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(第79回生涯学習フォーラム in 大山) 論文2

 人間とは何か?-教育論の背景

平成19年10月7日(土)

鳥取県立大山青年の家

三浦清一郎

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試論 人間とは何か?-教育論の背景

1  「人間観」は「教育観」を決定する

  第79回大山移動フォーラムの幼児教育論を執筆する中でなんどか参考書の論理の曖昧さにぶつかりました。曖昧さとは、証拠がないのにそうなる筈であると助言しているような場合です。このような教育論の曖昧さの裏側を突き詰めて行くと、教育論の前提となっている人間観が曖昧だということに気づかされます。「人間観」は「教育観」を決定しているのです。
  例えば、『子どもと対話し、子どもの見る目を繊細に詳細に誘導する』とか、『なぜと考えてわかることを大事にする保育者の姿勢が探究心を支える』とか、『子どもへの共感に包まれた厳しさ』が大切である(*1)というような情緒的にして曖昧、抽象的にして多様な解釈が可能な助言がどのような役に立つと言うのでしょうか?幼稚園や保育所の子どもに理解できる筈のないことを理解できるかのように想定して指導法を助言するのはただ混乱を招くだけです。子どもの現実は矛盾にも、運の悪さにも、不公平にも満ちているのに、言葉による教師の誘導が、あたかも子どもの生き方を変えることができるかのような錯覚に立って教育を論じている参考書もあります。
  指導の原理は簡単明瞭かつ具体的でなければ人々の役には立たないのです。「子どもとの対話」も、「子どもへの共感」も大事であることは否定できませんが、なにが"適切な"対話で、どうしたら"正しい"共感をもつことが出来るかすら、人それぞれの解釈でバラバラに分かれてしまうではないですか!?言葉による説明で子どもの態度変容が運良く出来る場合もあれば、出来ない場合もあるでしょう。態度変容がいつまで続くか、続かないかも千差万別でしょう。その時の子どもの態度は様々な要因に規定されている筈です。例えば、その時の子どもはどの程度習慣付けられているのか?意味と説明を理解する言語能力は習得できているのか?過去の体験を通して自身の知識や行為をどの程度確認しているか?変動要因となり得る条件を挙げれば切りがありません。
  しつけがなっていない多くの現代っ子を見れば、保護者や教師による言語を用いた行動指導を子どもが理解し得るという前提はほとんど間違っているとしか考えられません。どのような理屈をこねようと、しつけが身に付いていず、規範が内面化されていない子どもこそが現代の最大の問題ではないのでしょうか!?

2  限りなくゼロに近い乳児

  子どもは自分のことが自分で出来ないところから出発します。自分のことも自分で決められないところから出発します。教え込んで、やらせてみなければ出来るようにはならないことは自明でしょう。しつけも教育も、限りなくゼロに近い乳児から出発せざるを得ないのです。だからこそ親は「保護者」と呼ばれるのです。子どもの人生は、何も出来ない、何も分からないところから出発するのです。このような人間観に立てば、教育は基本的に「教え」・「育てる」という「他動詞」になります。子どもには、「為すべきこと」をあるいは教え、あるいは励まし、あるいは強制し、あるいは評価して「体得」させて行くのです。しつけは、生き方を枠にはめ、型にはめ、習慣化するところから始まります。人間はヒト科の動物として出発しているからです。ヒトは最初から人間として登場するのではない、と理解すれば、自ずと指導法が変わります。教育を論じることは畢竟人間を論じることになることに気付かざるを得ないのです。
  子どもの主体性や子どもの理解力を指導の前提にすることは、いかにも判断が「甘く」、時には間違っているのです。『なんど言ったら分かるの!?-なんど言ってもわからないのが子ども』です(*2)、という観察が筆者の見解に近いのです。「半人前」の立ち居振る舞いは、子どもが行為の意味を理解しようとしまいと指導者が反復練習を通して教え込み、植え付けてこそ根付いて行くのです。幼児の言語理解力を前提に指導することなどほとんど不可能なのです。この時、『子どもへの共感に包まれた厳しさ』が大切である、などという表現を見るとその情緒性と曖昧さに呆れます。
  教育論の背景には論者の人間観が反映せざるを得ないということです。それゆえ、筆者も人間の特性をどう捉え,その性情をどう理解しているかを整理する必要があると考えました。特に,幼少年教育や高齢者教育には人間の動物的要素と社会的要素が大きく関係せざるを得ないからです。以下はフォーラム論文の前提となる試論です。

*1  本吉圓子(事例),武藤 隆(解説)、生きる力の基礎を育む保育の実践、萌文書林、2004
*2  汐見稔幸、子育てにとても大切な27のヒント、双葉社、2006、p.27


3  人間は霊長類ヒト科の動物として出発する
 -『クスリやめますか、それとも人間やめますか!?』-

  人間は霊長類ヒト科の動物として社会に登場し,時に不幸にして,霊長類ヒト科の動物として生を終ります。それゆえ,教育の最大の任務は「ヒト科の動物」を人間にし、ひとたび人間になった人々を「ヒト科の動物」に退行させないことです。高齢者について,『時に不幸にして』というのは、極度の認知症や「植物人間」の患者として生きなければならない場合を想定しています。
  かつて麻薬防止のキャンペーンポスターに『クスリやめますか、それとも人間やめますか!?』と書いてあったことを思い出します。麻薬による中毒症状が極限に至れば,「廃人」となり、しつけや教育によって身に付けた「判断力」も,「選択能力」も、「自己制御力」も失うことになります。ポスターはその状況を『人間やめますか!?』と表現したのです。このメッセージを裏返せば,人間の証明は精神の働きだということになります。「判断力」と「選択能力」と「自己制御力」を失えば人間の基幹部分を失うということです。「廃人」とは「人間を廃する」と言う意味ですから,廃人になればすでに「ヒト」であっても,「人間」でないということを意味します。
  こうした考え方を人間の発達過程に置き換えれば,乳幼児にも,極度の認知症患者にも,植物人間と化した患者にも当然人間としての証明力は希薄だということです。それゆえ,乳幼児には全力を上げて、言葉や社会の規範を教えます。しつけや教育による「社会化」の過程がそれです。翻って,高齢者に対してはこれまた,全力をあげて人間の条件を失わないよう,言葉や社会生活のトレーニングを導入して「認知症予防」に取り組みます。かくして,乳幼児は教育によって,ヒト科の動物から人間に成長して行きます。また、高齢者に対しては教育的補強によって,獲得した社会的能力を失って、ヒト科の動物に退行することのないよう教育的予防措置を講じるのです。現象的には,教育に失敗すれば,両者とも社会的な「ききわけ」がなくなります。そこからヒトであっても「いまだ人間になっていない」という思いや,人間でありながら、「人間をやめてしまった」という感覚が産まれるのです。
  乳幼児には近い将来確実に人間として成長する希望があります。しかし、極度の認知症患者には今のところ成長の希望がありません。乳幼児に対する虐待もありますが、相対的に認知症患者に対する虐待が多くなる根源的理由は、ここに存していると考えます。植物人間患者を巡って安楽死の議論が起こるのも同様の理由ではないでしょうか?
  要するに,教育の背景には「ヒト科の動物」を「人間」にする任務と、「人間」を「ヒト科の動物」に退行させないという任務があるのです。人間になるためにも,人間を続けるためにも教育は不可欠の要素です。人間の社会化、人間の発達は自然発生的には起こらないということです。人間は「なる」のではなく、人間に「する」のであるという根拠は、「ヒト科の動物」から出発するという人間観にあるのです。

4  誰も代わりには生きられない
   -「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」-

   教育にとって一番の困難点は人間の「個体性」です。存在の「個体性」とは誰も代わりにも生きられないということです。すなわち、痛みも,悲しみも、喜びも、満足も,誰も他者とは代われない、ということです。存在を分断された個体が喜怒哀楽を共有しあうことはまず不可能です。他者の身になって初めて想像することが可能ですが,問題は「他者の身になる」ことが極端に難しいということです。生来優しい人は稀にいます。そういう人々の「感情移入」の能力は特別の能力です。世界中至る所で人が弾圧されていても、飢え死にしていても私たちは平気で生きているではないですか?人間の個体性を人権学習とか平和学習とか机上の空論で乗り越えることは到底出来ないのです。日本人の知恵はこのことを一言で言い表しました。「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」という言?がそれです。悪くいえば,他者の不幸に対する我々の無関心の原点がここにあります。人権学習や平和学習の流行のまっただ中で子どものいじめもまた大流行しているではないですか!良くいえば,時代や世の中がどんなに不幸に満ちていても人間は無関心でいられるのです。自分が中心で、自分を律することさえ出来れば生きて行けるということです。頭でっかちの教室の学習でいじめられる相手の身になって考えることなどできっこないのです。学校の人間観、戦後教師の人間観が誠に曖昧で、甘いのです。
  言語や知識はある程度まで共有が可能ですが,喜怒哀楽の情や人間の意志を他者と共有することは大変困難です。人生経験の薄い子どもではまず無理と言って過言ではないでしょう。他者の身になって、それぞれの認識や心理的な距離を小さくするためには少なくとも似たような体験を経る以外に方法がないのです。教育における体験が重要なのはそのためです。また,言語や知識はある程度まで共通化し,客観化することが可能ですが,当人の技能や行動や納得は特定の個体が会得することになります。特定の個体が会得したものを,言語だけで別の個体に説明することは極めて困難です。技能につきものの「コツ」一つをとっても、言語による共通化や客観化は困難です。「やってみなければわからない」のはそのためです。ここに「体得」の重要性があります。「身にしみた」という後悔も,「腑に落ちた」と納得することも,「身に付いた」という自信も、脳を通した言語上の理解を超えています。上記の理解は体験を通して心身の機能の全体が理解したということです。「理解」すると言うよりは「体得」すると言った方が正確でしょう。「身体に教える」という言い方や「身をもって知る」という言い方は「体験体得」した、と言い換えていいでしょう。
家庭教育も学校教育も,現状はあまりにも言語に依存した指導に傾いています。特に,幼少年期の教育は実際にやってみて全身全霊で理解させ,しかも分かったことを反復して「体得」にまで高めることが肝心です。教育界が道徳教育から社会科の授業まで,「体験」を重視するようになったのは、ようやく「体得」しない子どもはなにごとも出来ないことを自覚したからです。「命の大切さ」でも,「いじめられる側の身になる」ということも、基本的に言語で教えることは難しいのです。実習を伴わない教育は、教える側も教えられる側も、多大の時間とエネルギーを浪費します。学校が言語に過剰に依存して、「頭でっかち」になったのは「誰も代わりにはいきられない」という人間の個体性を忘れているからです。指導主事の任命条件に病院や消防学校の体験実習を義務づけてはどうでしょうか?少しは「介護」や「汗」の意味を理解し,「発問」や「板書」や教材研究など机上の「指導案」にこだわった小手先の指導が減少するのではないでしょうか?その時初めて,情緒的で、抽象的な美辞麗句に満ちた空疎な学校の研究発表会が修正されるでしょう。

5  欲求の固まり

  人間は欲求の固まりです。自己抑制の教育に失敗すれば,子どもは欲求至上主義になり、共同生活の秩序は崩壊します。どのように分類しようと人間の欲求は無限であり、そのエネルギー源は欲求から発し、しかも資源は有限です。無限の欲求で有限の資源を奪い合えば秩序は直ちに崩壊するでしょう。
  マズローの幸福論は,「生理的欲求または生存の欲求」から始まって,「安全の欲求」,「愛情または帰属の欲求」、「社会的承認の欲求または尊敬の欲求」、最後は「自己実現の欲求」に満たされて行くとしています。マズローは欲求の順序性を指摘して大いに注目されましたが,ここでもまた,幸福の条件がすべて「欲求」を満たすことであることに注目すべきです。人間の幸福は欲求の充足に存するということです。しかし,マズローがどこまで自覚していたかは分かりませんが,人間の欲求の対象は有限です。社会という共同生活の中で,自分だけの欲求を追求すれば,かならずどこかで他者の欲求と衝突します。ホッブスのいわゆる「万人の万人に対する戦い」が始まらざるを得ません。ルールも契約も無秩序な欲求の衝突を避けるために生まれたということを納得せざるを得ません。教育が規範の確立を強調するのはそのためです。
  駅でも、レストランでも、公民館でも、図書館でも、公共の場で、しつけの出来ていない悪ガキの「やりたい放題」の振る舞いは、まさにしつけの出来た犬にも劣ります。「やりたい放題」は「欲求の命ずるまま」という意味です。しつけの出来た犬は己の欲求をコントロールして飼い主の意志を実行しています。悪ガキとは規範が身に付いていない子どものことです。悪ガキの定義は社会が必要とする「欲求の自己抑制」のしつけができていないということです。然るに、しつけや教育の第一任務は「欲求の自己コントロール」を教えることです。端的にいえば,教育機関から刑務所まで最終の達成目標は「ルール」の社会的強制にあります。「欲求のコントロール」こそが秩序を維持する基本だからです。裏返せば,人間は欲求の固まりだということです。
  乳幼児の段階で,言って聞かせても,人並みに欲求の自己抑制が出来ない場合には,保護者や教師のような第3者がコントロールしなければなりません。それゆえ、しつけにも教育にも,叱責、懲罰、強制によるコントロール、説得や奨励による自己抑制力の育成が不可欠なのです。しつけ糸で止めて、「型」を教える,ということは「欲求の自己抑制」力を体得させることと同じ意味なのです。

6  人間性は変わらない

  最後の人間観察の結論は、人間性は変わらない、ということです。藤沢周平の時代小説が現代の我々の生き方に重なって多くの人の感動を呼ぶということは、どの時代も人は同じような喜怒哀楽の中で生きたということを物語っているのです。
上記の3-5の3点は筆者が想定している人間の特性です。人間性と呼んでも同じです。それらの人間性は変わらない、と言うのが第4の特性です。人間性が変わらない以上、教育の原点も変わる筈はないのです。
  昔から人間はヒト科の動物として出発し、その子に関わる多くの人々の社会化の努力がその子を人間にしてきました。昔から人間は「個体」として存在してきました。昔から他者の代わりには生きることは出来ないのです。それゆえ、昔も今も、教育における体験が大事なのは何も変わらないのです。『やったことのないことは身に付かない』ことは昔も今も同じです。それを忘れたのは教育界の油断であり、あほらしさです。
  人間が「欲求の固まり」であったこともまた同じです。したがって、共同生活における「欲求の自制」が重要であることも同じです。個性の時代だからと言って、子どもに「他者の迷惑」を教え、己の欲求を「我慢すること」をしつけない教育などは考えられないのです。「耐性」の重要性を忘れたから、「辛さに耐えて丈夫に育てる」という先人の教訓が分からないのです。半人前の時代の修養や鍛錬の大切さを忘れた現代の親も、現代の学校もなんたるアホでしょうか!!
  人間性が変わらないとすれば、戦前の教育にも、江戸時代の教育にも、さらにその前の時代の教育にも歴史がすくいあげて来た教育の知恵がたくさん残っている筈ではないですか!戦前の教育や子育てを全否定して始まった戦後教育が多くの間違いを含まざるを得なかったのは当然だったのです。戦後教育は日本の風土が培ったたくさんの知恵をぼろを捨てるかのように捨て去ったのです。捨ててはならぬものまで捨て去ったのです。これからの幼児教育論はそれらを拾い集めて,もう一度吟味し直し,子どもの発達段階に沿って,しつけの中身と指導の順序性を確かめて行かねばならないのです。
 

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