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生涯学習通信
「風の便り」(第95号)
発行日:平成19年11月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. 女性の沈黙の文化的背景 〜「謙譲の美徳」-主張と表現の抑制〜
2. 図書館と生涯学習
3. 子どもの「難所」の助言
4. 幼少年指導法の鍵
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
女性の沈黙の文化的背景 〜「謙譲の美徳」-主張と表現の抑制〜 1 文化の物差し―「間接表現」の掟 日本の文化は「慎ましさ」を礼賛し、「控えめ」を推奨しています。「能ある鷹は爪を隠す」というのが「望ましい人」の行動原理を代表しています。才を誇ってはならないということです。似たようなものに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」があり、「下がるほどその名は上がる藤の花」があります。功績を上げた人、美しき人は「謙虚」だからこそその美徳が一層輝くのだ、という意味でしょう。 また世間の忠告としては「出る杭は打たれる」というのがあり、「言わぬが花」という助言もあります。これらは自己主張を戒め、言動の「節度」の重要性を説いています。 「つまらないものですが、里から届きましたので・・・」とへりくだり、「結構ですね」とぼかし、「本日は誠にどうも・・・」と後半を省略するのです。かくして表現には「裏」があること、「表現されたこと」と「意味したこと」は必ずしも一致しないことなどが特徴です。「建前」と「本音」はこのように表現文化の中から生まれてくるのです。「言っていること」と「意味していること」が違うかも知れないとすれば、「根回し」は日本文化の必然にならざるを得ないのです。 遠慮も、控えめも、省略も、ぼかしも、いずれも日本人の言動を規定している「文化の物差し」です。文化の「物差し」ということは長い歴史の選択に耐えてきた「基準」だということです。この「基準」は普通のしつけを受けた日本人を拘束し、一朝一夕に変わるものではありません。 要するに、日本では、自己を抑制することは「美しいこと」であり、謙譲は「美徳」であり、遠慮がちや控えめは「奥ゆかしい」ことなのです。こうした原理を裏側から読めば、臆面もなく自己主張をし、己を誇り、才を主張することは美しくないばかりか、文化の原則に反する「悪」なのです。 筆者も経験上、自己主張が強く、己を誇る人々に会議や組織体がかき回された事実を知っています。そうした方々は通常「嫌われ者」です。多くの人材活用事業やボランティアの集まりで我が物顔に振る舞う自己主張型の人物のために、だんだん周りの人々が引いて行ってしまう現象も見聞しています。もちろん、個人的にも何度か苦い思いをさせられています。周りの方々は眉をひそめることはあっても、なかなか面と向って相手を嗜めることはしません。多くの日本人は相手が人々の反応を読んで、自ら「察し」・「気付く」ことを待っているのです。直接的に「嗜めること」自体「控えめ」の文化に反することが多いからです。 それゆえ、言いたいこともぼかし、主張すべきことも遠回しにしか言わない、日本型の表現のあり方を「間接表現の文化」と呼んできました(*1)。 対照的に、筆者が体験したアメリカ型の表現は「直接表現の文化」と呼んでいいでしょう。直接表現の文化は、文字通り表現の直接性を尊びます。率直な表現、正確な表現、論理的で華麗な表現が歓迎されます。この文化においては自己表現は、ほとんど大部分「正当」であり、表現は原則的に「善」であると受け取られます。自己を主張し、議論を戦わすことは基本的に「善」なのです。それゆえ、人々はためらわずに意見をいい、率直に要望を主張します。男女の区別は基本的にありません。「主張」することが「はしたないこと」ではない以上、男も女も「欲しいもの」は欲しいと言い、「反対のもの」には率直に反対します。表現することが「文化」によって制約されることはないのです。 「コーヒーをいかがですか?」といわれたら、欲しい人は「欲しい」というのです。日本人のように「いいえ、結構です」とか、「どうぞおかまいなく」などと遠慮の仕草を見せれば、コーヒーを飲み損なうのです。直接表現の文化では、「表現されたこと」は「意味したこと」なのです。 人々は、当然、自分を豊かに表現することに気を使い、自分を明確に主張することに工夫を凝らします。それゆえ、コーヒーが「欲しい」というに留まらず、「わあ、すてき!」とか、「うれしいわ!ちょうど飲みたいと思っていたの!」などと相手の配慮に感謝の気持ちを付け加えるのです。日本の文化が「察して」、「分かってもらうこと」に高い価値を置くのと対照的に、アメリカでは「わからせること」が重要なのです。それゆえ、人々は論理と言い回しを工夫し、ディベートやスピーチの技術を磨き、自分の思いをどう伝えるかという「プレゼンテーション(提案・発表)」のあり方に心を砕くのです。 * 註1 三浦清一郎、「日本型コミュニケーションのジレンマ」、日本の自画像(大中幸子編著)、全日本社会教育連合会pp.159〜184 2「むなかた市民学習ネットワーク事業」と「豊津寺子屋事業」に於ける人材発掘の成功 日本人の言動が「間接表現」の文化に縛られているという前提に立って、「むなかた市民学習ネットワーク」事業に於ける「有志指導者」の募集は第3者による推薦制を採りました。同じく宗像より遅れること20年後に企画した「豊津寺子屋」の「有志指導者」の発掘にあたっても、「手を挙げていただく方式」の直接的な募集は控えました。人材の発掘に際して謙譲の美徳という「文化の物差し」を考慮したのです。アメリカのような「直接表現」の文化の国では「手を挙げていただく」募集方式も何ら問題はないでしょう。しかし、「控えめ」を尊び、「謙譲」を美徳とする文化は異なります。私たちが感覚的に分かっているように「手を挙げる人」は「危ない」のです。日本では、自己主張と自己宣伝は文化の「美徳」の物差しに外れているからです。「手を上げる」ということ自体がどこかで自分の意思表示であり、自己表現であるとすれば、単純な募集方式では、「出たい人」より「出したい人」にはならないのです。「出したい人」は決してご自分では出てこられません。何ごとによらず、選挙の立候補者を見ればお分かりでしょう。 それゆえ、日本型ボランティアの募集には、己を誇り、実践以上に声の大きい「自己主張型」の人物を排除する工夫が必要なのです。「自己主張型」の人物を排除するためには、「手を挙げさせないこと」であり、直接的に募集しないことです。「担がれて出る」というのが理想的です。それゆえ、宗像も豊津も、最初から事業の計画立案にかかわって来た第3者による「推薦方式」をとることにしたのです。 結果は「おれが、おれが」を排除し、「私が、私が」という方々は、予想通り、推薦の対象にはなりませんでした。募集作戦はほぼ成功しました。「でしゃばり」や「おせっかい」や「いい格好し」は、推薦者が身に付けた日本文化の物差し・基準に合格できなかったということです。 宗像市の事業も、豊津町の事業も、当方が想定した通り、一部の例外を除いて大部分の「被推薦者」は慎み深く、控えめで、己を誇らず、遠慮がちで、「自分のような者は期待されている任に堪えない」とおっしゃったのです。担当者は何度も頭を下げ、時には何度も足を運んで懇願の上、了承をいただくことも多かったのです。その時ですらも「私のような者で本当にいいのですか?」「本当に勤まるでしょうか?」等とお尋ねがあったのです。実際に事業を展開してみれば、そういうためらいや遠慮を見せる方々こそが、約束を途中で投げ出したりしない、頼りがいのある真の戦力になることが多かったのです。「ためらい」も「遠慮」も「謙譲」を尊ぶ文化の為せるわざだったのです。 後になって考えてみると、第3者による「推薦方式」は「推薦」の「目利き」が良かっただけではなく、「推薦者」と「被推薦者」に人間関係の心理的圧力が働いたことも明らかでした。「推薦者」は自分の「目利き」が誤りではないように推薦に慎重を期した筈です。「推薦者」は「わたしが推薦したのだからね!」ぐらいのことは相手に伝えたかもしれません。また、「被推薦者」は何をやるにしても推薦してくださった方の「お顔に泥は塗れない」と感じたことでしょう。任務を引き受けるにあたっての「ためらい」の原因の一部はそこにあったかもしれません。しかし、一度引き受けていただいた後は「推薦者」と「被推薦者」の人間関係の心理が責任感や熱意を保障したことは疑いありません。 3 「間接表現」文化のブレーキ ところが二つの事業で「有志指導者」の発掘を成功に導いた文化の物差しが、ひとたび場面を変えて、男女共同参画における女性の意見表明や主張に厳しいブレーキをかけることになるのです。私は意見表明を抑制するブレーキのことを「間接表現の文化」と呼んでいます。日本人があからさまな自己主張を嫌うのも、自己を過小評価する傾向があるのも、「控え目であること」、「慎み深いこと」が「奥ゆかしいこと」として尊ばれてきたからです。「間接表現」とは、時に、「控えめ」に言うことであり、「遠回し」に言うことであり、「ぼかして」言うことであり、「全部を言わない」ことでもあります。要するに、間接的に言うとは、直接的な表現を押さえるということであり、表現や主張を控えるということにもなります。もちろん、「表現を控える」ということは自分の言いたいことにブレーキをかける、ということです。 日本文化の物差しに従えば、ストレートにものを言うことは、往々にして美しくなく、「がさつ」であり、「非礼」なのです。すなわち、「悪」なのです。たとえ言わんとすることが「正しいこと」でも、「本当のこと」でも、あるいは「当然のことでも」直接に主張したり、指摘することは多くの人の眉をひそめさせることが多いのです。日本人は「そこまで言わなくてもいい」と感じるのでしょう。直接的な主張はどこか「はしたない」思いがつきまとうのです。主張して当然のことについても、相手が察知してくれることを待って、多くの人が自己主張を控えるのはこのためです。会議や交渉ごとで「声の大きい」方が勝つのも周りが遠慮するからですが、「声の大きい」人々が嫌われるのも同じ原理が働くからです。どのような主張であれ、「自己主張」は「図々しくて」「はしたない」という日本文化の物差しが言動を左右しているのです。 このように間接的表現文化の特徴は表現の「抑制」というところにあります。したがって、ブレーキの効いている表現はおおむね「善」であり、逆に、自由で、率直で、正直な表現はおおむね「悪」と判断されます。日本文化における「抑制」の要求はひとり言語的な表現に留まらず、様々な領域の具体的な行為・行動にまで及びます。抑制すべき対象は人間の表現の欲求だからです。間接表現文化のチャンピョンは「俳句」ではないでしょうか?17文字で世界や人生を表現するためには、表現を抑制するだけではなく、読むものの想像力や「察し」が不可欠です。俳句はかつて、京都大学の桑原武夫氏によって「第2芸術」と呼ばれ、その衰退を予告されましたが、どうしてどうして日本文化にしっかりと根を張り、俳句文学の反映を誇っています。17文字の言外の世界を「察知する」という日本文化の想像力が俳句を文学足らしめて来たのだと思います。世界の中の日本が力を付けてくるに従って、世界の人々も日本人に倣って「察する」ことを理解した時、俳句は世界の「俳句」になろうとしているのです。 4 もの言えぬ女性 表現は人間個々人が行うものである以上、個性であり、それぞれの主張を含まざるを得ません。ところが「謙譲の美徳」を基調とする「控えめで」「慎ましい」文化は、そうした個性や主張をも「言わぬが花」だと言っているのです。時には「沈黙は金」だとまでいいます。 しかし、個性が個性であるためには表現されなければなりません。同じように、主張が主張となるためには主張されなければなりません。ところが表現を抑制することが美しいという文化基準に立てば、個性と主張もまた抑制されなければなりません。 人がそれぞれ欲求や夢をもち、誰もが思い思いの人生をいきたいと願っていることを前提にすれば、みんなが表現を求めていることになります。ところが日本文化は、この表現欲求に抑制のブレーキをかけるのです。結果的に、「主張」と「表現」の間に緊張関係が生み出されます。簡単にいえば、「主張」はしていいが、「直接的には」するな、というルールがそれです。このとき、社会の表舞台に立って来た男性には、「間接表現」ではあっても表現の機会も、自己主張の機会も与えられました。一方、社会の表舞台に立たなかった多くの女性には「間接表現」であろうとなかろうと、およそ表現の機会そのものが与えられなかったと言っていいでしょう。「女は黙っていろ!」「女は引っ込んでいろ」がその象徴でした。このように女性は2重の意味で表現の抑制圧力を負ったのです。一つは一般論として「慎ましいこと」は「美しいこと」だという文化の抑制、もう一つは男支配の筋肉文化の中で表舞台に立つことの許されなかった社会的抑制です。女性には直接的であれ、間接的であれ、主張や表現の機会そのものが剥奪されていたのです。 5 秘すれば花-耐えるが美 間接表現の原点は「秘すれば花」に象徴されています。「秘すれば花、秘せずば花なるべからず」(*2)は世阿弥の名言です。ものごとは秘められているからこそその魅力がにじみ出るという指摘です。才ある人のゆかしさも、美しき人の美しさも、恋文の切なさもそれぞれの主張を程々に抑えているところにある、というのです。かくして日本の芸術は「陰影」を礼賛し、抑制を賞賛し、言外の言を読み取る「察し」を前提にして来たのです。その背景には、文化の称揚する「謙譲」の美徳があり、その美徳を守らねばならぬ故にものをいわず、主張をしてこなかった多くの女性の抑圧された主張があったと言って過言ではないでしょう。才が才を誇り、美しさが美しさを主張し、恋文が節度を失った時には、それぞれの価値や資格を失うことになるとすれば、多くの女性はいうべきこともいわずに飲み込んで生きたことでしょう。「秘すれば花」は女性にとって何も主張することが許されず、「耐えるが花」と同じ意味だったに違いありません。今でも間接表現ではあっても、表現を許された男性と違って、女性は主張する場や舞台そのものを与えられず、しかも、主張すること自体が「美しくない」と言われて来たのです。「女は黙っておれ」という男性側からの発言の禁止は、関接表現文化と相俟って、女性の自己主張に対する何倍もの抑圧効果を発揮したのです。結果的に、現在ですらも、「発言しないこと」を美徳とした文化を敵に回したとき、多くの女性は沈黙せざるを得ないのです。かくして、誠に不幸なことながら、日本の表現文化は男女共同参画を推進する力にはなり得なかったのです。女性の社会的地位の向上に関する大部分の用語が英語その他の外国語であることは決して偶然ではないのです。フェミニズムも、ウーマンズリブも、ジェンダーフリーも、エンパワーメントも、アファーマメントアクションも、セクハラも、DVも男女共同参画を推進する社会運動や政策の用語はそのほとんどがカタカナです。外来語です。欧米の直接表現文化に生きる女性の力を借りないかぎり、自らの抗議の言葉を生み出すことさえ困難であった事情が垣間見えます。男や男支配の社会が「察知して、分かってくれる」ことを期待して、沈黙に甘んじて来た間接表現文化の女性の宿命を感じざるを得ません。しかし、筋肉文化は「察知する」ことはなかったのです。 女性の沈黙の意味を読み取り、忍従や我慢を「察して」くれる男性や社会的仕組みに巡り会うことはまさに天運としか言いようがなかったことでしょう。やむなく、日本の女性も、男に嫌われ、社会に軽蔑されることを承知の上で自ら女性の置かれた立場がフェアーではないと発言を始めたのです。 *2 世阿弥「風姿花伝」、岩波文庫、昭和33年
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