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風の便り

フォーラム論文

編集長略歴


(第31回生涯学習フォーラム「この指とまれ」参加論文)

巨大な浪費・巨大な徒労 −学校英語は変えられるか−
 

平成15年1月18日(土)

福岡県立社会教育総合センター

三浦清一郎

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1 「話せない英語」

    英語を学ぶ目的が話す能力(コミュニケーション能力)の開発であるとするな らば、日本の英語教育は明らかな失敗であろう。それは、何年にもわたって日本の英語教育を受けて来た私たち自身が証明している。日本の学校英語の卒業者は話すこと が出来ない。英語コミュニケーション能力の不十分は、必ずしも、世代の問題ではな い。近年、英語環境も、英語指導法も改善されたという。しかし、中年の世代も、若 い世代も、英語によるコミュニケーション能力はさほど大きくは変わらない。このよ うな事態を招いた理由を分析する書物は多々あるが、散見した限り、その多くが問題 の核心をついてはいない。加藤哲男の「使える英語」(*1)を見たが、明らかにタ イトルの付け間違いである。「使える英語」を読んでも英語は使えるようにはならな い。それは表現の特別な知識に過ぎないからである。知識で分っても、自転車には乗 れない。泳ぐことも出来ない。そういう点で、言語能力はスポーツに似ている。学校 英語教育は「畳の上の水練」なのである。 また、マーク・ピーターセンの「日本人の英語」(*2)を読んだが、これも日英の 言語感覚の違いの解説であって日本人が英語が使えるようになる答は有していない。冠詞や関係代名詞の特徴 を知識として理解しても英語はつかえない。問題は英語の特性を「知っているか、否 か」ではない。日々英語を「使っているか、否か」、である。使っていなければ、咄 嗟に正しくつかえなくて当たり前のことではないか。「当該言語の特性をしらない」、 という点では、外国人の日本語と同じである。日本人の英語も、外国人の日本語も、 大小取り混ぜて、間違いがたくさんあって当たり前なのである。英語のコミュニケーション 能力が育たない原因は単純である。正しかろうと、 間違っていようと英語を使わないからである。最大の原因は、上記のような英語の専 門家と日本人英語教員にある。専門家は正確さや言い回しにこだわる。したがって、 間違いにこだわる。学習者が畏縮するのはそのためである。
   また、一般の英語教員はその大部分が話す英語を身につけていない。従って、 英語の知識があったとしても、授業を英語で行なうことが出来ない。英語を耳で聞き、 自ら話すという環境なくして、話せる英語が身につく筈はないのである。自ら話すこ とのできない教員は、英語で行なわれる授業を歓迎しない。力量の不足が露見するか らであろう。かくして英語指導助手が宝の持ち腐れになるのである。近年、著しく増 員された英語指導助手(ALT)はあくまでも日本人英語教員の助手としての地位しか 与えられていない。(日本の教員免許状を有していないからである、というような法 律論は愚の骨頂である。特例措置で教育免許状に準じる取扱いを定めれば済むことで ある。)彼等の教える母国語の英語は、日本人教員が日本語で解説する英語授業の中 で、その効果を半減させてしまうのである。一度でいいから、彼等ALTだけにまかせ た英語クラスと日本人教員の従来の教え方のクラスを比較してみれば、結果は歴然た るはずである。残念ながら、そうしたモデル授業を比較・研究したという話は寡聞に して聞くことはない。しかし、多くの英会話学校が『少人数、外国人講師』を宣伝の うたい文句にしているということは、生の英語をより多く「聞きかつ話す」ことがコ ミュニケーション能力としての英語を学ぶ基本条件であることを証明している。英語 を話せるようになるためには英会話学校へ行くしかない。学校英語をやっている限り 話せるようにはならないからである。
(*1)   加藤哲男、使える英語、KKベストセラーズ、2001年

(英語の学習論ではない。 表現集である。初心者が読めば増々英語は使えない。)
(*2)   マーク・ピーターセン、日本人の英語、岩波新書、1988年
(学校教育の英語の延長で読めば、ますます英語はつかえない。)


2   巨大な浪費
   学習者が習った 英語を使えない以上、現行の学校英語教育は誰が見ても成果を生んでいない。換言すればコスト (費用)とべネフィット(効果)の対比があまりにも低いのである。それを社会的浪費という。 浪費とは意味のないものに資源を投入することである。
   教育界は往々にして「効率」論議を嫌う。経済の視点から教育を論じることは、 教育に対する侮辱のように受取る人もいる。多くの関係者がどこかで教育は経済より 崇高な活動であると考えているのであろう。愚かな話である。現在の教育水準はその すべてを戦後の経済復興に負っている。教員給料から施設設備に至るまで経済の恩恵 を受けていないものはない。したがって、経済抜きに論じられる教育はない。まして 経済ぬきに論じることのできる「公教育」は存在するはずがない。すべては文科省予 算に支えられているのである。教育関係者は色々崇高なことを言うが、予算がなけれ ば教育事業は行なわれない。有用であろうと、必要不可決であろうと、予算がなけれ ば、教育行政も学校も動かない。真に教育を動かしているのは、教育理念ではない。 教育予算である。その意味で現在の学校英語に予算をつけている文科省に責任がある のである。予算さえ付けなければ、現行の英語教育は行なわれない。その意味で、経 済は公教育の第一決定要因であることは論を待たない。
   投入した時間と資源に比して、学校の英語教育はほとんど成果を上げていない。 それは社会にとって巨大な浪費であり、個人にとって巨大な徒労である。浪費と徒労 を回避しようとすれば、現行の学校英語を廃止するしか方法はない。町の図書館では、 残念ながら、経済に視点をおいて、浪費の観点から英語教育を論じた参考書は見つけ られなかった。筆者の探し方が不十分であるのなら幸いである。

3   キーワードはコミュニケーションの道具: −『Communicative Approach』−
   数ある参考書の中で東後の指摘がもっとも論理的である。彼の結論は、道具と して英語を使うのであれば、「使うこと」から始めるべきである、という。これまで の英語教育は「知識」から始めたことに最大の誤りがあったと言うのである。東後に よれば、「覚える→練習する→使う」という過程は一見論理的であるが、人間の本性 を見落としている。知識は簡単に実践には結びつかない。英語教育は、「使う=練習 している=身に付く」の論理で行なうべきである。(*3)上記の引用で「矢印」は 「順序」を示し、「等記号」は「同時進行」を示している。言葉の習得に於ては、使 うこと」と、「練習すること」と「身につくこと」が同時進行すると言うのが東後の 画期的視点である。日本はこの簡単な誤りを100年以上にわたって続けて来たので ある。知識から始めるから、「正しい知識」と「間違った知識」に分けることになる。 「間違った知識」には×をつける。学習者は「間違えること」をひたすら恐れるよう になるのである。そこでは使えるか否かより、正しい知識を有しているか否かだけを 問題にする。学習者は一方で畏縮し、他方で学んだ知識を実際に使うことは出来ない。 東後の分析は明快であり、誠に同感である。
   一方、酒井は、英語が使えない原因を分析して、辞書に問題があり、学校英語 に問題があり、文法学習に問題があるとして個別の問題事例を検証している(*4)。 しかし、専門家に対してはともかく、一般の英語学習者に対して技術的な欠陥を細か く論じる必要はない。辞書を修正しても、学校英語を改善しても、文法学習を工夫し ても今の学校英語の学び方では英語は使えるようにはならない。英語が使えないのは、 「使わないから」であり、「使える人が教えていない」からである。教科書英語や受 験英語の責任は重大であるが、「話せない」のは、辞書のせいではなく、文法のせい でもない。
(*3) 東後勝明、子どもの英語いま、こんなふうに、BL出版、1998年、pp.13-16
(*4) 酒井邦秀、どうして英語がつかえない?、ちくま学芸文庫、1991年


4   すぐれた学習者の感想
    東後の分析は、英語をマスターした達人たちの感想と共通している。NHKのラ ジオ英会話を担当した大杉は、若くして英語を学んだ時、日常の自分の行動をすべて 英語で表現する練習を続けたと言う。 「日本語でも読める漢字と書ける漢字があるように、意味が分ったり、書けた りするんだけど、瞬時にそれを運用すると言うことになると、しかも音声にしてすぐ に運用するとなると、非常に難しい。そこのところが僕はこの練習方法でけっこう言 える用になった。やさしい英語でね、年中いってますから。」(*5)大杉の感想は、 東後の言う「使っていることは、練習していることで、やがては身に付くことだ」と 言う論理と一致している。使えない英語学習を続けている元凶はどこか?責任の所在については意見も別れるであろう。しかし、英語教育のあり方を決めているこの国の大本はお上の文科省である。
   日本語の東北弁を会得したダニエル・カールは、近年、英語教育の「細部」は 変わったことを認めている。しかし、現に、「日本人は話せるようにはなっていない」 、という。「先生たちは変えたいと、その心得はあるけれども、どう変えればいいか というところでいろいろ意見があると。それから文部省がまた早く動かない。あれは ほんとにマンモスなんですね。、、、、。」(*6)日本文化を多少とも会得したタ レントは遠回しにしかいわない。どんなしっぺ返しが来るか分からないからであろう。 それでも自らが日本語を習い覚えた観点から、問題の本質は突いている。学校英語を 根本から変えなければ解決はないのである。しかし、方法の変革には日本人教員が抵 抗するのである。カールの提案は、現在の英語教員では出来ない方法だからである。 次に文科省が、膨大な社会的浪費に目をつぶって、見てみぬ振りをするのである。大 方の日本人教員ではダメだということになれば、混乱が大き過ぎるからであろう。誰 がそういう教員を養成して来たか、という責任も問われることになる。できれば政治 が動いてくれるまでそっとしておきたいのであろう。その政治たるや、G7やG8のサミッ トに出席してまともにコミュニケーションの取れた政治家の方が少ないであろう。浪 費の付けは全システムに廻っているのである。
(*5) 大杉正明、夢見るコミュニケーションの学習法、日本人の英語外国人の日 本語、遠藤八郎編、三省堂、1995年、p.21
(*6) ダニエル・カール、国際化は日本を知ることから、同上、p.139


5   根本的解決
   教員の失業問題や大学の学部の改廃の問題など、社会的問題を一切考慮せずに 言えば、改善のための答は簡単である。少なくとも、初めの数年間の英語授業をすべ て外国人教員にまかせ、すべての指導を英語で行なうことである。換言すれば、人為 的な英語環境の中に子どもを放り込んでしまうことから始めることである。もちろん、 子どもに英語に対する関心があること、教員に分りやすく教える力量があること等々 教授法上の問題は、他の教科と変わる筈はなく、共通である。子どもに学習のレディ ネスがあり、英語に対する関心が高い方が良いに決まっており、教え方が分りやすい 方がよいに決まっている。それゆえ、学校教育はもちろん、社会教育で行なう英語教 育の入門コースも間違っても最初の段階を日本人にまかせてはいけない。
   マークス寿子の「爆弾的英語教育改革論」は一向に「爆弾的」ではないが、い まもって日本人は英語ができない、という点だけは見解が一致する。マークスは、中 学校の英語は、「外国で日常生活が送れることを目標にする」、高校では、「読解力 の養成に目標をおく」(*7)と主張する。問題は、その方法である。学校英語の解 体をせずに、多少新しい学び方を提案しても、話すことの出来ない日本人教員が学校 の中で実行する筈はない。真に爆弾的な改革を唱えたいと言うのであれば、日本人教 員と学校を否定しなければならないのである。
   また、英語がコミュニケーションの道具である以上、コミュニケーションの意 欲と姿勢が重要になることは言うまでもない。しかし、対話の 態度さえあれば英会話が可能になるような言い方は詐欺に近い。外国語の習得はそれ ほど簡単なものではない。「ぜひ必要な表現は20個」とか、正しい方法で学習すれ ば「3時間から30時間で」何とか英会話ができるようになる(*8)、等と言う記 述を読むのは馬鹿馬鹿しいことである。どんな会話を想定しているか知らないが、 「会話」の定義で誤魔化してはならない。他者との、しかも外国人とのコミュニケー ションがそれほど簡単なら誰も苦労はしない。
(*7)  マークス寿子、爆弾的英語教育改革論、草思社、1996年、p.68,  p.82
(*8)  平野 清、英会話革命、大修館書店、1996年、p.14,  p.   21


6   国際語としての英語
   英語に対する日本人の先入観は人種差別に近いのではないかと疑う。あこがれ も劣等感もそれ自体が悪いとは断じ切れないが、日本人の英語に対する感覚が間違っ ていることは明らかである。江戸期以来、多くの日本人にとっての英語は、鼻の高い 「英米人」の話す言葉であり、英語コミュニケーション能力とは欧米の「異人さん」 とのコミュニケーション能力を意味しているのである。来日している白人の留学生が 英語講師としてアルバイトが得やすいのに比べて、同等か同等以上に英語力のあるア ジア人の留学生の多くはアルバイトですらなかなか雇ってはもらえない。雇う側は、 日本人の学習者が白人先生へのあこがれと劣等感を有していることを知っての上での 差別である。
   今や、もちろん、英語は英米豪加だけの言葉ではない。インドの大部分は英語 を話し、フィリッピンもシンガポールも英語を話す。多くのアフリカ諸国も英語であ る。ヨーロッパ諸国のほとんどの人々もコミュニケーション言語としての英語を話す。 それゆえ、地方によって日本語に訛りが生じるように、英語にも様々な訛りが生じる。 英語と言う以上は英米語が基本になることは変わらないが、フィリッピンで話す英語 も英語であり、インドで話す英語も英語である。日本人の英米人と英米語へのこだわ りは人種的劣等感に繋がっていると言ったらお叱りを受けるであろうか?われわれ日 本人が英米人のような英語を話せないからと言ってそれほど悲観することではない。 「ジャパングリッシュ」は当然の帰結であり、「ジャパングリッシュ」で十分コミュ ニケーションは可能である。国際語の英語に「唯一正しい」英語などない。日本語が 国際化すれば、「正しい日本語」をきめることが難しくなるのと同じである。「正し さ」だけにこだわれば、コミュニケーション能力など開発することは出来ない。

7   「ジャパングリッシュ」の宿命
    ー「うちの囚人はよく美容院へ行きます」ー
   われわれ日本人の英語の発音を必要以上に喧しく言う人がいるが、専門ばかの 浅はかさであろう。50音に限定して日本語を習ってしまったわれわれには50音以 外の音は聞こえにくい。当然、聞こえない音は発音しにくい。発音が障害になるのは 当たり前なのである。幼児期から英米の発音を聞きながら育った帰国子女ならともか く、「ジャパングリッシュ」は日本人英語の宿命である。発音のことを喧しく解説し ている参考書も多いが、基本の「th」や「f」、「v」等を外さなければ、残りは大体 で良しとしなければなるまい。確かに、”thank  you”は「サンキュウ」では通じな い。”five”も「ファイブ」では通じない。しかし、これらの音は、英米語の発音を 有していない日本人でも学び方のコツがある。練習次第で簡単にできるようになるの である。ところが「R]や「L」の区別や曖昧母音の発音は別の話である。50音しか 知らない日本人に曖昧母音の音は簡単に発音できるようになるはずがない。50音で 育ってしまった日本人の耳には初めから曖昧母音の音は聞こえないのである。英米語 の発音の基本に準じれば、日本人の「R」も「L」も、曖昧母音の発音も、いい加減き わまりないのであろうが、出来ないものは出来ないのである。英語の達人になろうと するのであればともかく、そうでないごく普通のコミュニケーションが出来るように なる程度で良いというのならば、曖昧母音のいい加減さは勘弁してもらって、相手に は文脈で理解して貰うしかない。また、実際に文脈で理解してくれるのである。フィ リッピン訛りやインド訛りの英語が十分通じるのに、日本訛りの英語が通じないこと はない。発音上も、表現上も、日本英語は「ジャパングリッシュ」とならざるを得な いのである。英語教育を論じた参考書の多くが、「正しい」英語にこだわるあまり、 個々の解説や留意事項の助言が、木を見て森を見ない論に陥っている。彼等の多くも また、自分の専門的知識にとらわれ、完璧主義者のワナに陥っているのである。特別 な環境で学んだ人はともかく、日本人の英語は、発音も文体も完璧からは程遠いので ある。多くの欧米人の日本語が完璧な日本語から程遠いのと同じである。「うちの囚 人はよく美容院へ行きます」とか「この町には有名なお手洗いがあるそうですが、、 、」等はよく引用される外国人の笑い話である。発音の間違いなどどこにでもある話 である。外国人の日本語が外国訛りの日本語であるように、われわれの英語は「ジャ パングリッシュ」である。また、「ジャパングリッシュ」でよいのである。

8   言えなくて当たり前
   参考書を読んでいると時に馬鹿馬鹿しくなる。大真面目に日本語の微妙な表現 をどう言うかの解説を延々としているからである。それらは英語で飯を食っている人々 の問題である。中学生、高校生、一般人の問題ではない。われわれは日々の用事を足 すに足るコミュニケーション言語としての英語を学びたいのである。大部分の英語学 習者は、翻訳家になるわけはなく、通訳になるわけでもない。したがって、雪が「し んしんと」降ろうが、「こんこん」と降ろうが、「たくさんの」雪が降ると言うこと が大事なのである。「こんこん」も、「しんしん」も、日本語ですら区別のできない 中高生に、英語の”適切な”言い方など教える必要はない。コミュニケーションの基 礎を学ぼうとしている人々に、微妙な日本語の英語表現を解説するなど10年早いの である。このことは、日本語を学んでいる外国人に付いても同じである。彼等に微妙 かつ日本的な表現をこだわって教える必要は全くない。また教えられる道理もない。 日本で暮らしている日本人は日本語環境の中にいる。学ぶ意志さえあればあっという 間に日本語を使えるようになるのである。好むと好まざるとに関わらず、正しい、正 しくないに関わらず、彼等は毎日日本語を使っているからである。逆に、日本の英語 学習者は、英語を使用する機会は少ない。使わなければ言語使用能力は向上しない。 日常の事実の描写すらできない日本人の英語学習者に微妙な表現など必要ではないの である。基本をおろそかにして、枝葉末節に走る。この国の英語ばかは救いようがな いのである。

9   子どもの英語の最大の危険
   日本人の英語の最大の難所は二つある。ひとつは「楽しみ」、他のひとつは 「発音」である。「楽しみ」は受験英語が初めから殺してしまう。ひたすら間違える ことを恐れ、コミュニケーションのためではなく、知識のため、試験のための学習が 楽しい筈はない。第二の鬼門は聞き取りである。聞き取りが出来ないことは、発音が 出来ないことに直結している。それは50音の言語の宿命である。特に、現代日本語 の50音は、「ヴ」の文字も、「ウ井 」の文字も消してしまった。それゆえ、「V」 の音にも「Wi」の音にも、特別の注意は払わなくなった。50音に縛られて言葉を学 ぶわれわれ日本人には、50音以外の音は聞くことが難しい。聞くことが出来なけれ ば、当然、発音は出来ない。もちろん、このことは日本の子どもが、外国の言語の音 を聞く能力を持たないということではない。50音に縛られてそれ以外の音を聞いて いないと、聞きとりの能力が減退してしまうということである。その証拠に幼少期か ら外国で暮らした帰国子女は外国語の音を聞く耳を発達させている。国際結婚の結果、 英語を母国語とする外国人の親から幼い時の発音を学んだ日本人の子どもも外国語の 音を聞き分けることができる。
   それゆえ、聞き取り能力の最大の問題は、ヒアリングの能力を開発する幼少期 の環境である。中学生の多くはすでに曖昧母音の音を聞き分けることは出来ない。こ と、発音の習得に関しては、小学生から始めることが望ましいのはいうまでもあるま い。しかし、問題は日本人教員である。50音の発音しかできない日本人教師に習う のは致命的な失敗である。教師の側もまた幾つかの音を聞き分けることが出来ず、当 然、発音することも出来ない。子どもの英語教育は断然英語の発音のできる外国人教 員によらなければならない。話す英語に重点をおくならば、ポイントは、楽しみとヒ アリングと発音である。東後は英語学習の観点から子どもの特質を次のように要約し ている。東後はこれを「天性」と呼ぶ。天性を英語学習に活用しない方はない。

・   子どもは素直
・   子どもは耳が敏感
・   子どもは物まねの天才
・   子どもは恥ずかしがらない
・   子どもは好奇心のかたまり
・   子どもは人の言葉をよく聞く
・   子どもはすぐに行動に移す
・   子どもは身体で覚える
・   子どもは外国語を意識しない
・   子どもはくり返しを嫌わない(*9)

  東後の指摘を、アメリカの子どもの英語の覚え方を研究したシグリッド・H・ 塩谷の観察と比較してみると共通点が多い。塩谷の観察結果の中から一般化できそう な項目を列挙すれば以下のようである。(*10)

*   アメリカ人も英語を間違いながら覚える
*   周りの音は何でも真似してみる
*   ものや人の名前を最初に覚える
*   少ない語彙で必死に表現する
*   子どもには英語も日本語も同じ
*   動きが目に見える動詞は速く覚える
*   意味に幅のある動詞はたくさん聞いて覚える

   東後も、塩谷も、子どもは真似をすることで覚え、使うことで身につける、と 言っている。当然、「物まねの天才」に不適切なモデルを与えることは最悪である。 不適切なモデルとは、50音に制約された発音、正しい言い方だけを教えようとする 指導法、英語を使わない環境の三つである。小学生の英語教育を日本人教員で始める ことは、話す英語の自殺行為である。
(*9)  東後勝明、子どもの英語いま、こんなふうに、BL出版、1998年、 pp.20-21
(*10) シグリッドH・塩谷、アメリカの子どもはどう英語を覚えるか、はまの出版、1991年


10   言語は「型」
   言語は「型」である。「文型」というのがその証拠であろう。日本語に「型」 があるように、英語にも「型」がある。日本語の習得が、日本語の「文型」の習得で あるとするならば、英語の習得も同じく、「文型」の習得ということになる。文法の 基礎が大事なのは「文型」の成り立ちを理解するためである。もちろん、受験問題に 登場するような高度にして難解な「文型」や文法はコミュニケーションの英語には不 要である。われわれの日常的コミュニケーションがどの程度の種類と数の「型」を使 うかによって、文型もその基礎となる文法も教えればいい。厳密なことは専門家に任 せれば良いが、文学や、凝った表現にこだわらなければ、それほど多い筈はない。中 学英語のレベルで十分であるという議論は恐らく正しいであろう。あとは語彙の問題 である。これも日常使っている用語を調べれば必要最小限の語彙数を想定することが 出来よう。英語学習の要は、基本文型と必要最少限の語彙を習得することに尽きる。 受験英語が根本的に誤ったのは、コミュニケーション能力の基礎・基本をはみだして、 文学やより高度な表現を学習の素材としたことである。英米の小学生のテキストも読 めない大学生が何ゆえ、シェークスピアを読むのか。筆者の知る限りそうした事態が 続いている。大真面目に授業をしている教員の節度を疑うのである。

11   語学を蔑む外国文学研究者の愚
   翻訳の外国文学に親しむのは個人の趣味の問題である。読書の自由は何もとが め立てする必要はない。言葉が分からなくても、背景の文化に疎くても、解釈は基本 的に読み手の自由であり、「誤解の権利」は読者の側にある。しかし、当該国の言葉 を使って日常のコミュニケーションすら行なうことの出来ない日本人がその国の文学 を専攻し、卒業してもまだその国の言葉を使って話も出来ない、というのは大学制度 の恥であろう。日本の大学における外国文学を専門とする学部・学科の滑稽かつ破廉 恥な風景である。英文科がその代表であろう。学生の語学力を知れば、教授は文学な ど教えることは不可能だと分からないのであろうか?それとも徹底して翻訳資料を使っ て学ぶというのであれば、それはそれでひとつの見識であろう。その場合は、看板を 「翻訳英文学」とすれば済む。しかし、事実はそうではない。われわれも教養部英語 の犠牲者の一人であるが、一日1ページほどの難解な(少なくとも学生にとっては) テキストを1〜2行づつ順番に訳して英語の授業と称した。
   前述のダニエル・カールの発言通り、こうした学校英語の状況を延々100年 以上も許して来た文科省はまともではない。しかも、外国にはもちろん、日本国内に も、英語教育のモデルはふんだんにある。都市にはいたるところに様々な英語学校が あって現実に機能しているのである。これらの学習モデルが学校教育に取り入れられ ない理由は誰かが「現状でいい」と主張しているからである。それが、中学から大学 までの日本人の英語教員である。一方は、英語を使って十分なコミュニケーションが 出来ない教員であり、他方は、語学をばかにして文学を専攻している教員である。

12   受験英語の愚
   受験英語が日本の英語教育を支配していることは悪名高い。ボストン大学教授 のメリー・ホワイトは、ニューズウィーク日本版、『Out of the Mouths of Babes 「This is a pen」の呪縛を解き放つ』というタイトルで、日本の英語教育について の感想を載せている。彼女は日本の英語教育が、コミュニケーションスキルとしては 絶望的であった時代の日本人を良く知っている。タイトルの「This is a penの呪縛」 とは、英語教育がほとんど意味を為さなかった英語の時代を象徴した表現である。ホ ワイトによると、ようやく日本の英語教育が変わりつつあるという。高校生の英語を 指導して見て、筆者には、変わったはずの英語教育の成果はあまり感じられない。こ れから徐々に結果が現れるのかも知れない。ホワイトの観察が正しいことを祈りたい。 以下はホワイトが紹介する新しい英語教育の風景である。東後や塩谷が提案した方向 に進んでいると見て良いであろう。
 『アメリカ人学生のカイポ・イケモトは、京都府久御山町で小学校の英語教育を 調査している。久御山町が小学校の全学年に英語学習を導入したのは7年以上前だ。 英語学習の教室には机がない。体を動かすことを重視しているためで、授業も「英語 活動」と呼ばれている。生徒は英語で歌い、話し、踊る。楽しいから、発音もよくなっ ていく。 授業は週1回だけ。そのため教師は英語の読み書きより、話すことや「イ ングリッシュ・アドベンチャー」の準備に時間を使う。子供たちはまちがえることを 怖がらず、外国人の目を見て話す。 彼らは英語を動物の鳴き声と思っていないし、 文法もよく知らない。楽しんでいるが、不まじめなわけでもない。それどころか「自 然な英語」は貴重な財産だ。 日本人だからといって、生まれつき外国語を話すのが 苦手だということはありえない。小学校のうちに種をまき、中学校できちんと水をや れば、成果は表れる。文部科学省が種をしっかり育てられるなら、もうペンの話など しなくてすむのだろう。ここで試されるのは、種の強さだ。 「英語活動」の1期生 は、もう中学生。今も彼らは英語を話せるだろうか。』(*11)
   受験英語は「使える英語」よりは、「英語の知識」を競う。書きはじめると、 再び英語関係者の悪口になるので、結論だけを書く。使えもしない受験英語の「害」 を流したのもまた日本人英語教員である。受験英語が用を為さないのは、コミュニケー ションの手段として英語を使えない人、英語をあまり使ったことのない人が指導・作 成するからである。
   受験英語は、まさに上記東後の指摘とも、塩谷の指摘とも、メリーホワイトの 指摘とも反対である。受験英語の子ども達は、机の上だけで学んでいる。ただし、話 すことは学んでいない。ましてや、「外国人と話をするために」学んでいない。ひた すら「間違えることを恐れる」。おおかたの子どもは、「楽しんでいない」。些細な 「文法にこだわる」。「発音は極めて悪い」。受験の中身ですらもが、国際交流とか、 グローバリゼーションの時代を重要視するようになった昨今である。なぜ受験英語だ けが未だに、国際化に対処するためのコミュニケーションスキルを重視しないのか、 理解に苦しむところである。
(*11) ニューズウィーク日本版、『Out of the Mouths of Babes 「This is a pen」の呪縛を解き放つ』 (2002年12月25日号 P.11)

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