1 子どもの「非日常」とはなにか?−(要約)
(1) 非日常は日常の反対である。日常が「普段」であれば、非日常は「特別」である。
(2) 日常は「いつもやっていること」と同義である。したがって、「特別なこと」もいつもやるようになれば、すでに「特別」ではなく、「日常」でもなくなる。
(3) したがって、日常と非日常の境界は曖昧であり、活動は相互に連続している。日常は非日常によって定義され、非日常は日常によって定義されている。
(4) 日常活動と非日常活動との区別は活動の中身ではない。活動の頻度であり、連続性である。
(5) 国語辞典がいうように、日常が「平常」であれば、非日常は「非常」である。日常が平生の「連続」であれば、非日常はその「断絶」である。事故や死がその中身・状況に関わらず非日常と感じられるのは平生の「断絶」の故である。
(6) 学校が子どもの生活を支配するようになって以来、学校が子どもの日常となり、夏休みは非日常となった。日常は、勉学の義務と家の手伝いの束縛と束の間の遊びで構成された。それゆえ、自由を保証された日曜日も夏休みもときめきを伴う義務と束縛からの解放であった。
(7) しかし、子どもの生活が変わって子どもの日常も変わった。勉学の義務は残ったが、手伝いを免除され、遊びの変わりにテレビとゲームが登場した。
(8) テレビやゲームは初めは非日常の楽しみであったが、普及に伴って日常の活動となり、子どもの時間を支配し始めている。
(9) テレビとゲームはすべて受動的な時間の消費である。テレビとゲームが支配的であれば、結果的に、発達期の子どもから能動性を奪うことになる。
(10)夏休みは子どもの最大の自由時間である。学校の日常支配が続いている限り、夏休みは今でも子どもの非日常になりうる。それゆえ、サマープログラムは自由時間の最大活用が目的である。活動の中身は子どものを非日常に返し、その能動性を可能な限り発揮させることに重点を置くべきである。
(11)非日常の活動とは現在の子どもの日常に存在しないものである。非日常とは「めったにないこと」であり、組み立て自由のスケジュールである。それゆえ、夏休みは、自然を素材とした自由なグループ活動が中心になる。普段やることのできない課題もプログラムの候補となる。子どもの日常には自然との接触がない。集団での共同生活もない。体力と耐性を自己テストする過酷な肉体作業もない。一つの課題を深く掘り下げる機会も少ない。要するに、能動的な活動は極めて稀薄である。サマープログラムはこうした非日常的活動への挑戦でなければならない。
2 「構造的」停滞−「構造的」危機
少年の危機は、教育施策・養育方法論上の間違いが直接的原因である。しかし、広義に見れば、教育システム・養育環境上の構造的停滞が根本の問題である。教育方法の誤りは過保護であり、放任であり、子どもの日常をテレビやコンピューターゲームが支配している環境の問題である。教育施策の迂闊は、そうした環境に子どもがおかれているにもかかわらず、生きる力の基本条件となる体力、耐性、道徳性、基礎学力、やさしさや思いやりの感受性を身に付ける体得や鍛錬を軽視してきたことである。
軽視の理由は子宝の風土の教育観や戦後に輸入された欧米流の「児童中心主義」の過信に原因がある。それは教育思想の責任であり、教育行政の不勉強の問題である。したがって、単一の原因が特定の結果を生んでいるのではない。学校の無策と無気力、家庭の無責任、世間の頽廃と、社会の浪費が教育・養育方法の間違いと重なって、複合的な原因となっている。それゆえ、少年の実態はすでに複合的に危機的である。
現状では、個々の問題点を指摘しても誰も何もやろうとしないが、対応策に苦労してみれば、少年の危機が構造的であることがわかる筈である。
3 分かっている危機
関係者にとって具体的な危機が分からないわけではない。例えば、学校週5日制である。自由時間の増加はその使い方次第で充実にも転落にもつながる。しかし、その対応策も準備もまったく不十分である。
また、例えば、行政が提起している「生きる力」の定義が曖昧である。定義の曖昧さが関係者の恣意的な解釈を許している。それゆえ、生活科も、総合的学習も、その目的、方法の設定が恣意的になりがちである。トレーニングの基本条件が整っていない時、子どもの指導はできない。もちろん、目的・方法の曖昧な「体験プログラム」を導入しただけでは「生きる力」の向上は達成できない。現行の学校教育は、対象となる子どもの指導条件が整っていない上に、「生きる力」を向上させるための目的も、方法も、論理的な分析が不十分なことが多い。それゆえ、学校が主観的に一生懸命やっただけでは成果は上がらない。
子どもの体験が不足しているのも、指導が難しいのも、子どもの日常に問題の根源がある。地域住民や社会教育と共同しなければ、学校教育の指導の前提条件を整えることは極めて困難である。今のままでは生活科や総合的学習に時間を割いた分だけ基礎学力は落ちる危険がある。曖昧な体験プログラムと不十分な学力のトレーニングの現状を見れば、塾やフィットネスクラブが繁昌するのは当然の帰結である。
4 「生涯学習格差」の拡大
土曜日も夏休みも、保護者や少年の自覚の有無によって、自由時間は確実に「生涯学習格差」を拡大する。様々な理由で遅れた子ども達はますます向上の意欲を失う。遅れが無気力の原因となり、廻り廻って、無気力が遅れの原因となる。格差の拡大こそが教育政策に伴う構造的な問題なのである。まして、夏休みは長期の自由時間である。教員の勤務時間でもある。ここまで少年問題が深刻化しているにもかかわらず、いまだ一つの学校もサマースクールをやろうとは言わない。教育行政が準備した土曜スクールもお寒い限りである。学校の施設・機能も「放課後児童健全育成事業」(学童保育)にも、その他の地域の少年活動にも開放される事は稀である。やろうと思えばすべて実行可能なことである。教育行政は構造上の危機を理解してはいない。
5 葬り去った教育論と治療原理−「生きる力」を試練にさらせ
危機の典型は複合的なドロップアウトや非行に象徴される。非行も不登校・閉じこもりもすでに個々の指導者の叱責や愛情で立ち直るような問題ではない。土曜スクールを設立し、サマースクールを創始し、学校も、家庭も、地域社会のプログラムも、生きる力の体得を中心に据えるのが構造的対処法である。しかし、日本社会では、少年問題が人々にとって、さらに耐え難くなるまで、しばらくは誰もやろうとはしまい。
しかし、個別の事例に対処する緊急避難的方法がないわけではない。非行、不登校、引きこもり、学級崩壊などの少年問題は規範と生命力の欠如が原因である。その臨床的対処法は、規範と生命力を補完する強制的環境の中で生き方の根本から自立のトレーニングを行なうしかない。その基本理念は、「生きる個体」が自らの生命力で生きようと模索せざるを得ない環境を作ることである。もちろん、子どもは自発的にそのような環境に入ろうとはしない。「生きる力」を失った子ども達には必要に応じて教育の強制が必要になる所以である。人間が死を恐怖し、ひたすら生きようとするのは、生命の自然である。生命の自然を回復するためには、原理的に、生命力そのものを試練に曝し、みずから生きたいと願う欲求を蘇らせることである。その理念は、日本社会が全否定した「戸塚ヨットスクール」の創設理念に最も近くなるであろう。かつてその学校が冒した事件と誤りによって、ひとたび葬り去った生命力試練の理念は果たして蘇ることがあるだろうか?
6 夏休みの意味
学校が子どもの日常を支配するようになって以来、おそらくほとんどの子どもにとって夏休みは特別の意味を持つようになった。学校で過ごす時間は義務であり、束縛であり、くり返しであるが、夏休みはこれらの義務的スケジュールからの解放だからである。
日常のプログラムはノルマの課題である。やる事も、やるべき時間も決まっている。それゆえ、日常とはノルマを果たすためのスケジュール化された時間である。
一方、夏休みは学校のスケジュールからも、勉学の義務からも解放される。夏休みのプログラムは日常のノルマの外の課題である。それゆえ、サマープログラムの時間は組み立て自由である。時間の観点から見れば、非日常とは組み立て自由のスケジュールを意味する。子どもにとって夏休みは時間割りから解放された非日常の季節なのである。夏休みのプログラムは、義務から解放され、自由な選択を前提とした「挑戦」や「祭」のときめくプログラムとなり得るのである。
7 「普段」と「特別」
2003年の8月28日(日本時間)火星が7万3千年振りに地球に大接近するという記事がニューズウィーク(July28、2003、p.51)にあった。夏休みのプログラムに火星観察を入れる少年グループがあるかも知れない。7万3千年ぶりの接近は「めったにないこと」である。火星を観察するのはもちろん、灯りのないところへ行くことも、野外で夜更かしをすることも、子どもにとってはまさに非日常の活動であろう。頻度の観点から見れば、非日常とは「めったにないこと」と定義できる。広辞苑によれば、「日常」とは毎日のようにあることであり、「普段」であり、「平常」であり、「平生」である。それゆえ、「日常」は特別ではない。これに反して、「非日常」とは特別である。めったにないことを体験するためには、日々のくり返しを離れるしかない。日々の安心と平和からも離れる。毎日繰り替えしている「日常」は知り尽くしているが、「非日常」は未知の時間である。未知には成功の保証はかならずしもない。成功の保証がないままに、敢えて危険を冒して挑戦することが「冒険」であり、「探険」である。少年のサマープログラムは、成功の保証のない危険な冒険であってはならないが、慣れ親しんだ日常と異なるがゆえに、未知への挑戦のときめきを演出することができる。
8 日常と非日常
どのような基準を採用しても、どこまでが日常でどこからが非日常であるかをきめることは難しい。非日常は「日常に非ず」という意味であるから、広辞苑が定義する「普段と平生と平常」の反対である。かくして、日常は非日常によって定義され、逆に非日常は日常によって定義される。国語辞典がいうように、日常が「普段」で、非日常が「特別」であるとすれば、「普段」は「いつもやっていること」で、「特別」は「いつもはやっていないこと」になる。しかし、頻度や連続性の定義は簡単ではない。どの程度が「いつもやっていること」になるのか。どの程度繰り返せば連続性になるのか?
さらに、頻度や連続性を基準にして「日常」、「非日常」を定義しようとすれば、当然活動の中身を特定することはできない。定義の鍵は「いつもやっているか、否か」であって、活動の中身は原則的に関係ない。それゆえ、初めは特別の活動でも毎日やっていれば「特別の活動」ではなくなる。中身がなんであれ、「いつもやっていること」は「日常」であり、「いつもはやっていないこと」は「非日常」となる。
したがって、時代により、地域により、家族により、子ども本人によって、子どもの「日常」の中身も当然変化する。活動の中身を吟味するためには、子どもの日常も、非日常も、発達と教育の視点から暮らしの中身が検証されなければならない。もちろん、日常が平穏である保証はなく、幸福である保証もない。それゆえ、非日常が事件である必然性はなく、ときめきを意味する保証もない。内容的にも、時間的にも日常は極めて曖昧であり、複雑なのである。その分だけ、われわれは自らの思いを日常に投影している。日常が代え難く平和であったり、耐え難く退屈であったりするのはそのためであろう。
9 確固たる日常
日曜が待ち遠しいのは、確固たる日常が存在する故である。毎日が日曜日であれば日曜は待ち遠しくはない。日曜が待ち遠しいのは、それが自由の祝祭だからである。それゆえ、ウイークデーとは、義務と束縛のくり返しであり、果たさなければならぬ事がスケジュールを満たしている。毎日が日曜日であれば日曜日の自由と祝祭性が日常化してしまう。この時、日常は退屈の代名詞となる。
やらなければならない義務を前提として、何をやってもいい自由が輝くのである。毎日が休みの時、日曜の楽しみが失われるのは「自由」の定義も、「祝祭」の定義もできなくなるからである。「自由」は義務と束縛によって定義されているのである。力を尽くして義務を果たし、単調なくり返しのリズムに耐え、逃れ難い普段と平常の退屈を自覚しているからこそ「非日常」の祝祭性が輝くのである。自分の内面に確固とした日常のリズムと平生の努力が確立しない限り、祭は祭にならない。ウイークデーの義務と束縛に耐えていない時、日曜日は心ときめく日曜日にはならない。人間の人生理解の不可思議である。「寒」の自覚をなくして「暖」を理解できず、「暗」の実感を経ずには「明」は理解できない。日常と非日常の関係も基本的に同じである。確固とした日常の存在が非日常のときめきを増幅するのである。
日本の祭が輝きを失ったのはそれらが商業化されたからではない。祭の定義の前提であった「確固たる日常」を失ったからである。作業の区切りの喜びも収穫の祝いも、苦しい幾多の農作業や自然との戦いを経て実感される。農業が機械化され、作業行程が合理化されて、労働人口のごく一部のみが農業という自然との共生、自然への挑戦を経験するだけでは、祭はもとの祭ではなくなるのである。労働がもはやかつての苦行でなくなった時、田植えの終了も稲刈りの完了も、昔のときめきを運んで来ないのは故なしとはしないのである。子どもの夏休みもまた似たような道を辿っていないか?
10 「非日常」の「日常化」−テレビと塾とコンピューターゲームと学校
大方の研究報告を読めば、子どもの日常を構成しているものは、テレビと塾とゲームと学校であろう。子どものスケジュールの中に家族との同行はあまり出て来ない。友だちとの同行もあまり出て来ない。それで子どもは大丈夫か、という社会の心配はもっともなのである。
表記の見出しは、子どもの日常を構成する要素の配列である。配列にはある程度の順序性を意識している。子どもにとっての重要度の順である。子どもによってはゲームとテレビの順序は入れ代わるのかも知れないが、それぞれが日常を構成する4大要素の一つである事は間違いあるまい。塾と学校とテレビは子どもの日常となって久しい。しかし、ゲームは最近まで「非日常」であったものが日常化したのである。テレビも、ゲームも、労働や学業の努力から解放される娯楽として登場した。たまの映画や祭の縁日に出かけて行くように「たのしみ」であった。大人にとっても、子どもにとっても、日常から逃避する非日常のプログラムとして出発したのである。情報化時代とは、日常の中にかつては非日常の代表であったメディアの娯楽プログラムを定着させた時代なのである。
11 連続する受動的擬似体験
「テレビに子守りをさせないで」(岩佐京子)以来多くの警告の書が出版された。最近では、森昭雄、「ゲーム脳の恐怖」日本放送出版協会)や川島竜太「自分の脳を自分で育てる」(くもん出版)などがある。映像メディアへの連続的接触が人間を受動的にする事への警告である。いずれにせよ、少年の発達にとって受動的擬似体験の連続は悲劇的である。受動的擬似体験に埋没すれば、人との交流の時間は激減する。親子の接触も友だちとの交流もなくなるのはそのためである。テレビやゲーム機の前で過ごす時間が多ければ、身体を使い、5感を駆使した体得の機会も失う。テレビとゲームの接触時間が長ければ長いほど、子どもの「能動的」時間は失われる。上記「ゲーム脳の恐怖」を表した日本大学の森昭雄氏の子どもの脳の研究では、ゲーム中の子どもの脳波がぼけた老人の脳波に一致していると指摘している。森氏の指摘が確認されれば、ゲームへの熱中は脳そのものの発達を阻害することになる。ゲームが家族を分断し、ゲームに熱中した子どもが癲癇に似た発作に襲われたという例がカナダの研究で報告された(2003年8月10日、殺人コンピューターゲームと子ども、NHK衛生放送第一)。
昔の子どもの日常は学校と家の手伝いと束の間の自由な遊びだった。それゆえ、夏休みは輝き、サマープログラムの林間学校や海浜学校はときめきであった。しかし、現在の子どもは、自由とときめきをテレビとゲームと携帯電話の刺戟で代替している。
刺戟は十分に受けているが、すべては受動的である。これらのメディアとの接触が長いほど能動性の欠如を意味する。日常の興奮と刺激も過剰であることを意味する。
能動性を身に付けていなければ、林間学校も、海浜学校も楽しくはない。能動的な楽しみは楽しむための能力と前提条件が必要であり、楽しむことの学習が必要である。また、日常のメディアの興奮と刺戟が激しければ、非日常のときめきは薄れる事になる。毎日をメディアの擬似体験の興奮に曝していれば、ときめきをときめきとは感じなくなる。刺戟が強い分だけゲームの興奮から離れられなくなるのであろう。ゲームに”中毒”するというのはそういう意味であろう。受動的擬似体験であっても、子どもに与えられる興奮の連続は夏休みの興奮を空しくしてしまうのである。夏休みに限らず、自由時間がテレビとゲームに耽溺する時間になれば、”中毒”は益々進行するであろう。一度受け身になってしまった子どもの感覚体と精神は、社会と関わる事も、自然と関わる事も億劫で、困難になる。交流も、参加も、自然体験も「能動性」の別名だからである。まして、日々受動的に過剰な興奮と刺戟に曝されている子どもは興奮と刺戟を特別には感じない。活動するにせよ、交流するにせよ、能動的な日常のノルマに耐えたものだけが、祝祭性のときめきや感動を体験できる。毎日が刺戟と興奮に満たされていればそこから抜けだせなくなり、新しい体験への挑戦も難しい。林間学校にも、海浜学校にも行く気さえも起こらなくなるのである。すでに、受動の刺戟に麻痺した精神には、努力しなければ達成できない非日常の祝祭は魅力でもなく、特別でもない。
12 テレビ・ゲーム中毒の解毒剤
人々がテレビやコンピューターゲームに教育上のマイナスを直感しているのは、それが日常に入り込んだ「非日常」だからである。かつて、映画に出かけるのは非日常の特別行事であった。わくわくしたのも、どきどきしたのも非日常の祝祭性が興奮を禁じ得なかったためである。テレビはそれを日常茶飯のものと化した。ゲームも同じである。日常に侵入した「非日常」は受動的な擬似環境を日常化し、その中での刺戟や興奮を日常化した。日常が退屈な我慢と束縛の連続で、非日常が心ときめく興奮と刺戟ヘの誘いであるという対立的な構図はテレビの登場をもって終わりを告げたのである。それゆえ、テレビやゲームの登場は子どもを受動的にして、「体得」の機会を奪い去ったに留まらない。無気力や生活の乱れを引き起こしたに留まらない。テレビはかつて存在した日常と非日常の境界線を消し去ったのである。テレビによって子ども達が非日常への脱出願望を失って行くのは当然の帰結なのである。それゆえ、能動性を回復し、非日常を実感するためのサマープログラムはテレビやゲームを消したところから始まる。
テレビはもちろん、ラジオの持ち込み禁止も、携帯の持ち込み禁止も、日常の中の非日常を遮断し、受動的な擬似体験とは異なる人間の5感あるいは6感を駆使した肉体的活動による非日常体験を創造するためである。
子ども達はテレビの中の飢えを知っており、テレビの中の汗や疲れを知識として知っているかも知れない。しかし、現実の汗も現実の疲労困ぱいも体験した事はない。肉体的非日常性とはそういう事を自らの肉体を通して体得することを意味する。肉体を通して理解しない限り人間には会得出来ないことが多い。それが人間の「個体性」であり、「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」ということわざの意味である。サマープログラムはテレビ中毒やゲーム中毒の解毒剤である。解毒剤は直接子どもの肉体に与えなければならない。だからこそ体験プログラムが意味を持つのである。
13 「見えない学力」
「見えない学力」という概念を提起したのは岸本裕史である(*)。「見える学力」の背景に「見えない学力」が存在し、両者は合い補って子どもの能力を形成する。もちろん、「見える学力」と「見えない学力」を身につけるにはそれぞれ方法上の工夫が必要になる。「見えない学力」の背景には主として子どもの言語環境と先行体験が関係している、と岸本は喝破した。体験プログラムが重要なのはそれが「体得」を促進するからであるが、「体得」が重要になるのは体得した事柄の多くが「見えない学力」を形成するからである。夏休みこそゆとりを持って子どもが自らの新しい挑戦に取り組む絶好の季節である。新しい挑戦とは文字どおり新しい体験であり、体得のカリキュラムである。したがって、多くの子どもにとって挑戦は未知への挑戦となる。いままでの自分に捕われれば気持ちは萎えてしまう。応援の環境が大切になるのはそのためである。「お前ならできる」、「どら一緒にやってみよう」という大人の応援が新しい挑戦を可能にするのである。
(*) 岸本裕史、見える学力、見えない学力、大月書店、1994、p.31
14 師弟同行/親子同行
「生きる力」の大部分は体得の対象である。それゆえ、体力、耐性の土台を作るためには、学校は、学習の割り合いを減らして、体得の割り合いを増やすことが方法論の原則である。座学よりは体験、理屈よりは実践である。
解説や説明は子どもが自ら汗をかき、腹をへらしたあとからでいい。最終的に、子どもの活動は「見えない学力」となって結実する。
体得の強調は、能動性の強調である。子どもの生活では、受動性の象徴であるテレビとゲームを消さなければならない。体得の指導法は昔から「率先垂範」と「師弟同行」と決まっている。子どもを能動へ誘うのも原理は同じである。家庭においては、親子同行である。家庭でも、学校でも、現代の指導者にもっとも欠けているのが子どもとの同行である。。親や先生が一緒にやれば子どもは張り切る。多少辛いことであっても、勇気100倍である。すこしぐらい挑戦的な目標でも、大抵の子どもは一緒にやってくれる指導者にはついて行く。体験プログラムも、通学合宿も、野外活動も、探険も、冒険も、受験勉強ですらも、高い目標を決めて、指導者も参加し、子どもが自分でやる舞台を作る。それが何よりの応援であり、何よりの指導法である。子どもがその気になって頑張れば、大抵のものは身につく。子どもの可能性を軽んじてはならない。簡単な発達論の原則である。
16 「挑戦するならうまくやれ」
「挑戦するならうまくやれ」、とはロシアのことわざであるとテレビが報じていた。非日常性を想定して企画するサマープログラムは平常の「反語」である。慣れやくり返しや既知や安全や快適を前提にしない。したがって、活動は「特別」で、「初めて」で、「未知の新鮮さと興奮」を合わせもって、多少の冒険を伴う。サマープログラムは少年の挑戦の精神をかき立てるものでなければならない。勿論、非日常には、不幸も、事件も、危険も、これらに伴う怒りや、悲しみも含まれるが、少年の成長を促すためのサマープログラムである限りは、基本的にハッピーで、躍動したものでなければならない。
図書館で「夏休み」のキーワードで書物を検索してみると、大方が児童図書である事もうなずける。夏休みは「子どもの非日常」の典型なのである。児童図書の書名から判断するに夏休みの非日常を構成するのは、森であり、海であり、山であり、川であり、キャンプその他の野外活動である。長い休みの間にはパーティーもあれば、ホームシックもある。出会いもあれば、別れもある。それゆえ、夏は「おれたちの夏休み」(川北亮司、あかね書房)であり、「夏休みは大さわぎ」(ヒラリーマッカイ、評論社)であり、「夏休みは魔女の研究」(山本やすえ、偕成社)であり、「夏休みはブルー」(キャロリン・シー、DHC)、であり、「さよならの夏休み」(平方浩介、童心社)なのである。夏休みには何でも起こりうる。家庭に守られた日常は自然から遠い。夏休みが、家から離れた自然を非日常とする事は極めて当然のことであろう。
問題は子どもの体力、気力、耐性、生活の基本技術である。活動の前提となるこれらの要素が整っていなければ、突然、自然の中に出て行くわけには行かない。挑戦する以上はうまくやらなければ教育プログラムの名に値しない。現代のサマープログラムには従来にもまして細心の事前準備が不可欠である。
17 環境とシステムを問直す
今回の小論には、キャンプや野外活動の本も参考にしてみた。しかし、そこには日常の分析も非日常の分析もない。子どもの日常が自然から遠いから、自然が必要なのである。子どもの日常が極めて受動的であるから、野外の能動的プログラムが必要なのである。子どもは集団の協力も集団の中の役割や責任の分担の体験も少ないのでグループの活動が必要なのである。キャンプや野外活動の効用は抜群であるが、それを説いただけでは子どもも大人もサマープログラムにはやって来ない。夏休みの活動も、生涯学習も参加の原理は「選択」である。プログラムが選択されない時あらゆるプログラムはなすすべがない。教育における体験の意味、体得の意味、肉体を駆使した非日常的プログラムの意味を根本から問い直す時期に来ているのである。
子どもの日常は深刻である。ごく普通に、ごく平生に、ごく日常的に行なわれている活動も中身次第では子どもの発達や成長にとってマイナスである。日々の過保護や放任がそれである。無気力を放置すれば無気力が日常化する。対話や同行の不在を放置すれば、対話や同行の不在が日常化する。教室の私語やだれた授業を放置すれば、私語や怠惰な雰囲気が日常化する。こうした反教育的条件が日常化すれば、子どもの自立のトレーニングは成り立たない。向上も、成長も阻害される。
しかし、一方、われわれには、生と死のように、中身に関わりなく生が日常で、死が非日常となる感覚もある。くり返しが日常である限りその中断としての「死」は非日常の極地である。同じ意味で平穏の対極は事故である。かくして、事故もまた「非日常」の典型となる。それゆえ、非日常の事故を恐れる余り、非日常の教育的効用を忘れがちになる。過保護はひたすら非日常の未知を恐れる。事故を恐れて子どもに豊かな実りをもたらすあらゆる挑戦を否定しがちになる。
それに引きかえ、放任は日常の危険に鈍感である。日常の危機を自覚しない家庭や学校の無策は放任に近い。放任の姿勢は、日常の危機に対処せず、非日常の教育機会を逸している。
少年の危機は、「生きる力」の危機である。「生きる力」の危機は、生きる力を獲得するシステムの危機である。子どもの環境も学校の雰囲気も発達や教育に相応しくない状況が日常化していることが根本の原因なのである。 |