いことはできない−のである。結果として育つのが責任感である。協力は協力体験を通して学ぶ。−教えていないことは分からないからである。−結果として身に付くのが協力的態度である。親切は親切な行為を繰り返して身に付くものである。−練習していないものは上手にはできない。−技術も、礼儀も、作法も、親切な行為も反復して始めて自然にでるようになる。
  「偽善のすすめ」とは「こころ」より「態度や行為」を優先させることである。「態度や行為」は社会が承認した「価値」に基づいている。教えるべき「価値」は、子どもの存在にも、意識にも先在しているのである。子どもが生まれた時に、すでに「価値」はあったということである。「価値」は子どもが選択するものではない。社会が選択するものである。
  「偽善のすすめ」とは、子どもの「こころ」の有る無しにかかわらず、社会が必要としている「態度や行為」を「他律」によって実行させることである。言葉を飾らずに言えば、「他律」とは「価値」の強制であり、「枠」の設定である。必要とされる「態度や行為」は、社会的行動の「型」である。


9  子育ての精神−実践して始めて「子は親の鏡」


   子育ての精神はドロシー・ノルトの名言に尽きるであろう(*1)。ノルトは「子は親の鏡」と書いたが、書名のオリジナルのタイトルはChildren Learn What They Live(子どもは生活の中で学ぶ)である。それゆえ、正確には「子は接する人の鏡」ということであろう。もちろん、親が接触頻度第一であるから、「子は親の鏡」で実際は何ら問題はない。しかし、親がノルトさんの言う「精神」を持っていなかった時、周りの誰かが同じ「精神」で子どもに接しなければ子どもは救われない。教師や地域の指導者が重要なのは言うまでもない。

「子は親の鏡」
けなされて育つと、子どもは人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「可哀想な子だ」と言って育てると、子どもはみじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込み思案な子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば、子どもは自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
褒めてあげれば、子どもは明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは思いやりを学ぶ
親正直であれば、子どもは正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは正義感のある子に育つ
優しく思いやりを持って育てれば、子どもは優しい子に育つ
守ってあげれば、子どもは強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもはこの世はいいところだと思えるようになる           (石井千春訳)


(*1)  ドロシー・ロー・ノルト、レイチャル・ハリス共著,子どもが育つ魔法の言葉、石井千春訳、PHP、1999年、p.1

   ノルトの言葉は名言であるが、すべては態度と行為に"翻訳"されなければ、意味がない。珠玉の名言は数多くあるが、実践されない名言に意味はない。「こころ」が育たないのはそのためである。学校が「こころ」を育てられないのも教えの実践を欠いているからである。
 

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