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生涯学習通信

「風の便り」(第66号)

発行日:平成17年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「参画」・「発言」・「相乗効果」・「創造」の実感 −KJ法の威力−

2. 公設民営理念の登場と運営方法の革新

3. 異年齢の集団あそび

4. 第57回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「参画」・「発言」・「相乗効果」・「創造」の実感 −KJ法の威力−

   かつて「生涯学習フォーラム」の研究同人である永渕美法氏が大学における学生の社会教育実習を論じたことがある。「いかなる条件のもとでもっとも効果的な実習ができるか」を、受入れ側の要望と突き合わせながら調査したものである。その時、筆者も思い立って、フォーラム報告の論文として、日本における教育研修のあり方を整理したことがあった。この度、幸運にも機会を与えられて、2年連続して山口県の『事業計画立案』のための研修を担当した。以下は山口県人づくり財団ー生涯学習センター、赤田博夫課長と相談しながら採用した理念と方法の総括である。


1 「ハウツー」を軽視する風土

   ハウツーを軽視する風土は大学の"学問馬鹿"が作ったものである。理由は二つある。第1は大学は研究と実践を分業化して、大学には実践の舞台がないからである。筆者が知る教育分野においてこのことは特に著しい。大学内にベンチャービジネスを育てるシステムを置こうという考えは、ごくごく最近のものであるが、これも教育学部とは基本的に関係はない。教育に関する限り、世間も大学人の「講釈」のみを聞いて良しとしてきた。実学を軽視する第2の理由は、教育研究を実践と結び付ける舞台の欠如が実践能力の訓練不足を生み出すことである。結果的に、研究者の側に体験が不足しているので、具体的な方法と手順を論じることが出来ないのである。自分が知らないものを軽視するのは人間の常である。それゆえ、大学における多くの教育研究者は、実践を軽んじ、結果を重んじない。それゆえ、多くの説は理念や理屈に偏りがちである。実践を伴なわず、理念と理屈に偏れば、必然的に、結果の評価をせず、特に、実践の評定を嫌うことになる。評定結果はみずからの発言や理屈に跳ね返って来るからである。実践と評価を欠けば、理論を行動のレベルに翻訳することは出来ない。それゆえ、「だれがいつまでに何をどうやるのか」という発想は希薄である。己の説く理念が実現出来なくても教育研究者が学問上罰せられることはなく、逆に、教育実践が出来ても、大学社会では、特にほめられることはない。大学の教育研究では、研究者の実践に学問的評価は与えられないのが常である。

2 システム上の原因

   ビジネスに限らず、あらゆる計画は、価値を共有しなければ実行出来ない。計画も、決定事項も実行に移さなければならない。しかし、日本の大学における教育研究はこの二つがほとんど全く出来ていない。現場の実践と価値を共有するシステムも、理論的に詰めたはずの計画の決定を遵守する自己規律も有してはいない。大学運営においてすら、事務局と教授会を分離したため、有言実行の義務も負わない。大学人が担当する教育研修が評論倒れになるのは、研究システムの風土がもたらす宿命である。この風土を変革するためには、欧米のように、実務者と研究者の絶えざる人事交流を可能にする制度を具体化するしかないが、果たして、日本にそれが可能であろうか?

3 研修における「学習」と「体得」

   筆者は、キャンプに代表される野外教育の研究の中から、「学ぶ」概念を二分すべきことに気がついた。具体的には、「体得」の概念を再度、意識的に、現行の「学習」概念から明確に分離することである。人間が「分かる」ということのなかには、論理的に理解する「学習」と、肉体的・感覚的に実感する「体得」がある。学習も、体得も「学ぶこと」には違いないので、両者をひっくるめて学習という場合もあるので混乱が整理出来ないで今日に至っている。学校教育が行なって来た「授業」の大部分はまさに前者の学習である。学習は頭脳が担当する。換言すれば、学習は論理的な学び方である。学習の対象は、「事実」や「概念」や「関係」である。したがって、体育や芸術を除く教科の大部分は、教科書で学び、教室で学ぶことが出来る。それゆえ、学習の方法も成果もその大部分は言語に翻訳可能である。一方、「体得」は、教科書でも、教室でもほとんど学ぶことは不可能である。換言すれば、論理的に学んだだけでは、体得したことにはならない。体得は身体全体で学ぶ。体得の方法はその多くが感覚的理解であり、肉体的実感であり、そのプロセスを言語に翻訳することは困難である。
   問題の根本は、学力の大部分は「学習」が可能であるが、実際の行動力は「体得」せざるを得ないところにある。行動力とは、知識を伴った実行力の意味である。にもかかわらず、戦後の学校教育は「学習」のみにアクセントを置き過ぎて来た。従って、学習によって、物事を論理的に理解はしても、肉体的に、全感覚的に「体得」してはいないことが多い。理屈というのは、「口では大阪の城も建つ」が実際には騒がしい子どもをしずめることすらできない。
   あらゆる職務研修は、職務遂行能力の向上が目的である。職務遂行の能力とは、「行動力」のことであり、知識を伴った実行力である。知識は実際の行動に応用されなければ、有効な行動力にはならない。それゆえ、研修の力点は「学習」よりも「体得」におかれるのが当然であろう。にもかかわらず、「学習」中心の学校教育が 50年以上も続いて、実際の研修においても、「学習」と「体得」の概念すら区別されていないことが多い。研修方法の上でも、学校教育の『「学習」=論理的理解』を優先する悪しき伝統が影響して、「座学」の研修が多い。行動力は、程度の違いこそあれ、かならず知識を伴う。しかし、知識は、全く行動力を伴わなくても知識と認められる。もちろん、知識だけでは職務遂行には全く不十分である。実習やインターンシップが重視されるのもそのためである。体得は肉体による「体験」を基盤としているからである。
   教育分野の研修が余り有効性を持ち得ないのは、現代の子どもの教育と同じく、知識のみの「学習」に偏っているからである。若い研究者や行政関係者に接して感じるのは、いろいろ知ってはいるが、頭でっかちで、実行力を伴わない。恐らくは、「学習」ばかりしていて、実践に必要な資質の全体構造を「体得」していないからである。ケーススタデーはもとより、シミュレーションや計画立案実習のような体験を基本とした「体得的学び方」が必要になる所以である。

4 実践を前提とした研修

   多くの教育分野の研修が無力なのは実践を前提にしていないからである。研修する為に研修し、学ぶ為に学ぶというのは当然本人にとって実践を促す強烈な動機にはなり得ない。子どもにとって多くの授業が退屈なのは、同じく、実践が遠い未来のことであり、授業の大部分が日常への具体的な応用を前提にしていないからである。
   このたび、山口の赤田さんと合意したことは、あくまでも実践を前提とした研修を企画することであった。しかし、山口県側のご都合もあって、本年度の研修スケジュールは、初夏に研修して、秋までに実践し、冬の始めに実践過程の総括をしてみようという企画である。研修を引き受けながら、けちを付けるようで恐縮であるが、このようなわずかなインタ?バルしか取れない研修日程では精々、実践の準備をするだけで精一杯である。予算措置や組織の意志決定に必要な時間を考慮すれば、当然、行政が主体となる事業の実践は不可能である。必然的に、実践計画は民間のグループを主体として「ひと、もの、お金、時間」を余り必要としないプログラムに限られることになる。しかし、自由に動ける民間の方々にとっても、ほんの数カ月の助走期間では準備作業をするのが精一杯である。正直なところ筆者は、当初の意気込みも忘れて、研修成果に対する期待はしぼんでしまっていた。しかし、驚いたことに、今年の研修生は意欲満々であり、研修の終りには今後の実践を前提とした「計画案」が続々と出来り、「今年中にやってみよう」という約束をして別れることになった。

5 参加者の特性と研修の約束

   今年、生涯学習センターは、既存の教育機関/教育組織から研修参加者を推薦してもらうという「他薦方式」を廃止した。結果的に、募集は、多様な広報手段を併用した、「公募・自薦方式」になった。公募を反映し、生涯学習の広がりを反映して、参加者の背景はバラバラであった。行政の関係者もいれば、教員もおり、教育以外の分野で仕事をしている人もいれば、公募のお知らせを見ただけで参加した主婦の方もいた。年齢も25才を最年少に、60才を越えた人もいた。当然、生涯学習に関わった経験も千差万別であった。
   研修では、地域、年齢、性別、職業に偏りが生じないように配慮して、5-6人の小グループを編成した。それがKJ法やグループワークの母体になる。研修上の約束は「実践の試行」である。しかし、状況を勘案して実践のための時間を区切ることはしなかった。

6 KJ法の威力

   人々の意欲と実践動機を生み出したのは、研修生個々人の資質ももちろんだが、その資質を引き出したのはKJ法である。研修では、「3重奏」と称して、三つの方法を併用した。第1は、KJ法、第2は、少人数・班別のグループ・ワーク、第3は「もちより方式」の懇親・交流会である。これらの3つを同時に併用した「3重奏」の威力をまざまざと見ることになった。KJ法では、徹底して「発言民主主義」をお願いした。まずは、「全員発言の原則」を貫徹した。それゆえ意見を出し合うにあたって、「質問」と「批判」と「討議」を実質的に禁止した。グループの中で発言の記録に専念する「記録係」を交替制で分担し、どなたの発言ももれなく記録することに務めた。一つの意見が出されれば、当然それをめぐって討議が始まる、したがって、「討議」の禁止にはかなりの人々が戸惑ったようだが、筆者はくり返し議論の始まったグループに介入して討議を止めていただいた。「相手の意見」の尻馬に載って「自分の意見」を作って行くことを奨励した。斯くして、発言カードは小グループが囲んだ机の上一杯に広がって行く。記録された自分の意見が蓄積されて行くに連れて人々の取り組みの姿勢が変わって行く。全員が休憩もとらずに演習に打ち込む姿はお見せしたいものであった。こんなに熱中したのは久しぶりのことです、とわざわざ筆者のところへ言いに来た方もあった。「参画」の実感、自己「発言」の重要性、他の方々の意見との「相乗効果」、新しい計画案の「創造」が人々のエネルギーを生み出しているのである。
   結局は最後まで人々の気合いは衰えず、「計画案」の発表・討議に熱が入り過ぎて、ついつい4日間の研修の終了時間を大きく越えてしまった。グループメンバー間の抜群の団結力、まえ向きの姿勢、取り組みへのエネルギー、実践への意欲はKJ法によるたっぷりの発言、グループワークによる智恵の相乗効果、交流会を通した親睦が三つ重なって大きな効果を発揮したのだと確信している。
   そもそも今回のスケジュールでは、常識的に見て、今年度中の実践には無理があることはあきらかである。しかし、いくつかのグループは県内各地にまたがって実践の場所を定め、お互いの協力を約束した。最低限、自らが企画した計画のパイロット事業だけは手掛けてみたいという意気込みである。果たして、研修が生み出した熱気がパイロットの実践を最後まで持続させることができるか?初冬の再会が楽しみである。
 

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