1 真の問題−「資質」の未開発
極論を恐れずに書けば、現代の教育における最大の問題は「子どもの資質の未開発」である。「生きる力」があるとか、ないとかという問題も畢竟「資質」の開発が出来ていないことに原因がある。
人生を生き抜いて行くためには、様々な能力が必要である。それゆえ、必要条件としての能力が開発出来ない時、子どもは「生きる力」を持たない。ところが日本社会は、教育行政はもとより、メディアの不勉強も相まって、真の問題を取り違えている。教育において、真の問題は一過性の衝撃的な事件ではない。「いま、ここにある危機」とでも呼ぶべき日常的な教育状況である。
大阪池田小学校への犯人乱入事件は、確かに前代未聞の大事件である。また、兵庫県でおきた児童虐待・死体袋詰め運河投げ込み事件も、傷ましい、悲惨な事件である。それゆえ、世間は怒っている。マスコミはこの怒りに便乗し、かつ、怒りをあおっている。しかし、これらは衝撃的な大事件であっても、長期にわたって、日本社会を揺るがす種類の重要事件ではない。マスコミがセンセーショナルに報道するのは、ニュースを売る商売の「常」であり、事件の衝撃性の故である。教育問題における「衝撃性」と「重要性」は事件の中身が提示している意味が異なる。マスコミ報道に惑わされて、事件の持つ衝撃性にのみ目を奪われていれば、現代の教育を犯している中核の問題を見落とすことになりかねない。
2 見落とされている三つの条件
教育的事件において見落とされている三つの条件がある。事件が「衝撃的」であっても、「重要性」の意味が異なるというのには、以下三つの理由がある。
第一は、発生件数が少数であること。
第二は、国民が怒っていること。
第三は、子どもの「資質」の開発に教育的影響が少ないこと。
発生件数が少ないということは、事件の波及範囲が少なくて済むことを意味する。国民が怒っていることは、即ち、次の事件への「抑止力」が働くということを意味する。子どもの「資質」に直接関係がないということは、社会や子ども一般への悪影響は最小限で食い止めることが出来る、ということである。
これに対して、教育上の重要事件は、上記三つの理由を裏返したものである。即ち、第一に、発生件数が多いこと。第二に、メディアの注目も薄く、国民が怒りを表明していないこと。第三に、事件の結果、子どもの「資質」が開発出来ないことである。
要するに、件数が多いことは事件の影響範囲が広いことを意味する。世間が声高に怒っていないということは、将来の事件に「抑止力」が働かないことを意味する。それらは事件であるにも関わらず、すでに日常化して事件性を失っているからである。
さらに、多数の子どもの「資質」が開発出来ないということは、10年後、20年後に子どもが成長したあとで、社会の屋台骨が揺らぐということである。
それでは「衝撃性」は薄いが、すでに日常化した「重要」事件とはなにか?それが、「学級崩壊」であり、「不登校」であり、「非行」であり、「閉じこもり」である。成人となった後は、転々とアルバイトを渡り歩く「フリーター」も「資質」の開発は出来ない。何よりもこれらに関わる青少年は数が多い。隣近所に石を投げれば、一つぐらいは「不登校」に当たる。時には「閉じこもり」に当たり、「非行」に当たる。これらの子どもは近い将来、社会に「重大な」悪影響を及ぼすにも関わらず、保護者の心境を慮ってなかなか批判的な声にはならない。したがって、「抑止力」が働かず、問題を掘り出して集中的に論議するところまで行かない。数がおおければいつしか”なれっこ”にもなっている。だから危険なのである。
3 「タフな子ども」はどのような条件を備えているか
(1) 概念の曖昧性
「タフな子ども」を育てようという教育スローガンが登場した。当然、心身共に「タフ」であることが期待されている。その背景の理由は明瞭である。子どもの心身の能力が落ちたからである。すでに子どもは「やわ」なのである。タフな子どもとは、流行りの概念を使えば、「生きる力」のある子どもである。
ところが「生きる力」の概念は曖昧である。文科省は、「生きる力」とは、”自分で問題を発見し、主体的にそれを解決する能力”などと極めて抽象的な説明しかしていない。抽象的な言い回しをしている限り、具体的な指導場面では、解釈が分裂し、何を、どうすればよいのかは明確にはならない。中身と方法がバラバラで、基本方向が不明なのは、概念を構成する要素が不明確である故である。結果的に、「生きる力」を向上させるための内容編成論と方法論が確立出来ない。学校によって、「総合的学習」が恣意的でバラバラなのはそのためである。第一「主体性」を測る具体的な物指しなど教育界は提示出来ていない。総合的な学習に取り組んだ教員たちも、試行のプログラムを振り返って、子どもは「自分から主体的に取り組めるようになったと思う」などと同義反復の情緒的な感想を繰り返しているだけである。こんなことで「生きる力」の向上も、保証も出来るはずはない。なによりも、子どもの成長における変化の測定と評価が出来ない。
(2) 概念の再定義
目標が曖昧では子どもを変えることは出来ない、学校を変えることも出来ない。それゆえ何をどうするのか、目標の設定と到達度の目安が不可欠である。「タフな子ども」を育てようとすれば、「タフ」とは何かというタフ概念を規定しなければならない。先日のNHKのインターネット・ディベートでは、文科省の解説を借りて、「生きる力」を「自分で課題を発見して主体的に解決する能力」であると紹介した。保護者から寄せられたメールには、”学校の教師に「生きる力」を教えることができるのか”、とあった。また、文科省による”「生きる力」の説明では「具体的なイメージが掴みにくい」”とあった。当然であろう。
文科省の説明を聞いただけでは、子どもが「主体的」になるためには「どうするのか」が分からない。「主体性」の基準も分からない。「課題を発見する」為にはだれが、何を、どうするのか、も分からない。ましてや、問題を解決するのに必要なトレーニングはなにか、まったく示されていない。それゆえ、「教えることが出来るのか?」というような疑問がでるのである。「生きる力」とは明確にすることが出来る。当然教師に「教えること」もできる。そのためにこそ概念の再定義が必要である。それゆえ、「生きる力」の概念を定義し直さねばならない。「生きる力」とは、「人生の実力」の別名である。その中身は、即ち、生物としての基本体力、社会的動物としての基本耐性、集団生活の決りを守る道徳性、職業を遂行する学力、人交わりのための感受性である。これら5要素の総合が人生の「実力」である。したがって、タフな子どもを育てるとは、これら五つの資質を開発することである。タフな子どもを育てるとは、これら五つの要素を「人並み」以上に開発することである。「タフな子ども」とは、”これらの5要素を平均以上に備えた子ども”の意味である。
これらの5要素については、すべて何らかの方法で測定が可能である。検証が可能でなければ、保護者にも、子どもにも教育効果の説明が出来ない。
4 情緒的な目標−評価の視点・基準の欠落
「生きる力」に限ったことではないが、教育には情緒的な目標が多すぎる。いわく、「ゆとりと充実」。いわく、「主体的な取り組み」。いわく、「豊かな心」。いわく、「たくましさ」。いわく、「健やかな精神」。いわく、「ふれあい」、「うるおい」、「高め合い」、「ささえ合い」。等々、等々。情緒的目標が延々と続く。具体的な中身は「解釈」次第である。「解釈次第」とは「あいまい」ということである。あいまいな目標では測定が出来ない。したがって、曖昧な文言、曖昧な発想でしか、内容と方法が決定できない。何をどこまで、どんなふうに達成するかを決めないで、効果的なプログラムは編成できない。「あいまい」な目標には基準がないからである。基準がなければ一切の効果的な指導、行政評価は成立しない。
「生きる力」を要素に分解して概念の再定義を行なうというのは、「基準」を明確にするためである。体力も、耐性も、現状より向上させる。守るべき決りを守らせ、協力して行なうべきことを協力して行なう。基礎学力も測定する。それらを総合すれば「生きる力」の変容が分かるはずである。
社会教育も含めて、税金を使って、みんなが「いっしょに餅を喰って」、「ふれあい」があって良かったという程度のプログラムは聞くだに恥ずかしい。
市民の選択による個人的な活動ならば、色々な視点があってもいい。情緒的な受け止め方で満足であればそれでも良い。しかし、税金を投入して行なう、公立学校や行政がやるべき教育事業では、税金を使う理由も、達成すべき目標も明確でなければならない。教育目標がどのようにでも解釈できるということは、公金投入の理由が不確かで、評価基準がないということに等しい。
5 責任の第一主体 −常識にとらわれない学校運営が不可欠である−
子どもをここまで弱くしたのは外ならぬ学校である。世間は、責任は教育行政にあり、原因は親だといい、社会だといい、戦後の豊かさであるという。それぞれに一理はある。しかし、学校は教育のプロである。しかも、常に、子どもの目の前にいた。つい最近までは、1週間の内約五日は子どもと向き合っていた。誰がどう言おうと目の前の子どもを指導する機会はふんだんにあったのである。
家庭がダメだろうと、社会がダメだろうと、自らの責任と方法で子どもを一人前に鍛え上げるのがプロの覚悟と仕事である。その覚悟と仕事のためには、家庭と対決し、社会と対決し、豊かさと対決するだけの気概と使命感を持つべきであった。色々なところに責任がることは疑いないが、責任の第一主体は学校であった。不幸なことに、意欲的な教員や学校チームが対決すべき最大の相手は、原因の分っていない教育行政と怠惰な同僚であったろう。やむを得ない事情があったとは言え、一時期、日本の学校は、教師である前に労働者であることを優先する発想が支配的になり、しかも外部の批判と評価を拒んだ。不毛な対立が続いたのはそのためである。この状況を脱するだけで何十年もの時間を費やしたのである。
学校はこれまでの管理主義や教条主義や閉鎖主義を御破算にして、常識にとらわれない運営を発明しなければならない。志を持って教職についた若い人々が学校の安逸に馴れていつの間にか”でも・しか”先生と化していることを世間は直感している。すでに、問題教員は隠しようもない。教育界に食品の偽装を責める資格などはない。教師の「偽装」、「不登校の偽装」(*)をこそ顧みるべきである。もはや、教職は世の中から尊敬されない仕事になりつつあるからである。
小学校から大学に至るまで、教員免許状は資格の有効年限を定め、教員採用は原則として契約にすべきである。教育が国民の付託に応えていない以上、「チャーター・スクール」構想が出て来るのは必然なのである。自民党は「構造改革特区推進」の一貫として、「教育特区」を定めることとし、民間企業やNPOによる不登校児童を対象にした学校の設置を可能にしようとしている(2002年10月8日、日本経済新聞)。これにも文科省は抵抗していると新聞が報じている。ここまで教育の危機を招いた上に、「『株式会社』では教育は出来ない」などとよく言えたものである。「教育特区」の計画は遅きに失した上に、中途半端であるが、やらないよりはやった方が良いことは疑いない。問題はすでに、個別の学校や教員の問題を越えて、構造のあり方なのである。今や、学校と、教員への批判は世間を席巻している。
(*) 埼玉県志木市では「不登校」の子どものところへ教師を個別に派遣するとテレビが大々的に報じた。教師による訪問指導は「集団生活への不適応」をそのままにして、「学修」だけを終った事にする。「学修」した事をもって、「登校」した事と置き換えようとしている。それは「不登校の偽装」である。(生涯学習通信「風の便り」26号)
6 基本要素の開発方法
(1) 基本体力の開発
基本体力の開発は体力を使うことによって初めて可能になる。それゆえ、学校が取りうる方法は、カリキュラムの外であれ、内であれ、子どもにスポーツ、労働、野外活動の課題を課すことである。できれば具体的な目標を決めて、そこに関わる大人も、子どもも、できれば楽しく、達成感を確認できるようにプログラムを組み立てることである。
(2) 基本耐性の開発
基本耐性の開発は「がまんする」状況を繰り返すことによって初めて可能になる。それゆえ。学校が取りうる方法は、体力の場合と同じく、「困難な課題」・「がまんして継続する」プログラムを課すことである。困難への挑戦にも、「辛さ」に耐えることにも周りの「応援」が不可欠である。耐性の開発と応援はシステムは「二人三脚」である。目標をきめること、楽しくやること、達成感を感じられるように工夫すること、応援と賞賛を忘れないこと、すべて体力の向上を目指す場合と同じである。
(3) 道徳性の涵養
決りを守るためには、役割と責任を与え、具体的な活動に当たらせることである。学校教育の最大の誤謬は机の上で道徳を教えようとしたことである。役割を学ぶためには、役割を遂行する以外に方法はなく、責任感を学ぶためには、責任が与えられなければならない。協力を教えるには、協力が必要な状況を発明し、協力を讃え、非協力を厳しく叱責することが不可欠である。それゆえ、学校が取りうる方法は、継続的・持続的な校内活動、地域活動を子どもに課し、絶えざる応援と評価を行なうことである。
(4) 基礎学力の養成
分りやすく教え、集中して反復練習を行なう。これ以外に基礎学力向上の方法はない。
第1は、子どもの授業への集中。授業は行なわれていても、子どもが集中していなければ指導は子どもに届かない。自堕落なクラスがダメなのはすべての点で時間とエネルギーを無駄にするからである。
第2は、教師の指導法の研修。「教育技術法則化運動」が発見したように上手な「跳び箱の跳ばせ方」はあるのである。当然様々な教科について、分りやすい教え方もあるはずである。教師はお互いの面子を捨てて相互の授業方法を向上させることができるか?閉鎖的で、独善的で、他者の評価を嫌う学校に突き付けられた最大の宿題である。
第3は、反復練習の自学・自習。家庭での学習、学校でのドリルと自習、これらを継続的、総合的に組み合わせて行なう以外に、習得の近道はない。ここでもだらだらした勉強は有害・無益である。短時間の集中、集中の後の解放を組み合わせて、学習の「瞬発力」をつけることが重要であろう。「遊びをせんとや生まれけむ」という子どもに年柄年中「勉強しろ」といいつづけることぐらい愚劣なことはない。
(5) 人交わりの感受性の向上
感受性の具体的中身は、「思いやり」と「表現力」であろう。思いやりを育てるには、道徳性の涵養と方法原理は同じである。思いやりが必要な場面を体験させ、思いやりのある態度を賞賛し、思いやりのない態度を叱責するということを繰り返すしか方法はない。体験が重視されるのはそのためである。
一方、表現力の学習方法は異なる。コミュニケーションの基本は言語である。思うところ、感ずるところがあっても、表現しない限り相手にはつたわらない。それゆえ、言語による表現態度と表現方法の習得が必要になる。態度にも方法にも基本となる技術がある。したがって、経験と練習が基本である。
表現力の基礎練習は、「音読」による発声練習、自作の作文と音読、学校内外での「あいさつ」による実習、班別学習などの役割分担、各種発表会の役割分担、学級内外のスピーチ大会等を組み合わせれば可能である。これらはすべて学校のカリキュラムに組み込むことができる。
8 野外教育の方法
(1) 「学習」と「体得」−「学習」概念の再点検
人間が「分かる」ということのなかには、論理的に理解する「学習」と、肉体的・感覚的に実感する「体得」がある。学習も、体得も「学ぶこと」には違いないので、両者をひっくるめて学習という場合もあるのでややこしい。学校教育が行なって来た「学力」を「学ぶこと」の大部分はまさに前者の学習である。したがって、体育を除く教科の大部分は、教科書で学び、教室で学ぶことが出来る。それゆえ、学習の方法も成果もその大部分は言語に翻訳可能である。一方、「体得」は、教科書でも、教室でもほとんど学ぶことは不可能である。体得の方法と結果はその多くが感覚的理解であり、言語への翻訳が困難である。
問題の根本は、学力の大部分は「学習」が可能であるが、「生きる力」の多くは「体得」せざるを得ない、ということである。
「生きる力」の要素は「学力」を除いて、論理的に「学習」するものではない。身体的、感覚的に「体得」するものである。それゆえ、学力の教授を専門として来た学校にとっては苦手な分野である。学力の大半は授業と演習で学習することが出来るが、「生きる力」の残りの要素は論理的な学習のみでは学ぶことが出来ない。「体得」することが不可欠である。
体得するためのプログラムの基本は「体験」である。「学習」と「体得」の質的な違いを余り吟味せずに、体験と学習をくっつけて「体験学習」と呼んだことが混乱のはじまりである。「体験学習」という表現ではあたかも「体得」と「学習」が同じであるかのような誤解を招きやすい。「体験学習」は体験を通して「体得」するという意味であるから、正確には「体験学習」ではなく、「体験体得」(体験を通して、肉体的・感覚的に理解する)でなければならない。「体得」を司る器官は、文字どおり、全身全霊、肉体の全部である。これに対して、「学習」は頭脳が司る。学習の大半は頭で理解することである。現代の子どもが頭でっかちで、実行力を伴わないのは、「学習」ばかりしていて、「体得」していないからである。
(2) 「無責任」に近い
これまでの教育が「頭でっかち」を育て続けたことは「教室主義」、「知識主義」の必然の結果である。保護者もこの単純な論理を鵜呑みにしてきた。学校教育の「誤り」という言い方は軽すぎる。それは教育行政と学校の過失犯罪に近い。親の過保護と過干渉が問題であるという社会の言い方も軽すぎる。保護者の愛情に疑いはないが、過保護・過干渉を修正できないのは、子どもの未来に対する無責任に近い。体験を通した「体得」こそが「生き方の社会化」の鍵だからである。学校と無縁の方々がすぐれた人生を送った例は無数にある。その逆も無数にある。実体験から必要なことを「体得」していたか、いなかったか、恐らくそれが人生をわけるのである。
(3) 「学習」と「体得」のバランス
「身体で覚える」ということは、自分の状況を自分の身体で確認することである。何よりも言葉による「ごまかし」がきかない。「身にしみる」というのが体験の効用である。
言うまでもなく、子どもに限らず、人間の生活は24時間と決まっている。この24時間は何らかの経験の連続である。それゆえ、体験による「体得」を導入すると言うことは「経験」の中の「体験」の「相対的分量」を変えることである。体験の「量」を拡大することは経験の「中味」を変えることであり、経験の「方法」を変えることであり、経験の「解釈」を変えることである。換言すれば、「学習」の量を減らして、「体得」の量を増やすことである。両者のバランスを再点検することである。
(4) 野外教育の特性−体験の缶詰め
流行りの通学合宿は体験の缶詰めである。野外活動もキャンプも、それ以上に、体験の缶詰めである。これらは衣食住の基本に返るプログラムである。特に、野外教育は、人間生活の原点を追体験する多様なプログラムの缶詰めである。それは「原始的生活」への人為的な回帰である。「原始的」な生活においては、労働と工夫無しにはその日が送れない。ここでいう労働とは、ほとんど全てが基本的に肉体労働であり、ここでいう工夫とは、サバイバルの工夫である。それゆえ、体力が基本であり、耐性が基本である。文明の「安楽」に頼らないと決めた野外活動は、自然の厳しさと正面から向き合うことになる。自然は必ずしも人間にやさしいとは限らない。自然のなかでは、お互いが助け合って暮らさねばならない。したがって、協力は不可欠であり、役割と責任の分担も不可欠である。
原始的生活を構成する要素は、自然であり、欠乏であり、不便であり、不衛生である。換言すれば、文明の欠如である。それゆえ、3度の食事をして、その日を無事に過ごすためには、団結して働かねばならない。ましてや、自然を快適に過ごすためには、秩序ある労働が不可欠であり、臨機応変の工夫が不可欠である。集団で行なう野外活動であれば、あらゆる点で、協力と役割の分担が不可欠である。野外教育のプログラムは巧まずして「自然」接触の体験を含み、「勤労」の体験を含み、「がまん」の体験を含む。
集団の構成や活動内容に工夫を加えれば、異年齢集団の体験も、協力や責任を学ぶ社会参加の体験も、肉体の鍛錬も含めることが出来る。要するに机上の議論や教室の知識で野外活動は出来ない。体験の缶詰めとはその意味である。
(5) 野外教育効果の理由−達成感・満足感の缶詰め
文明の支援がなければ、人間の力はたかが知れている。肉体労働も、サバイバルの工夫も、自然のなかではすぐに答が出る。教育方法として野外活動がすぐれているのはまさにこの点に存する。エネルギーと努力を傾注したことの結果は、人間に達成感、満足感をもたらすからである。協力や連帯の成果も直接的にあらわれる。「みんなのお陰」も「協力の賜物」も手の届くところにある実感である。これらの実感や達成感は、机上や教室のなかで知的な議論を続けたとしても到底近付くことは出来ない。肉体を通して得る様々な悲惨や満足は、知的にはほとんど想像すらも出来ない。それは肉体の特権であり、肉体の悲劇でもある。人間は、他の人間から物理的・空間的に分離されている。然るに感情的に分離されている。わが痛みは他者の痛みにはならない。当然、他者の痛みもわが痛みとはならない。疲れも、満足も、安心も、悲しみも他者と共有することは出来ない。それが人間の「存在の個体性」である。野外活動がもたらす様々な感慨や達成感は、頭脳の一部を通した知的な理解ではない。全身の感覚器官を通した肉体的理解である。本人自身の肉体を通してのみ、個体が感じることの出来る「感情」だからである。「体得」を支えているのは存在の個体性である。
(6) 誰も代わりには生きられない
体験の本質は人間存在の個体性にある。「個体性」とは「誰も代わりには生きられない」ということである。私たちは肉体的に、しかるに精神的にも他者から切り離されている。「私」と「彼」とは別の肉体を持ち、個別に存在している。従って、「私」は「彼」の痛みを共有できず、「彼」もまた「私」の痛みを共有することはできない。両者が痛みを共有できないということは体験は共有できないと言うことである。自分でやってみるしか分かる方法がないのである。悲しみも苦しみも、ひいては人生も共有できないことは言うまでもない。それゆえ、間接経験から学ぶことには、人間がどうにもできない限界が存在するのである。
「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」と言うのは、哀しい諺であるが、存在の個体性の原理を喝破している。
(7) 野外教育−教育キャンプの現代的意義
教育的に配慮された野外活動の意義についてはすでに20年前の「現代教育の忘れ物」(*)に列挙した事柄に尽きる。箇条書きにして再掲すれば以下の通りである。
現代の子どもに欠けているもの
- 基本的生活習慣が確立されていない
- 言われなくてもする、積極的に取り組むという態度が育っていない
- 自分の興味のあることしかやらない
- 困難な課題、辛い状況に耐え抜く力が不十分である
- 社会や集団の役割を果たしていない
- 異年齢の子ども達との交流がない
- 何が危険であるかが分っていない
- 規律・規則を守らない
- 他人への思いやりがない
- 責任感に欠けている
- 自分の持ち物などを管理出来ない
- 言葉使い、表現の能力が身についていない
- 「知っていること」と「実際に出来ること」との差が大きい
- 性役割分業が固定化している
想定される教育効果
- 自然に学ぶ、自然を学ぶ
- 基本的生活習慣を学ぶ
- あいさつ、炊事、後片付け、食事のマナー、衣服の着脱、洗濯、掃除、洗面、排泄、時間厳守など
- 共同生活の態度を学ぶ
- 協力と協調、ルールと規律、役割分担と責任、集団のなかの頑張り、適度の競争、集団の士気など
- 師弟間の交流が深化する
- 子弟同行、指導者への信頼、子どもの理解度の深化
- 勤労を学ぶ
- 道具の使用方法、手順の習得、「機能快」の実感、労働の達成感など
- 「行動耐性」、「欲求不満耐性」が向上する
- 「辛さ」に耐える、緊張感を学ぶ、機敏な態度を学ぶ、時間内処理能力を学ぶ、規範に従う、体力・持久力がつく、「孤独」に耐える、など
- 自主性、積極性が育つ
- 言われなくてもやるようになる
- 参加者相互の交流が進む
- 活動を楽しむようになる
(*) 三浦清一郎編著、現代教育の忘れ物−青少年の欠損体験と野外教育の方法、学文社、1987年
(8) 「体得」すべき課題の指導原理
20年前の著書「現代教育の忘れ物」では、「学習」と「体得」の概念を区分するところまで発想の整理が出来ていなかった。しかし、キャンプの指導原理として想定したことは、体得の指導原理に十分かなっている。以下に列挙する通りである。
・ 子弟同行の原則−「あご」はいらない
体験は様々な要素が混合している。辛いことも、嫌なことも混じっている。それゆえ、指導者の共感、応援、指針の提示が決定的に重要である。辛いプログラムも指導者が共に活動すれば、子ども達は頑張ることが出来る。当然、指導者への親しみも増し、共感、尊敬の念も深くなる。
体験すべき課題については、多くの場合、言葉は信用出来ない。「現場主義」の人々が「あご」はいらない、というのは、「まずは自分もやってみろ」という意味である。
・ 試行錯誤のすすめ
体験とはそもそもが試行錯誤である。理屈では実際のところは分からない。「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみせて、結果が悪くても褒めてやる」というのが試行錯誤の指導原理である。
・ 指導者の率先垂範
体験による体得を目指す時、指導者の役目はモデルの提示である。モデルの中には、「熱意」の意味もある。「技術」の意味もある。「責任感」や「積極性」の意味もある。要するに指導者が動かないのに子どもが動く筈はないのである。指導者が燃えないのに子どもが燃える筈はないのである。
・ 父性原理による規範の維持と母性原理による応援
野外活動には危険が伴う。辛さも伴う。規律も、自己抑制も不可決である。各種の困難を乗り越えて所期の課題を遂行するためには、子どもの自主性だけでは到底無理である。一方には、規範を司る「鬼」がいなければならず、他方には、子どもを励ます「慈母」がいなければならない。しかし、何よりも危険を回避し、脱落を防ぐためには、約束違反には厳しく対処しなければならない。それゆえ、野外活動の主役は「厳父」であり、「鬼」である。
・ 自由と規律の明確な分離
人間の認識は極めて「対比的」である。対比するものがなければ時に事物を認識出来ない。明るさは暗さによって理解し、熱さは寒さによって認識する。それゆえ、楽しさは辛さによって認識し、自由は規律によってその意味が分かる。もちろん、野外活動は楽しくなければならないが、その楽しさが分かるためには、子ども達も規律を守ってそれぞれの活動に熟練しなければならない。自然の豊かさを実感するためには、自然と共生できなければならない。活動が出来るようになれば、「機能快」を感じることができ、協力を学べば「連帯」の喜びを味わうことができる。野外活動には自由と規律を明確に分離すべき典型的な場面が共存している。それらは理屈では分からない。「体得」しなければ味わうことが出来ない。
・ 安全対策
どのような活動にも安全は基本である。先ずは「危険予知」、「危険の想定」が必要である。当然、徹底した事前の調査、事前の指導も重要である。実際場面での「見張り」、「管理」、防止策の実行は不可欠の原則である。それでも、神ならぬ人間のやることには落ちがある。保険への加入は必須の条件である。
・ 性役割分業の撤廃
教育の場面は恐ろしい。あることが行なわれるとそれがただちに子どもの「モデル」となる。性別の役割分業が行なわれれば、それが当然のことと子どもは理解する。逆もまた真である。男女に関わりなく、役割りが分担されれば、そのことが子どもの行動基準となる。男女共同参画もまた「学習」するものではない。「体得」するものである。
・ 指導方針の統一
教育には「風」の役目がある。家風と言い、校風と言う。「風」は教育が行なわれる集団の社会的風土を意味する。「みんながそうする」から「僕もそうする」のである。「みんながそうする」ためには、指導方針が統一されていなければならない。バラバラの方向の指導が行なわれれば子どもはどの指導にしたがって良いか判断に迷う。結果的には、最も楽な指導に従うようになる。指導者の顔を見て行動するようにもなる。「キャンプの風」も吹かない。家訓を定めるのは、家風の「風」を吹き続けさせるためである。校訓も社訓も同じである。野外活動の基本方針を高くかかげることこそ、例えば、キャンプの「風」を決定する。「生きる力」の目標設定を公開することは、子ども達を「風」の中に置くことを想定している。
・ チームワークと弾力的精神
子どもは自己評価が甘い。子どもは個性的で、千差万別である。「学習」するものも多様であり、「体得」するものも多様である。プログラムの内容・方法によって効果は大きく異なる。要するに、子どもの「多様性」、「個性」に対処するためには、指導の精神は柔軟で、弾力的でなければならない。一斉主義を排し、一律主義を排し、教条主義も、極端なルール主義も排さなければならない。子どもが多様な分だけ、スタッフの複数の目で判断、評価することが必要である。それゆえ、お互いに、協力出来ないスタッフも、話し合いの出来ないスタッフも「多様性」の指導は出来ない。教師集団のチームワークはどんな場合にもカギである。
9 野外教育も方法論の一つに過ぎない
疑いなく「野外教育」は「生きる力」の総合学習を代表している。しかし、「生きる力」を構成する要素が体力、耐性、道徳性、学力、感受性であれば、それらを培う方法は当然多様である。通学合宿も、キャンプも、鍛錬遠足も、校内マラソンも、遠泳も、登山も、継続的な社会貢献プログロムも、職業体験プログラムも、宿題も、自習ですらも、それぞれに有効である。これらのプログラムはすべて子ども自身の体験を基本としている。宿題や自習ですらも勉学態度の形成は、体験の積み重ねの結果である。それゆえ、「学習」よりも、「体得」すべきことの多い教育方法である。
野外教育の特性は活用できる素材が抜群に多いことである。素材の活用次第で、「学習」するものと「体得」するものを組み合わせることも可能になる。学校でいえば、様々な科目を自在に組み合わせる舞台として使える。野外教育は「合科教育」に最も適しているのである。素材の豊かさと組み合わせの自在によって、野外教育は「生きる力」を育むための方法を代表しているが、「体得」による向上を目指す方法論の一つに過ぎない。
10 「行動変容」を見よ−子どもの自己評価だけを見るな
キャンプの評価は、目標とした「行動変容」をこそ見るべきである。キャンプへ参加する前の子どもはどんな状態だったのか?キャンプ終了後はどう変わったのか?体力がついたのか?がまん強くなったのか?道具が使えるようになったのか?仕事の手順と分担を身につけたのか?協力するようになったのか?責任ある行動をとれるようになったのか?キャンプを楽しんでいるか?などなど。
「行動変容」を見るためには、事前の「診断」が不可欠である。キャンプで何を目指すのか?何を変えるのか?達成目標が明確でなければならない。目標は、出来る限り具体的、数値化できるように設定するべきである。それゆえ、評価は事後にやるのは当然であるが、そのための準備の半分は事前に終わっていなければならないのである。
「行動変容」はスタッフが客観的な指標によって測定・観察すべきである。子どもの自己評価は大事であるが過信してはならない。子どもの作文のような主観的な評価のみに頼っては効果を見誤る。子どもは大人を喜ばせることを知っている。「良い子ぶる」ことも知っている。そして「自分」に甘い。評価は事前と事後の「行動変容」によって測定すべきである。長期キャンプをやり遂げた子どもの達成感は大きい。だから、感動も大きい。作文などにはそうした感情の動きが反映される。それでも大部分の変化は永続しない。単なる「衝撃効果」であり、一時的なものに過ぎないことが多い。キャンプも、通学合宿も、反復と積み重ねが必要なのはそのためである。1回1度のキャンプに沢山の経費をかけることが良いかどうかも、積み重ねや広がりの問題を考慮せざるを得ないからである。 |