通じないのは英語力のせいとは限らない

 アメリカに来て4年半、英語で苦労した経験は数知れず、今も拙い英語で日々の生活をどうにか送っていることには変わりはない。
 ここに至りつくづく思うのは、外国語の修得に関しては「ここまでできるようになったから言葉には苦労しなくなった」という絶対的な境地など存在せず、どのレベルにいてもそれなりに苦労や悩みがあるということだ。少し高度なコミュニケーションができるようになれば、そのレベルに見合ったチャレンジをするようになる。もっとうまくなりたいと思う限り悩みは尽きない。その限りにおいて常に学習は継続し、もう学習しなくてよい、という状態になることはない。そのような状態があるとすれば、それはその人が自分の状態に満足した時か、向上を諦めた時だ。
 以前は、何か通じないことがあると自分の英語力のせいだと思うばかりだったが、最近必ずしもそうでないことも多いのではないかと感じるようになった。英語のリーディングやリスニングの力の不足は、文脈を読み取る力でかなりの部分カバーできる。ライティングやスピーキングの力不足は、相手に文脈を掴んでもらえるような表現の仕方をすることでかなり補える。英語のフレーズを知っていることは大事だし、たくさん知っているに越したことはないが、結局のところ英語という言語の問題だけでなく、コミュニケーション力そのものに影響されるところが大きい。
 知識の不足による影響も大きい。たとえば、読書課題で英語の文献を読んでいて、英語が難しいわけではないのに???となることはよくある。先日たまたま同じ文献の日本語訳が手元にあって、同じところを読んでみたら、やっぱり???だった。この場合、どれだけ英語を勉強してもその部分を理解できるようになるとは限らない。
 日常会話の場合、相手に問題がある場合もある。いかにネイティブスピーカーとはいえ、カンの悪い人というのはたくさんいる。カンの悪い人と話すときに通じないのは、多分に英語のせいではない。相手がこちらの言っていることの文脈を拾えるように話してあげる必要がある。そのことに気づかないでどんなに正しい発音の練習をしても、それだけで通じるようにはなかなかならない。
 英語の勉強をした方がよいのはもちろんだが、ポイントを外すと徒労が多く、効率的でない勉強を延々と続けることになる。実践の文脈から抜き出した形で英語だけを勉強すると、あまり効率的でないことが多い。特によく学校でやっている「学んでから練習する」というスタイルは、テンポが悪くなりがちで練習が意味を成さないことが多い。テレビで「使える英語」のフレーズばかり覚えても、肝心な時には使えない。
 あなたが英語教育の提供者であれば、ある文脈の中でコミュニケーションをとる練習をいかに積ませるかが重要で、その考え方が欠落した教育は時間とコストの浪費なのでやめた方がよい。
 あなたが学習者であれば、通じないのを何でも英語のせいにしていると、ストレスになるし、学習の的を外すこともあることに気をつけた方がよい。逆に少し目先を変えることで通じるようになることも多い。英語の力をつける、という漠然とした目標よりも、「パーティトークを磨く」とか「医者に自分の状態をきちんと説明できるようにする」など、何でもいいので自分の関心に合った具体的なテーマを持って臨んだ方が結果的に上達は早いし、文脈の中でコミュニケーションをとる力も一緒に身につけやすい。