HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第85号)

発行日:平成19年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「精神の固定化」 熟年の衰退 −日本の停滞

2. 「風の便り」・「生涯学習フォーラム」の自立

3. 『これからの人生:The Active Senior-「安楽余生」論の落し穴』 

4. 「再生会議」の体罰再考

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「精神の固定化」 熟年の衰退 −日本の停滞

■ 1 ■ 「体得」の背反、「学習」の裏切り

  若い時に身に付けた思考も、行動も、知識も熟年期に至れば、すでに人生の中で何万回の反復を繰返したことになります。当然、練習の成果が上がり、学習は定着し、体得した思考と習慣は板について本人と分かち難くなります。この時、時代が進歩と進化の速度を速め、生活の全領域で「変化」の連鎖反応が起れば、生涯学習が不可欠になります。「変化の時代」を前提にしなければ生涯学習は登場する必要はなかったのです。「変化」のスピードこそが過去の思考や行動や知識を「陳腐化」する原因だからです。
  「変化の時代」の不幸は過去に学んだことがその効力を失い、現在への適応を遅らせ、未来の発明を妨害することになることです。時代の改革がすべて正しいということにはなりませんが、変化はすべて人間が望んだことであり、過去の矛盾や不都合を解消するためには改革の試行錯誤は不可欠です。この時、過去に学んだことが人間に復讐を始めるのです。それは「体得」の背反、「学習」の裏切りと呼んでいいでしょう。
  人が新しい論理や知識を学ぶことを止めた時、過去に「体得」した習慣や思考は自己変革の障碍となり、過去の「学習」成果は新しい知識や考え方の習得を邪魔します。男女共同参画が理解されないのはその典型の一つです。国際化に馴染めないのも、恐くて情報機器に触れようとしないのも同じでしょう。それゆえ、「変化の時代」はあらゆる分野に「学習の遅滞」、「適応の遅滞」、「変革の遅滞」が生じます。「変化の時代」の意味を十分に分析せず、理解しない人々は過去の「体得」にこだわり、過去の「学習」に固執します。もちろん、「現在」の否定は、人々の利害得失に大きく関わります。結果的に、変革を拒否し、「体得」の背反、「学習」の裏切りに気付かないことも多いのです。遅滞を起こす人々を総称して時代変革の「抵抗勢力」と呼ぶのでしょう。


■ 2 ■ 「抵抗勢力」

  「抵抗勢力」の特徴は「昔考えたようにしか考えることができず」、「昔やったようにしかやることができない」、ということです。この特徴は生活の全領域、文化の全般に及びます。それが「精神の固定化」(註)です。「頑固頭」現象と総称してもいいでしょう。精神の固定化は主として年輩者に起ります。学習にせよ体得にせよ、反復と練習の期間が長かったからです。それゆえ、過去のもろもろに習熟した熟年期が危険であり、年長者がリーダーとなる「終身雇用制度」を採っている組織が変革に最も抵抗します。同じ年功序列制でも、民間の企業は「収益」や「国際競争」にさらされ、外からの転換要請に当面するので、組織の編成方法そのものが変わります。企業における年功序列制が崩れ始めているのはそのためです。最大の問題は収益にも競争にもさらされることなく、結果的に、誰も責任を取ろうとしない「親方日の丸」の行政なのです。
  行政にとって危険なのは、年功序列で「精神の固定化」が起り易い年長者が「偉くなる」だけではありません。行政の事務処理の大部分は、過去を踏襲し、「前年通り」を強調し、「前例」にないことは「やらない」ということを、時に、金科玉条とします。行政では担当者が変わっても「やり方」が変わらないことを誇りにします。そうした仕組みがすべて間違いであるはずはありませんが、変化が要求される時代には、とんでもない阻害要因となることも事実なのです。
  いじめも、子育て支援も、高齢者政策も問題を巡る社会的条件は大きく変わりました。にもかかわらず新しい対応を発明できない最たる原因は、変化を理解せず、中身も、方法も従来の対応を変えようとしない「精神の固定化」にあるでしょう。新しい状況を分析せず、理解できず、過去の思考と方法だけで対応しようとする姿勢は、個人の衰退から国家の停滞まで深く関わっているのです。
  過去の延長では現在の問題に対応できないのです。当然、現在の延長線上に未来があるわけではありません。過去を否定しなければ、未来の発明ができないことも多いのです。少なくとも、学校改革でも、男女共同参画でも、子育て支援でも、いじめ対策でも行政があらゆる改革を遅滞させる「抵抗勢力」を代表しているのです。
  大相撲を考えてみてください。当然、相撲興業の急激な衰退現象の中で、背に腹は変えられなかったのだと思いますが、大相撲は、国際化が精神の固定化を突破する原動力となったのです。最も古い体質を世界に開くことで活力を再生したのです。
  大横綱朝青龍も、人気の琴欧州も国際化の賜物です。意識するとしないに関わらず、ファンは相撲の国際化を受け入れ、受け入れたことによって「国際化」の意義を理解したことでしょう。「女性には上がらせない」土俵を外国人に全面解放したのです。「大相撲」が従来のように「国技」の大儀にこだわり、国際化の意義を理解せず、相撲を世界に開かなかったならば、現在の繁栄はなかったことでしょう。さて、次に大阪府の女性の知事さんが土俵に上がったら大相撲の未来はどうなるでしょうか?
  若い選手が国内の頑迷な「抵抗勢力」を捨ててメジャーリーグに行くのも、「世界基準」の存在を自覚したからです。プロ野球がようやく国際化の意義を理解し始めたということでしょう。
  果して、教育行政は大相撲と同じ解体的出直しができるでしょうか。教職員の「週休2日制」を「学校5日制」と言い換えたごまかしも、「基礎教育」をないがしろにした「ゆとり教育」の間違いも、大学入試のあり方を放置したままで議論している特定科目の「未履修問題」も、「いじめの放置」も、「子育て支援」にならない「子どもの遊び場広場」もすべて行政の不勉強と蒙昧が生み出したものであることを行政自身が最も分かっていないのです。安部内閣が論議を始めた「教育委員会」の廃止または解体の提言は決して間違ってはいないのです。しかし、もちろん、問われるべきは、破壊ではなく、現状の否定のあとにどのような未来を発明するか、であることは言うまでもありません。

(註)*1 Robert C. Peck, Psychological Development in the second Half of Life, in Middle Age and Aging, B. Neugarten (ed.), University of ChicagoPress, Chicago, 1968, pp.88-92 (要約・解説は三浦清一郎、成人の発達と生涯学習、ぎょうせい、昭和57年、pp.27-33)


■ 3 ■ 「精神の固体化」

  かくして、熟年期の頭脳の危機は「精神の固定化」です。年を取ると「頭が固くなる」ということです。精神の衰退は精神の固定化に始まると言って過言ではありません。「頭が固くなる」と状況の変化に応じて、精神が働かなくなるからです。「精神の固定化」は自分の頭が停止している間に、他者を含んだ周りの環境だけが変わってしまう事から発生します。
  精神の形成は各人の行動基準や生活スタイルの結果です。還元すれば、精神形成の大部分は若い日々の学習と経験を反復した結果だと言っていいでしょう。熟年にとっては長い歳月の練習の成果です。それゆえ、反復練習が長かった分だけ確固たる価値観や感性が身に付いてしまっているのです。「精神的固定化」が始まると「昔やったように」しかできなくなり、「昔考えたように」しか考えることができなくなるのです。結果的に新しい考え方が受け入れられなくなり、新しい実践に踏み出すことがむずかしくなるのです。長い時間をかけて一度形成されたものは時に凝り固まってしまって解きほぐすことが大変なのです。
  過去の学習が新しい学習の邪魔をする「干渉」(*)が起るのです。それゆえ、熟年の学習は2段階になることが多いのです。第1段階は、昔学んだことを解きほぐすこと、第2段階は新しいことを学び直すことです。前者は「学習解除:unlearning」で、後者は「再学習:Re-learning」です。子どもの教育より大人の教育が難しいのは、領域によっては沢山の「学習解除」を行わなければならないからです。教育学では、このことを「変革」は「形成」より困難である、と言っています。男女共同参画のような新しい理念は、白紙の状態の青少年には比較的容易に理解されます。これに対して、女性を一段下に見てきた熟年男性になかなか受入れられないのは、過去の学習結果が新しい学習課題に「干渉」と呼ばれる現象を起こしているからです。
  私たちは昔からやって来たことを当然としています。身に付いていることは捨て難いのです。昔から食べ慣れたものが「おふくろの味」です。若い頃に馴染んだ歌が「懐かしのメロディー」です。着慣れた服のスタイル、色合いが自分に似合うファッションであると信じて疑いません。日常のありふれた暮らしぶりですら過去へのこだわりが強いわけですから、思想や感性への固執は推して知るべきなのです。
  本人が変わらなくても、時代は進化を止めません。まして現代は「変化の時代」と呼ばれ、あらゆる分野で変化の連鎖が続いています。あらゆる社会的条件が目まぐるしいスピードで変わっているのです。若い世代はその変化に沿って育って来ますが、熟年が過去の精神、過去の生き方にとらわれて生きようとすれば、世の中から置いて行かれてしまいます。技術も考え方も、多くの過去の遺産が「陳腐化」するのは変化の時代の宿命なのです。過去を代表する熟年が若い世代と生活スタイルがずれるのも、話があわなくなるのも当然なのです。食べ物も、ファッションも、音楽も、好きな本も、テレビ番組も、仕事の仕方も、付き合い方も、生活の中身が一昔前とは大きくちがってしまうのです。その時、時代の変化に合わせて「変わるべき」か「変わらなくてもいいか」は人それぞれでしょうが、変化に対する一定の適応ができない場合は若い世代との溝は広がる一方になることでしょう。「昔のやり方」や「昔の考え方」がすべて間違っているはずはありませんが、過去の自分に固執して、社会変化に適応せず、新しい世代と共通項が少なくなれば、若い世代との共生は不可能になります。過去にこだわれば精神が固定化し、時代の変化への弾力性を失います。固定化の度が過ぎれば「頑固おやじ」や「頑固ばあさん」の謗りは免れないことです。
  熟年が他の世代から孤立して、自分達の世代だけで生きなければならないとすれば、高齢者の「孤立と孤独」はますます避ける事が難しくなるでしょう。若い世代も、分からずやの「頑固じじい」や「頑固ばあさん」と一緒に暮らす気にはならないでしょう。頭が固くなった高齢者の孤立は目に見えているのです。「変われない自分」が問題になるのはそのためです。

* 経験の「干渉」

  過去の経験に囚われて新しいことを学ぶことが難しくなる状況を言います。すでに通用しないことを知らず知らずに学んだり、過ったことを過った方法で学んでしまった場合、過去の経験や学習結果を訂正しないと新しい学習を前へ進めることができません。この時、経験が邪魔をして学習に「干渉」するといいます。長年に渡って反復して来た過去の経験を打ち消すのは決して容易ではありません。"あつものに懲りてなますを吹いたり"、同じ"柳の下にどじょう"を探し続けるのも、これまでの生き方に固執する余り、新しい状況を過去の経験からしか見ることができないという傾向が生じるためです


■ 4 ■  「やったことのないことをやる」−精神の固定化の防止策

  精神的固定化の防止策はたった一つしかありません。「やったことのないことをやる」ことです。「固定化」の原因は一定の生き方を長きに渡って反復したことです。むかし学んだ習慣や考え方を若い時代から実践して来たから生き方が固まったのです。それゆえ、一般的傾向としては、真面目な人ほど過去に固執します。過去の生き方を努力して身に付けた人ほど「固定化」の副作用が大きいのはなんとも皮肉なことです。「反復」と「練習」と「体得」こそが「頭を固くする」原因だからです。そのため「固くなった頭」をほぐすためには従来のやり方を変えることが不可欠です。過去の学習結果の「解除(Unlearning)」を行うためには、過去から続けて来た「反復」と「練習」を一時中断する必要があります。「中断」とは、すなわち、日々の生活で、「これまでやったことのない事」に挑戦することです。「新しいこと」は食べ物でもいい、ファッションでもいい、音楽でも、スポーツでも、旅でもいいのです。食べたことのないものを食べ、着たことのないスタイルや色のファッションに挑戦し、聴いたことのない音楽もがまんして耳傾け、行ったことのないところに出かけてみるのです。
  新しい人間関係、新しい仲間との活動であれば、「これまでやったことのない」事象が総合的である分、何よりもいいのです。なぜなら「精神の固定化」は「過去へのこだわり」が原因だからです。「やったことのない事」は、そのこだわりを崩してくれるのです。しかし、挑戦の実践は決して容易ではありません。これまでの生き方にこだわっている本人は、何にせよ、新しい実践に踏み出す事が難しいのです。新しい分野に興味を感じず、新しい事に価値を見い出していないからです。どんなに豊富な選択肢が提示されたとしても、それらに価値を見い出さなければ、人は関心を示さず、行動は起こしません。
  生涯学習や生涯スポーツの役目はここから始まるのです。人々を案内し、勇気づけ、仲間づくりを支援し、活動のメニューに招待するのです。一人では出来なくても、仲間がいればできるかも知れません。生涯学習支援のシステムが有効に働けば、新しい一歩を踏み出せるかも知れないのです。「頭が固くなる」ことへの予防の処方は「やったことのないこと」への挑戦です。生涯学習の重要性は、「読んだことのない本」を読み、「経験のない料理」を試み、「世代を越えた人々に出会い」、「ボランティア」を通して社会の役にたてることです。仲間を募ってこれらを実践する具体的処方こそが公民館の仕事であり、生涯学習センターの役割です。生涯学習が熟年の必需品となる所以です。

5  「格差」の時代

  以上見てきた通り、生涯スポーツと生涯学習は孤立と孤独を避ける上でも、「精神の固定化」を防止する上でも熟年期の「必需品」となりました。高齢化を経験した事のない社会にとっては、熟年が当面する向老期の発達課題を一から学習しなければなりません。しかし、もとより、生涯スポーツや生涯学習が社会のシステムとして熟年のすべての発達課題に対応策を提供できるとは限りません。特に、「生き甲斐の喪失」、「夫婦の対立」、「生老病死」の苦しみなどは基本的に自己責任の領域です。個人の私的領域で発生する発達課題の解決は、原則として個人的に処理されるため、当然、行政上の施策や社会的対応を期待することは無理でしょう。
  それゆえ、「情緒的貧困化」に伴う熟年の孤独や「精神的固定化」に伴う熟年の孤立に対処するため、「社交」の仲介や生き方の「案内業務(ガイダンス)」に税金を投入することに社会的合意を得る事は極めて難しいのです。個人の私生活に関わる事は、社会教育に限らず、通常「受益者負担」の領域に属しています。従って産業社会はこの分野の活動を、職業上の「適応のための学習」プログラムのように重視することはありません。端的に言えば、ビジネスや産業に関係の薄い個人の学習に税金を投入する事は世間の合意を得られないのです。更に加えて、現行の社会教育行政には趣味・教養・軽スポーツのプログラムの編成はできても、心理的発達課題の対応策を提供する能力はありません。この点で熟年の不幸は個人の無知と準備不足、行政の無自覚と能力不足という二重の危機に当面しているのです。熟年は自己防衛の工夫をしなければならないのです。
  介護予防の健康教育や再就職のための職業訓練にはおそらく今後とも手厚い生涯学習/生涯スポーツの支援策が講じられるにちがいありません。しかし、「やったことのない」事への挑戦や孤独や孤立に関する私生活の生涯学習は、個人の選択と投資にゆだねられる事になるでしょう。それは「生涯学習格差の時代」(*)の始まりを意味しています。
  生涯スポーツが最も明快な事例ですが、日々運動に勤しむ者とそうでない者との健康格差は決定的になります。どの年代にとっても運動の知識とその実践は重要ですが、衰弱が速まる熟年期にとって日常の運動実践の有無は文字どおり致命的な違いをもたらすことになります。義務教育で平らにならしたはずの知識の格差は、熟年期の生涯学習の「選択」如何によって一気に拡大するのです。しかも、若い時から蓄積された「生涯学習格差」は結果的に熟年期に最大になります。なかんずく、老衰の始まる熟年期に「生涯学習を選んだ者」と「選ばなかった者」との格差はほとんど無限大に広がります。結果として、健康で生き甲斐のある老後を過ごす者と孤独と孤立と衰弱の辛さに流される者とが二極分解することになるでしょう。問題は、生涯学習の振興策が「安楽」に流れ、その意義を十分に理解しなかった社会では、前者が少数で、後者が膨大な数になることです。前者は、筆者が「元気老人」と呼ぶ人々です。後者は「厄介老人」と呼ぶ人々です。介護保険も、医療保険も、恐らくは若い世代の年金も、後者の人々が食いつぶしてしまうことになるでしょう。高齢者の生涯スポーツと生涯学習が立国の条件となる所以です。

* 「生涯学習格差」

 生涯教育を生涯学習と言い換えたのは、市民の「選択」を重視したからである。教育行政は市民の選択を支援する任務を負うに留めたのである。選択原理を押し進めれば、教育制度の活用も、生涯学習の実践も、その成果の享受も最終的には、個人の責任・自己責任に帰することになる。自由時間の生涯学習を選んだ少年と選ばなかった少年では1年で巨大な差が広がる。同じように、生涯スポーツを実践している高齢者とそうでない高齢者とでは健康や体力の違いが隔絶する。それが生涯学習格差である。「格差」は、交流格差、情報格差、健康格差、自尊感情の格差などに広がる。定年の後を無為に過ごす熟年層にしても、学校週五日制や、長期休暇中の教育努力を怠っている少年にしても、「生きる力」の「格差の拡大」こそが生涯学習支援政策に伴う構造的な問題なのである。
 

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002-, Seiichirou Miura ( kazenotayori (@) anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文の転載等についてはメールにてお問い合わせください。