HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第40号)

発行日:平成15年4月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 未来課題−未来予測(第21回大会デルファイ調査)、自由席

2. ”小人の閑居”−学校週5日制の1年、八王子市の「教育特区」構想

3. 熟年の共感

4. 進化する図書館 −第34回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

熟年の共感

   久留米と福岡のグループに少年問題の原理を問われた。以下の小文をもって筆者のレジュメとして提出した。出席していた熟年者の共感を頂いた。自分達はこのようにして育って来た、というのが実感だそうである。そうであるなら、日本はどこで間違えたのか?

二つの原因

   子育ては保護に始まる。しかし、子育ての目的地は「保護を必要としない状態」である。それを「一人前」と呼び、「自立」と名付ける。それゆえ、自立のためには、子育てプロセスのどこかで保護を止めなければならない。「保護」が止められない時、「自立」には到達しない。

子ども達に様々な問題が生じるのは二つの原因がある、ひとつは、保護を必要としているのに保護を与えない時である。他のひとつは、保護ばかりして、自立のトレーニングが不足した時である。児童虐待とは、前者の極端なケースである。過保護・過干渉とは後者の極端なケースである。日本のような「子宝の風土」において、保護が不足する事態は稀である。何故なら、国民の基本感情において、子どもは宝であり、生活の中心だからである。宝を大切にし、宝を守るのは「子宝の風土」の自然である。

やったことのないことは出来ない

   子どもの保護に走るのは、子どもの身に予想される事故を恐れ、怪我を恐れ、失敗を恐れ、挫折を恐れるからである。心配の余り何もさせなければ、そこから体験の欠損が生じる。子どもの体験不足は、保護の過剰が原因である。子どもはやった事のない事は出来ない。教えていない事は上手に出来ない。がまんしなければがまん出来るようにはならない。責任も役割も分担した事がなければ、責任感は育てられない。したがって、現代日本の少年が当面する危機の大部分は保護の過剰によって生じたものである。学級崩壊も、不登校も、非行も、閉じこもりも、積極性の欠如も、ルールを守らないことも、原因の大部分は学校や社会にはない。本人の弱さにある。本人の弱さは、家庭教育にある。子育てのプロセスにおいて、子どもは守られ過ぎている。課題を克服するだけの鍛え方をしていない。しかし、原因が分っているのに対応しなかった責任の大部分は教育行政と学校にある。一部分は「地域の教育力」と呼ばれた子ども会や青少年育成協議会など社会にある。何故なら、子どもを弱くする原因は疑いなく家庭にあるが、家庭の弱点を補って子どもの弱さを克服する責任は学校と社会にあるからである。家庭が出来ない事は、学校が補えばいいのである。欠損体験の結果、体力も、耐性も身に付けていなければ、僅かな不本意が事件になる。戦後日本の教育は、学校までも過剰な保護の思想が支配した。今も支配している。そこに少年問題の根本がある。

「見られる女優」

   生涯学習フォーラムの男性企画委員の平均年齢は上がる一方である。おのずと関心は我身の衰えに及ぶ。みんなそれぞれに自戒・自衛してはいるが、如何せん「老いとは衰弱と死に向かっての下降(ボーバワール)」である。ソフトランディングは可能であるが、衰えをとめることは出来ない。これまでの長い経験から青少年教育一つを取っても新提案もあれば、修正提案もある。しかし、むかしのように「ほら!こうしてやるんだ」と言うほどの気力はない。始めたとしても、続かないことは目に見えている。月一度のフォーラムと「風の便り」で限界である。

   ”いろいろやりたいがエネルギーの総体が落ちていて、悔しいね。”と筆者が口火を切ったらもっぱら衰え対処法の話になった。そして、最後は、心がけとしての「見られる女優は美しい」という九女短大の古市提案の話になった。女優は人に見られているので美しくなり、優れた女優はますます人に見られるようになるのでさらに美しさに磨きが掛かるのであるという「説」である。どこかの生涯学習シンポジュームで古市さんが提案した「説」だそうである。そのシンポジュームに同席していた福岡県穂波町の森本教育長は、古市提案を覚えていて常々心掛けて来たような口ぶりであった。道理で彼の身だしなみには隙がない。

   東和大の正平さんは、福岡県を退職されたあと、”当然?”背広を脱いだ。すぐに作業にかかるのだからと、初めから、ラフな格好で「生活体験学校」へ出かけて行くようになった。ところがある日、かつての部下から”だらしのない”格好で来るなら来て欲しくないと言われたと言って笑った。振り返って、自由業になって以来の自分は”だらしのない”格好の典型である、と自戒せざるを得なかった。

   いろいろ聞いている内に、知人の女性生涯学習課長がかつてしみじみと述懐したことを思い出す。彼女が出会う文化関係のグループの中でも、際立って踊りのお師匠さん達が若いそうである。すべてにおいて、70歳、80歳が50歳、60歳に見えるという。信じられぬほどの若さの秘けつは、人に見られて、日々正装し、毎日身体を使っているからなのであろう。政治家も同じなのであろう。選挙に圧勝してインタビューに応じている石原都知事が70歳であるとは到底見えない。鍛えた肉体と対人関係の緊張感が為せるわざなのであろう。使い込んで行けば、肉体も頭も衰えが緩やかになるということである。生涯スポーツと緊張感のある生涯活動こそ若さの源泉ということに間違いはない。

   筆者はむかし習った「貧乏という名の先生」の教えを守って「ものもち」がいい。これまで世話になった靴は11年も履いた。草臥れた靴は、誇りとは言わないが一種の自慢であった。”見てくれ”にこだわらぬ「質実剛健」はわれらの時代のスローガンの一つでもあった。ところが先日、とうとう妻が堪忍袋の緒を切らして靴屋さんに連れて行かれ、無理矢理新しい靴を買うことになった。「自由業」とは言え、講演や講義を生業とする以上、「人に見られている」のである、というのが妻の理由であった。だらしがないのは「見ている人に失礼である」、「いい加減にしなさい」、というのが妻の論理であった。「俺は俺だ」と思ったものの妻と口論するエネルギーがすでにない!

   幸いにも企画会議にその新しい靴を履いて来ていたので、足を挙げてみんなに御披露した。どうも妻の方が正しいらしい。古市提案を受け入れて新しい背広でも買おうかと考え始めたところである。ところで、「見てもらいたくない女優」はどうすればいいのだろうか?それがこれまでの「学校」ではなかったか、という飛躍した結論になった。学校選択制は「見られる学校」を作ることなのです、と森本教育長が胸を張った。

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002, Seiichirou Miura ( kazenotayori@anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文等の転載についてはこちらからお問い合わせください。