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生涯学習通信

「風の便り」(第59号)

発行日:平成16年11月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 幻想ではないのか?−「こころを育む」シンポジューム

2. 幻想ではないのか?−「こころを育む」シンポジューム(続き)

3. 「型」の教育

4. 第51回生涯学習移動フォーラム報告:溺れるほどの「論語」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

幻想ではないのか?−「こころを育む」シンポジューム

1  「こころ」概念の拡散

  過日、佐賀県の教育週間の行事で「こころを育む」をテーマにシンポジュームが行われた。長崎県が進めている「こころ根っこ」運動も聞いていたので、この問題については前々から関心があった。メディアも「こころの闇」などと分からない事を分かったかのようにいうので大いに反発を感じているところでもあった。以下は当日言いたかったことを整理し、あらためて小論の形にまとめたものである。
  そもそも教育行政がいう「豊かなこころ」こそが余りにも曖昧な概念であり、余りにも情緒的なアプローチなのである。そもそも「こころ」とはなにか?どうやって育てるのか?どのように捕らえるのか?確かに「こころやさしい子」は存在する。しかし、「こころやさしい子」の「こころ」と「こころやさしくない子」の「こころ」はどこがどう違うのか?「こころ豊かな子」の「こころ」と「こころ豊かでない子」の「こころ」はどこがどう違うのか?学校教育には「こころ豊かな子」を育てるカリキュラムはあるのか?それがあるとして、努力の結果、「こころ豊かな子」は育っているのか?育ったか否かをどのように判断するのか?
  これらの疑問を明らかにしないままに、論議を続けても論理が噛み合うはずはない。心配した通り佐賀県のシンポジュームでも論点は混乱した。最大の理由は、「こころ」についての認識がバラバラだからである。「こころ」の概念理解が人によって異なり、「こころ」に関するプログラムが拡散しているのである。議論が焦点化できないのはそのためである。
  しかしながら、渦中に放り込まれる事によって、当方の問題意識は鮮明になった。現場に参画することのありがたさである。司会者にとってはさぞやストレスが大きかったであろうと同情を禁じ得ない。この種のシンポジュームは登壇者に発言を任せず、「こころ」を分析する論理を想定し、主催者が細かく設定した質問を一問一答の形で問題の輪郭をはっきりさせて行く方法が必要である。

例えば、
Q1  子どもの「こころ」をどのように捕らえますか?「こころ」を別の言葉で説明しようとしたらどんな表現になるでしょうか?
Q2  例えば「やさしいこころ」を持った子とはどのような子どもをいうのでしょうか?「豊かなこころ」の子ではどうでしょうか?
Q3  「やさしいこころ」の子の「態度」や「行為」はどんな振る舞いでしょうか?
Q4  「やさしいこころ」の子の「ふるまい」と「こころ」は一致していると考えていいでしょうか?  
Q5  「やさしいこころ」の子の態度や行為はいつも「やさしいふるまい」でしょうか?


2  捕らえ難き「こころ」  

  「移ろうこころ」、「迷えるこころ」、「測り難きこころ」、「女心」、「男心」に至るまで「こころ」は昔から不可解である。心理学者はこころについて万巻の書を表している。しかし、日常生活の中で「こころ」を捕らえることは未だ出来ていない。シンポジュームの会場で、不幸にも万引きに走った子どものお父さんから意見が出た。父は子を連れて当のお店へお詫びに行くという。立派な対応である。しかし、問題は万引きをした子の行為はこころの問題なのか?それとも行為や態度に還元すべき問題なのか?シンポジュームでは議論の機会を逸した。「でき心」という日本語の表現は行為と意識の間の「グレイゾーン」の存在を暗示している。「遊び心」も同様であろう。行為・行動はしていても「こころここにあらず」ということもある。「行為」と「心」の間は時に分裂している。それゆえ、「偽善」が存在する。親切と親切心が分裂するとその行為は「偽善」になる。当然理屈の上では不親切な奴が親切を演じる事ができる。「おためごかし」、「親切ごかし」という。「ごかし」はさかさまの意味である。「親切ごかし」は親切のふりをしているに過ぎない。しかしながら、「親切のふり」に価値はないのか?「親切」と「親切のふり」はどこがちがうのか?
  カウンセリングが流行らせた「役割演技」というのは「親切のふり」ではないのか?意識を伴わない「役割演技」は「役割ごかし」ではないのか?しかし、筆者は「役割演技」を軽視しているのではない。「役割演技」は重要である。「親切のふり」を馬鹿にしているのではない。逆である。「親切心」以上に「親切なふり」が重要であると考えている。

3  「業と原罪」

  心は色も形を持たない。心は一定させることが難しく、うつろい易い。心理学者が何を言おうと教育実践は形の無いものを、確たる方法もなく追いかけてはならない。まして、言葉だけで指導が出来るなどと錯覚してはなるまい。人間の心の奥底は基本的に教育の手には負えない。歴史的に、人間の欲望は神や仏の領域であった。長崎県香焼町の武次さんとの交流を通して、かつて45号に「業と原罪」の一文を書いた。そのポイントは以下の通りである。

神仏の領域

   人間のことが人間自身に良く分からないところがある以上、対処できるものと、対処できないものがあるのは、当然のことである。肉体を鍛えて、体力を向上させることはできる。世の中の規範を教えることもできる。しかし、教えたことを内面化することができるかどうかは必ずしも保証できない。少年の凶悪犯罪が起るたびに、「心の教育」が必要だと行政は言う。しかし、何をどうすれば「心の教育」ができたことになるのか?方法論の根拠の説明も、実践結果の証明もできないであろう。
   もちろん、教えないよりは、教えた方がいいに決まっている。しかし、いつの時代も、教えたからといって教えたとおりに少年が生きる保証はない。道徳的行為や社会的行動は強制してでも実現することはできる。しかし、行為が行なわれたからと言って、心がその行為を支えていたかどうかは分からない。人間の欲求や性癖は簡単には制御できない。仏教はそれを人の『業』と呼んだ。大晦日に百八つの鐘を突くのは人の煩悩を払うためだと云う。百八つの煩悩があるというのである。毎年、毎年それを行なうのは、人は『業』から逃げることはできない、ということを意味している。同じようなことをキリスト教は人間の「原罪」と呼んだ。要するに、人は生まれながらに邪悪を背負った罪人なのである。「業」も、「原罪」も、心の「罪」である。心の教育は人間の手には負えないことが多い。それは原則として神仏の領域である。宗教は、人間性の中に「悪」や「堕落」の存在を前提としているのである。それは神や、仏が救済すべき事柄である。
   通常の教育にとって「業」や「原罪」に基づく「悪」や「堕落」は守備範囲の外である。「心の教育」という発想は甘いのである。「業」も「原罪」も、人間の理性や通常社会の営みでは解決できることではない。だから人は神仏に祈り、宗教にすがるのである。(「風の便り」45号)

  教育は、「形の無いもの」を追いかけてはならない、とすれば「形のあるもの」とは何か?それが「態度」や「行為」である。教育指導は子どもの態度や行為に焦点化すべきである。形のあるものは測定と判断が可能である。「こころ」は測定も、判断もできない。変化の測定ができなければ、いつも教育は情緒的、観念的、結果的にいい加減にならざるを得ない。正すべきは「態度」である。教えるべきは「行為」である。もちろん、「態度」が出来ても、「行為」が行われてもそれで子どもの「こころ」が育った証明にはならない。人間の意識と行為は時に、分裂・乖離するからである。


4  人間の「個体性」を甘く見てはならない

  筆者は、人間の最大の特徴を「存在の個体性」であると考えている。人間の存在は個体であるため、己の肉体を通してしか物事を感じることができず、己の意識を通してしか物事を認識できない。「痛み」も、「苦しみ」も個体に所属している。それゆえ、「個体」は原則として「他者」を理解することはできないのである。筆者がもっとも尊敬する日本人のことわざは「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」である。日本人の痛烈な事実認識である。個体は原則として他の個体と痛みを共有できない。傷ついているのは当の個体であって、その痛みは他の個体には伝達不可能である。ことは「痛み」に限らない。「淋しさ」も、「辛さ」も、「人恋しさ」も原則として他者には伝わらない。共感や感情移入は基本的に人間関係の稀な例外である。しかも、相手のことが分かったつもりで分からないことは日常のことである。共感したと思っても錯覚であることが多いのは世の常である。
  長崎で娘を同級生に殺された父の悲嘆はわれわれの想像を超えている。その父が様々な検査や、カウンセリングや、審判を経た後の加害者の子どもの「心のそこが見えない」と怒りといらだちをあらわにしていた。当たり前のことである。心理学者の愚説を信じて、この父も、どの子にもこころがある筈だと錯覚しているのである。加害者は単純な憎しみや自分勝手な怒りに任せて行動している。そんな子どもに他者を思いやるこころ等あるはずはない。他者の立場に我が身を置き換えてみる等という芸当もできるはずはない。人間らしい「こころ」があるだろうという想定が間違っているのである。心が形成されていない者に「心の底」などある筈はない。したがって、「ある筈もないもの」を覗くことはできない。「態度」も、「行為」も、そして「こころ」も、人間が他者およびまわりの存在物と関わる中で形成される。子どもを取り巻く環境が子どもの「態度」も、「行為」も規制しない時、こころはもちろん、態度も行為も形成できるはずはないのである。人間の「個体性」を甘く見てはならない。極論すれば、狼の群れで育てば、人も狼にならざるを得ないのである。それが「社会化」の原理である。
 

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