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生涯学習通信

「風の便り」(第68号)

発行日:平成17年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 生涯学習立国の条件: フォーラムレポート

2. 生涯学習立国の条件: フォーラムレポート (続き)

3. 補筆「寺子屋通信」

4. ふたたび英語教育の徒労について −現代学校教育における方法論との前面衝突−

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

 補筆「寺子屋通信」


  いよいよ夏休みが終わる。筆者にとっては20年ぶりの寺子屋キャンプへの参加であった。キャンプは二日間とも雨に祟られて、裏番組の工夫に追われた。普段の生涯スポーツの精進にもかかわらず、子どものエネルギーについて行くのは容易ではない。雨で体育館の中に閉じ込めざるを得なかった子ども達と「ヘビ鬼」や「S鬼」「けんけんリレー」などに興じるには筆者はいささか老い過ぎた。休憩や昼寝の時間には、疲れ果てて、たまらずに子どもと一緒になって体育館の床に寝た。"凄い鼾でしたよ"、と担当者が呆れていた。


1  「前頭葉」の宿命                                               


  「ヘビ鬼」も、「S鬼」も昔の遊びは、思いきり身体を使う。チームプレーにして、勝ち負けを競わせると、子ども達の瞳は闘争心に輝き、応援や嘆きや怒りの叫び声が交錯して、体育館は熱狂の渦となる。"誰々さんがけんけんの途中で足をついた"とか、"あの人はじゃんけんのあと出しをした"とか、"境界線のロープをズルしてまたいだ"とか、口をとんがらがして、抗議にくる子どもは2人や3人ではない。50人もの子どもが駆け回る体育館ではどう頑張っても細かいところまでは目が届かない。審判は受難の役割である。子どもはただひたすら勝ちたい。それゆえ、隙あらばルールをごまかす。補助の審判団をきちんと決めておかなかったので、判断のしようがない時も多い。そうなれば自分達の言い分が正しいと、ますます騒ぎたてて、さらに喧しい。
  明らかに競争を通じて子ども達のエネルギーは倍加する。競争はルールや規範を教える絶好の機会である。ルール違反に付いて、「どっちも正しい」ということは通常あり得ない。勝負において「どちらも勝った」ということもあり得ない。寺子屋は人生の現実を子ども達に教えるべきだと考えている。それゆえにこそ機会の公平とルール主義が重要である。今夏の寺子屋の「テーマソング」は「手のひらを太陽に」とか「世界に一つしかない花」であったが、ゲームにのめり込んでいる子どもを見ていると、「No.1」にならなくてもいいとは思っていない。絶対勝ちたいのである。まして、「Only One」であればいいというようには中々行きそうもない。負けたら床を叩いて悔しがる。この次こそ「勝つぞ!!!」と絶叫する。
  子どもの攻撃性や競争心は彼らが人間である印である。人間だけが「生存上の必要」が無くなくても、他者や他の動物を殺すと言われる。それが「前頭葉」に巣食う闘争本能;Killer's Instinctである。闘争心や競争心は、創造性などと同じく前頭葉を淵源としているのである。
  学校が競争を回避し、運動会の勝ち負けに蓋をしても、人間の闘争心がなくなるわけではない。人間の前頭葉に埋め込まれた闘争本能を子ども時代に抑圧しても、それで「平和主義者」が育つわけではない。闘争本能は人間の「業」である。本気で人間の攻撃性や闘争心を除去しようとすれば、教育では手も足もでない。「ロボトミー」と呼ばれる医学上の「前頭葉摘出手術」をするしかない。人間の攻撃性は前頭葉をもった人間の宿命だからである。かつて映画評論を賑わしたジャック・ニコルソン演じる「カッコウの巣の上で」を思い出せばいい。前頭葉さえ摘出してしまえば、一切の攻撃性を封じることができる。しかし、現代、「ロボトミー」は国際法上、禁止されている、と聞いた。当然であろう。「前頭葉」を摘出すると言うことは人間を人間でなくすることに等しいからである。かくして、攻撃性も、闘争心も又人間であることの特性と思い知るしかないのである。
  運動会の勝ち負けも決めず、努力の違いを評価せず、学校や保育所の中だけで一時的に競争を排除しても、人間同士は様々な事でぶつかり、この世は競争に満ちている。容赦なく世間は勝ち負けを決める。しかし、世間を責めたところで始まらない。人間がもともとそういう「生き物」なのである。それこそが、仏教の言う「業」であり、キリスト教の言う「原罪」である。子ども時代に消し去ったと思っても、抑圧された「闘争心」は、いずれどこかで、不健全に噴出する。いじめはその「噴出口」の一つと言っていい。学校や保育所が「勝ち負け」の厳しさから守ってやったつもりでも、子どもは、やがて心身の準備が出来ないままに世間の厳しい評価に曝される。かくして、多くの子どものささやかな失敗が、深刻な挫折に転化する。同様に、何のこともない競争上の敗北が人生からの逃避に繋がる。不登校や引きこもりがそれである。挫折や逃避が増大しているのは、成長期の子どもを競争や評価の厳しさから「守り過ぎる」からである。人生の困難に対する「予防注射」が不十分だからである。
  雨に降り込められたキャンプの裏番組は、競争を避けようとする現代の保育や学校教育の指導の大勢がいかに不健全なものであるかを痛感させたのである。スポーツも遊びも、思いきって、競い、戦わせて"闘争本能;Killer Instinct"のエネルギーを健全、無害に発散させるべきである。健全な競争は、競争のない状態に比べて、子どもの健康のためにも、社会の安全のためにも、よほど役立つ筈だと改めて実感する。人間は、人と競わずに、ひたすら仲良く、平和に暮らすようには出来ていないのである。いじめのエネルギーも、少年犯罪も、抑圧された闘争本能の陰湿かつ反社会的な発現であろう。まして、ルールを身に付けず、規範を体得していない子ども達を、健全な競争や挑戦を体験しないままに社会に出すことは、ブレーキの効かない車を路上に出すようなものである。事故は必然であろう。
  雨のため、一日中、室内に閉じこもった子ども達は、激しい心身の運動・消耗によってストレスを解消し、己のエネルギーを発散したのであろう。最後まで、立派に、普段のしつけの平衡感覚を維持したのである。今更ながら疲れを知らぬ子ども達のエネルギーのすさまじさに圧倒された。
  だからこそ具体的な活動プログラムとその指導が重要なのである。活動プログラムを欠いた現状の学童保育では子どものエネルギーを引き出すことも、方向付けをすることも出来ない。時間は無為に流れ易く、子どものエネルギーは抑圧され、屈折し、欲求不満もたまり易い。心身を縦横に働かせる遊びが死に絶えた現代の課題がそこにある。




2  男女共同参画と男の子の育て方                                        


  キャンプでお借りした中学校の向いに「河川プール」がある。今回のキャンプは、遊泳の一時だけが辛うじて雨から免れた。筆者も子ども達と一緒に水に入った。ご多聞に漏れず、"恐い"とか、"冷たい"とか、"すべった"とか、"ころんだ"とか、愚図って上級生や指導者の手を焼かせる子どもがいた。1年生の男の子である。中学生のお姉さんが顔をしかめて持て余している。やはり「愚図の男」に女は惚れないだろう。昔の自分もどこかこの男の子に似ていた。何ごとにも不器用で、臆病で、新しいことに取り組むにも、取り組んだことに習熟するのにも長い時間がかかった。
  過日の生涯学習フォーラムで、女性の論者から、男女共同参画の理念と生物学上の男女差の特性を両立させながら子育てをする必要がある、という指摘があり、我が意を得た思いであった。この点については、大方の皆さんのご意見も一致した。筆者も女らしい女が好きで、当然、女も男らしい男が好きであろうと想定している。所詮、男女は、ホルモンからしてその働きが違うんだと考えていた。
  そこで、昔の自分を思い出して男の子に手を貸すことにした。しばらく様子を見ていると、男の子は、河川プールに興味津々である。上級生の子どもが水しぶきを上げているのを見て、なんともうらやましそうにしている。""恐いか!?"と尋ねたら、"恐くなんかないもん!"とうそぶく。"でも、"震えているぜ"、というと口をトンがらかして、強がって胸を張る。思わず吹き出したが、男のホルモンの中にそういう働きがあるのであろう。"よし、わかった。先生と一緒にプール探険に行こう!!"私は子どもの返事も待たずに、その子を抱き上げて水の中へ進んだ。男の子は、慌てふためいて、叫び、バタつくがもはや遅い。プールの真ん中に進んでから、高く投げ上げるようにして水の中へ放り込んだ。「食わず嫌い」には時に「他律」が一番効果を発揮する。水から上がってくるところをもう一度捕まえて"なかなか筋が良いぞ!!"と褒め上げて、ふたたび放り込んだ。周りの子ども達からうらやましそうな歓声が上がった。3度目を捕まえて、"どうだもう一回行くか?"と聞いたら、歓声に勇気を得たのか、"もう1回行く!"と言う。そこで3度目を放り込んだ。すっかり水に慣れたのだろう。友だちに"面白い!!"と自慢している。男の子の「興味」と筆者による「他律」の「幸運な相関」であった。もうしめたものである。ハプニングがよほど面白そうに見えたのであろう。僕にもやって、私にもやってと「投げ込まれ志願」の子ども達の行列が出来た。かれこれ15人ぐらいは投げたろうか。キャンプ中は無事だったが、帰宅後、階段を這ってあがらなければならなかった。


3  「いじめ」は容赦しない!                                             


  「いじめ」は残念ながら現代の風潮である。健全な競争を抑圧すれば、子どものエネルギーは当然歪んで発現する。平和と平等をお題目のように唱えながら、子どもの「いじめ」を見過ごしにしているのもまた、現代の風潮である。子ども達は一見素直で、純真に見えるが、決してそれほど単純ではない。一つの小学校では、すでに初日の活動の中で「いじめ」と断定せざるを得ない残念な光景が目撃された。寺子屋では多少の"けんか"は黙認しても、一方的な「いじめ」は決して見過ごしにはしない。
  筆者もちょうどその場に来合わせて事情を聞いた。直ちに現場で指導にあたっていた者を含め、関係者を全員集めて対処方針を説明した。「次の時に同じようないじめをくり返した場合には寺子屋を除名する」。「分かったか!!」と怒鳴った。子ども達は「分りました」と優柔不断に返事をしたので、「声が小さい!!」とふたたび怒鳴った。指導者には絶対に見逃してはならない、と厳しく釘をさした。
  寺子屋は意図的に異なった年齢の子ども達から構成する「縦の集団」である。異年齢からなる子どもの「班」を作って、お互いに助け合い、背伸びしあって活動するよう工夫をしている。それがやがて来る「社会生活の予行演習」になる筈だからである。「班」の中では能力も、経験も異なる上級生と下級生が入り交じって活動する。それゆえ、子どもの「好き勝手」を放置すれば、「強いもの」が「弱いもの」を虐めるような状況が簡単に生まれてしまう。
  寺子屋の厳しい指導があるからこそ、下級生は上級生に付いて行きたい一心で背伸びをして頑張る。上級生も、自分より幼い、能力も劣った下級生を、徐々に、いたわり、助けるようになって行く。年齢別に構成する学校の集団と寺子屋集団の一番の違いがここにある。昨年、寺子屋実行委員会は、1年間のパイロット事業を通して、「異年齢集団」の「助け合い」効果を十分に確認している。それゆえ、本年度、全小学校に事業を拡大した段階でも、参加者を「学童保育」年齢の3年生までに限定する事なく、1年生から6年生まで一緒に活動出来るプログラムを工夫している。
 「有志指導者」の指導の指針は、子ども達が朗唱する「寺子屋4か条の心得」の第2項に謳っている。それぞれの経験や能力にいろいろ違いはあっても「何ごとも仲良く」、「お互いに協力して」助け合う事が目標である。特定の子どもを仲間はずれにしたり、わざと辛くあたったりするような行為が見られた場合には、虐めた側の事情に関わらず、寺子屋は「虐められた子ども」の側に立つ。寺子屋は勝負に挑ませ、ルールに則った競争を奨励するが、一方的な侮辱や抑圧や仲間外しは断固認めない。「いじめ」は寺子屋の精神の対極にあるのである。「虐められた子ども」が負った傷はその子の未来の希望を失わせ、人生をさえ狂わせる事さえある。各ご家庭においても、「子どものことだから」と軽く考える事なく、重々それぞれのお子さんに「協力と助け合い」の精神を言い聞かせて頂きたい、と「寺子屋通信」第3号に強調した。果たして、「自己虫」の蔓延した現代の家族は理解するであろうか?
 

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