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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第38号)

発行日:平成15年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 伝統の再点検

2. 「聞き取り調査」の声、質問者の独白

3. ペンシルヴェニア便り−大学の学習環境−、 想像力の向こう側

4. 第32回生涯学習フォーラムin津和野

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

ペンシルヴェニア便り −大学の学習環境−

   米国ペンシルヴェニア州立大の藤本徹さんから毎月の便りが届く。彼我の学習環境の違いの大きさを知らないわけではないが、藤本氏の指摘で改めて知的生産を支援する基本条件の重要さを思い知ることになった。以下は便りの引用である。

      『授業の課題で文献調査をする必要があって、ここのところずっと大学図書館のDatabaseにアクセスして作業している。大学図書館の文献やDatabaseが充実しているおかげで、作業もずいぶん効率よくできる。蔵書の数や設備の充実もそうだが、なにより論文データベースの充実がありがたい。大学で数多くの商用データベースと契約していて、学生はすべて無料で利用でき、かなりの論文をオンラインで全文掲載されたものを入手できる。おかげで図書館を走り回ってコピーしたり、引用部分を打ち直したりする手間を大幅に軽減できる。日本ではそうした手間にかけていた時間を調査の質と量の改善のために使えるので、必然的に私の論文の質も上がる(と思う)。

      私の学部生時代は、論文の参照文献を増やそうにも、必要な文献は大学の図書館では手に入らず、遠くの図書館に出向いて120円払ってコピーをとってくる必要があった。そのため肝心の研究よりも雑用に時間がとられた。時には文献調査が不要なテーマ設定をしてそうした面倒を回避することもあった。当時の私の周りの学生や今の学生を見ても、先行研究のレビューに時間をかける学生はあまりいなくて、そのやり方すら身につけないまま卒業していく学生の方が多い。

      こうした現象は日本の大学生が不勉強だからという理由で片付けられがちだが、実は学習環境の充実度の差が大きく影響していることがよくわかる。アメリカの大学では、この図書館サービスの充実のように、学生の学びを促し、方向付けていく環境を提供するためにかなりの予算を使っている。図書館専任の教授がいて、図書館の質向上やサービス改善、利用者のスキル教育などのために時間とお金をかけている。大学生は一年生の時からこうした環境で研究することで、文献研究のスキルも早い時期から身につく。その後の研究活動もさらに弾みがつく。

      かたや日本の大学は、図書館に力を入れているつもりでも、学生の学習活動を促進するという目的を共有できていない管理者とスタッフによって運営されているために、必然的にサービスの質は低くなる。また、図書館に限らず、予算があっても学生とは無関係で費用対効果の低い変な建物を建てたり、名前だけ立派で付加価値の低い研究組織の運営費に回していたりする。今ちょうど日本では、経済悪化の状況打開に大学が貢献するであろうという過度な期待のもと、多額の税金を使って大学の研究環境を整備する動きがある。この結果、安易な発想で性急につけられた予算を消化しようと、あちこちに先端○☆センター、とか◇△研究所といった研究施設が乱立することになるだろう。しかしいかにそうした建物や組織を作っても成果は限定的にならざるを得ない。なぜなら大学の生産性が低いのは、教育機関としての基礎的なサービスがきちんと提供できていないことと、そのせいで人材が育っていないことが主たる原因である。それらをケアしないうちにいくら先端的な研究施設を建てても、いわゆるソフト不在の問題を繰り返すことになるのは目に見えている。今までにも同じような発想で、利用率の低いがら空きの建物を山のように作ってきているのに、未だに学習できていない。

      全文ダウンロードができる論文データベース、快適なインターネット環境、それを活用するためのサポートがあって、深夜や休日でも利用できる図書館が整備されれば、その環境を使って学生たちが大学の価値を生産してくれる。図書館に限らず、大学の生産性を高めるために必要なことは何かという観点で議論すれば、本当に金をかけるべきところは見えてくるはず。イメージがわかなくて困っているのであれば、日本から一歩外に出るだけで、手がかりになるような良いお手本があちこちに転がっている。』

   藤本氏の指摘はすべてあたっているであろう。問題はアメリカの大学に出来て、なぜ日本の大学に出来ないか、である。結論だけをいえば、第一は、「評価システムの有無」である。評価システムは、教員、スタッフの契約制に始まる。契約条件はとりもなおさず任務終了後の評価基準を意味するからである。契約とは、社会との約束であり、学生との約束である。日本の教員が契約を嫌うのは、約束を嫌うことを意味する。約束は己を縛り、約束の不履行は社会の信用を失い、さまざまに”処遇上の賞罰”に繋がる。約束とは「努力」の別名であり、「義務」の別名である。然るに、約束がないところ、努力と義務の観念が薄くなる。わが国のシステムに契約が入らないのは、約束の実行にあたって、教授会メンバーの多くが第三者の評価に耐えられないからである。

   第ニは、一貫した経営チームの存在である。換言すれば、教授会の権限を制約し、経営担当チームが教授・研究活動と教育活動の監督・機能分担を行なっている。図書館の支援システムをきめるのは教授会ではない。経営担当チームである。経営チームは、個々の教員の利害関係から相対的に自由であり、意思決定も格段に早い。評価結果の処遇への反映も明快である。大学活動の評価が不満足であれば、契約に基づいて、経営チームを交替させる。大学評価もまたシステムの一部であり、その結果は社会、学生に向って公表される。もちろん、教授・研究の成果が不十分であれば、契約に基づいて教授を解雇する。この2点がアメリカの大学の水準を支えている。構造改革とはこのようなことを実施に移すことである。日本の大学が行くべき道は遠い。


想像力の向こう側

1   6、433本のローソク

    1月17日は阪神大震災の8周年である。テレビも新聞も人々の哀悼の集いを大々的に報じた。気を付けて見ていたが、犠牲の大きさの原因に言及した報道は見つけられなかった。毎年思うことであるが、6、433本のローソクはあまりにも多すぎる。恐らく当時の政治判断が正常に機能していれば、犠牲者は遥かに少なくて済んだはずである。問題は災害時の想像力の貧困である。

   地震は火事を発生させる。家屋の倒壊も避けられない。消火と人命救助は地震の第一対応の筈であろう。素人でも分かることである。だとすれば、道路は緊急車輌のためにただちに封鎖されなければならない。ビルの屋上もヘリコプターの離発着のために、一時的に救助隊が確保しなければならない。外国人の医師が活動出来るように、通常の、医師免許法のようなルール上の規制も解除されなけれならない。要は、非常事態宣言が必要であり、自衛隊の出動も必要であった。当時の村山総理大臣、兵庫県知事の責任は重大である。犠牲者の死の多くは彼等の不作為と想像力の欠如の結果である。当時の自衛隊の指揮官は出動命令が出ないことを悔しがってインタビューで泣いていたが、後で泣くくらいなら、何のために指揮官までの地位に登ったのか?彼は職を賭して人命のために働く千載一遇の機会を逃したのである。命令無しに自衛隊が動けば、結果的に彼は首になったであろう。しかし、多くの家族の中に彼の献身は記憶され、恐らくは日本の歴史も記憶したであろう。啄木が歌ったように、「我はいつにても立つことを得る準備あり」、をしらなかったのであろう。生涯学習に関係はないが、問題はシステムを機能させる想像力の問題であろう。1月17日が巡るたびに、私に同じような機会が巡って来ないものか、と夢想することがある。

2   国際交流論の無力

   テレビ朝日のニュースステーションは、北朝鮮から中国へ脱出して来た日本人妻の安全保護の問題を連日報じた。報道の趣旨は日本国民である日本人妻をなぜ政府・外務省はさっさと保護しないのか、ということである。邦人保護は国家の責務ではないか、というのである。論旨に間違いはないが、意見番組にしては、ニュースステーションは時に想像力が貧困である。それゆえ、批判は一方的である。問題は外務省ばかりにある筈はない。邦人保護が出来ない真の理由は中国にある。番組は少なくともこの報道の中で、中国に対する批判をしていない。難民条約を批准しないのも、NGOの活動を認めないのも中国である。自由も人権も尊重はしない。北朝鮮を擁護して来たのも基本的に中国である。日本人妻が表にも出られないのは中国当局の摘発を恐れているからである。外務省の責任だけを問うて、中国といういい加減な国の責任を問わないのは余りにも一方的である。外務省のことは、何を言っても今のところ国民の怒りを買うことはないであろうが、外務省だけを責めるのは番組がいい加減だからである。いい加減の背景には想像力の貧困がある。ここ数年批判の矢面に立たされた外務省が助けることのできる邦人を助けないということがあろうか?当然、水面下の努力も続けているだろう。問題は日本政府の及び腰の要請など意に介さない中国であり、中国に対して及び腰にならざるを得ない政治の態度、日本人の態度である。経済至上主義の財界は13億の市場価値を前に中国側の多少の理不尽には目をつぶらざるを得ない。安価な労働力に注目して進出した多くの日本企業を抱えている限り、政府も無碍に強硬な態度は取ることが出来ない。しかし、中国が共産主義独裁国家であることは明白である。政治活動の自由も、宗教活動の自由も、教育活動の自由もない。中国がチベットの主権を武力で制圧したのは周知の事実である。蛇頭という中国マフィアも事実上野放しである。コピー商品を始め世界中の著作権、特許権の侵害も事実上野放しである。要するに、自国の支配体制を絶対とする極めて問題の多い国なのである。中国という問題国家を抜きにして、日本人妻の安全は保証できない。ニュースステーションも言えないが、政府も本当のことは言えないのである。日本人妻の安全を確保できない真の理由は中国である。中国に言うべきことが言えず、日本人妻を見殺しにしているのは日本の経済事情である。

   この問題も生涯学習にはほとんど関係はないが、国際交流が一筋縄では行かない事例にはなる。『文化には「違い」はあっても上下はない』。『この事を理解する事が文化理解の最大の課題である』(平成8年中央教育審議会の第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育のあり方について」)そうだが、生涯学習が言う国際交流論が如何に無力であるかを痛感する。

3   体罰の増加

    ”体罰 公立小で再び増加”、と日経が報じた(2002年12月25日、朝刊)文部科学省が調査した「生徒指導上の諸問題調査」(確定版)によると公立の小中高校で、体罰の疑いがあるとして学校が調査に乗り出した件数が増加している。発生校数も、関係教員、生徒数もすべて増加したという。新聞も文科省も増加の理由には触れていない。「注意深く見守る」というのがコメントである。

   想像力の向こう側には、しつけの悪い、集中力の欠如した小学生が大量に発生している。したがって、授業には集中出来ていない。先生方も、思いあまって教室の隅に立たせたり、げんこつの一つぐらいはくれてやることになる。先生方は、学校教育法第11条の体罰禁止は知っているが、内閣法制局長官の解釈が言うように、正座や立たせることまでが体罰に含まれているとは考えてはいない。尻を叩いたり、軽いげんこつの一つぐらいは許されて然るべきであるという感覚であろう。ところが保護者の中には内閣法制局解釈と同じくらい厳密な体罰解釈論者もいる。また、子どもは自分のことは棚に上げて、叱られたことだけを大袈裟に言う。学校と保護者の信頼関係が希薄になっている時、ほんの少しのことが感情的に行き違う。教育委員会や校長に電話が行くのはそういう時であろう。子どものしつけと学校教育法11条の抜本見直しをしないかぎり、教育現場は”悪がき”がかき回し、教員は畏縮し、親は学校監視的になり、この種の記事がメディアで繰り返されることになる。取材した記者に想像力が足りなければ、体罰が増加している背景についての質問はできない。「注意深く見守る」などと言う間抜けなコメントを載せるだけになるのである。 

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