1 環境とプログラムの弁証法
ニワトリが先きか、それともたまごが先きか。現象だけを見ると、物事の因果
関係は時に決め難い。従来、筆者は、「教育力」を分析するに際して、教育環境が
「全体」で、そこから生み出される学習プログラムが「部分」であると考えて来た。
しかし、第25回のフォーラム論文で、「教育力」を左右する「全体」と「部分」の
発想を逆転してみた。いかなる教育環境も、その第1歩は、学習プログラムの提供に
始まる。学習プログラムの反復と総合によって、教育環境が醸成されたのである。教
育環境が初めにあったのではない。「学習プログラム」が出発点である。意図的な教
育プログラムが初めにあったのである。換言すれば、「環境」も、「風土」も、「人
間関係」も、具体的な学習プログラムの実施過程で生み出された条件である。もちろ
ん、ひとたび出来上った教育環境は、それを土台にして次なる新しい学習プログラム
を生み出すから、一度学習環境が醸成されると、学習環境が「親」で、学習プログラ
ムが「子ども」になるような関係が生じる。しかし、両者の関係は、双方向である。
子ども次第で親が変わることはいくらでもあり得る。「プログラム」のあり方が「教
育環境」を変えるのである。
すなわち、「教育力」とは、「教育的プログラムの総体」と捉えるべきである、
と主張した。プログラムこそが「教育環境」の決定要因であると考えたからである。
しかし、当然、活動と活動環境は、相互に作用しあう。すでに存在する地域や家庭の
実態を見ると、既存の環境と既存のプログラムに囚われがちである。しかし、教育力
は常に流動的である。すなわち、「プログラム」と「環境」との関係も流動的である。
「活動」が変われば、「雰囲気」が変わり、指導者の意欲が「空気」を変えればプロ
グラムに影響する。
それゆえ、正確には、環境とプログラムは弁証法的に理解するべきであろう。
弁証法とは、ひとつの状況(「定立」)の矛盾点を否定し、矛盾の解決のために新た
な状況を生み出して行く(揚棄する)「運動」を意味する。環境の矛盾を解決するた
めに、プログラムを工夫し、プログラムの矛盾を否定するために、さらに新しいプロ
グラムや指導者を生み出して行くのである。環境とプログラムは、お互いがお互いの
弱点を否定しながら、より高次の環境とプログラムへ向上して行くのである。
2 「ゆとりと充実」の行政的保証
教育は医療や福祉と同じく社会的サービスの一環である。サービスである以上、
その原理は、ホテルや、レストランや、遊園地とも共通している。一般サービス業と
共通の「原理」とは、サービスの「提供者」がいて、「受益者」がいるということで
ある。更に、サービスの「質」が問われ、サービス提供の「スケジュール」が問われ
る。サービスである以上、原理的に、受益者による選択は当然である。特に、土曜日
の自由時間を、「充実」のための「ゆとり」と想定した以上、教育行政は「土曜プロ
グラム」を準備するのは当然の措置であろう。従来の、学校の時間を削った上で、な
お、「ゆとりと充実」の学校5日制というのであれば、「ゆとり」が「充実」に繋が
る方法論を提示しなければならない。家庭と地域で「勝手にやってくれ」と言うだけ
であれば「ゆとりと充実」のスローガンはほとんど詐欺に近い。
3 サービスの競合
もちろん、土曜日に想定する教育プログラムは、他の活動と競合関係にある。
テレビと競合し、遊びと競合する。成人に限らず、子ども達も、学校の外にあっては、
「現実主義的学習者」である。「現実主義的学習者」とは、「実際に役立つ」ことを
重視する。それゆえ、彼等は、日常生活に立脚し、自分のスケジュールに従い、みず
からの興味関心、みずからの利益、みずからの楽しみを優先する学習者である。「現
実主義的学習者」は義務的な学習者ではない。当然、選択的学習者である。土曜プロ
グラムに魅力がない時は、誰も来ない。もちろん、受益者の条件にかなわぬものは、
「現実主義的」ではない。子ども達も、大人も同じである。
退職者も含めて、学校関係者が生涯学習のプログラムを計画すると、学校の授
業と同じように、「お客」さんが来てくれるという前提に立ちがちである。しかし、
土曜プログラムは教室の授業とは決定的に異なる。学校の学習者は英語で"Captive
Learner"と呼ばれる。「囚われた学習者」という意味である。「囚われた学習者」に
は、選択の権利はない。学校の授業を完全選択制にした時、面白くもない授業を受け
たいという「物好き」はそれほどいないだろう。学校週5日制への対応で、土曜日の
活動を用意したにもかかわらず、公民館に閑古鳥が鳴いているのは、「囚われた学習
者」を想定しているためである。子どもの参加も、保護者の参加も少ない、というの
は子どもや保護者の意識の問題ではない。プログラムの内容・方法の貧しさの問題で
ある。その証拠に魅力のあるプログラムは選択され、次々と新しい試みが登場してい
るのである。近隣コミュニティの保護者の意識が低いなどと批判するのは、自らのプ
ログラムを顧みることのない教育関係者の天に唾する行為である。
4 少年フィットネスクラブ
学校週5日制をにらんで子ども向けのフィットネスクラブが拡充していると新
聞が報じている。中身は格闘技から野外教室に及んでいるという。当然である。生活
時間の自由はメニューの豊富さに直結するのである。
首都圏のフィットネスクラブでは、子ども向け講座を従来の水泳、ダンス、体操な
どから空手や、レスリング等の格闘技に広げ、来年はバレー、バスケット、サッカー
なども追加して行く予定であるという。また、野外教育の分野でも、「グリーンスクー
ル」や、「ウィンターキャンプ冒険隊」、「まるごとシーワールド」、「スキーキャ
ンプ」など学校や子供会では全く手も足もでない分野へサービスを拡大するという
(日経2002.12.12)。
学習塾以外にも、教育事業のアウトソーシングが始まっていることは明らかで
あろう。
5 アウトソーシングの二つの理由
教育活動のアウトソーシングには三つの理由がある。第一は、子ども会や地域
ボランティアの負担を減らし、教育・指導の実を上げるということである。第二は、
メニューを拡充して、参加者の主体的選択を保証することである。第三は、地域活動
に伴う「一律主義」文化の副作用を和らげるためである。第三の理由には説明が必要
であろう。日本の地域社会に特有な「全員参加」・「一律主義」文化のもとでは、何
らかの理由で、保護者が貢献出来ていない地域行事には、晴れて子どもを参加させに
くいという。地域の子ども行事で役割を果たすことができないから、自分の子どもも
地域のお世話になるわけには行かない、という遠慮の心理が働くのである。「遠慮の
心理」は、全員参加の「文化」が命じているのである。
子ども会の役員を担当できない以上、わが子も子ども会のお世話になるわけに
はいかない、というのも同根の発想である。地域の子どもは地域で育てよう」という
スローガンには、無意識の「落し穴」があるのである。個性の時代、自分の時代にお
いては、「地域の子どもは地域の青少年ボランティアで育てよう」というスローガン
に変更しなければならない。子どもにとっても、親にとっても、主体的な選択的参加
を保証しようとすれば、「地域集団」は「機能集団」へ移行せざるを得ないのである。
学校週5日制の完全実施以来、塾の登録率が平均で2割近く上がった、と新聞が報じ
ている。塾が要求するのは一律の月謝だけである。”あなたは地域に何も貢献してい
ないではないか!”という心理的に棘のある「空気」はない。少し頑張って、塾の月
謝を払う方がよほど気楽でいい、と思うのも、自然であろう。フィットネスクラブの
野外教育活動も、恐らく、似たような気分の延長線上に発展している。今後は、ます
ます塾やフィットネスクラブのカリキュラムが多様化する。子ども会の行事も、スポー
ツ少年団の行事も、更には地域の行事も取り入れた塾やクラブが登場する日も近い。
それは地域行事に参加出来ない親たちを「気兼ねの文化」から「救出」するためであ
る。結果的に、余暇教育のアウトソーシングが進むのである。
しかし、このような私塾によるメニューの提示が可能なのは人口が密集した都
市部の話である。地方では、塾にせよ、クラブにせよ、経営が成り立たない。それゆ
え、公教育に株式会社を参入させて、公設民営の運営方法を導入し、既存の教育機関
と競わせる意味はここにもあるのである。現状では、学校も、子ども会も、上記「少
年のためのフィットネスクラブ」が企画した子どもメニューは、実行はむろんの事、
発想すらも出来まい。
6 オーダーメイドのプログラムは可能か?
「土曜プログラム」も、広く浅く差し障りのない程度でやるのであれば、「学童
保育」;「放課後児童件全育成事業」を拡充すれば事足りる、と提案して来た。その
ことすらも不可能にしているのは、日本の行政の縦割りと、怠惰と、縄張り争いのゆ
えである。政治と行政の罪は重い。
現状の「学童保育」が拡大したとしても、子どもの選択肢は極めて少ない。一
律の「保育」プログラムの縛りから自由になれないからである。子どもの個性に注目
し、子どもの興味関心に応えようとすれば、現在の、一律の「学童保育」プログラム
ではメニューが不足である。学童保育は福祉から教育行政に担当の移管替えをするべ
きである。それなくしてメニューの豊富化と弾力化を図ることはできまい。いかんせ
ん、福祉の担当者に教育上の専門的な識見を要求するのは酷というものである。
福岡県穂波町の「いきいきサタデースクール」の画期的な特性は、「オーダー
メイド」のプログラム開発の可能性にある。「いきいきサタデースクール」の特徴は、
いまだメニューが制約されているとは言え、プログラムの選択制にある。余暇活動で
ある以上、この点が学校カリキュラムとの最大の相違点である。学校のカリキュラム
は、退屈であろうとなかろうと、社会の視点から構成される。学校外のカリキュラム
は、主として、子どもの興味関心の視点から構成されるべきであろう。それゆえ、
「いきいきサタデースクール」も、最終的には、子どもの注文に応えなければならな
い。現状の親や子ども会の実力ではそこまでの対応は出来ないからである。教育行政
が、公費を投入してまで「土曜プログラム」を実施する意味は、第一に「モデルを提
示すること」、第二に、「『格差』の拡大を防止すること」である。人口の少ない地
方都市では、メニューの”バイキング化”はほとんど不可能であるからである。
全国的に子どもの人気を集めているプログラムを収集すれば、オーダーメイド
の見本メニューの作成はそれほど難しいことではあるまい。むかしから子ども達は、
「未知」のことに心を震わせる。冒険が好きで、探険が好きで、採集が好きで、仲間
との交流が好きである。もちろん、現代のやわな子ども達に、一気にこれらの事はで
きまい。「いきいきサタデースクール」の活動はその準備期間であろう。準備が整っ
たら、準備が整った順に、「奥山のキャンプと渓流の釣り」や「海辺の探険と無人島
への挑戦」や、他人の飯を食いながらの「ボランティア」への挑戦など、首都圏のク
ラブや私塾がやっているようなプログラムを受益者負担と公費補助を混合しながら提
示して行くべきであろう。
町の行政が、たとえ、奮起一番、一律の「学童保育」を実現できたとしても、
それは最低限の「生きる力」を保証することが目的である。抜きん出た個性を育てよ
うとすれば、それに相応しいプログラムが必要である。プログラムの質と方法こそが
「生きる力」を具体的に保証するものだからである。
7 生涯学習格差の急拡大
自由は格差を拡大する。これは自由の法則とでも呼ぶべき現象である。経済格
差も、余暇時間の格差も、選択能力の格差も、生涯学習格差を拡大する。時間の消費
の質は、子どもの人生の質に直結している。かくして、土曜プログラムは、必然的に、
格差を拡大する。土曜の塾も、フィットネスクラブも格差を拡大する。当然、「いき
いきサタデースクール」も、それを選んだ者と選ばなかった者との格差を拡大する。
これは生涯学習の宿命であり、選択制の必然である。総体として、日本の少年
は危機的状況に当面している。当然、危険性に気付いた親は子どもに自衛させる。そ
れが塾の盛況に繋がり、フィットネスクラブの繁栄に繋がっている。当然、格差が発
生する背景には、保護者の危機意識の程度、自覚の程度の問題がある。経済格差も、
余暇時間の格差も、選択能力の格差も大きな違いではあるが、「少年の危機」に対す
る自覚の違いが最大の違いである。自覚がなければ対応策を考えないからである。親
の自覚は、子どもが享受するプログラムの格差に連続しているのである。教育は際立っ
て「親の因果が子に報う」のである。
筆者が、学校週5日制は単なる教職員の週休二日制である、と指摘したのは、
学校は、初めから、土曜日の子ども達に何一つ提供する気はなかったからである。そ
れを「ゆとりと充実」の学校五日制と言い換えて来たのは、文科省を始め、教育行政
のごまかしであった。学校週5日制が、少年の「ゆとりと充実」に繋がり得るのは、
生涯学習を選択した子どもであり、少年のためのゆたかな生涯学習機会を提供してい
る市町村にのみ可能なことである。
学校週5日制に伴う生涯学習格差の拡大を防止するためには、最小限、あらゆ
る子どもが参加できる土曜プログラムを教育行政は創設するべきであろう。家庭と地
域の対応に任せると言うことは、教育行政自身が、格差の拡大もやむを得ないという
ことを認めたことを意味している。
8 「生きる力」の向上
学校と学校外の活動は「生きる力」の両輪である。学校は学力の養成を主目的
とするが、学校外の活動の目的は多様である。「生きる力」を構成する要素が多様で
ある以上、それらを培う方法も当然多様である。それらは遊びに始まり、通学合宿も、
キャンプも、鍛錬遠足も、貝掘りも、山遊びも、遠泳も、登山も、継続的な社会貢献
プログロムも、家業の手伝いも、宿題も、自習ですらも、それぞれに有効である。こ
れらのプログラムはすべて子ども自身の体験を基本としている。宿題や自習ですらも
勉学態度の形成は、体験の積み重ねの結果である。それゆえ、学校外の活動は、「学
習」よりも、「体得」すべきことの多い教育方法である。
9 「学習」と「体得」のバランス
「身体で覚える」ということは、自分の状況を自分の身体で確認すること
である。何よりも言葉による「ごまかし」がきかない。「身にしみる」というのが体
験の効用である。
言うまでもなく、子どもに限らず、人間の生活は24時間と決まっている。こ
の24時間は何らかの経験の連続である。それゆえ、体験による「体得」を導入する
と言うことは「経験」の中の「体験」の「相対的分量」を変えることである。体験の
「量」を拡大することは「間接経験」を減らして、「直接経験」を増やすことである。
換言すれば、「学習」の量を減らして、「体得」の量を増やすことである。両者のバ
ランスを再点検することである。土曜プログラムの主眼は「体得」にある。それゆえ
に、教育の専門家でなくても指導が可能になる。体得の原理は「やってみせて、やら
せてみせること」だからである。
10 プログラムの内容と方法
プログラムの内容と方法は「生きる力」の構成要素をそれぞれに高めることで
ある。特に、現代っ子においては、基礎体力と基本耐性こそが向上の前提である。体
力と我慢強さのないところにすべてのトレーニングは不可能である。
(1) 基本体力の開発
基本体力の開発は身体を使うことによって初めて可能になる。それゆえ、家
庭も、学校も、地域社会も、カリキュラムの外であれ、内であれ、子どもにスポーツ、
労働、野外活動、運動を伴う遊びの機会を提供することである。できれば具体的な目
標を決めて、そこに関わる大人も、子どもも、楽しく、達成感を確認できるようにプ
ログラムを組み立てることである。
(2) 基本耐性の開発
基本耐性の開発は「がまんする」状況を反復して、乗り越えて行くことによっ
て初めて可能になる。それゆえ、家庭も、学校も、地域社会も、体力の場合と同じく、
敢えて「困難な課題」・「がまんして継続する」プログラムを課すことである。もち
ろん、子どもが困難に喜んで向って行くことは容易ではない。それゆえ、困難への挑
戦にも、「辛さ」に耐えることにも周りの「応援」が不可欠である。耐性の開発と応
援のシステムは「二人三脚」である。「お前ならできる」と言って常に励ますこと、
短期の達成目標をきめること、可能であれば、子弟同行:親子同行で楽しくやること、
達成時には具体的な評価と褒美を工夫すること。これらのすべての総合が「応援環境」
である。困難な課題は、当然、体力の向上をめざすプログラムに限ったことではない
が、体力の鍛錬と耐性の向上は「親戚」である。スポーツに「応援環境」が欠かせな
いのは、練習が「耐性」の開発を兼ねているからである。
(3) 道徳性の涵養
ルールに従い、決りを守るためには、役割と責任を与え、具体的な活動に当
たらせることである。学校教育の最大の誤謬は机の上で道徳を教えようとしたことで
ある。家庭でも、学校でも、地域社会においても、子どもが、役割を学ぶためには、
役割を遂行する以外に方法はない。責任感を学ぶためには、責任が与えられなければ
ならない。協力を教えるには、協力が必要な状況を発明しなければならない。協力を
讃え、非協力を厳しく叱責することが不可欠である。それゆえ、家庭や学校が取りう
る方法は、継続的・持続的な校内活動、地域活動を子どもに課し、絶えざる応援と評
価を行なうことである。
学校は、子どもに規範を課しながら、その違反者を処罰しない。学校教育法
第11条が正座、直立まで、すべての体罰を禁止している以上、処罰は「口ばかり」
になる。家庭や地域社会は、学校の轍を踏んではなるまい。規範を課す以上は、違反
者は処罰しなければならない。それが人類の知恵である。進化の途上にある子どもが
「口ばかりの説教」で己を律するようになるなどと期待することは難しい。少年法の
改正もその基本理由は、少年の逸脱が目に余るから罰則を強化したのである。大本の
社会が処罰を必要としているのに、学校社会には処罰は不要であるということはあり
得ない。規範の違反者に目をつぶることは、教育行政と教員の偽善である。
思春期のどこかで、彼等は親や、教師に反抗し、「誰が産んでくれと頼んだ」
とか、「くたばれ!くそばばあ」とか、「せんこうの人生ではなかろう」などとほざ
くようになる。その時こそ「半殺し」にする覚悟で子どもの「無礼」を正さなければ
ならない。フランスのドール県が「教師侮辱罪」を決めたのは、教育が困難になった
ので規範の遵守を求めたのである。日本の学校や家庭は、侮辱に限らず、非行や犯罪
すらも見逃すので、卒業後の彼等は社会の規範を小馬鹿にしているのである。文科省
の役人や人権団体の幹部を荒れた学校の教壇に立たせることしか、この国の教育につ
ける薬はない。
学校を代表として現在の教育には、規範を守らせる覚悟と気迫が欠けているの
である。「一人前」が育つ筈はないのである。
(4) 基礎学力の養成
分りやすく教え、集中して反復練習を行なう。これ以外に基礎学力向上の方 法はない。
第1は、子どもの授業への集中である。授業は行なわれていても、子どもが集 中していなければ指導は子どもに届かない。自堕落なクラスがダメなのはすべての点 で時間とエネルギーを無駄にするからである。
第2は、教師の指導法の研修である。「教育技術法則化運動」が発見したよう に上手な「跳び箱の跳ばせ方」はあるのである。当然様々な教科について、分りやす い教え方もあるはずである。教師はお互いの面子を捨てて相互の授業方法を向上させ ることができるか?閉鎖的で、独善的で、他者の評価を受け付けようとしない学校鎖
国主義、教室鎖国主義に突き付けられた最大の宿題である。
第3は、反復練習の自学・自習である。家庭での学習、学校でのドリルと自習、
これらを継続的、総合的に組み合わせて行なう以外に、習得の近道はない。ここでも
だらだらした勉強は有害・無益である。短時間の集中、集中の後の解放を組み合わせ
て、学習の「瞬発力」をつけることが重要であろう。「遊びをせんとや生まれけむ」
という子どもに年柄年中「勉強しろ」といいつづけることぐらい愚劣なことはない。
(5) 人交わりの感受性の向上
感受性の具体的中身は、「思いやり」と「表現力」であろう。思いやりを育て
るには、道徳性の涵養と方法原理は同じである。思いやりが必要な場面を体験させ、
思いやりのある態度を賞賛し、思いやりのない態度を叱責するということを繰り返す
しか方法はない。体験が重視されるのはそのためである。
一方、表現力の学習方法は異なる。コミュニケーションの基本は言語である。
思うところ、感ずるところがあっても、表現しない限り相手にはつたわらない。それ
ゆえ、言語による表現態度と表現方法の習得が必要になる。態度にも方法にも基本と
なる技術がある。したがって、体験と練習が基本である。
表現力の基礎練習は、「音読」による言葉の「型」:「文型」の習得、くりか
えしの発声練習、自作の作文と音読、学校内外での「あいさつ」による実習、班別学
習成果の発表分担、各種発表会の役割分担、学級内外のスピーチ大会等を組み合わせ
れば可能である。これらはすべて学校のカリキュラムにも、学校外のプログラムにも、
組み込むことができる。かつての学芸会のように、定期的に保護者を招いた音読や班
別学習の発表会を実施し、意図的に「応援環境」を創造する工夫を積んで行くことで
ある。
11 教育力の確認−評価
−「態度変容」・「行動変容」を見よ−子どもの自己評価だけを見るな−
家庭や地域の教育力の評価は、目標とした「態度変容」・「行動変容」をこそ
見るべきである。ウイークエンド・プログラムに参加する前の子どもはどんな状態だっ
たのか?プログラムを重ねた結果は、どう変わったのか?体力がついたのか?がまん
強くなったのか?道具が使えるようになったのか?仕事の手順と分担を身につけたの
か?協力するようになったのか?責任ある行動をとれるようになったのか?プログラ
ムを楽しんでいるか?などなどが評価の視点である。
「態度変容」・「行動変容」を見るためには、事前の「診断」が不可欠である。
プログラムは何を目指すのか?何を変えるのか?達成目標が明確でなければならない。
目標は、出来る限り具体的、数値化できるように設定するべきである。それゆえ、評
価は事後にやるのは当然であるが、そのための準備の半分は事前に終わっていなけれ
ばならない。
「態度変容」・「行動変容」はスタッフが客観的な指標によって測定・観察す
べきである。子どもの自己評価は大事であるが過信してはならない。子どもの作文の
ような主観的な評価のみに頼っては効果を見誤る。子どもは大人を喜ばせることを知っ
ている。「良い子ぶる」ことも知っている。そしてなによりも「自分」に甘い。評価
は事前と事後の「態度変容」・「行動変容」によって測定すべきである。
12 家庭教育の放棄と専門教育機関の分化
少年教育の内容と方法は、「言うは易く、行なうは難い」。専門の学校ですら、
最近は手こずっているのに、手抜き教育の家庭に歯が立つ筈はない。近年の問題は、
家庭の教育力が低下したというような生易しいものではない。家庭は教育を放棄しつ
つあるのである。塾が繁昌し、フィットネスクラブが多彩になっているということは、
教育の依存対象が学校に留まらないことを意味している。教育の外部依存が増大する
ということはとりもなおさず家庭が教育を放棄し、「家庭の無力化」が進行している
ことを証明している。青少年育成の大会で、社会の視点から「一人前」を育てること
が大事であると提案すると、「半人前」の親はどうしたらいいでしょうか、と質問が
でる。質問は、「半人前」は「一人前」を育てられない、と指摘しているのである。
家庭が、教育を放棄している、ということは、「半人前が親になっていること」を象
徴している。
核家族化は一層進行し、少子化は一人っ子を増やし、親が教育に投資する「エ
ンゼル係数」も増加の一途を辿っている。もちろん、子ども達に、様々な耐乏体験を
強いた「貧乏という名の先生」も時代の表舞台から姿を消した。様々な要因があるが、
個別の家庭の多くは、すでに、社会が期待する子育ての機能に対応出来ないのである。
育児以前にその親を支援しなければならないのである。
すでに学校も社会が期待する機能を単独で果たすことは出来ない。表には出て
来ないが、「教師支援プログラム」が必要なことは関係者の間では隠しようもない。
日本の現状は、「問題教員」を罷めさせることすら出来ないのである。専門教育機関
が分化するのはそのためである。教育行政はこうした現状の意味を理解出来ないので、
頑迷にも、構造改革の「特区構想」においてすらも、株式会社やNPOの学校教育への
参入を認めない。もはや、教育行政の力量だけでは、危機の現状は打開出来ないので
ある。
外部化の終着点
研究者は社会環境の変化を指摘し、子どもの遊び場すらもないと嘆く。塾が過
熱気味で子どものスケジュールは忙しすぎるとも言われる。しかし、遊ばせないのは
基本的に親である。塾で子どもの尻を叩いているのも親である。基本的なしつけすら
出来ないのが親である。
家庭は今や教育を外部化している。それはワイシャツをクリーニング店に出す
のと同じであり、夕食をコンビニで買うのと同じである。外部化がこのまま続けば、
必然的に家庭教育の放棄に繋がる。教育の放棄は教育力うんぬん以前の問題である。
それは家庭における教育プログラムの空洞化である。核家族に限らず、現代の家庭は
子育て能力の最底辺をさまよい始めている。家庭教育の放棄は、教育力が「ゼロ」に
なるということではない。子どもの放任も、教育努力の放棄も、教育的には「ゼロ」
を通り過ぎて、「マイナス」である。これらの家庭には少年を奮起させる応援環境も、
彼等を鍛えるプログラムも存在しない。逆に、取り返しがつかぬほどに子どもを駄目
にしてしまう条件が山積している。先ずは学習のタイミングが狂ってしまう。「熱い
うちに鉄を叩く」ことが出来ない。発達課題の順序性も崩壊する。習得の領域にもよ
るが、第一段階をクリア出来なかった子どもは、第二段階へ行くことは簡単ではない
のである。
現状は、多くの家庭に代わって、育児から少年教育まで社会が担当しなければ
ならない時代にあと一歩のところまで来たと理解すべきである。「土曜プログラム」
はひとつの象徴である。
幼少期の教育が未熟である少年には、のちのち膨大な社会的コストがかかる。
その時間とエネルギーと経費を総合的に考えれば、社会が全面的に少年の教育を引き
受けた方が有効であるという発想が登場するかも知れない。ましてや、家庭が教育を
放棄したことによって頻発する非行や犯罪や不登校や閉じ隠りの被害を想定しなけれ
ばならない。保育所や学童保育はもちろん、学校から「戸塚ヨットスクール」流の
「適応指導プログラム」に至るまで社会が全面的に引き受ける時代を視野に入れて政
策を立てなければならないのである。食の外部化が進み、着るものの外部化はほぼ1
00%に達し、教育の外部化が完成した以上、次は外部保育による育児の外部化が進
むであろう。アホな話だが、すべてを外部化した時、家庭は崩壊するのである。
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