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風の便り

フォーラム論文

編集長略歴


(第39回生涯学習「移動フォーラム in  大分」参加論文)

学校、家庭、地域が問われるもの −体得の再認識と体験の質と量の再吟味−

平成15年10月18日(土)

大分県立生涯学習センター

三浦清一郎

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1   「地域教育力」とは「学習プログラム」の総体

   近年、「老人力」、「市民力」、「社会力」などと具体的な中身の分からない「〜力」ばやりである。「地域教育力」もその一つであるが、少なくとも現場主義の教育行政はこのような抽象概念に頼って現状の分析をするのはいい加減に止めるべきである。教育力が足りないという時、何が足りないのか?足りないものを具体的に取出して論ずるべきである。教育力の要素を大別すると、「教育環境」と「学習プログラム」になる。従来は、筆者も、教育環境が「全体」で、そこから生み出される学習プログラムが「部分」であると考えて来た。しかし、具体的にものを考えようとすれば、「全体」と「部分」の発想は逆転が可能である。いかなる教育環境も、学習プログラムの提供に始まる。学習プログラムの反復によって、教育環境が醸成されたのである。教育環境が初めにあったのではない。「学習プログラム」が出発点であり、意図的な教育プログラムが初めにあったのである。換言すれば、「環境」も、「風土」も、「人間関係」も、具体的な学習プログラムの実施過程で生み出された条件である。もちろん、ひとたび出来上った教育環境は、それを土台にして次なる新しい学習プログラムを生み出すから、一度学習環境が醸成されると、学習環境が「親」で、学習プログラムが「子ども」になるような関係が生じる。しかし、両者の関係は、双方向である。子ども次第で親が変わることはいくらでもあり得る。「プログラム」のあり方が「教育環境」を変えるのである。

   また、「環境」と「プログラム」の間には「「偶発性」と「計画性」の違いがある。教育プログラムは意図的であるが、教育環境や人間関係の中で発生する学習は偶発的である。既存の「教育環境」、「教育風土」、「人間関係」などから自然発生的に生じる学習はあくまでも偶然で、気紛れである。それゆえ、偶発的に行なわれる「学習」を、意図的、計画的に行なわれる教育行政の指標に含めるべきではない。教育行政はあくまでも学習者にとって何が必要で何がかけているのかを具体的に考えれば良い。現実問題の対応策を論じる場合には、「教育環境」、「教育風土」、「人間関係」など、重要ではあるが、包括的で、漠然とした概念を教育力の構成要素からはずして考えるべきである。

   結果的に、教育行政が問題とすべき「教育力」の概念は「学習プログラム」である。行政が配慮すべき対象から、偶発的、気紛れの学習機会を除外すれば、残るのは「学習プログラム」だからである。問題になるのは、プログラムの中身であり、指導者であり、指導者が用いる方法である。もちろん、プログラムの外側では様々な資金・資源が必要になるのはいうまでもない。すなわち、教育力とは、「計画的、意図的な学習プログラム」の総体を意味する。すでに当然のこととして、誰も学校の教育力を問わないが、それは学校のカリキュラムとその実行能力とほぼ同義である。教育行政が論ずべき教育力とは「学習プログラム」の質と量であり、それを実行に移す力量の有無である。教育力とはプログラムの質と量の総体と同義である、と定義すれば、学校についても、社会教育についても、行政が問うべき内容と方法がハッキリと見える。建て前のきれいごとをいくら並べても、「学習プログラム」が存在しないところに、「教育力」はない。もちろん、プログラムの実行能力の無いところにも「教育力」はない。また、現状のように、学習プログラムが存在しているにも関わらず、人々が、学校も、家庭も、地域の教育力も低いと言う時は、「プログラムの質・量」及び「実行力」が不十分であるいう結論になる。その時こそ方法論を吟味し、プログラムに関わる「人、もの、金、こと」を点検しなければならない。

2 「地域教育力」の不足は、地域の「学習プログラム」の不足

  「地域教育力」が問題になるのは「学習プログラム」が十分に存在しないからである。もちろん、プログラムを実行に移す、「人、もの、金、こと」に代表される 実行力も問われている。例えば、学校週五日制が始まって以来の土曜日を見るがいい。地域における土曜日の子ども達の活動プログラムは極めて稀薄である。プログラムが貧弱であれば、当然、参加者はさらに稀薄である。筆者が「土曜教育力」と名付けるのは、「土曜日に提供される子どものための学習プログラムの総体」である。学校週5日制は、「ゆとり」を意味するが、ゆとりは「直線的に」「充実」にはつながらない。優れたプログラムなしに、文部科学省が唱導して来た「ゆとりと充実」は実現しない。週末の活動プログラムによって裏打ちされていない学校週五日制は単純に、土曜日が休みになるということを意味しているに過ぎない。それは、子どもにとって、これまであった土曜日の学校プログラムを消失するということである。学習プログラムと教育力はほぼ同一のものであるから、学力が心配になり、体験不足が心配になるのは当然である。土曜日の「学校プログラム」が消えた分だけ、「教育力」が低下するのである。したがって、これまであった土曜日の学校プログラムに代わるすぐれた活動・学習プログラムを補完しない限り、「ゆとりと充実」は生まれない。学校週6日制に戻せという議論が出るのも一理あるのである。

   ことは放課後や長期休暇中のプログラムについても同じである。部活が学校が準備する放課後のプログラムであることを考えれば、部活に参加しない子ども、部活のない小学校等には放課後のプログラムが必要なのである。

   土曜教育力が土曜日の活動・学習プログラムの総体であるとすれば、夏休みの教育力という言い方も可能である。夏休みの教育力とは、長期休暇中に提供される活動・学習プログラムの総体である。

   夏休みは子どもは休業である。多くの外国の教員も夏は休業である。それゆえ、休み中の給料はでない。しかし、日本の教員は夏休みも勤務中である。給料も出ている。子どもが休業しているのは、学業である。その他の活動は別である。地域の教育力が低いと言うのであれば、地域における夏休みの子どもに活動プログラムを提供しなければならない。外国の「サマースクール」はそのようにして始ったのである。教育行政は、学校週五日制の開始に伴って、なぜ夏休みの教育力の創造を言わないのか?誰が提供するのか?何をするのか?「生きる力」は「学力」だけではない。答はおのずから自明であろう。

3   子ども達の日常−分かっている危機

   関係者にとって現代の子どもを取り巻く具体的な危機が分からないわけではない。例えば、夏休みや学校週5日制で生じた自由時間である。自由時間の増加はその使い方次第で充実にも転落にもつながる。しかし、現状では、その対応策も準備もまったく不十分である。

   また、例えば、「体力」や「耐性」の不足である。この二つは指導の前提である。トレーニングの基本条件が整っていない時、ほとんどの分野で子どもの指導はできない。現状は、行政が提起している「生きる力」の定義が抽象的で、曖昧であるため、関係者の恣意的な解釈を許している。それゆえ、生活科も、総合的学習も、その目的、方法の設定が恣意的になりがちである。もちろん、地域の教育を担当する社会教育が、目的・方法の曖昧な「体験プログラム」を導入しただけでは「生きる力」の向上は達成できない。現行の教育は、学校教育、社会教育ともに対象となる子どもの指導条件が整っていない上に、「生きる力」を向上させるための目的も、方法も、論理的な分析が不十分なことが多い。それゆえ、公民館や学校が主観的に一生懸命やっただけでは成果は上がらない。

4 子ども達の日常 −テレビと塾とコンピューターゲームと学校

   子どもの体験が不足しているのも、指導が難しいのも、子どもの日常に問題の根源がある。大方の研究報告を読めば、子どもの日常を構成しているものは、テレビと塾とゲームと学校であろう。子どものスケジュールの中に家族との同行はあまり出て来ない。友だちとの同行もあまり出て来ない。表記の見出しは、子どもの日常を構成する要素の配列である。配列にはある程度の順序性を意識している。子どもにとっての重要度の順である。子どもによってはゲームとテレビの順序は入れ代わるのかも知れないが、それぞれが日常を構成する4大要素の一つである事は間違いあるまい。塾と学校とテレビは子どもの日常となって久しい。しかし、ゲームは最近まで「非日常」であったものが日常化したのである。テレビも、ゲームも、労働や学業の努力から解放される娯楽として登場した。たまの映画や祭の縁日に出かけて行くように「たのしみ」であった。大人にとっても、子どもにとっても、日常から逃避する非日常のプログラムとして出発したのである。情報化時代とは、日常の中にかつては非日常の代表であったメディアの娯楽プログラムを定着させた時代なのである。少年達の日常を構成する要素は子どもを人間の自然性から隔離してしまう。少なくともこれまでの人間の「自然」は能動的で、集団的で、自発的であった。

5   能動的プログラムの不在−連続する受動的擬似体験

   「テレビに子守りをさせないで」(岩佐京子)以来多くの警告の書が出版された。最近では、森昭雄、「ゲーム脳の恐怖」日本放送出版協会)や川島竜太「自分の脳を自分で育てる」(くもん出版)などがある。映像メディアへの連続的接触が人間を受動的にする事への警告である。いずれにせよ、少年の発達にとって受動的擬似体験の連続は悲劇的である。受動的擬似体験に埋没すれば、人との交流の時間は激減する。親子の接触も友だちとの交流もなくなるのはそのためである。テレビやゲーム機の前で過ごす時間が多ければ、身体を使い、5感を駆使した体得の機会も失う。テレビとゲームの接触時間が長ければ長いほど、子どもの「能動的」時間は失われる。上記「ゲーム脳の恐怖」を表した日本大学の森昭雄氏の子どもの脳の研究では、ゲーム中の子どもの脳波がぼけた老人の脳波に一致していると指摘している。森氏の指摘が確認されれば、ゲームへの熱中は脳そのものの発達を阻害することになる。

   刺戟は十分に受けているが、すべては受動的である。これらのメディアとの接触が長いほど能動性の欠如を意味する。日常の興奮と刺激も過剰であることを意味する。

   能動性を身に付けていなければ、林間学校も、海浜学校も楽しくはない。能動的な楽しみは楽しむための能力と前提条件が必要であり、楽しむことの学習が必要である。また、日常のメディアの興奮と刺戟が激しければ、非日常のときめきは薄れる事になる。毎日をメディアの擬似体験の興奮に曝していれば、ときめきをときめきとは感じなくなる。刺戟が強い分だけゲームの興奮から離れられなくなるのであろう。ゲームに”中毒”するというのはそういう意味であろう。受動的擬似体験であっても、子どもに与えられる興奮の連続は夏休みの興奮を空しくしてしまうのである。夏休みに限らず、自由時間がテレビとゲームに耽溺する時間になれば、”中毒”は益々進行するであろう。一度受け身になってしまった子どもの感覚体と精神は、社会と関わる事も、自然と関わる事も億劫で、困難になる。交流も、参加も、自然体験も「能動性」の別名だからである。まして、日々受動的に過剰な興奮と刺戟に曝されている子どもは興奮と刺戟を特別には感じない。活動するにせよ、交流するにせよ、能動的な日常のノルマに耐えたものだけが、祝祭性のときめきや感動を体験できる。毎日が刺戟と興奮に満たされていればそこから抜けだせなくなり、新しい体験への挑戦も難しい。林間学校にも、海浜学校にも行く気さえも起こらなくなるのである。すでに、受動の刺戟に麻痺した精神には、努力しなければ達成できない非日常の祝祭は魅力でもなく、特別でもない。

6   能動的活力の創造

   人々がテレビやコンピューターゲームに教育上のマイナスを直感しているのは、それが日常に入り込んだ「受動的・擬似環境」だからである。かつて、映画に出かけるのは非日常の特別行事であった。わくわくしたのも、どきどきしたのも非日常の祝祭性が興奮を禁じ得なかったためである。テレビはそれを日常茶飯のものと化した。ゲームも同じである。日常に侵入した「非日常」は受動的な擬似環境を日常化し、その中での刺戟や興奮を日常化した。日常が退屈な我慢と束縛の連続で、非日常が心ときめく興奮と刺戟ヘの誘いであるという対立的な構図はテレビの登場をもって終わりを告げたのである。それゆえ、テレビやゲームの登場は子どもを受動的にして、「体得」の機会を奪い去ったに留まらない。無気力や生活の乱れを引き起こしたに留まらない。テレビはかつて存在した日常と非日常の境界線を消し去ったのである。テレビやコンピューターゲームへの埋没によって子ども達が能動的活力を喪失し、「挑戦」や「冒険」を意味する非日常への脱出願望を失って行くのは当然の帰結なのである。それゆえ、能動性を回復し、非日常を実感するためのプログラムはテレビやゲームを消したところから始まる。サマープログラムやウイークエンド・プログラムが重要なのは、工夫いかんで子どもの日常に能動的活力を取り戻すことができるからである。

7   個体の限界

   体験の本質は人間存在の個体性にある。「個体性」とは「誰も代わりには生きられない」ということである。私たちは肉体的に、しかるに精神的にも他者から切り離されている。「私」と「彼」とは別の肉体を持ち、個別に存在している。従って、「私」は「彼」の痛みを共有できず、「彼」もまた「私」の痛みを共有することはできない。両者が痛みを共有できないということは体験は共有できないと言うことである。自分でやってみるしか分かる方法がないのである。悲しみも苦しみも、ひいては人生も共有できないことは言うまでもない。それゆえ、間接経験から学ぶことには、人間がどうにもできない限界が存在するのである。間接経験とはつまるところ「他者の体験の総括」だからである。人間は基本的にやったことの無いことは分からない。他者と体験を分かち合うこともできない。痛いのも、哀しいのも他者の苦痛を共有することはできない。それは「個体の限界」である。

   子ども達はテレビの中の飢えを知っており、先生や親の話を通して、汗や疲れを知識として知っているかも知れない。しかし、現実の汗も現実の疲労困ぱいも体験した事はない。肉体的に「非日常」を学ぶということは、汗も、疲労も自らの肉体を通して体得することを意味する。肉体の5感あるいは6感を通して理解しない限り人間には会得出来ないことが多い。それが人間の「個体性」であり、「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」ということわざの意味である。子ども達が緊急に必要としているプログラムは能動的な活動である。能動的活動こそがテレビ中毒やゲーム中毒の解毒剤である。解毒剤は直接子どもの肉体に与えなければならない。自然体験や困難体験のプログラムには、テレビはもちろん、ラジオも、携帯も持ち込みは禁止である。子どもの日常を遮断し、受動的な擬似体験とは異なる人間の5感あるいは6感を駆使した肉体的活動による非日常体験を創造するためである。だからこそ自らの肉体を駆使する体験プログラムが意味を持つのである。

8   「体得」−忘れられた概念 −「学習」概念の再点検−

   人間が「分かる」ということのなかには、論理的に理解する「学習」と、肉体的・感覚的に実感・会得する「体得」がある。学習も、体得も「学ぶこと」には違いないので、両者をひっくるめて学習という場合もあるので概念の理解が混乱する。学校教育が行なって来た「授業」の大部分は脳を活用して学ぶ前者の学習である。したがって、体育矢芸術を除く教科の大部分は、教科書で学び、教室で学ぶことが出来る。それゆえ、学習の方法も成果もその大部分は言語に翻訳可能である。一方、「体得」は、肉体の活動を通して学ぶ方法である。それゆえ、教科書でも、教室でもほとんど「体得」は不可能である。体得の方法と結果はその多くが感覚的理解であり、肉体的実感であり、そのプロセスを言語に翻訳することは困難である。「身に滲みる」というのが体得の分かり方であり、「腑に落ちる」というのが納得の仕方である。

   問題の根本は、学力の大部分は脳を活用した「学習」によって獲得が可能であるが、「生きる力」の多くは肉体的活動を通して「体得」せざるを得ない、ということである。

   それゆえ、「生きる力」の要素は「学力」を除いて、体力も、耐性も、道徳性も、感受性も、論理的な「学習」だけでは到底不十分である。「生きる力」の大部分は、肉体の活動を通して、身体的、感覚的に「体得」するものである。それゆえ、学力の教授を専門として来た学校にとっては苦手な分野である。学力の大半は授業と演習で学習することが出来るが、「生きる力」の残りの要素は論理的な教室の学習では学ぶことが出来ない。学力の向上を専門とする学校には「体得」の舞台が不足することは当然なのである。

   体得するためのプログラムの基本は「体験」である。にもかかわらず「学習」と「体得」の質的な違いを余り吟味せずに、体験と学習をくっつけて「体験学習」と呼んだことが混乱のはじまりである。「体験学習」という表現ではあたかも「体得」と「学習」が同じであるかのような誤解を招きやすい。「体験学習」とは体験を通して「体得」するという意味である。したがって、正確には「体験学習」ではなく、「体験体得」(体験を通して、肉体的・感覚的に理解する)でなければならない。「体得」を司る器官は、文字どおり、全身全霊、肉体の全部である。これに対して、「学習」は頭脳が司る。学習の大半は頭で理解することである。現代の子どもが頭でっかちで、実行力を伴わないのは、「学習」ばかりしていて、「体得」していないからである。自然体験、社会参加体験、自発的活動体験、困難体験など体験の欠損が問題なのは、現代っ子は肉体の総合的な活動を通して「生きる力」の基本を体得していないからである。「体験体得」が必要になる理由がここにある。

9   体験教育の方法論上の意味 −「学習」と「体得」のバランス

  (1)   体験の概念

   人生とは経験の連続である。経験は身をもって通る「直接経験」と書物や人の話や映像などを通した「間接経験」に分かれる。「直接経験」は主として身体の5官全部(あるいは第6感も含めた全存在)を通した活動で、「体験」と同義である。最近はテクノロジ−が進歩した結果、直接経験と間接経験の境界に当たる「偽似体験」や「バーチャル・リアリティ」などが登場し、経験は三分野に分かれるようになった。

  (2)   体験の効用

   野外教育に限らず、「身体で覚える」ということは、自分の状況を自分の身体で確認することである。何よりも言葉による「ごまかし」がきかない。「身体が覚える」、「身にしみる」、「身につく」というのが体験の効用である。 

   言うまでもなく、子どもに限らず、人間の生活は24時間と決まっている。この24時間は何らかの経験の連続である。それゆえ、体験による「体得」を導入すると言うことは「経験」の中の「体験」の「相対的分量」を変えることである。体験の「量」を拡大することは経験の「中味」を変えることであり、経験の「方法」を変えることであり、経験の「解釈」を変えることである。換言すれば、「学習」の量を減らして、「体得」の量を増やすことである。教科教育を専門とする学校からこれ以上「学習」の量を減らすことはできない。かといって、「生きる力」の「体得」の課程を家庭にゆだねる状況ではない。「子宝の風土」における家庭には、保護の機能は存在しても、自立のトレーニング機能は稀薄である。近年では、保護の機能すらも疑われる状況が頻発している。それゆえ、社会教育との連携は不可欠である。社会教育は今こそ学校教育の目標と連動した「体得」のプログラムメニューを豊富に開発して、子ども達の参加を促すべきである。学社連携の当面の目的は子どもの日常における「学習」と「体得」のバランスを再点検・回復することである。

10   「欠損体験」

   「欠損体験」の概念を提出したのは、すでに20年も前の事である。体験の欠損こそが少年の「生きる力」が育たない原因である。「欠損体験」の認識は、教育の現状を変革する出発点であり、「欠損体験」は実践の混迷を解くキー概念である。

   少年は「一人前」の学習プロセスにおいてさまざまな不可欠の体験を通っていない。例えば、それは、基本的生活習慣の欠損であり、自然接触体験、異年齢集団体験、自発的活動体験、社会参加体験、困難体験などの欠損である。これらの体験が欠損していれば、子どもは生きるに必要な資質を学ぶことがない。学校の学習だけでは、「半人前」は決して「一人前」にはならない。親も社会も、学校ですらも、これら体験の欠損の意味を見のがし、その教育的補完の重要性を見落としている。それゆえ、地域の教育力に限らず、問われるべきは、「欠損体験」を補完すべき指導のプログラムである。 子どもの人生理解と納得はそれぞれの体験を核としている。自分が身を持ってくぐった体験だから愛着も湧き、関心も深まるのである。関心が育ったところで興味もやる気も高まっていくのである。それゆえ、子どもが生きる力を学ぶためには、責任も、役割も、困難も、集団も、自分で生きてみる場面が必要であり、自分でやってみる体験が不可欠である。昨今の体験学習の強調は、遅ればせながら、学校主導、「学習」主導で進めて来た戦後教育の欠陥を修正する機会になりうるという点で極めて重要なのである。

11   発達上の欠陥は教育的欠陥

   子ども達の弱さは目に余る。がまんの足りなさも情けない。それはとりもなおさず子どもの鍛錬が不足しているからである。子ども達は自己中心的で、わがままであるという。それは自己本位の考え方を許し、わがままを大目に見て来た養育・教育上の欠陥である。同じように、少年の責任感が薄く、積極性・やる気が乏しいという。こうした症状は、三無主義とか四無主義と呼ばれてきた。こうした現象も、主体的な活動の機会を準備せず、その結果の責任を問わなかった教育の責任であることは言うまでもない。

   引きこもりが百万人を越え、不登校が13万4千人に達し、校内暴力の発生率がこの一年で10%増加したという。それも教育の欠陥以外の何ものでもない。こうした教育の異常は、本人及び家族の幸福を脅かし、社会の活力を低下させる。その数といい、その意味といい、国家社会の根幹を揺るがす重大問題である。まさに、発達上の欠陥は、教育上の欠陥がもたらした結果であり、今や教育秩序が機能していない現状を示唆している。

12   体験の質と量−学ぶ条件の整備

   教育の役割は学ぶ条件を整えることである。学ぶ条件とは、「知らないことを教えること」であり、「知っていることを実行してみること」である。

   責任感を教えようとするなら、子ども達に責任ある仕事や課題を与えなければならない。それが社会参加体験であり、責任分担体験である。同様に、協力の精神を教えようとすれば、子ども達が協力せざるを得ない状況をつくらなければならない。協力を評価し、非協力を叱責し、協力の意味を分からせるためである。それが協力体験である。もし、子ども達が学んでいないとすれば、それは各種の体験を含め、学ぶ条件をきちんと整えていないからである。

   かくして、鍛錬体験の欠如は、体力の不足を意味し、困難体験の欠如は耐性の欠如を意味する。「体験」の「欠損」が教育的欠陥に直結するのはそのためである。

   「生きる力」は社会生活の基本能力である。人が生物であり、かつ社会的動物である以上、体力と耐性が基本である。二つの土台を確立した上でなければ何一つ指導は出来ない。当然、授業も出来ない。学力や道徳性も大事であるが、生きる力の要素には「順序性」がある。教科指導だけで一人前が育つというのは、学校が陥り易い錯覚である。それは教科に囚われた学校の死角である。学社が連携した体験プログラムの重要性が強調されなければならない理由がここにある。

13   箇条書の結論

  1.  「教育力」とは「活動/学習プログラム」の総体である。

  2. 現代教育は「体得」の概念を忘却し、軽視し、結果的に「学習」で人生の必要事項が学べると錯覚している。

  3. 子どもの日常は、学校と塾とテレビとC.G.が占領し、結果的に「受動的」で、「擬似環境」に埋没した時間を過ごしている。

  4. 当然、多くの子どもに核になる各種体験が欠損し、「生きる力」は弱く、特に、基礎となるべき「体力」、「耐性」が弱い。

  5. 「体力と耐性」は指導の前提である。指導の前提条件が整っていないので教科教育をはじめ、あらゆる指導が多くの困難に当面する。

  6. 強調されるべき体験の質と量には順序性がある。体力と耐性を前提とし、道徳性、基礎学力、思いやりややさしさなどを、自然体験、異年齢集団体験、社会参加体験、困難体験などを通して培うべきである。

  7. 体力と耐性に限らず、人生の「核体験」は、教科教育の学習では形成できない。学校が、家庭、地域と連携すべき理由はここにある。

 

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