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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第39号)

発行日:平成15年3月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 校長と子雀、「基準論」再考−感想の断片

2. 少年問題の根本−熟年の共感、司会者は「レフリー」

3. ダイレクト・メソッドの常識−英語の授業は英語で!!、

4. 第22回大会総括   「継続」と「力」−「革新」と「伝統」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

少年問題の根本−熟年の共感

   久留米と福岡のグループに少年問題の原理を問われた。以下は筆者のレジュメである。熟年者の共感を頂いた。自分達はこのようにして育って来た、というのが実感だそうである。そうであるなら、日本はどこで間違えたのか?

   子育ては保護に始まる。しかし、子育ての目的地は「保護を必要としない状態」である。それを「一人前」と呼び、「自立」と名付ける。それゆえ、自立のためには、子育てプロセスのどこかで保護を止めなければならない。「保護」が止められない時、「自立」には到達しない。子ども達に様々な問題が生じるのは二つの原因がある、ひとつは、保護を必要としているのに保護を与えない時である。他のひとつは、保護ばかりして、自立のトレーニングが不足した時である。児童虐待とは、前者の極端なケースである。過保護・過干渉とは後者の極端なケースである。日本のような「子宝の風土」において、保護が不足する事態は稀である。何故なら、国民の基本感情において、子どもは宝であり、生活の中心だからである。宝を大切にし、宝を守るのは「子宝の風土」の自然である。

   子どもの保護に走るのは、子どもの身に予想される事故を恐れ、怪我を恐れ、失敗を恐れ、挫折を恐れるからである。心配の余り何もさせなければ、そこから体験の欠損が生じる。子どもの体験不足は、保護の過剰が原因である。子どもはやった事のない事は出来ない。教えていない事は上手に出来ない。がまんしなければがまん出来るようにはならない。責任も役割も分担した事がなければ、責任感は育てられない。

したがって、現代日本の少年が当面する危機の大部分は保護の過剰によって生じたものである。学級崩壊も、不登校も、非行も、閉じこもりも、積極性の欠如も、ルールを守らないことも、原因の大部分は学校や社会にはない。本人の弱さにある。本人の弱さは、家庭教育にある。子育てのプロセスにおいて、子どもは守られ過ぎている。課題を克服するだけの鍛え方をしていない。しかし、原因が分っているのに対応しなかった責任の大部分は学校にあり、一部分は社会にある。何故なら、子どもを弱くする原因は疑いなく家庭にあるが、家庭の弱点を補って子どもの弱さを克服する責任は学校と社会にあるからである。家庭が出来ない事は、学校が補えばいいのである。欠損体験の結果、体力も、耐性も身に付けていなければ、僅かな不本意が事件になる。戦後日本の教育は、学校までも保護の思想が支配した。そこに少年問題の根本がある。

司会者は「レフリー」

   本年2月の津和野移動フォーラムに「インタビュー・ダイアローグ」(質問・対話集会)の方法を取り入れて以来、司会のあり方に注目している。総じて、日本社会の司会は「発言の順番整理」の雰囲気である。テレビ番組等を見ても、一部の人気番組を除けば、その多くに「司会者の意志」が稀薄である。まして一般の会議は問題にならない。「順番整理」も「時間管理」も時には出来ていない。日本の会議が延々と続き、しかも非生産的なのは、誰も発言の指揮を取らず、誰も合意に至る道筋を示さず、時には、協議すべき事の原案すらもないからである。

   日本には自らの意志を持った『リーダー』が少なく、その多くは会議の『議長』に過ぎないという指摘を読んだ事があるが、その前提には、「議長」は「取りまとめ役」であって、「指揮者」ではない、という発想があるのであろう。あの人は「リーダー」ではなくて「議長」だよ、と言う時、司会者には「リード」する意志はない、ということが前提になっているのであろう。日本の会議を見ていると、なるほど、そのような印象を否めない。しかし、「司会」に当たる英語を考えた時、presideにしても、cordinateにしても、少なくとも「主宰する意志」、或いは「調整する意志」を持つ事は前提になっている。「会」を「司っている」のである。日本のリーダーはリーダーに非ずして「議長」に過ぎないという時の議長は、やはり「日本型の議長」だったことに思い至るのである。「議長」は意志を持たないわけではない。日本型の「議長」だけが「意志」を持つ事を”禁じられている”のかも知れない。反面、テレビの人気討論番組は、司会者のユニークな「意志」の故に、人気があるということに気づかされる。司会者文化の例外は貴重なのであろう。

   それゆえ、「司会者」が意志を持つという事は、先ず、「ルールの遵守」である。それゆえ、司会者の第1任務は「レフリー」機能である。発表を3分にするといった時は、3分にコントロールし、質問を5人で打ち切るという時は、5人にコントロールしなければならない。協議題に関係のない発言は排除しなければならない。

  発表者はリング上で必死に戦っているので、我を忘れがちであるが、レフリーが選手に引きずられて我を忘れるようでは、会議はなりたたない。レフリーは試合の指揮者である。登場者がルールの範囲で、懸命に戦ってこそよい試合が生まれる。それゆえ、時に、レフリーは戦いを導かなければならない。柔道で選手の戦う意欲が稀薄であると判定されれば、減点の対象になる。よい試合を指揮するために、レフリーは明確な意志と判断力を与えられているのである。同じように、生涯学習の司会者も論点・論理が明確になるよう、時に「同時要訳者」となり、ときに「突っ込み」の質問者にならなければならない。司会者はリング上、或いはグランド上のレフリーなのだと考えるようにすれば、「司会の意志」を持つ事がより容易になるのではないか、と考えた次第である。

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