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「風の便り」(第106号)

発行日:平成20年10月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「感化論」再考

2. 「感化論」再考(続き)

3. 男社会が目をつぶって来た「傷害罪」

4. 男社会が目をつぶって来た「傷害罪」(続き)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

男社会が目をつぶって来た「傷害罪」

1 DVは「傷害罪」ではないのか?
 どのようにして調べたのかは分かりませんが、最近、勉強の過程で読んだ本(*)の中に、ドメスティック・バイオレンス(DV)の解説と資料を見つけて,愕然としました。
 解説文の見出しには「5人に一人の女性が配偶者から暴力を振るわれた経験を持つ」とあり、また20人に1人は「それによって命の危険を感じたことがある」とありました。この場合,被害にあった女性が加害者と婚姻関係のない第3者であった場合,暴力の行使はれっきとした「「傷害罪」になるでしょう。まして「それによって命の危険を感じたことがある」という場合は,事と次第によっては「殺人未遂」にもあたることになるでしょう。それゆえ、警察のいう「民事不介入」を隠れ蓑にして,男社会はつい最近まで明らかな「傷害罪」を放置してきたということでしょう。(多くの女性もまた止むなく目をつぶって来た、ということでしょうか?)現行のDV法によって,暴力を振るった亭主が「接見禁止」になっても,「逮捕されることはめったにない」ということは,DV法の施行後ですらも妻に対する暴力の多くは、「傷害罪」として捜査される事は稀で,放置されたままであるということです。私生活において、このように妻の「5人に1人」が「力ずく」に泣かされているということは,「筋肉文化」がさらにその「病い」を「深くしている」ということでしょう。男社会の支配原理が、つまるところ、「力ずく」であるということは、まさしく筋肉文化の最大の特徴であることは繰り返し論じた通りです。しかしながら,男が女に暴力を振るうということは、男社会の「らしさ」の建前までが腐ってしまったということを意味しています。「男らしさ」は、筋肉文化(男社会)が作ったジェンダー(性役割分業が生み出した価値と感性)であることにまちがいありませんが、必ずしもそのすべてが女性に敵対するものではありません。ジェンダー・フリー論者にはお気にめさない論点でしょうが,男社会が建前とする健全な男らしさの中には、力において自分より劣るものを、いじめたり、叩いたりすることを恥とするという精神の基準も含まれていたのです。関東の片田舎に育った筆者も子ども時代にそうした訓戒を受け、女の子をいじめたり、まして叩いたりすることは、即、「おとこ」であることの資格を失うことと教えられたものでした。そうした基準に照らせば、昨今の「男らしさ」は何と廃れたものでしょうか。
 文化の取り扱いは誠に難しいものです。この世をジェンダー・フリーにして、男女の性別役割から生まれたすべての「らしさ」を否定することは、時に,「筋肉」の力がむき出しになる「危うさ」を含んでいるのです。男女共同参画の時代が来たとしても、実質上、個々の男女の筋肉の働きの優劣は変わりません。男女の筋肉の優劣がもたらした労働や戦争のあり方やその社会的意味を変えたのは、文明であり、機械化と自動化の技術に過ぎないからです。この先さらに文明が進化して、男女の筋力差の社会的意味が消滅したとしても、個人の「力づく」では、平均的に、断然、男が優っているという事実は変わらないのです。それゆえ、男の筋肉の暴走を抑制し得る「価値と感性」の基準を、「ジェンダー」だからという理由から全否定して、法と平等論だけでDVを止められるのか、いまだ答は出ていないのではないでしょうか?
1 加藤秀一、石田 仁、海老原暁子著 図解雑学ジェンダー、ナツメ社、2005、p.68

2  DV犯罪者は野放しか?
 
「傷害罪」の実質的放置状況に触発されて、引き続きDVに関するレポートを読み続けました。なかでも夫の暴力に泣いた妻の証言集にはつくづく気が重くなりました。男社会というのは、家庭という私的領域を「聖域」と線引きをして、外部の干渉を断ち、時に犯罪者を野放しにしてきたのだということがよく分かりました(*2)。
 証言の中には,DVという言葉すらも存在しなかった時代を綴っている被害者もいました。DVはその他の性犯罪に次いで筋肉文化が抱え込んだ男性側の汚点です。家庭内のもめ事が限度を越して暴力沙汰になった場合でも、夫婦間の私的なことだからとして警察を始め「民事不介入」であると、男全員が(時には女性も)目をつぶってきました。家庭のほかに行きどころのない男女のもめ事が、多くの場合、「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」として、通常の人間関係の外に置かれざるを得なかったことは確かだったでしょう。しかし,現行刑法が、他者に対する暴力を処罰の対象とし、「傷害罪」や「暴行の罪」を適用する以上、論理的には,DVもまた「傷害罪」を構成する「犯罪」であると断定せざるを得ないでしょう。
 証言集を読み、5人に一人という統計的に推定されたDV被害の多さを考えれば、近年の筋肉文化は「男らしさ」の教育にすら失敗したと言わなければならないのです。「男らしさ」は、法でも、規範ですらもありませんが、多くの男を律して来た美学であり、生き方の基準でした。文化人類学者ルース・ベネディクトは日本文化を「恥の文化」と呼び、「他者に対して恥になることはしない文化」と名づけました。学校教育も社会教育も男に「男らしさ」を教えなくなった分、近年の男の「恥の基準」が著しく低下したことは疑いのないことでしょう。ジェンダー・フリー論者の指摘の通り、「男らしさ」は男性優位の社会が作りだした「価値と感性」の差別的基準であることに疑いはありませんが、その基準を全否定したことによって、辛うじて男が守って来た筋力の劣る者に対する「庇護者の美学」も破壊したのではないでしょうか?何とも文化は厄介なものだと思いますが、残されたのは「法」と「平等」の論理だけ、ということになっているのです。
(*2)ドメスティック・バイオレンス 女性150人の証言、原田絵里子・柴田弘子編著、明石書店、2003年


 

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