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風の便り

フォーラム論文

編集長略歴


(第29回生涯学習フォーラム「この指とまれ」参加論文)

様々な学習 −研修計画立案の原理と方法−

平成14年11月30日(土)

福岡県立社会教育総合センター

三浦清一郎

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1   「不毛」の研修
   研修なんか「役には立たない」と多くの人々が感じている。"自分で本でも読んだ方がましだ"、などと思っている。研修の評判は必ずしも良くない。従って、受けなくて済むものなら受けたくない。これが研修の「不毛感」であり、研修への「嫌悪感」である。学習のための研修なのに、初めから嫌われているのでは成果のあげようがない。すべての研修に不毛感があるわけではないが、企業の社内研修ですらもが「歓迎」されざる研修であると参考書は指摘している(*1)教育研修にも同じような現象が起こることは当然である。義務研修の場合は尚のことである。理由は研修風土の未成熟と研修概念の誤りにある。風土の未成熟も研修概念の誤りも、実施者と参加者の双方に責任があるが、主たる原因を作ったのは当然実施者の方である。
(*1)  国司義彦、これで社内研修は万全、PHP、1992、pp.14〜16

2   目的の曖昧性
   「研修不毛」感の第1原因は、目的の曖昧性にある。研修目的が周知されていないから、研修の意味が見えない。企業研修の場合でも、参加者の多くがなぜそこに集められたかを理解していない場合があるという。教育行政が展開する多くの「大会」にはこの種のものが多い。定例化しているから実施しているに過ぎない。それゆえ、依頼される講師の側でさえ、"テーマと内容はおまかせします"などといわれて時に途方に暮れる。

3   「しごき」との同一視
   第2の原因は、「研修」を「しごき」と勘違いしていることである。「しごき」は「辛い目にあわせる」という意味である。それゆえ、たとえ、プログラムが善意に発したとしても、参加者にとって、「しごき」はほとんどいじめに近い。研修を「しごき」と同一視する発想こそが、参加者の研修イメージをマイナスにしたのである。
時々新聞の広告に出る「地獄の研修」というようなタイトルはまさに研修がしごきであることを暗示している。
   しかし、もちろん、「地獄の研修」に効果がないという意味ではない。また、「しごき研修」に効果がないという意味でもない。当然、効果を発揮する場合も沢山ある。しごき研修の問題は、実際の効果の有無ではない。研修に付与されたしごきイメージが多くの参加者の参加意欲にマイナスに働くということである。「地獄」や「しごき」は「辛さ」を意味する。大多数の人々は進んで「辛さ」を求めることはない。「研修」が「辛いこと」を連想させるものであれば、生涯学習の「選択」には辿り着かない。生涯学習は人々の選択に基づく自由な学習だからである。選択する自由もあれば、選択しない自由もある。研修=学習が「辛さ」を連想させるものとなれば、当然、「喜んで選択する」ということは起こるはずがない。生涯学習の時代を迎えたにもかかわらず、研修としごきを同一視する風土を作ったのは、大局的に見て日本社会の不幸であった。研修を忌避する雰囲気はひとり企業研修に限ったことではない。社会教育でいえば、かつての「青年の家」研修には、「しごき」の「におい」があった。青年が「青年の家」を敬遠したのは疑いなくそのしごきと辛さの「におい」が理由である。たかがイメージというなかれ。たかが雰囲気というなかれ。イメージと雰囲気こそが選択の時代:感性の時代における人々の活動の決定要因なのである。

4   理論と方法の貧困
   研修不毛感の第3の理由は、研修が「有益性」の期待を実感させないことである。「成人の学習者」は、「現実主義的学習者」である。現実主義とは「実際の生活に即している」という意味である。抽象的、理念的なことだけでは日々の役には立たない。
   事実、生涯学習分野においては、見聞する多くの研修が役に立ちそうもない。講師の話も、演習もその多くが抽象的に過ぎて、仕事に直結しない。例えば、いつも、青少年の育成には、家庭と学校と地域の連携・協力が大切である、という話を聞く。しかし、どう連携するのか、そのための手立てとプログラムについて誰がどうするかについてはほとんど聞くことがない。それは各人が考えることだ、というのでは研修をしたことにはならない。
   「有益性」が実感出来ないのは、第一に、研修に「理論的具体性」が欠けているからである。理論的具体性とは、「理論に基づいた方法の提示」を意味する。学ぶことの具体的なメリットが実感出来ないのは、研修の中身と仕事との関係性・連続性が不明だからである。行政の担当者が勉強していなければ、現象や事例を理論的に分析することが出来ない。それゆえ、研修から理論性が欠落してしまう。なぜ「そのこと」が必要であるかを説明出来ないからである。
   また、実践に参加していない研究者の多くは、理屈ばかりを言って、理論から導き出される具体的方法論を示すことが出来ない。それゆえ、研修から具体性が欠落してしまう。参加者が、実際に、明日から試しにやってみよう、ということにはならないのである。
   かくして、日々の活動を理論的に説明出来ない行政と、日々の実践に具体的な方法を提示出来ない研究者は、現実主義的学習者の期待に応えることが出来ない。研究者と実務化の交流を制度化していない日本社会の構造的弱点であるが、ようやく、「異業種交流」のような発想が浸透して少しは事態が変って行くのかも知れない。いずれにせよ、「理論的具体性」を持たない研修は、生涯学習の支援業務に役に立つ筈がないのである。実際に役立たない研修は、当然、徒労感に繋がる。参加費が無料の場合でも、参加者が投入する時間やエネルギーに比して、無駄や疑問を感じるのは当然である。

5   「学ぶ構え」の不在
   第4は、参加者自身の問題である。参加者の自覚が薄い時、どんな研修も空回りになる。主体的に「選択された」研修と、他律的に「動員・強制された研修」の最大の違いがここにある。参加者の「学びの構え」は、学習・体得の基本である。「構え」とは積極性と意欲の総合である。心理学的には、英語で、"レディネス"という。学習に対する積極性は必要性を土台としている。意欲は興味や関心が土台であり、やる気の別名である。したがって、「構え」とは、「動機」と「一生懸命」の結合である。「学びの構え」がなければ、参加者は、研修の冒頭から「あくび」をしている。はじまりも、休憩も、時間は守らない。一部の受講者の無気力が全体の研修風土を台なしにすることもたびたび観察している。参加者を馬に例えるのは失礼ながら、「水
を飲みたくない馬に水を飲ませることが出来ない」のと同じである。馬は「牧場」に帰りたいのである。強制研修、義務研修の難しいところである。研修が自分にとってプラスだと思わなければ、初めから参加意欲は湧くはずはないのである。研修の事前オリエンテーション、生涯学習の動機付けは決して簡単ではないが、動機のないところ人間の行動に活力はでない。

6   担当者の無能と無気力
不毛の研修を作り出す第5の理由は、「惰性」である。「帳面消し」研修と呼んでもいい。「惰性」は定例化した研修から多く発する。去年もやったから今年もやらなければならない、という発想が出発点である。多くの担当者は去年の要綱をなぞって企画を立てる。結果的に、研修に対する情熱も、研修内容の新味もない。定例化しているので、実施することに重点がおかれていて、「何のために、何を、どのように」実施するかについての吟味を飛ばしてしまうのであろう。主催者の企画がちゃらんぽらんなのに参加者が意義を感じるはずはない。これに熱意のない講師を加えれば、間違いなく研修不毛の風土が出来上る。マンネリ研修が生涯学習の分野に多いのは、大部分、担当者の無能と無気力の故である。

7   教育書はいらない
   研修計画の立案を考えるのであれば教育書はいらない。教育分野においては、研修に失敗しても担当者は罰せられない。研修がダメでも教育は崩壊しない。それゆえ、多くの教育研修は真剣勝負にはならない。結果的に、碌な参考書はない。生涯学習は教育書を参考に研修や企画を立てるから失敗するのである。
   ひるがえって、ビジネスは人材がすべてである。人材は「人財」である。研修にしくじればビジネスをしくじる。研修の成否はビジネスの成否に直結している。両者を比べてみれば一目瞭然であるが、ビジネスの参考書は読みやすく、分りやすい。もちろん、実践への応用を前提にしている。その事を"ハウツー"ものだと笑う教育界は誠に笑止である。ただちに実践に応用出来ない計画論など意味はない。教育とビジネスとでは初めから研修に取り組む姿勢と気合いが違うのである。ビジネス書は「業績」を重視している。『研修は「業績」に直結させよ』、と言い、『人材は流動資産だ』と言う。当然、『仕事には適材を張り付けよ』ということになる。もちろん、『企業内評論家はいらない』という(*2)。こうした指摘を読むと、教育の研修論
を書くことが嫌になる。学校は言うに及ばず、社会教育も、その他の生涯学習も、上記の研修理念は何一つ実行出来ないであろう。教育界にはビジネスに匹敵する発想はない。「民」に移行できるものは、「民」に移す。構造改革は生涯学習にこそ必要なのである。
(*2)  川井十郎、大変動期の人材活用システム、実業之日本社、1995、p.
28、121、141

8   企画立案は仕事の原点
   当たり前のことであるが、計画は仕事の出発点である。計画がなければ目標が曖昧になる。手順も、中身も、方法もぶれる。しかるに、仕事の効率が落ちる。毎日の献立メニューから国の外交まで、企画のない仕事はない。
   まして、研修計画は、関係者に身につけるべき内容や方法を理解してもらうことが目的である。個人学習であろうと、集団学習であろうと、研修計画のないところ、人は、断片的に学ぶことはあっても、体系的に学ぶことはない。目的的に学ぶこともない。意欲的に学ぶこともなく、意識的に学ぶことも少ない。学ぶことの意義を理解しない時、仕事は停滞し、前年踏襲になる。生涯学習プログラムの多くがマンネリ化しているのは、恐縮ながら、職員の資質と意欲が最大の問題である。企画が雑になるのは、仕事に対する職員の自覚が不足しているからである。
   企画も、研修も、その最終的目的は、仕事や活動の「目標管理」を成功させることである。串田武則は、研修という用語は使用していないが、「目標管理」のためには、「業務ノウハウ」の継承、アクション中心の「業務マニュアル」、「目標シート」、「目標管理中心の人事制度」など研修原理に直結する発想が中心である(*3)。学ぶためには、学ぶ中身、実践的な学び方、成果のチェック、成果の応用が必要だということである。仕事も仕事以外の活動も、着地点は目標の達成である。最少の負担で、最大の成果をあげること、それが「目標管理」であり、「計画」である。
(*3)  串田武則、目標管理を成功させる実務手順、中経出版、1996

9   立案の前提
(1)   時代の分析、過去の分析
   計画立案の第一前提は「時代」である。時代は何を求めているのか?社会はどのように変わりつつあるのか?人はなぜ、何を求めるようになったのか?これらはすべて時代の流れとともに変わる。
   立案の第ニの前提は現状と過去の分析である。過去は何をやって来たのか?なぜそのような問題がそのように取り上げられたのか?最終的に、過去との比較は時代の分析に外ならない。
   例えば、高齢者の過去と現在である。高齢者の生涯学習は、過去、ゲートボールと趣味・実益の習い事を主流として来た。労働を終えたあとはそれで十分である、と考えたからである。それゆえ、老人大学も、高齢者学級も、引退後の社会貢献プログラムを忘れたのである。しかも学習者は、1〜2割に満たない学習の習慣を身につけた一部のリピーターであった。今になって振り返れば、生涯学習政策における高齢者プログラムのおおいなる誤りであった。結果的に、年々、社会のお世話にならなければ、生きて行くことの出来ない「厄介老人予備軍」が増加の一途を辿っている。介護費も、医療費も当然、増加の一途を辿っている。心身の機能が衰える高齢期には「生きる力」の維持を図るプログラムが不可欠である。また、高齢期にあっては、「やり甲斐」や、「自尊感情」を生み出すために、高齢者の社会的役割と貢献の舞台を発明することも不可欠である。過去の社会的条件のもとでは、楽しく遊んでいればそれでもよかったかも知れない。しかし、今や、時代は少子化と経済不況のまっただ中にある。高齢者の活力を維持出来なければ、地域の活力は維持出来ない。介護保健も、医療保険も、年金も早晩破綻することは疑いない。高齢者教育の再点検の必要は、高齢者が置かれた時代環境を比較すれば一目瞭然であろう。

(2)  企画の日常化
   生涯学習について、われわれには計画的な発想が極めて不足していた。生涯学習の理念が、学ぶことを極めて日常的なものであると唱導したと同様、学習・研修企画の発想もまた日常的なものになるべきであった。ところが、生涯学習活動と企画の発想とは必ずしも日常的に結合することは少なかった。人々は「旅」を計画するようには、「学習」を計画しない。生涯学習プログラムは、そのほとんどが特別な企画に偏り、一過性の活動であり、非日常的なイベントや催しにとどまる傾向が今でも強い。生涯にわたって期待される学習は、旅の計画を立てるように、日常的、総合的、更には先見的であるべきであろう。
   夕食のメニュー一つを作るのも根本は企画である。掃除も、パーティーも準備と手順を考えることは企画である。だれでもやっていることであるが、われわれが受けて来た教育には「企画」発想と計画的実行の訓練が抜け落ちていたのではないか?そのため、生涯学習の実践企画は、いまだに日常化していない。日常化とは活動の「意識化」であり、「自覚化」の意味である。
   考えるまでもなく一日は、活動の集積である。即ち、一日は、個別活動の小企画の積み上げである、と言ってもいい。個別の活動を組み合わせて設定した目標を実現することが計画である。抽象的に言えば、それが活動の「体系化」ということである。まだ、多くの人々の日常に生涯学習は「体系化」されていない。活動が目的どおりにうまく進んだら、評価は「合格」であるが、目的どおりに行かなかったら、活動の軌道修正をしなければならない。もちろん、計画が常に正しいという保証はないので、計画の修正も必要になる。生涯学習の特別プログラムが、一層日常化して行くためには、娯楽や買い物と同じように、「学ぶ」ということの企画の日常化が必要なのである。変化の時代、高齢化の時代、生涯学習のない日はないはずなのである。

(3)  目標の意識化
   小林は計画の意義を4点に分析している。第1は「絶えざる制御」、第2は「意志の実現」、第3は「無駄のないアクション」、第4は「意志の統一」である(*4)。これらはすべて"なんのための計画か"ということを問うている。計画は、目標を意識してこそ計画である。「計画倒れ」も、「3日坊主」の計画も、上記4点の意識化に失敗するからである。
(*4)  小林 裕、経営計画の立て方・実行の仕方、TIS,1995,p.3

10   企画論の構成要素
   研修であろうと、パーティーであろうと、イベントであろうと、商品開発であろうと、企画を構成する要素は、ビジネス企画論の参考書の目次を見れば大体の見当がつく。5〜6冊の企画論の書物を参照すれば、企画立案の必要・十分条件を取出す事ができる。企画論の書物自体が企画の具体的モデルであるからである。以下は企画論を論じた書物の目次を素材として筆者が要約した「計画」の構成要素である。

(1)  思考の順序と要素
第一は「目的」、第ニは「仮説」、第三は「内容」、第四は「方法」、第五は「効果の測定」である。
  「目的」とは、「背景」と「狙い」を明らかにする事である。なぜ研修か?何を期待しての研修か?「仮説」とは、だれを対象に、どんな「内容」、「方法」でやれば、所期の効果を上げることができるか、を想定することである。
  計画の原則は「Plan」−「Do」−「See」であるから、最終目的は、仮説を実行に移して結果を測定することである。

(2)  計画のレベル
  第一は「長期計画」、第ニは「中期計画」、第三は「短期計画」である。研修計画にはこのいずれもがある。当然、それぞれに目的が異なる。長期の計画は全体を考慮した息の長い「戦略」である。中期計画は、分野ごとの短期計画の組み合わせであり、短期計画は個別事項のやり方である。長期が「戦略」であるとすれば、中期は「戦術」、短期は「戦闘」であるとビジネス参考書は分類している。当然、「全体」と「分野」と「事項」に分けることもできる。
   また、「戦略」は主としてトップの考えるべき事、「戦術」は中間管理職の考えるべき事、「戦闘」は各担当者の取り組むべき事に当たると説明している。ビジネスらしくて明快である(*5)。教育の分野では、こうした発想は稀である。生涯学習の研修の多くは場当たり研修である。総合的学習が出てくると「学社連携」研修、夏になると野外教育研修、子どもは何も出来ないと言われると「通学合宿」という具合である。「戦略」も、「戦術」発想も希薄であると言ったら過言であろうか?「総合計画」というものを見る事があるが、多くは総合ではなく、教育行政の各担当部署が提出した政策資料の「寄せ集め」である事が多い。しかも大部分は教育行政を"お得意さま"としている「企画屋」さんが編集したものであろう。「まちづくり」についても各行政部局の政策資料の「寄せ集め」という点では同じであろう。調べたわけではないが、東北のあるまちと、九州のあるまちの「総合計画」がそっくりだという事は間違いなくあるはずである。地方の自治体が、その程度の企画力しかないのに「地方分権」などできる筈はないのである。
(*5)  小泉俊一、企画書;立て方・書き方がわかる事典、西東社、1993,p.26

11   論文も著書も「企画書」の変形
   企画書の構成要素を分析し、そのプロセスを辿って行けば、論文の書き方、本の編集と相似している。企画書を書くということは、小企画であれば、「小論文」を書くこと、時に、大企画であれば、「大論文」を書くことと変わらない。企画のプロセスは、研究のプロセスと同一である。日本の学校は、具体的な計画を作成実習をすることはあっても、必ずしも「計画」論を教えていない。ましてや、その実行まで体得できるようには教えていない。振り返ってみれば、同じように、具体的な研究者養成プロセスの中でも、「研究法」は教わっていない。教えられたのはアメリカの大学でのことである。同じような現象だが、「国語」は教えても「プレゼンテーション」や「スピーチ」は教えていない。プレゼンテーションにもスピーチにも企画が必要である。ビジネス書の棚に企画やプレゼンテーションに関する本が並ぶのはそのためである。多くの職業人が仕事に関わって初めて、これらについての理論もスキルも身につけていないことを自覚するからである。
   企画の種類、企画のレベルによって、その立案手順が多少異なることはあっても原則は変わらない。企画は説得のための"武器"である。手順や方法が分かりにくければ、相手は読んでもくれない。相手に分ってもらえない限り、企画は実現出来ない。企画は採用されなければ意味がないのである。これらの発想は研修企画論についても全く変わらない。
   計画論、企画論の参考書からその主たるプロセスを取出して列挙すればおよそ以下の通りである。発想のプロセスは「目次」であり、提案の仕方は「書き方」であり、プレゼンテーションは「文体」であり、「文章力」である。

(1)  目的、目標を明確に
(2)  仮説を立てる
(3)  データの収集、調査の実施
(4)  情報の分析・活用する考え方(コンセプト)の決定
(5)  内容・方法を組み合わせてコンセプトの体系化
(6)  日程、経費、担当者、などを追加して実施スケジュールを決定
(7)  作成とプレゼンテーション
(8)  結果の確認(評価)

   著書や論文の場合は第8の評価のプロセスが曖昧である。読者の評価は来る時もあるが、来ない時の方が多い。要は"書きっぱなし"であり、"言いっぱなし"なのである。これに反して、販売企画も、生産企画も、広告企画も、研修企画も、ビジネスにおいては、第8の評価プロセスが最も重要である。成果が上がらなければすべてのプロセスの意味はない。エネルギーも、時間も、経費も、効果のないところすべて無に帰する。「費用対効果」が論じられるのはそのためである。教育学の計画論がビジネスの計画論にかなわないのもそのためである。教育分野では研修が人材評価に結びつくことは稀である。参加者が有効に学んだか、否かを点検しない研修企画はそもそも研修の意味がない。

12   講師選定の理由
   どんな組織であれ、すべての専門家を有しているわけではない。専門家のアウトソーシングを考える以上、講師は外部から招かざるを得ない。選定の前提は「どんな人物」が、「何のテーマ」ではなすのか、「なぜこの人物なのか」を参加者に伝えなければならない(*6)。しかし、筆者の経験の範囲内でもこの原則を守った紹介はほとんどない。多くの場合、講師のことは、「肩書き」以外はほとんど語られることはない。肩書き社会の研修が、実質的な効果をあげられない理由は、担当者が、講師の専門知識、実践経験、伝達力、説得力などを事前に吟味していないからである。
もちろん、有名人を呼んで、「人寄せ」にするということであれば、話は別である。それは基本的に「サーカス」であって、研修の意味はうすい。
(*6)   平井敏哉、渡辺和彦、企画書;実践講座、ぱる出版、2001,p.165

12   長中期の計画は未来予測
   未来は正確に予測出来ない。それゆえ、長・中期の計画は未来の予測を兼ねている。絶えざる修正が必要になるのはそのためである。計画の目標を「方向性」のみに留めておくのも、正確な未来予測が不可能であるためである。生涯学習の研修は、目標の提示も、活動の方向性も明確には示していない場合が多い。研修計画に未来予測の努力を含めていないからである。学社融合」の方策は、結果的に何を生み出すのか?高齢者学級と高齢者の近未来の課題とは関連しているのか?男女共同参画の遅れは家族やコミュニティにどのような損害をもたらすのか?なぜ、学童保育の参加者から受益者負担金を取らないのか?これらの分野の研修計画はそれぞれの基本的疑問に答え、将来事業の方向性を明示しなければならない。プログラムの中身と方法はその結果決まってくるからである。
   計画と希望は異なる。自治体の教育計画にはこの両者を混同したものが多い。計画は実現の手法と手順を示さなければならない。漠然として、曖昧、情緒的にして、抽象的な政策目標は、計画の名に値しない。当然、研修の名に値しない。「希望」があるとしても、希望を実現する道筋を示さない教育計画は、目標には近付けない。青少年育成の多くの施策がこの類いの計画である。「たくましい心とからだ」は、希望であり、「方向目標」に過ぎない。鍛えるためには、誰が、どのように、何をやるのか、が不明である。「大人が変われば、子どもも変わる」。確かにその通りであるが、どう変わるのか、態度を変えるのか、指導方法を変えるのか、どうやって変えるのか、はいつも不明である。教育界が最も得意とする「スローガン」だけの大会であり、抽象的な目標だけを繰り返して確認する研修会である。研修が生み出す結果を問わなければ、延々とこの種の"勉強会"が繰り返される。研修に、教育書はいらない、というのはそういう意味である。

13   「計画」の劣化
   劣化とは計画が時代や状況に合わなくなることである。変化の激しい時代には、昨日の計画は今日の状況には合わない。「マンネリ化」や「「前年踏襲」が恐ろしいのはそのためである。教育は百年の計という格言に隠れて、短・中期の状況分析を怠れば、教育事業はあっという間に時代の必要を見失うのである。数年置きに、中・長期計画の見直しが必要になるのは、計画の「劣化」を防止するためである。

14   研修理念とは期待される「人材」像である
   教育分野には、理念の分からない研修がある。それは求めるべき「人材」の質が明確ではないからである。技法やスキルだけの研修も同じである。何ゆえに、当該スキルや技法が必要になるのか?職務上の意義はどこにあるのか?それらが十分に分っていないと、いわゆる"マニュアル通り"ということになる。道具はそれを使う人の理念がその使い方を決定するからである。教育研修は理念が曖昧な上に、技法やスキルの使い方すらきちんと提示しない場合が多い。人材に何をしてもらいたいのか、研修終了後に何をすべきなのか。研修のあるべき成果を十分に吟味していないのである。
   企業では、人材の質と能力がビジネス効果を決定する。このことをビジネスは痛感している。当然、同じように、論理的には、人材の質と能力が生涯学習の活動を決定する。人々の支援のあり方にも重大な影響を与える。教育機関も、役所も、その最大の欠陥は、「人材」の質と能力を厳密に問わないことである。正確に言えば、教育分野では、多くの場合、「人材」の質と能力は問えない。人材の流動化がほとんど起きていないからである。教育界の行き過ぎた労働運動がもたらした副作用の慣行もある。大学の教授会に象徴されるように、外部の評価を拒否する閉鎖的、自己完結的組織も多い。
   人材の質と能力を問わないということは、研修の理念を欠如していることを意味する。雇われ講師も又、研修の理念を想定せずに、自分の専門だけを話す。「話」は実践には結びつかない。仕事の向上にも繋がらない。組織活動に結びつかない教育研修は、初めからその目的を外しているのである。職場内研修も、職場外研修も役に立たない時、やむを得ず、意欲ある仲間との自己研修に頼らざるを得ない。心ある実践者の『自主ゼミ』や『実践研究交流会』が必要になるのはそのためである。企業研修のテキストには「人材開発ビジョン」をチェックせよ、と特記している。会社は「公民館」に置き換え、或いは、教育委員会に置き換えて読めばいい。チェックの視点は、以下の通りである。(*7)

1   経営ビジョンは明確なものがありますか?
2   経営ビジョンは成文化されていますか?
3   経営ビジョンは社員に理解されていますか?
4   人材に関するビジョンとして明確なものがありますか?
5   人材開発ビジョンは中長期経営計画と連動していますか?
6   人材開発ビジョンは社内的に存在価値が認められていますか?
7   人材開発ビジョンは、具体的な行動を起こす時に参考となるものですか?
(*7)  平松陽一他著、教育研修プラン推進マニュアル、インターワーク出版、2001、p.41

15   「ハウツー」を軽視する風土
   ハウツーを軽視する風土は大学の学問馬鹿が作ったものである。理由は二つある。第1は大学は研究と実践を分業化して、大学には実践の舞台がないからである。大学内にベンチャービジネスを育てるシステムを置こうという考えは、ごくごく最近のものである。世間も大学人の「講釈」のみを聞いて良しとした。第2は、実践舞台の欠如は、当然、実践能力の訓練不足を生み出す。結果的に、理論と実践を結びつける能力は開発されない。研究者の側に体験が不足しているので、具体的な方法と手順を論じることが出来ないのである。自分が知らないものを軽視するのは人間の常である。それゆえ、多くの大学人は、実践を軽んじ、結果を重んじない。理念や理屈を重んじる。従って、結果の評価をせず、特に、結果の評定を嫌う。評定結果はみずからの発言に跳ね返って来るからである。実践と評価を欠けば、理論を行動のレベルに翻訳することは出来ない。「だれがいつまでに何をやるか」という発想も希薄である。出来なくても罰せられることはない。実践が出来ても、大学社会では、特にほめられることはない。実践に学問的評価はない。経済的、時には社会的評価も与えない。
   ビジネスに限らず、あらゆる計画は、価値を共有しなければ実行出来ない。計画に盛られたこと、決まったことは実行に移さなければならない。しかし、日本の大学はこの二つが出来ない。価値を共有するシステムも決定を遵守する自己規律も有してはいない。事務局と教授会を分離したため、有言実行の義務も負わない。大学人が担当する研修が評論倒れになるのは、研究システムの風土がもたらす宿命である。この風土を変革するためには、欧米のように、実務者と研究者の交代を流動化する制度を具体化するしかない。果たして、日本にそれが可能であろうか?

16   研修における「学習」と「体得」
   野外教育の研究の中から、「学ぶ」概念を二分すべきことに気がついた。具体的には、「体得」の概念を現行の「学習」概念から明確に分離することである。人間が「分かる」ということのなかには、論理的に理解する「学習」と、肉体的・感覚的に実感する「体得」がある。学習も、体得も「学ぶこと」には違いないので、両者をひっくるめて学習という場合もあるので混乱が整理出来ないで今日に至っている。学校教育が行なって来た「授業」の大部分はまさに前者の学習である。学習は頭脳が担当する。換言すれば、学習は論理的な学び方である。したがって、体育や芸術を除く教科の大部分は、教科書で学び、教室で学ぶことが出来る。それゆえ、学習の方法も成果もその大部分は言語に翻訳可能である。一方、「体得」は、教科書でも、教室でもほとんど学ぶことは不可能である。換言すれば、論理的に学んだだけでは、体得したことにはならない。体得は身体全体で学ぶ。体得の方法はその多くが感覚的理解であり、肉体的実感であり、そのプロセスを言語に翻訳することは困難である。
   問題の根本は、学力の大部分は「学習」が可能であるが、実際の行動力は「体得」せざるを得ないところにある。行動力とは、知識を伴った実行力の意味である。にもかかわらず、戦後の学校教育は「学習」のみにアクセントを置き過ぎて来た。従って、学習によって、物事を論理的に理解はしても、肉体的に、全感覚的に「体得」してはいないことが多い。
   あらゆる職務研修は、職務遂行能力の向上が目的である。職務遂行の能力とは、「行動力」のことであり、知識を伴った実行力である。知識は実際の行動に応用されなければ、有効な行動力にはならない。それゆえ、研修の力点は「学習」よりも「体得」におかれるのが当然であろう。にもかかわらず、「学習」中心の学校教育が50年以上も続いて、実際の研修においても、「学習」と「体得」の概念すら区別されていないことが多い。研修方法の上でも、学校教育の『「学習」=論理的理解』を優先する悪しき伝統が影響して、「座学」の研修が多い。行動力は、程度の違いこそあれ、かならず知識を伴う。しかし、知識は、全く行動力を伴わなくても知識と認められる。もちろん、知識だけでは職務遂行には全く不十分である。行動力は、流行りの「生きる力」に技術や技能を加えたものである。「生きる力」とは、体力、耐性、道徳性、学力、感受性の総合である。学力を除く他の要素は、論理的に「学習」するものではない。身体的、感覚的に「体得」するものである。実習やインターンシップが重視されるのもそのためである。体得は肉体による「体験」を基盤としているからである。
   体得するためのプログラムの基本は「体験」である。「学習」と「体得」の質的な違いを余り吟味せずに、体験と学習をくっつけて「体験学習」と呼んだことが概念の混乱のはじまりである。「体験学習」という表現ではあたかも「体得」と「学習」が同じであるかのような誤解を招きやすい。「体験学習」は体験を通して「体得」するという意味であるから、正確には「体験体得」(体験を通して、肉体的・感覚的に理解する)でなければならない。「体得」を司る器官は、文字どおり、全身全霊、肉体の全部である。これに対して、「学習」は頭脳が司る。学習の大半は頭で理解することである。教育分野の研修が余り有効性を持ち得ないのは、現代の子どもの教育と同じく、知識のみの「学習」に偏っているからである。若い研究者や行政関係者に接して感じるのは、いろいろ知ってはいるが、頭でっかちで、実行力を伴わない。恐らくは、「学習」ばかりしていて、物事の全体構造を「体得」していないからである。子どもの野外教育に限らず、インターンや実務実習のような実体験が必要なのは子どもに限ったことではないのである。ケーススタデーはもとより、シミュレーションや計画立案実習のような体験を基本とした「体得的学び方」が必要になる所以である。

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