1 子育ての精神−「子は親の鏡」
子育ての精神はドロシー・ノルトの名言に尽きるであろう(*1)。ノルトさんは「子は親の鏡」と書いたが、書名のオリジナルのタイトルはChildren
Learn What They Live(子どもは生活の中で学ぶ)である。それゆえ、正確には「子は接する人の鏡」ということであろう。もちろん、親が接触頻度第一であるから、「子は親の鏡」で実際は何ら問題はない。しかし、親がノルトさんの言う「精神」を持っていなかった時、廻りの誰かが同じ「精神」で子どもに接しなければ子どもは救われない。教師や地域の指導者が重要なのは言うまでもない。
「子は親の鏡」
けなされて育つと、子どもは人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「可哀想な子だ」と言って育てると、子どもはみじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込み思案な子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば、子どもは自身を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
褒めてあげれば子どもは明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは正義感のある子に育つ
優しく思いやりを持って育てれば、子どもは優しい子に育つ
守ってあげれば、子どもは強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもはこの世はいいところだと思えるようになる
(石井千春訳)
(*1) ドロシー・ロー・ノルト、レイチャル・ハリス共著,子どもが育つ魔法の言葉、石井千春訳、PHP、1999年、p.1
2 「概念」の再整理
「社会的動物」の土台を確立せよ!
定義の抽象性
文部科学省が説明する「生きる力」とは「問題を発見し、自ら解決する能力」であるという。しかし、このような抽象的な文言では、「生きる力」の具体的な中身が想定できない。「問題を発見する」とはどういうことか?子どもの生活場面に照らして何がどうなれば問題を発見したことになるのか?ましてや、「問題の主体的な解決能力」とはなにか?子どもがどうなったら主体的に問題を解決したことになるのか。具体的な生活場面を想定できず、結果として、指導場面が設定できず、子どもの変容も評価できない。ましてや、指導プログラムの編成は至難のわざである。
それゆえ、総合的学習の混乱と曖昧の原因は育むべき「生きる力」の定義の抽象性にある。現行の文部科学省の説明では、教育実践の具体的指針を導くことは出来ない。総合的学習が場当たり的な”ごっこ遊び”のようになるのは、達成すべき具体的指針が曖昧だからである。「問題の発見」を子どもの好奇心や興味に置き換えただけでは、問題にぶつかるはずもなく、「主体的な解決能力」など導ける筈はない。結論的に、「生きる力」とはなにか、という概念の再整理が不可欠であり、個別の構成要素の指導目標の具体化が必要である。
構成要素の順序性
問題の核心は「生きる力」の基礎・土台が確立出来ていないことに尽きる。「生きる力」は体力、耐性、基礎学力、道徳性、感受性の5要素から構成されるが、それぞれの要素の意味は同等ではない。換言すれば、「生きる力」は、同時並行的、総合的に形成されるが、発達段階には基本的な順序性がある。人間が生き物であり、かつ社会的動物である以上、土台は「体力」と「耐性」に外ならない。この二つの土台が確立されて初めて社会的実践力としての、「基礎学力」、法やルールに従う「道徳的実践力/遵法の精神」が形成される。思いやりややさしさはさらにそのあとのことである。感受性は社交の基本態度の中に形成される。それはあいさつや礼儀や親切の実践を通して「表現力」として具体化する。これら社会的実践力のいずれも、人間の土台が固まらなければ、学習も、体得も難しい。学習も、体得も、体力、気力、忍耐力を伴わぬものはあり得ないからである。多くの総花的な育児書の中で「我慢」の一点に絞り込んだ育児書があった(*2)。資質の開発は「我慢」なくしては出来ない、というのが出発点である。土台に集中して注目したのは達見であろう。建物の建築も人格の形成も、土台があって初めて柱も、壁も、屋根もしっかりしたものができる。原理において教育も、建築工事と何ら変わりはない。体力、気力、忍耐力ともにへなへなの子ども達には「指導」そのものが成り立たないのである。学級崩壊も、不登校も、朝礼の崩壊も、引きこもりも土台の欠如が原因である。「少年の弱さ」が理由である。指導が成り立たない具体的な場面を想定すれば、何をなすべきかはおのずと明らかになる。
(*2) 多湖 輝、「がまんできる子」はこう育てる、新講社、2002年、p.1
3 方法原理論の誤謬
「学習」の先行と「体得」の軽視
問題の第2は方法論の認識に根本的な誤りがある。生きる力の大部分の要素は教室では教えることが難しい。「学力」を除いて、「体力」、「耐性」、「道徳的実践力(遵法態度)」、「思いやり・社交の表現力」のすべてが、座学の学習では習得が困難である。それらは体験の反復による「体得」によらなければならない。「体験」が大事になるのはそのためである。当然始める順序は「体力」と「耐性」が先きである。総合的学習で志向している農業体験も、田植え、稲刈り餅搗きなどの”ごっこ遊び”を排して、一町歩ぐらいの田んぼを引き受けてやってみるのであれば、体力も根性も付くであろう。初めは、保育所も、幼稚園も、小学校の低学年も先ずは土台づくりに着手し、「体力」と「耐性」の養成プログラムに集中すべきである。家庭、学校、地域の諸団体も同じである。
学習も必要であるが、総合的に現代の子どもの状況を判断すれば、まずは「体得」、次が「学習」という順序である。実際は大方の順序が逆になっている。教師は「体得」と「学習」のプログラムを勘案・弁別して指導プログラムに位置付けなければならない。
概念の識別
ところが、「学習」と「体得」の概念は、「体験学習」の用語に代表されるように、多くの場合混同され、効果的な使い分けができていない。通学合宿は「体験学習」ではなく、「体験体得」である。受験教育の過熱がもたらした隠れた弊害は、「学習」の過度の強調であり、「体得」の軽視であった。「体得」の結果は知識の量では測れない。ペーパーテストでも測れない。受験が測れるものだけを重視すれば、測れないものが抜け落ちるのは必然であった。「生きる力」の試験は難しい。内申書はこの点の評価に活用されるべきであったが、教員の側に二つの概念の識別がなければ活用の方法も閉ざされてしまう。
4 具体的プログラムの欠如
「教育力」を向上させよ、という声が高い。しかし、ここでも具体的に「教育力の向上」とは何か、が明確ではない。教育力の定義はいろいろあるが、要は教育目標を実現する「指導プログラムの質と量」がその大半の中身である。教育環境、向上の環境は、プログラムを実施すればおのずと付いて来る。「プログラムなければ、教育力無し」と理解して基本的に誤りはない。教育に関わる者は、一般的、抽象的に「教育力」の向上を唱える代わりに、「体力向上のプログラム」をかたり、「我慢強くするためのプログラム」を語るべきである。プログラムがあれば「力」はつく。飛んだり跳ねたり、走ったりしない子どもに体力はつかない。みずからに「目標」を定め、「負荷」をかけて頑張ったことのない子どもに「耐性」は育たない。体力にしても、耐性にしても、その養成原理は至極簡単な理屈である。
5 「生きる力」向上の5W2H
(1) WHY;
責任能力のないものに責任を問う
緊急プログラムを発動すべき理由は簡単である。「生きる力」が不足しているからである。基礎体力、基礎耐性を土台から作り上げて行かなければ、子どもの自立は達成できない。ところが、世間にも、家庭にも、子どもの自立を目指す思想も基礎トレーニングの実行機能もほとんどない。しかも、学校ですらいい事尽くしの口ばかりで「鍛錬」の実行力はない。学校が家庭に子育ての規範を示す力も消滅している。一方の家庭は今の現状で一生懸命やっていると自認している。当然、「生きる力」の低下の責任が真に自分達の家庭にあるとは実感していない。それゆえ、学校や世間がいくら家庭の責任を問うても問題は一向に解決しない。氾濫する育児書も親に「あるべき姿勢」、「なすべき配慮」を山ほど説いているが、事態は一向に改善しない。みんなそれぞれに一生懸命やっているつもりだからである。日本社会がこれまで徒労にも繰り替えして来たのは、実行力のないものに実行を説き、責任能力のない者に責任を問うことであった。学校も社会教育も己の無力を棚に上げて家庭の責任をあげつらい、家庭は家庭で責任の負いようもなく、無策に時ばかりが流れたのである。
世間の基準の遵守
「子宝の風土」の役割分担は簡単である。家庭は風土の命ずるところに従って、子どもを守り、子どもに尽くす。風土の弱点を補って、家庭の出来ないことは、学校と社会教育が担う。「担う」とは、自立のトレーニングを引き受け、その基準を設定し、家庭にも世間の基準の遵守を誓わせる事である。
「先生が言う通りやりなさい」とか、「学校で決っているでしょう」とか、「おじさんに叱られるわよ」というのが、他人を出汁にして、家庭がしつけの基準を守ることである。家庭がしつけの基準を「他人」に依存するのは、主体的でないように聞こえるが、「子どもに尽くすこと」を本命とする「子宝の風土」の家庭は、自立のトレーニングにおいてそもそも主体的ではない。親の主体性を説く育児書はこのことに気が付いていないが、「他人にゆだねること」は今に始まったことではない。「ご養育掛かり」、「乳母」、「守役」、「お師匠さん」の時代から、「他人任せ」は「子宝の風土」の宿命である。「子宝」の風土は子どもの保護についてはほぼ完璧である。親の主観において、子どもに対する「奉仕と献身」も基本的に昔と変わらない。しかし、「保護」だけでは子どもは一人前にはならない。ましてや、過保護と過干渉の副作用が出るのは昔も今も代わりはない。それゆえ、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」と言うように、家庭に代わって世間(の識者)が基準を設定したのである。しかし、世間の設定した基準は、「戦後の輸入もの」の「児童中心主義」の普及によってほぼ消滅した。識者も「児童中心主義」に毒されて、風土の特性を忘れ果てた。結果的に、子どもの「主体性・自主性の尊重」が世間の殺し文句となり、それに触れるものはすべて詰め込み主義、押し付け、反動教育のレッテルすら張られた。
「風土」の特性を忘れた教育機関
もはやおおくの家庭は己を過信して世間の基準など見向きもしない。学校の基準にすら文句を言う。世間の「外圧」が消滅した現在、家庭では「他人」の決めた基準に依存して、自立のトレーニングをすることもほとんど出来なくなっている。もはや「先生」も、「おじさん」も、基準を設定する力はない。不幸なことだが、少子化、人権思想の普及、子どもの権利条約などの社会現象が「子宝の風土」の過保護傾向を後戻りできないまでに助長した。家庭教育学級や子育て研修会がさらにその傾向を煽った。「児童中心主義」思想をふりかざした”専門ばか”の取り返しの付かぬ過ちである。かくして、過保護の「風土病」は治療すら難しい”難病”になったのである。
子どもや家庭の権利と責任の強調こそが「過保護」の治療を阻んでいる遠因である。病人が主体性を言い募って、わがまま、勝手に振る舞い、医者の治療を信用しないのに似ている。子どもの主体性や権利を擁護する抽象的なスローガンを並べて、多くのプログラムが子どもの「歓心」を買おうとし、子どもの嫌がることは「回避する」となれば、誰も「一人前」の教育は出来ない。ひとりよがりの家庭の判断とそれを助長する世間の「風」が問題の根源である。問題の所在に気付いた人々も「児童中心主義」の呪縛にがんじがらめになって動けない。学校教育の指導現場に、実質的に一切の処罰を禁じた学校教育法第11条などはその典型である。ルール違反の処罰が出来ない集団や組織にルールの遵守や規律の維持は出来ない。
社会の側に立つ
一方、「子宝の風土」の弱点を補うはずの学校は、子宝の風土の弱点を忘れた上に、己の役割を誤解している。いまや学校も二言めには「子どものため」という。教育機関である以上、それはそれで当然である。しかし、「子どものため」とは、あらゆる場面で「子どもの側に立つ」ということではない。特に、自立のトレーニングを請け負った学校は「子どもの側」に立ってはならない。にもかかわらずどこの研修会に行っても、学校はこぞって「子どもの側に立つ」と言う。愚かなことである。
学校は「社会の側」に立たなければならない。それが学校にとっての「子どものため」である。「子宝の風土」では世間のあらゆる人々が子どもの側に立っているからである。教育のプロが「社会の視点」に立たなければ、誰も「一人前」のトレーニングをしない。教育界においては、まさしく医者が治療を放棄するのに似ている。病人の好きにさせて、症状を悪化させるに似た現象を引き起こしている。教育の専門集団ですらも風土の特性を忘れた理論に傾倒し、「児童中心主義」が定着したのである。その結果、教育行政や学校は浅はかにも過保護の副作用に対する抑止力を失ったのである。今や学校にも、社会教育にも「一人前」を鍛える厳しさは期待すべくもない。
屋上屋を重ねる
「子宝の風土」は子どもが中心である。「児童中心主義」思想が唱えるのも子どもが中心である。結果的に、家庭も「子どもの側」に立ち、世間の多くも「子どもの側に立つ」。世間の付託を受けた学校も「子どもの側」に立っている。誰も「社会の側」に立ってはいない。「子どもの側」に立つとは、基本的に、子どもを守ることであり、子どもの欲求を満たしてやることである。「社会の側」に立つとはその逆である。時に子どもを突き放し、時に子どもの欲求を拒否することである。やりたい事でもやらせてはならぬ時がある。やりたくなくてもやらせなければならない時もある。社会の必要に応えるとはそういうことである。今の子どもに必要なのは「社会の側」にたったプログラムとそれを実行に移す応援である。社会の側に立つとは、自分のことは自分ですること、自分のことは自分できめること、従って決めたことの責任も自分で取ること、自分で稼げるように日々社会的、職業的能力を良く学ぶこと、わがままや勝手を自制して、集団生活に適応できること、できれば心の内に思いやりややさしさを育てて自ら実践する態度と姿勢を持つことである。要は、自立に備えて、子どもを突き放し、時に強制し、社会が要求する「一人前」の条件に応えさせることである。それが「生きる力」を育むプログラムに外ならない。
(2) WHO;
子どもを育てるのは親だけではない。
青少年健全育成大会の多くのスローガンに言う。「大人が変われば子ども変わる」と。その通りであろうが、現実に、大概の大人は変わらない。小林陽子は、先生が語る「頭にきちゃうダメ親の態度」を8項目の一覧にしている(*3)。いわく、
-
人の話を聞かない。
-
自分勝手
-
無愛想である
-
感情的である
-
話の要領を得ない
-
子どもの話を鵜呑みにして先生を責める
-
子どもの悪口をいう
-
ルーズな態度
以上の8項目である。こうした親の感覚も態度も生育歴と環境の産物である。形成されるまでに長い時間が掛かっている。従って、簡単に変わる筈はない。それゆえ、これらの親の下では、碌な子どもは育たない。育つとすれば家庭の外のプログラムや人間関係が少年を救うのである。誰に出会うかで子どもの運命が別れるのはそのためである。
(*3)小林陽子(文9、田島みるく(絵)、あの手、この手、すべての手、小学館、1996年、pp.252-254
親以外の指導者
育児書が親を対象にしているのは当然であるが、育児は親のみが行なうものではない。多くの人々が子どもの成長に関わる。残念ながら、上記の通り、ダメな親も沢山いる。それゆえ、多くの大人の手助けが必要である。活動の主体は子ども自身であることは言うまでもないが、活動の舞台を設定するのは大人である。学校や社会教育関係団体が重要なのはそのためである。大人の自覚と実践が大事なのは、子どもは未だ「半人前」だからである。「半人前」の自主性に任せてはろくなプログラムは出来ない。子どもの活動には、他律による自律の演出が重要になるのである。表現上は、一見矛盾して見えるかも知れないが、目標と到達点を明らかにして、子ども自身が「主体的に頑張る」ような「他律の」プログラムが必要なのである。子どもの主体性の大半は、設定された舞台の上での主体性である。ここでいう「設定された舞台」こそがプログラムであり、教育力の中身である。
地方の財政が厳しい以上、学校外の指導者は地域のボランティアに頼るしかない。往年の教育力を支えて来た共同体の互助、共助のシステムはすでにその衰退を止めることは出来ないからである。時代は「戦略的アウトソ−シング」を求めている。優れた指導者は外から招聘しなければならない。
(3) WHAT;
社会が鍛える
子どもの活動は「生きる力」の向上が目的である。先ずは基礎づくりから始める。従って、基本は体力と耐性の向上である。抽象的にいえば、身体を使う活動、頑張ってやると面白くなって来る活動、根性を示すと大人や社会が褒めてくれる活動である。できれば、本人の好奇心、関心を満たすことができればそれに越したことはない。欲張れば、協力の姿勢や責任感を養える活動である。
「家庭が守り、学校が鍛える」のは子宝の風土の約束である。「鍛えること」の主力は学校であり、社会教育であるべきである。そのためにこそ国民から付託を受けた教育機関である。家庭の協力が得られれば、効果はますます高くなる。
しかし、現状ではおそらく、学校や社会教育が始める厳しいトレーニングには保護に傾いた保護者からの抗議が予想される。子どもがいやがれば、「主体性」擁護論者も異義申し立てをするであろう。しかし、プログラムを「生きる力」の向上と決めた以上、その理由を説明して断固実行しなければならない。その際、様々な意見に妥協して、自立のトレーニングの基準を下げてはならない。義務教育だからと言って、低い基準に足並みを揃えて、「全員参加」を目標としてはならない。「子どもが嫌がり」、「子どもが可哀相である」、というのは「子宝の風土」の予想される反応である。そのことを持ってプログラムに反対する保護者に対しては、子どものできる範囲での部分参加をお願いするしかない。いずれトレーニングの効果が出れば、その子ども達も「友だち効果」によって付いて来る。世間が納得すればやがて反対の親も納得する。マスコミや世間の論調が大事なのはそのためである。
選択原理の貫徹
通学合宿も、野外教育も、達成目標は妥協せずに実施すべきである。自立のトレーニングに関する限り、あくまで頑強に反対する保護者の子どもは、初めは、部分参加や、見学で諦めるしかない。指導基準を維持すれば大半の子どもは短期間に向上する。反対論を恐れて基準を妥協すれば、時間ばかりが掛かって、すべての子どもの自立に失敗する。学校の教育方針に反対するのは「親権」が根拠である。現代の法律において、義務教育も親権には対抗できない。極論を言えば、新興宗教「エホバの証人」の信者の子ども達が、彼等の宗教教義に反するあらゆる学校行事;文化的な行事や、競争的プログラムに参加しないのと同じ論理である。強制は出来ない。義務教育においても、それが選択の時代の鉄則である。
3分の飢えと3分の寒さ
「辛さに耐えて丈夫に育てよ」のスローガンは、多くの家庭では到底実行不可能であるが、理解は可能である。活動の目標は少年の実力をすこし越えていた方がいい。安全と応援が確保できれば、「不足」と「挑戦」が成長の秘けつである。「負荷」をかけずに成長はない。貝原益軒が喝破した通り、「3分の飢えと3分の寒さ」が不可欠である。
(4) WHERE;
原則として、自由時間の活動場所にはこだわらない。しかし、現実に、「生きる力」は簡単には向上しない。それゆえ、活動拠点が必要であり、継続的な活動の積み上げが必要である。従って場所の選定も継続的活動を前提にしなければならない。友だちを含めたグループでの活動を想定すれば、広さも問題である。もちろん、活動を企画するためには、自然条件や安全条件、経費などの別の要素が付け加わる。
しかし、最優先すべき活動場所の選定基準は「安全」である。したがって、第一候補は通いなれた学校、使い慣れた学校である。第2候補は自治公民館を含めた生涯学習施設であろう。これらの拠点を中心に冒険や探険に出かける。その時の舞台は地域全体である。今は活動場所全体に保険をかけることもできるようになっている。
(5) WHEN;
原則は生涯学習のスローガンどおりである。「いつでも、どこでも、誰でも、何からでも」である。子どもの成長に役立つものは原則として、いつ始めてもいい。地域では、学校週5日制に対応する週末と長期休業中のプログラムが重要である。自衛することを自覚した家庭にとっても同じである。自由時間はそのままでは「充実」には繋がらない。時間消費の質が問われるのである。
(6) HOW;
指導の姿勢
指導の精神は冒頭のドロシー・ノルトの名言のとおりである。具体的には、ひたすらやさしく、ひたすら厳しく、である。ひたすら子どもの可能性を信じて”おまえなら出来る”と励ます。中坊公平氏が企業の再建に際して掲げた指針が参考になる。「正面の理、側面の情、背面の恐怖」だそうである。これを修正させてもらって、愛情を最優先させ、「正面の情、側面の理、背面の恐怖」とすれば今すぐ応用可能である。
要は、親は子どもを愛していることを毎日行動で知らせる。それが親子同行である。遊びも一緒にやる。料理も一緒にやる。掃除も一緒にやる。一緒に飯を食い、一緒に風呂に入る。一緒にテレビを見て、一緒に本を読む。愛していることが伝わっていれば叱ることができる。叱られた子どもは叱られたことが身に染みた上で、傷つかない。親子同行すれば、伝わりにくいものも伝わり、分からない事もいずれ分かる。お互いの信頼も強くなる。それゆえ、次に子どもが守るべき単純な基準を決める事ができる。
ルールも基準も最小限でいい。基準とは、たとえば、親を大事にする。自分の事は自分でやる。弱いものは助ける。その程度で十分である。それが現代の新しい家訓である。あとの理屈は学校や社会教育に任せておけばいい。その意味ではほとんどの育児書は細かすぎる。子育ての日常で、個別の細かいことを間違っても、上記の原則を守っていれば何も恐れることはない。時に間違ったとしても、必ず、修正も和解もできる。
素人に無理をいうな
小林陽子は「あの手、この手、すべての手」というしつけの本を書いている(*4)。題名から分かるようにマンガの解説つきで、沢山の助言に満ちている。中谷彰宏は「子どもを自立させる55の方法」(*5)というタイトルの本である。田中喜美子も「あなたの子育て診断します」(*6)の中で何十という助言の具体例を上げている。学校外教育研究会が編集した「子どもをだめにする親、伸ばす親」(*7)のチェックリストの数々を読んだが、とにかく項目が多すぎる。みんなそれぞれに面白く、役に立つが、共通して助言が多すぎる。育児書は素人に50も100もの助言をしてはならない。いろいろ言っても消化不良になるだけである。良い親になろうとして自己診断に神経質になれば反って有害であろう。保護者を不安にし、社会人指導者を遠ざけてしまう。しつけも子育てもそれほどこむずかしい話ではない。50も100もの助言は必要ない。その点、濤川栄太は「5つの約束」(*8)に限定している。これくらいなら誰でも覚えて活用できる。
親子同行で子どもを可愛がり、最小限のルールさえ守らせれば、親は大雑把でいい。親だけが子どもを育てるのではない。学校や、社会教育や、友だち付き合いの効果を信じていい。
しかし、子どもを愛せないのは病いである。子どもがかわいくない時、子育ても、教育もほとんど不可能である。親も、教師も変わりはない。親も、教師も、子どもも、心身の病気は医者に見せなければならない。
(*4) 小林陽子(文9、田島みるく(絵)、あの手、この手、すべての手、小学館、1996年
(*5) 中谷彰宏、子どもを自立させる55の方法、TBSブリタニカ、2001年
プログラムの構成と方法
(*6) 田中喜美子、あなたの子育て診断します、小学館、2000年、
(*7) 学校外教育研究会編、子どもをダメにする親・伸ばす親、主婦の友社、2002年
(*8) 濤川栄太、「5つの約束」で子どもは変わる、海竜社、2002年
師弟同行/親子同行
「生きる力」の大部分は体得の対象である。それゆえ、体力、耐性の土台を作るためには、学習の割り合いを減らして、体得の割り合いを増やすことが方法論の原則である。座学よりは体験、理屈よりは実践である。解説や説明は子どもが自ら汗をかき、腹をへらしたあとからでいい。最終的に、子どもの活動は「見えない学力」となって結実する。
体得の指導法は昔から「率先垂範」と「師弟同行」と決まっている。家庭においては、親子同行である。家庭でも、学校でも、現代の指導者にもっとも欠けているところであろう。親や先生が一緒にやれば子どもは張り切る。多少辛いことであっても、勇気100倍である。すこしぐらい挑戦的な目標でも、大抵の子どもはついて行く。体験プログラムも、通学合宿も、野外活動も、探険も、冒険も、受験勉強ですらも、高い目標を決めて、指導者も参加し、子どもが自分でやる舞台を作る。それが何よりの応援であり、何よりの指導法である。子どもがその気になって頑張れば、大抵のものは身につく。簡単な発達論の原則である。
千差万別の親と指導者
田中喜美子は「あなたの子育て診断します」の中で、”世の中には千差万別のお母さんがいる”と述懐している(*9)。いろいろな人間がいる以上、いろいろな親がいるのも当然であろう。いろいろな子どもがいるのも当然であろう。指導者もまた然りである。結果として、いろいろな子育て対応があるのもまた当然であろう。しかし、原理は単純でなければならない。登山道は様々あっても目指すべき「生きる力」の山頂は基本的に共通である。世の中には山ほど育児書があるが、ほとんどは個別対応策の助言である。一律の助言では多様な親に対応は出来ない。素人に無理をいってはいけないとはそのことである。師弟同行と最低ルールの基準を外さない限り子育ては自己流でいい。細かいことをいくら並べても、千差万別の親と子に適合するかどうかは分からない。
(*9)田中喜美子、前掲書、p.205
(7) HOW
MUCH
「守役」を選ぶ
地域でも家庭でも自前の指導はだんだん難しくなっている。内容的に子どもの要求も興味も多様化している。時代は「戦略的アウトソーシング」を必要としている。しかし、経済が停滞し、予算にゆとりは全くない。家計の「エンジェル係数」は上がる一方だそうだが、金をかけるのであれば、優れた指導者にかけるべきであろう。昔も、今も、「守役」、「御養育掛かり」の役割は重要である。「守役」の選定で子どもは劇的に変わる。「守役」を尊敬し、「守役」に協力し、「守役」にトレーニングを任せる。果たして「仰げば尊し」の伝統は復活できるか?
ボランティアの実験
社会教育予算は減少する一方である。政治家が無知である以上、政治の無知を責めても仕方がない。これまでの社会教育行政の金の使い方も決して有効ではない。社会教育がその存在意義を証明できるまでは予算は返っては来ない。従って、指導の多くは有志のボランティアにお願いするしかない。
しかし、これまで、福祉や生涯学習は「ボランティアただ論」の迷妄によって、ボランティアをただで使って来た。しかも、下働き、時には使い走りに使って来た。だからこの国にはボランティアが育っていない。
ゲリラ的指導者
ボランティアは選択制である。やれる人だけがやる。やりたい人だけがやる。従来とは方法論が全く異なる。従来型の「寄り合い」でやれば、地域活動を一番やりたくない人間の基準で事が進む。「地域ぐるみ」アプローチの弱点である。新しい組織は「ゲリラ的」である。必要に応じて始め、終れば解散する。志のある人が集まり、「この指にとまる」。出入りは自由にしなければならない。「みんな一緒」に反する活動は目だつので、協力者は「出る杭」になって打たれる。誰も手を上げてくれないので、おそらく初めは「一本釣り」で頼んで歩くしかない。徐々に有志の活動の衝撃がコミュニティ全体に及ぶのを待つのである。活動は参加する個人が決定する。従って、主体性がもっとも重要であり、活動の個人差が必ず発生する。それを承知で個人のネットワークを築くことができれば、介護や子育て支援で地域自立の道が開ける。ただし、それはお互いがお互いを支えるという「共益」の発想ではない。やれる人がやれない人を支えるのである。それゆえ、ボランティアには活動資金の助成が不可欠である。
「ただ」で使うな!
どんな活動もエネルギーと時間を必要とする。ボランティアへの資金援助は、活動を提供いただく方への社会のささやかな「費用弁償」と感謝の印である。もちろん、ボランティアは労働の対価は求めない。従って、活動は「無償性」を原則とする。しかし、「無償」とは「ただ」という意味ではない。「労働の対価は求めない」という意味である(*9)。研究者や行政は「無償性」の原則を「ただ」と置き換えて流布して来た。その浅薄な解釈が日本のボランティアを窒息させたのである。コミュニティの自立は個人の有志に依頼せざるを得ない時代が来たのに、その社会的準備は整っていない。ボランティア活動を支える活動資金の支援を制度化し、仲介・広報・管理・評価事務を行なうボランティア・ビューローを組織化できれば自治・自立の活動の可能性が開ける。
ボランティアただ論」は福祉の大失敗である。しかし、ボランティアに頼るしか突破口は見当たらない。地域はボランティアの実験を始めなければならない。
欧米のボランティアは人として生を受けた恩寵に対する神への感謝を行動の形にしている。思想上の来世の神に奉仕するため、現世では己の「隣人を愛せよ」と教義にいう。だから社会的活動になるのである。それは信仰を基本とした「神との約束」である。そうした風土でさえも多くの活動にボランティアの活動助成が行なわれている。日本のボランティアに「神との約束」は存在しない。おそらく日本人のそれは「社会との約束による人助け」である。ボランティア活動支援をシステムにしない限り、広範囲な活動の確保は不可能である。 |