Games for Health終了

 Games for Healthカンファレンスは盛況のうちに終了。200人以上の参加者で会場はにぎわっていた。面白いセッションが多く、ウェストバージニア州のDDR導入プロジェクトの最新情報、救急訓練MMO、外科手術の訓練へのゲーム利用、子ども向けガン知識教育ゲーム「Re-mission」の開発過程の話、など、注目されている医療健康分野のシリアスゲーム事例の最新情報をたっぷり吸収できた実りの多い機会だった。
 我々の発表も無事に終了。ちょうど昼頃の良い時間帯だったので、結構参加者が集まってくれた。日本での脳トレ系ゲームの動向、ナムコのリハビリテインメントゲーム、ナムコ&早稲田大学の「ゲームの処方箋」プロジェクト、ユードー&慶應大学の「映像のないゲーム」、SGラボのゲームデモなどを日本の最新情報として紹介、解説した。いずれも反応がよく、この分野の人々からの日本のゲーム開発者へのリスペクトの高さを感じた。共同発表者の別府さんには、ご専門のヘルスコミュニケーションの視点で、医療健康をテーマにしたゲームのレビューをしていただいた。乙女ゲー「ラブレボ」の世界観には、聴衆は好奇の表情で聞き入っていた。日本のアニメはアメリカに相当に入ってきているので、若者向けのコンテンツ開発においては、こういうテイストの絵を描ける人々への需要もこれから高まりそうである。
 発表後、みんな口々に「Nice presentation」「Great work」と声をかけてくれて、お世辞でも悪い気はしない。ウェストバージニア州のプロジェクトのセッションの時に、中学生の男の子が出てきて、DDRの実演と同州の導入プログラムの感想を発表していて、聴衆は温かい目で見守って、励ましていたのが微笑ましかった。たぶん我々の発表に対してもかなりそれに近い感じで、期待のバーを下げて聴いていてくれたのだろうなという感じである。でも、終わった後に「発表スライドをほしい」というリクエストをいくつか受けたのは、手料理を作って持って行ったら「美味しかったからレシピくれ」と言われるのに近い嬉しさを感じた。こうやって褒め合って、励まし合って、お互いに価値を高め合っているところは、アメリカ人の持つ文化的な美徳であり、社会資本としても相当に大きいと思う。
 今回は別府さんと一緒に仕事ができたおかげで、負担は半減して気楽にやれたし、カンファレンス以外の時間も行動を共にできて、旅の楽しさも倍増して、とても楽しい滞在になった。カンファレンスが終わって、ボルチモアのシーサイドのレストランで、明るいうちからビールを飲み飲み、(こんな感じの)美味いシーフードも食べ、今回のミッションは全て達成できた(別府さん、お世話になりました&ごちそうさまでした)。これで良い形で一つ仕事が片付き、安心して引き続きの執筆&研究活動へ戻ることができる。

まもなくGames for Health

 今週はボルチモアで開催されるGames for Healthカンファレンスに参加する。発表もしてくる。これでシリアスゲーム関連のカンファレンスでの発表は3回目になるのと、今回はヘルスコミュニケーション研究者の別府さんと共同発表で、自分のパートは露払いのようなものなので、結構気楽にやっている。
 でも気楽といっても、他に抱えている案件の重さと多さに紛れてわけがわからなくなっているだけな気もするので、やや気楽にやり過ぎな気がするのはあまりよろしくない。その一方で、ソロよりも仲間がいると気分的な負担が軽くなるというところはかなりある。なのでやっぱりいつもよりは気楽だ。
 今回もささやかながらも日本代表のようなものだし、期待されるところはきちんと果たしてきて、せっかく海の近くの街に行くので、シーフードでも食べて帰ってくれば、今回のミッションは達成という感じである。カンファレンスが終わって帰ってきたら、だんだんすごいことになってきている著書と博士論文の前半部の執筆を進める。そうして気持ちのよい秋の日々は過ぎていく。今年でこのステートカレッジの秋空も最後かもしれないと思うとなかなか感慨深い。この秋空を楽しめるなら、もうちょっとゆっくりしていようかとも思うのだけど、なかなかそうも言っていられないのでとりあえずがんばる。

ギターヒーロー2がまもなくリリース

 米国で大人気の音ゲー「ギターヒーロー」の続編、「ギターヒーロー2」のリリースが11月7日に決まったそうだ。つい釣られてアマゾンで予約購入してしまった。わざわざ予約したり並んだりしてゲーム買うかよ、とか普段は思っているのに、このゲームだけは別格。私がこのゲームをどんなに愛しているかは、以前にも少し書いたが、前作にはとにかくハマった。このゲームに関しては、実際のギターのテクニックが身につくかどうかなどという野暮なことは言わない。このゲーム自体が、音楽を楽しむツールとして完結しているからだ。もうこの歳になると何かの発売前にわくわくするようなこともすっかり無くなってしまったが、この発売のニュースには久々にわくわくさせられている。
 先日、文献を漁りに図書館に行って帰ろうとしたところ、ふと雑誌のコーナーにゲーム雑誌があるのを見つけて、表紙がギターヒーローだったので手にとって見てみた。するとギターヒーロー続編の特集で、今回のリリースの話が詳しく書いてあった。このゲームは、人気のハードロックナンバーを弾けるのが大きな売りとなっていて、収録曲リストを見たら、今度はさらにパワーアップしている。ファンの心をよくわかっている。FMラジオのロックステーションを聴いていても、今度のギターヒーローにはこの曲絶対入れろとかいう話をしてたりするくらい、みんな楽しみにしている。そんなファンの期待を裏切らないレベルの選曲になっている。
 前作の一番の課題だったのは、中級から上級に移行する時のラーニングカーブが高すぎるということだったが、今回は練習モードが追加されていて、一番苦手なところだけを集中練習できるようになっているそうだ。なにせ前作ではオジーオズボーンの「バーク・アット・ザ・ムーン」で、ハードレベルになるとソロが超人的に難しすぎてクリアできなかった。この悩みを解消する機能が追加されたということで、どこまで上達に貢献できるかを試してみたい。これがうまく行っていたら、パフォーマンスサポートとしては相当高度なものになるはずだ。
 このゲームは、ギターコントローラーを二台つなげて、友達を集めてワイワイやりながら楽しめるので、若い学部生たちにはすこぶる人気なゲームだ。だが私のような大学院生で、しかも教育系の専攻だと、周りに一緒に楽しんで遊んでくれる人はほとんどいないのが寂しい。かといって、学部生たちに交じって遊べるかというとそれもやや違和感がある。でも、独りで遊んでいても十分に楽しいので、自分の部屋でこっそり遊ぶ分には問題ない。冬休みの間、論文書きで疲れた時の気分転換には最適だ。でも遊びすぎて手を痛めないように気をつけないと。

執筆はかどる

 今日はひたすら本の原稿を書いていた。昼頃開始して、食事やうちの金魚の水槽の掃除などして息抜きしながら、約12時間、正味7時間くらいひたすら書いた。だいぶはかどって、一つの章をほぼ書き上げた。これで全体の4分の一くらい。こういう日があと4回くらいあれば、計画通りに初稿があがる可能性もでてきた。
 本を書いて出版するというのは、音楽活動で言えば、曲を作ってアルバムを出すのに近い気がする。部屋にこもって物書きが本を書いているのは、ミュージシャンにすれば曲を書いてレコーディングしているようなものである。一冊の本を書こうとすれば、本はおそらく二百数十ページくらい、音楽のアルバムは50~60分くらいがだいたいの量的な目安で、それくらいのところを目指して創作活動を進める。
 量的なものは創作の結果であって、表現したいものに合わせて決まっていく性質のものだが、それでもだいたいの世の中の相場というものがある。CDの容量以上は物理的に入れられないし、それ以上になると、2枚組仕様ということになって、扱いが変わってしまう。逆に40分以下のアルバムは、買う側側にすればあまりお得感が無い。かといって、相場に合わせて適当に詰め込めばいいというものでもない。無理して曲数を増やしても捨て曲ばかりでは、アルバムとしての全体の価値が下がってしまう。
 これは書籍についても同じである。だいたいの世の中の相場があり、その枠を意識しながら創作活動は進む。一章の区切りが一つの曲で、一章、一曲当たりの長さはまちまちで、全体のボリュームの枠の中で何章、何曲入るかが決まる。今のところ7章立てで進めているので、オリジナルで全7曲。
 ネタ的にこのボリュームに到達しない場合、対談形式の章を入れて厚みを出すという手がよく使われる。企画として面白いものはそうする価値があるが、やり方が拙いと単なる埋め草原稿になるし、かなりうまくやっても、読者の思考にシンクロしにくいので、読みづらいものになってしまうことが多い。巻末に資料的なものを詰め込んで量を増すということもよくある。これも便利なこともあるが、実際にはあまり利用されない。著名なゲストに序文や解説を書いてもらうという手もある。これは音楽アルバムのボーナストラック的なお得感を高める場合もあるので、ベターな手段ではある。
 それから、一番多いのが、過去に雑誌や何かで書いたものや講演の内容に加筆修正して原稿化するという方法である。音楽であれば、シングルやミニアルバムとして出したものをアレンジし直して収録するようなもので、これは蓄積があれば一番確実な方法である。
 今回の執筆作業では、過去に発表した小論や講演をもとにして、一部アレンジし直しながら、あとはリフだけ使って曲全体は全て書き直すような形で進めている。過去に書いた時にはそれがいいと思って書いたものであっても、今見たら何じゃこりゃという感じのものも結構あって、ボツ原稿置き場には結構な量が溜まっている。一方で、調子が出てくると、ものすごくいいフレーズに転化できることも出てくる。この辺りの感覚はとても創作をしているという感じがする。
 最初は、一部のトピックを切り出して別の論文に仕立てて、懸賞論文に出したりしようかなどと欲張って考えていたが、実力のない新人がそんな余計な色気を出しても二つヘボい作品ができるだけだろうと思って、この作品の精度を上げることに集中することにした。すると余計な雑念が減って、おかげでペースが上がった。力の無いものが下手に欲張るもんじゃないなとつくづく思った。
 オールジャンルでアピールしてビッグヒットを飛ばせる本は書けない。でもこのジャンルに興味がある人にしてみれば、捨て曲無しのしっかりしたコンセプトアルバムとして気持ちよく楽しんでもらえて、さらにはこのジャンルの市場を少しは拡げるようなものに仕上げたい。それくらいのネタはあるし、多少の下積みもしてるはずで、よけいな色気を出さずに集中すればきっとできるだろうと願いつつ。

酒飲みの理論とテニュアの話

 先日、うちのプログラムの教員の一人であるクリス・ホードレイから、プログラムのメーリングリストで、「金曜の夕方、久しぶりにハッピーアワーをやろう。いつものウィスカーズ(大学内のホテルのバー)で飲んでるよー」という呼びかけがあった。ハッピーアワーというのは、適当に集まってビールを飲むインフォーマルな飲み会で、数年前は毎月のようにやっていた時期もあったが、音戸を取る院生がいなくなってしまって、ここしばらくやってなかった。今回は、この間テニュア(終身在職権)を取ってひと段落のクリスが、呼びかけてくれた。
 呼びかけのメールが出回ると、普段は業務連絡しか流れていないメーリングリストで、ジョークが飛び交うのが可笑しい。HCI分野で有名な研究者のジョン・キャロルが、「ソーシャルドリンカーは、ノンドリンカーよりも稼ぎがいい」という研究結果が出ている。ハッピーアワーのいいトピックだろう?と反応してきた。それを聞いてジョーク好きの院生が、「実証研究はされてないが「バッファロー理論」というのもあるそうだよ」と応じる。
 このバッファロー理論というのは、酒飲みのおっさんたちのジョークで、「バッファローの群れを見てみろ、いつも遅いやつに合わせてしか移動できない。そして一番遅くて弱いやつが食われて死ぬ。でもそのおかげで少し早く移動できるようになる。これがビールを飲む人間の脳でも起こってるんだ。脳も一番動きの遅い脳細胞に合わせてしか活動できない。そしてビールを何杯か飲んで酔っ払えば、一番遅くて弱い脳細胞が破壊される。すると頭の回転が速くなる。だからみんな酒飲むと頭が良くなった気がするんだ。どうだ、わかったか。」という愉快な話である。
 そんな感じで和みつつ、ハッピーアワーには入れ替わり立ち代わりで久しぶりの顔ぶれや新しい顔ぶれに出会った。コースワークが終わってしまうと、新しい院生に会う機会は少なくなる。教授や他の院生たちも、最近こういう交流の機会が減っていて、プログラムの結束が弱まっているからもっとやろう、という話になった。酒を飲む飲まないに関わらず、社交の機会は重要な社会資本であって、それをみすみす逃しているのは、学習コミュニティを研究しているくせに望ましくない、という話である。
 クリスとゆっくり話す機会がもてたので、前から一度聞こうと思っていた「テニュアファカルティになってみてどうよ?」という質問をしてみた。すると「平日休みを取る時に他のテニュア教員にはばからずによくなったのと、あまり自分が望まない仕事を請けなくてもよくなったことので、楽になったし、周りのリスペクトも多分高まったのもあって、気分いいよ」という答えだった。
 米国の大学教員は、かなりの割合の人たちがテニュアトラックと呼ばれる、テニュア取得を目指すキャリアパスを進む。取得までの数年間は尋常でなく働いて、論文を量産して業績を上げ、大学への貢献としてカウントされる活動に励む。通常6年程度の間、その評価期間に求められる業績をあげ、審査の結果、晴れてテニュア取得となる。取得できない場合は、他の大学に就職口を求めなければならない。ノンテニュアの場合はたいがい有期か非常勤のようなポジションしかなく、雇用の安定度や大学内でも周辺的な存在として扱われることが多い。
 テニュアトラックに進んだら進んだで、数年間は相当なプレッシャーの中でマシーンと化して働き続けることを余儀なくされる。なので若い教員はみんないつも仕事に追われている。女性教員はテニュアが取れるまでは子を産んでいる余裕もないので、高齢出産のケースが多くなる。みんな多くのものを犠牲にして数年間を過ごすので、テニュア取得で一息つきたくもなる。クリスはちょうどそんな時期のようで、少し前に比べて、かなりリラックスした感じで過ごしている様子だ。
 テニュアという制度自体については、良し悪しあって、一概にいいものとも悪いものとも言えない。こういう制度は、その組織がどういうマネジメントをしたいかによって枠組を決めるべきもので、その点においては、ペンステートや他の多くの米国の大学におけるテニュアの制度は、やや硬直的なきらいがある。日本の大学でこれをやっても、評価制度の運用が雑になったりして、容易に形骸化して、不便ばかりが増しそうな気がする。
 自分がこの制度の導入の是非を判断する立場であったなら、テニュア制度ありきで考えるよりは、まず若い研究者たちが健やかによく働いて、しっかり力をつけることに寄与する制度を他に作れないのかを先に考えると思う。個人的には、テニュアは制度的にいろんな局面で不健康さを内包しているところが気に入らないので、部分的には参考にすることはあっても、真似たようなものを導入することはまずやらない。

ロックスター: スーパーノヴァ、フィナーレ

 少し前に紹介した、トミーリー率いる新バンドのリードシンガー発掘オーディション番組「Rockstar: Super Nova 」、昨夜の放送が最終回だった。
 バンドのリードシンガーの座を勝ち取ったのは、カナダ人のルーカス・ロッシ。他に最後に残ったのは、南アフリカ出身のアメリカ人ディラナ、オーストラリア人のトビー、アイスランド人のマグニと、国際色あふれる顔ぶれだった。
 4人ともかなりレベルが高く、それぞれに強みと弱みがあるところで、選び方によっては誰が選ばれることもありうるという感じになっていた。最後はバンドのメンバーの3人が、いろんな意味で一番バンドに合うルーカスを選んだというところで落ち着いた。後半の勢いと、女性ファンへの受けのよさ、それに曲作りの面でトビーが選ばれるかなと思ったが、バンドとしてはパフォーマーとしてのロック度や安定した実力ということで(ややルックスが微妙な)ルーカスの方を選んだ。たぶんこれは正しい選択だな、と見ていて納得感があったので、番組の演出としても成功だったと思う。
 3ヶ月間に渡ったこのオーディション番組、いろんな見所があってとても楽しめた。まず、挑戦者のレベルが高かったので、純粋にパフォーマンスを楽しめた。力量不足な人たちはだんだんと脱落していって、残る人々は毎週目覚しく成長していった。実力ある人たちというのは、いい競争環境において切磋琢磨させさえすれば、お互いに影響しあって、学び合って、どんどん育っていくんだなということがよく示されていた。
 回が進むにつれて、ソングライティングやメディア対応、写真撮影などのロックスターになるためのクリニックを毎週交えながら、挑戦者たちはそこで学習しながら、その様子を番組のネタとして使っていた。その中で、ステージパフォーマンスだけでは見えない、それぞれのキャラクターや強み弱みが見えてきていた。パフォーマンスの安定感ではディラナが毎週常に群を抜いていたところを、メディア対応のクリニックでミスって槍玉にあげられて失速したり、共同生活(挑戦者たちはオーディションの間ずっとハリウッドのスタジオ付き豪邸で暮らしている)の中で見えるいろんな表情で、好感度があがったり下がったりしていた。このプロセスのオーディションとしての使い方も、番組としての見せ方もうまく機能していた。
 あと、インターネットとの連動もこの番組は見事だと思ったところがいくつもある。番組の枠では放送しきれない、毎週のエピソードをネットで見れるようにしていたり、番組を見逃した視聴者のために、パフォーマンスはWebに翌日にはアップされていたりして、Webサイトにアクセスする必然性というか、アクセスしたくなる要素が豊富に提供されている。
 挑戦者のパフォーマンスも、カバーした元の曲も、Webで一曲99セントで配信されている。すでに商品になっている元の曲だけでなくて、番組内のライブパフォーマンスを切り出して商品化している。これもわざわざ買って聞いてみたいと思うだけのパフォーマンスの質あってのものだが、オンエアの翌日にはそれが売り出されているというフットワークの良さが光っていた。こういう商品は、コンサート会場のグッズ販売と同じで、気分が盛り上がっているタイミングで提供されないと意味が無いということをよく理解しているようだ。
 そして、この点は「アメリカンアイドル」と多分に共通するが、番組自体が、壮大なプロモーションとして機能している点が、この番組の興行面での優れたところである。オーディションのプロセス自体を番組化しているので、リードシンガーを選んだ時点で、十分にお披露目が済んでいるし、新曲も要所要所で小出しにファンに聞かせているので、番組が終わる頃にはアルバムのプロモーションもできている。ツアーの告知も番組内で繰り返しやっていて、すでに新年早々のコンサートはソールドアウトだそうだ。バンドのメンバーとも番組内で一緒に演奏したりしているので、リハーサルも進んでいる。
 ロックバンドとしての興行面のいろいろな仕込み作業が、番組の中でかなり進行していて、しかもそれはホンダとか、ベライゾンとか、通常はこの部分のスポンサーになりようのないスポンサーが付いて行なわれているのだ。
 この辺りは、プロデュースの妙であって、番組を単に盛り上げるというだけでなくて、関わっている人たちがいかにメリットを享受できるか、という発想で考えられてなければ、このような形にはなりようがない。「アメリカン・アイドル」と類似の番組に見えて、仕掛けの部分をよく見ると、コンテンツの作り方や見せ方、視聴者参加の仕掛けがずいぶん違う。
 番組の中に商品を登場させる「プロダクトプレイスメント」の手法もレベルが高く、クイズ番組の商品のような番組とは関わらないとってつけたような出し方や、ドラマの背景みたいな形で出しても意味が無いようなやり方ではなく、番組に上手く組み込んで、スポンサーが必ず満足しそうな形で扱われている。
 この番組のプロデューサーのマーク・バーネットは、「サバイバー」をプロデューサーしたことで知られているが、「レストラン」や「アプレンティス」など、仕事をこなすにつれて、だんだんとこの辺の仕掛けが進化していることが伺える。
 アメリカのテレビ業界は業界そのもののレベルが高いのではなくて、マーク・バーネットのような新しいコンセプトやお金の流れを作ることのできる人材を引き寄せる力があるというところに強みがあるのだろうという気がする。

何だか書けそうな気が少しずつ

 シリアスゲームを解説した書き下ろし本、「シリアスゲーム-社会の諸問題解決のためのデジタルゲーム(仮題)」を、来年早々に刊行の予定で鋭意執筆している。本一冊分の原稿を書くのはこれが初挑戦なので、あまりペースもよくわからずに進めている。
 来年一月リリースのためには、後1ヶ月で初稿をあげなければいけないらしく、そうするとかなり日程的に厳しくて、ほんとに書ける気がしなくなってきていた。そうなってくるとだんだんと士気が下がってしまって、はかどらない。
 あまりにはかどらないので、過去に書いたものに使えるものがなかったか、もう一回調べなおしてみた。そうしたら、結構原稿の素材になるものがごっそり出てきた。既存の手持ち資料よりも、出てきたものの方が使えそうなくらいだ。ボリューム的にも結構あって、これを原稿に直せば、全体の半分くらいにはなりそうな気配である。忙しくても耐えてちょっとずつ書き貯めていてよかったとつくづく思った。手前味噌としか言いようがないが、過去の自分に感謝した。おかげで、昨日まではまったく書き終えるイメージが湧かなかったのが、だんだんと書けそうな気がしてきた。
 とはいえ、本を一冊書き上げるまでというのは長丁場で、一回の勢いで一気にいけるということはないと思う。またすぐに壁にぶち当たって、疲れ果てて弱ってしまう日も何度も乗り越えないといけない。そこは出版を楽しみにしてくださっている皆さんのために頑張って乗り越えたいと思います。

新学期

 ペンステートに来て、5年目の新学期を迎えた。大学の本屋にも街のスーパーにも、新入生らしき人々が目立つ。寮の仲間とか、新しいルームメイトとかと一緒に買い物に来ているような風の人々も多い。この時期にウォルマートに行っても、定番商品の棚は空っぽだったり、レジはやたら混んでいたりしてあまり快適ではない。夏の間がとても静かなだけに、そのギャップのために人の多さをよけいに感じる面もある。
 うちに避難しても新学期の影響はある。「ジェフ、すぐ電話よこしなさい」なんていう新入生のオカン風の声の留守電が入っていたり、今朝も土曜の朝っぱら、6時半に電話が鳴って、取ってみたら「ジェイソン?」と、これもオカン風の間違い電話である。ちゃんとジェイソンにかかっていたとしても、金曜の夜に新歓パーティとかで遅くまで騒いでいたジェイソンが「母ちゃん、こんな時間になんだよ」と、だるそうに電話を受けていたことだろう。
 こちらも土曜の朝から迷惑だなまったく、と一瞬思ったが、最近また朝がだんだん遅くなってきていたというこちらの事情もあって、起こしてもらってちょうどいいやと思って、そのまま起きて作業開始した。

Don’t bother me, son

 「デジタルゲームベースド・ラーニング」の著者、マーク・プレンスキー氏の新刊「Don’t Bother me, mom – I’m learning (ママ、勉強してるんだからジャマしないでよ)」の翻訳作業を日々進めている。翻訳というのは日々坦々と続けていくことが求められる。少しサボると、夏休みの絵日記や英単語の暗記ノルマのように、ノルマばかりが日々膨れ上がって、そのうち非現実的な計画になってしまって、果ては挫折の道をたどる。今はそうならないように、継続は力なりを念頭に、日々坦々と続けている。自分が好きで選んだ本なので、作業が楽しいのが救いである。
 この本は、ゲームに対して否定的な論調が強い中で、実はゲームで遊ぶ子どもたちは、将来をよりよく生きていくために必要なことを学んでいるんだ、ということを書いた本である。来年春の刊行を目指して準備を進めている。
 子どもの頃にゲームで遊んだ人は、親からゲームを取り上げられたり、小言を言われたりという経験をほとんどの人が持っているだろう。私も、小学生高学年の頃は学校から走って帰って、食事もそこそこにドラクエを夜中までやったり、中学になってパソコンを買ってもらったら、ウィザードリィやブラックオニキスのようなRPGを暇さえあればやっていたし、信長の野望や三国志ももちろんハマった。うちは比較的うるさく言われない方だったので、そんなにゲームやりすぎで叱られた記憶はないけれど、それでも度が過ぎれば注意された。きっと当時ガミガミ言われていたら、今やっているような研究にもたどり着けなかったことだろうと思うので、子どもには大人の理屈で頭ごなしにガミガミ言わないことが大事なのだなと思う。
 先日実家に帰った時、オカンが自分のパソコンに向かって、ソリティアで遊んでいた。もうソリティアはやり飽きたとかで、スパイダーソリティアだかなんだか、私の弟がインストールしてくれたソリティアの派生版のゲームをやっていた。他にも学習ゲームで、都道府県をピースとして日本地図を完成させていくパズルゲームとか、簡単に遊べるゲームをいくつか楽しんでいるという話を聞いた。オカンのソリティアの腕前はかなり上級レベルで、私はとても太刀打ちできない。勝率はかなりのものだった。最近テレビやゲームや書籍など、いろんな形で広まっている「脳トレ」ブームの影響で、中高年層もゲームに親しむようになってきていることを身近な例で感じた次第である。
 うちの母も数年前に全国的に展開されたIT講習事業のおかげもあって、ワープロやメールやネットサーフィンのような簡単なことはできるようになっている。以前から、ネットをもっと活用して何か面白いことをやってみたいと言っているが、たまにしか帰らないので、あまり力にもなってやれていない。年賀状ソフトのデータのメンテのような簡単なことはやるものの、ブログを始めるとか、そういう教えるのに根気がいることは、残念ながら手がついていない。
 そんな状況なのだが、何かネットで新しいことを覚えたいと言っているわりには、いつもソリティアばかりやっているので、ふと「ソリティアやってる時間の何割かでも使って、少しずつネットサーフィンでもしたら?」と言ってみた。するとオカンは「この時間は私の頭の中を整理する時間なのよ。」と言っている。人それぞれ、ジョギングや水泳や編み物や料理などの単純作業をしながら考えを整理する方法は様々だが、うちのオカンにとっては、ソリティアを無心でやる時間が、ある種のリラクゼーションとして機能しているのである。「ママ、勉強してるんだからジャマしないでよ」ならぬ、「息子よ、ジャマしないでおくれ。遊んでるんじゃないんだから。」といった状況である。
 先日、「ゲームの処方箋」プロジェクトを行なっている早稲田大学の河合先生と研究室の皆さん、それにナムコの方々にお会いして話を聞いてきた。ゲームの効能を明らかにする研究をいくつか進めておられて、少し前にシンポジウムの場で中間報告を行なっている。その中で、ゲームをプレイすることによる心理的効果を活かして、サプリメント的にゲームを利用するための研究についての話を詳しく伺った。
 ゲームのタイプやプレイヤーの嗜好によってストレス値や情動反応などに違いがあって、その傾向を上手く利用すれば、短時間のゲームプレイによって「ストレス解消」「疲労回復」「気分晴れ晴れ」「頭スッキリ」といった効能が得られるということがわかった。そしてさらにそのようなゲームの作用や副作用を詳しく研究して、将来は「ゲームの処方箋」を出して、薬のようにゲームを使えるくらいまで、ゲームの効能を詳しく知ろうということだそうだ。
 うちのオカンにとってのソリティアもそういうゲームの効能の一つと言えそうで、本人もそれをある種自覚して使っていた。ゲームをボーっとやっているからと言って、一概に時間を無駄にしているわけではないのである。電車の中でケータイゲームやDSで遊んでる人たちにも、何かそんな効果もあったりするわけなので、頭ごなしに否定するのはよくない。子どもでも大人でも、ゲームばかりやっているのを惰性で叱りつけるんでなくて、ゲームを上手く活かしながらコミュニケーションを深める方向で考える方が望ましい。だんだんとそういう世の中に向かいつつある。