しつけの回復、教えることの復権
-幼少年のしつけ原理-「他者」を前提としたしつけー
1 幼少年期の錯覚
(1) 「大きくなればできるようになる」か!?
日本人の幼少年期の子育ての錯覚の第1は、子どもは成長とともにいろいろなことが「出来るようになる」と楽観していることです。確かに、子どもが環境の中から他者を模倣して自得して行くこともあります。「モデリング」と呼ばれる学習の仕組みです。また、教育プログラムや指導のシステムを経由しなくても、本人の体験を通して学んで行くこともあります。試行錯誤と呼ばれる体得の仕組みです。
しかし、生育環境も、行動モデルも、試行錯誤の機会も、その大部分は保護者が子どもの健やかな成長を願って準備するのです。環境は親が子どもに送る最良の贈り物と言われる所以です。子どもが自ら学ぶような環境を整えることが育児の努力であり、子育ての工夫です。幼少期の子どもには環境を作る力も、選ぶ判断力も備わってはいません。モデルを探す時間も、能力もありません。まして、偶発的な試行錯誤に頼って大事な「生きる力」を体得できることは極めて稀なことでしょう。要するに、子どもの発達条件は子ども自身が準備することは極めて難しく、その大部分は保護者が準備するのです。このように考えれば、発達の核心は、子どもが「出来るようになる」ではなくて、「子どもを出来るようにする」、ということになるでしょう。育児の核心は、その子に関わる多くの人々が環境整備と教授と指導を通して辛うじて一人前に「する」のです。
反対に、自分を支援し,指導してくれる人々に恵まれなかった子どもは、当然,発達が損なわれる危険が大きいのです。子どもの成長環境にしつけや教育のプログラムが全く存在しない場合には「ヒト」は人間には成れないのです。「オオカミに育てられた子」をはじめ、社会学上の「人間になれなかった」不幸な子どもの事例を引くまでもなく、適切な社会化の過程を経なければ,ヒト科の動物が人間になるのは極めて難しいのです。「しつけが9割」(*1)という本がありました。なぜ9割なのか,数字の正確さは断言できませんが,人間の基本の大部分はしつけに負っているという趣旨はその通りでしょう。また、「人間になれない子どもたち」(*2)という参考書を読みました。取り上げられた子ども達が現代社会に生きている以上、正確には「人間にすることに失敗した子どもたち」というべきでしょう。
もちろん、「できるようにする」ためにはプログラムが不可欠です。指導者も不可欠です。プログラムが適切であるか、指導過程が有効であるか、の点検も不可欠です。それゆえ、保育所や幼稚園や学校に行くようになっただけで「できるようになる」か「否」かは断定できないのです。教育プログラムが適切でなければ一人前の資質の獲得に失敗するのです。事実,教育プログラムが適切でないために幼少年問題は噴出しています。
政府が教育を再生しなければならない、と考える理由がそこにあります。家庭でも,学校でも,地域でも、適切なプログラム、適切な指導があったか、否かが問われるのです。
そうした問題意識に立てば,、「子どもの居場所」を作っただけで、子どもが成長すると仮定することは大いに危険です。安全と健康の保育をやっていれば子どもに「生きる力」が育つという楽観は錯覚です。しつけを回復するとは適切なプログラムを回復するという意味です。教えることを復権するということは,明確な意志と目標のもとに、教育環境を整え、適切なプログラムを実施するということです。「適切なプログラム」とは生きて行く上で不可欠な「体力」を培い、「耐性」を養い、「学力」を身に付け,「社会性」を体得し,思いやりや優しさに満ちた感受性を発達させることです。そしてこれらの必要課題を「実施する」とは、子どもに「させること」、「おしえること」そして「反復練習をさせること」です。このような教授と指導の努力が欠けた時、あるいは適切でなかった時、子どもは生きる知恵を学ばず、「生きる力」を体得することは難しいのです。教育再生会議の議論が錯綜しているのは、家庭や学校などしつけや教育の第1責任者がその任務の遂行に失敗し、失敗の原因や対処法の分析が錯綜しているからです。体力から学力まで、社会性から思いやりの態度まで、現代の子どもはきちんと身に付けていません。「小1プロブレン」にしても,「学級崩壊」にしても明らかに幼少年教育の失敗です。教育の失敗は、一人前が育っていないということを意味します。それは時に子ども観の偏りであり,教育観の偏りであり,あるいはシステムの失敗であり,プログラムの失敗であり,指導方法の失敗であります。教育を再生しなければならない理由がそこにあります。
* 1 斉藤茂太、しつけが9割、ビジネス社、2006
*2 人間になれない子どもたち、清川輝基、えい出版社、2003
(2) 「言って聞かせれば分かる」か!?
錯覚の第2は多くの人々が「言えば分かる」と思っていることです。なんど言ったら分かるの!という叱り方はその典型です。多くの幼児は多くの場合、言葉で言うだけの指導では分かりません。特に、幼児期は、言葉の意味を十分に分からないこともあれば、分かったことをすぐに忘れてしまうこともあります。己をコントロールする意志力もまだ十分には育っていません。「何度言っても分からない」のが幼少年期だと思うしかないのです。それゆえ、くどいお説教は禁物です。年がら年中怒ったり、嘆いたりするのは最悪です。嘆き節を幾ら子どもに浴びせても、慣れっこになるか、うっとうしくなって反抗するでしょう。言葉に頼って指導しても態度や行為を改善する効果は少ないのです。「やったことのないことはできない」のです。
戦後教育は、人権や子どもの自主性・主体性を過剰に重視して、子どもの理性を"信仰して"「言って聞かせる」指導に終始してきました。結果はどうでしょうか?家庭教育も学校教育も「口」で指導ができると錯覚をしているのです。結果的に,指導に従わず,手に余る子ども達に、年がら年中注意をし,年がら年中文句を言っていることが多いのです。しかし、体力から思いやりの態度まで戦後教育は今や惨めな失敗に直面しています。言語に依存した子育てや幼少年教育の最大の弱点は理屈が先行して,生きた知識・技能が身に付かないことです。口先の指導には指導力がなく、強制力がありません。具体的、体験的に、権威を持って指導することの重要性を忘れているからです。恐い先生や厳しい先生に反応する子どもは言葉に反応しているのではなく、権威や緊張した空気に反応しているのです。恐さや厳しさを伴ったモデル行為に反応しているのです。
いくら注意しても、小言や叱責を重ねても一向に言うことを聞かない子どもが、恐くて厳しい先生が具体的にモデルを示したときは別人のように見事にやってのけます。昨今の教育指導は「説明」が多すぎて、「実践」が少なすぎるのです。
指導者がモデルを示すとはやってみせることであり,やらせてみることです。学力指導でもしつけでも同じです。自分でやってみることは子どもの心身の全感覚を通して認識されます。「体験」や「体得」が重要なのは,子どもが全身全霊で学ぶということです。 もちろん、子どもにとっては、「実践」の初歩ですから、結果がうまく行かなくても、その時すかさず褒めます。ようやく「実践」したわけですから上手にできることは稀でしょう。それゆえ、「よくできました」と、結果的に嘘を言うような褒め方はいけないのです。「豊津寺子屋」では、「すじがいい」とか「見所がある」とか将来への期待を込めて褒める約束をしています。
子どもが当面する課題を本気で身につけさせたいのであれば、子ども自身に「させてみる」しか方法がありません。選択を許さない厳しい雰囲気の中で、必ず具体的なやり方とモデルを示して、結果が悪くても励ましの褒めことばをかけることです。この過程を反復して行けば、子どもの行動様式が習慣化し、子どもは立ち振る舞いを「体得」して行くのです。
2 しつけの視点の転換 - 「当人」のためより「他者のため」 -
(1) カイザーの教訓
我家に2匹のミニチュアピンシャーの飼い犬がいます。親子です。息子の方は全く問題がありませんが、問題は父親のカイザーです。筆者と彼は寝ても、覚めても、散歩の時も、執筆の時も、大の仲好しです。しかし,性格の問題でしょうか,父親のカイザーはめったに他所の人になつきません。時には、毛を逆立てて吠えまくるので、お客様がお出でになった時はほとほと困り果てます。それでも教育学者の犬かとまで言われたことがあります。彼が訪問者に慣れて、受け入れるまでに10分ぐらいかかります。手を変え,品を変えて根気よくしつけをやり続けるしか方法がありません。現在の工夫は、やさしい言葉をかけたり,だっこして安心させたり、処罰したり,拘束したり,訪問者の手から好物を与えてもらったりします。そうした努力の途中で気がついたことがあります。
今回参考にした育児書や幼児教育の参考書の大部分はしつけの目的を子ども自身の成長においています。例えば、「子どもの可能性を伸ばす」(*1)とか、「子どもの危機に立ち向かい、『子どもにとって最前の利益』を保障する」(*2)とか、「親とともに乗り越える問題行動」(*3)というようにしつけの第一目標を子ども自身のためとしているものが多いのです。
しかし、カイザーのしつけは、原理的に本人(?)のためよりはお客様(他者)のためです。「お客様(他者)に迷惑をかけぬように」、「お客様と楽しく過ごせるように」しつけるのです。犬と子どもを一緒にすると、また、おしかりを受けるかもしれませんが、筆者が問うているのは原理の問題です。犬のしつけと子どものしつけとその目的原理に違いがあるでしょうか!?カイザーと同じく、子どものしつけも、第一義的には、「他者」のために行うものではなかったでしょうか?「他者に迷惑をかけない」ことが第一目標であれば、「やるべきこと」も、「やってはならないこと」も明確になります。家庭のしつけが社会を意識することになります。子どもに甘い、いい加減な妥協は許されない筈です。しつけが結果的に、本人のためになり,本人の成長を助けることになることは疑いないとしても、日本の家庭教育(多くの保育所や幼稚園教育にも当てはまるであろうと思われますが・・)は肝心な目的の順位を勘違いしてこなかったでしょうか?
(2) 社会化の意味
-「個」と「全体」のバランスの失墜-
しつけも教育も広く人間の「社会化」とよばれます。社会化は、ヒト科の動物を社会人にして行く過程と考えていいでしょう。社会化と言う以上、その機能は当然社会の存在を前提としています。それゆえ、「社会化」は、共同生活を前提とし,当人のためよりは、むしろ、他者のために行うのです。極論を恐れずに言えば、しつけも教育も共同生活において他者に迷惑をかけないために行う予防措置の一つです。当人に引きつけていえば,社会において他者と気持ちよく暮らすために行うのです。しつけは社会に出て、他人と共同して暮らすための事前準備と言っていいでしょう。
日本は、昭和前期から急速に過激化した軍国主義教育のもとで戦争に突入し、圧倒的に時の政体を優先し、個人を抑圧しました。戦後の60数年はそうした過去への「反動期」が続いて来たと言って過言ではないでしょう。結果的に、憲法は国民主権を第1条に謳い、「人間」の復権、「個人の重視」を最も強調してきました。それが基本的人権の思想であり、人間の尊厳を謳うことだったと思います。人権教育や子どもの権利条約の締結はその具体的行動でした。
しかし、歴史の教訓は教訓として、いつの時代もどこの国でも、「個」に劣らず「全体」が重要であることは何ら変わりません。要はバランスの問題です。戦後教育はそのバランスを失墜して「個」が突出しました。「全体」を配慮することは、あたかも「全体主義」に帰るかのように攻撃され、批判されることもしばしまでした。「ごねどく」から「カラスの勝手でしょう」に至るまで「個」は異常にして過剰に尊重されました。それゆえ、戦後の家庭教育においても、公教育においても、最も欠如しがちだったのは『他者のため』という視点です。公共の場における子どもの不作法を放置・傍観する保護者の存在や社会のあり方がその象徴でしょう。多くのしつけ論が子どもの「個」から出発し、「個」を優先しているということは、社会を前提とせず、他者を前提とせず、個と全体のバランスを前提としていないということを意味します。
その結果、子どもの問題が噴出し続けています。個々の問題について、その都度、様々な対策が打たれましたが、「個」と「全体」のバランスを回復できないのでほとんどの処方は成功してはいないのです。延々と続く審議会や教育再生会議がその証拠です。教育を再生しなければならないという認識の背景には教育は破綻に瀕しているという診断がある筈です。事実、子どもの不作法、非行、いじめなどの反社会性、不登校、家庭内暴力、引き蘢りなどの非社会性はやがて来るであろう「教育公害」を予想させます。
* 1 毎日が楽しくなる子育てのルール、佐藤るり子、エックスナリッジ、2005、P9)
* 2 人間になれない子どもたち、清川輝基、えい出版社、「はじめに」
* 3 親とともに乗り越える問題行動、金子保、小学館、2002、タイトル
3 個人的意味,社会的意味
しつけには個人的な意味と社会的意味があります。音楽に親しむのも,自然に親しむのもしつけの一部ですが,それは基本的に個人的な意味を追求しているのです。しかし,ルールに従い、道徳を尊重して他者に迷惑をかけないことは、社会の要請です。追求すべきことは社会的意味です。「カラスの勝手」でしょう,というわけには行かないのです。他者に著しい迷惑をかける恐れがある時には、しつけも教育も「注意」→「叱責」→「強制」の順序で指導を実行せざるを得ません。幼児が「迷惑行為」、「危険な行為」を止めない時は、当然、同じような厳しい指導のプロセスをたどります。何度注意しても聞かないときは叱責し、なおも聞かないときは罰を与え、最後は危険や迷惑を防止するため、子どもを物理的に強制しなければなりません。「言って聞かせて」、「注意をして」、「叱って」、「処罰して」、「強制する」のです。最終的には,家庭裁判所や少年院の懲罰的的指導まで行きます。少年法の適用基準の相次ぐ引き下げはしつけと教育の失敗の結果でもあるということでしょう。
しつけの崩壊は日本社会が「他者の視点」を失ったことに始まります。幼児の保・教育から義務教育まで、他者に迷惑をかけないための一連のトレーニングのプロセスを最後まで貫徹していないからです。
楽観論を排して,現状を診断すれば,過保護一世が親になった世代の家庭にはもはや「教育力」はありません。「教育力」はプログラムに代表されますが,現代の多くの家庭は,しつけのプログラムも、指導の方法もなっていないのです。国の少年教育のスローガンは「早寝,早起き、朝ご飯」になりました。よくも恥知らずにこのような方針を掲げたものです。しかも,改正教育基本法にわざわざ『家庭の自主性を尊重する』という文言を入れました。立法者は、「子宝の風土」の家庭がわが子の鍛錬に如何に無力で無能かを分かっていないからです。
現代の家庭が総じて子どものしつけに甘いのは,「宝」の保護に傾く「子宝の風土」の特性です。保護者がしつけを最後まで貫徹できないのは、「子宝」のかわいさに勝てないからです。また、しつけの成果が「人様」のためだと思わずに、わが子のためだと思っているからからです。教育関係者はなぜ「子宝の風土」が第3者の「守役」や「ご養育係」を重視し,「子やらい」の伝統を守って来たかを忘れたのでしょう。子宝の風土のしつけや鍛錬は親元を離し,第3者の「守役」が厳しく担当すべきなのです。一週間やそこらの通学合宿では全く不十分であり、上げ膳据え膳の合宿やキャンプではやらない方がましなのです。「子宝の風土」には、守役の意味の再確認が不可欠です。教育行政は誠に不勉強でした。家庭の教育がすでに機能しないのであれば,教育機関こそが家庭に代わって共同生活の基本を守るべきなのです。それが「守役」の任務です。そして現代の「守役」こそ保育所であり,幼稚園であり,学校なのです。
今や現代の「守役」はほとんど機能しなくなりつつあります。保育所から学校まで、現代の守役は児童中心主義を信奉し,法律上の人権主義を教育現場に持ち込み,子どもの権利条約に振り回され,「半人前」を「お子様」にしてしまったのです。私的な権利と欲求が突出した保護者は、結果的に,わが子を「半人前」と認識する代わりに,子宝の風土の「お子様」と認知し、自らの家庭教育の責任と失敗を棚にあげて、多かれ少なかれ「モンスターペアレント」の様相を帯びて来たのです。「個」の権利を優先した戦後社会は「モンスターペアレント」の跋扈に手を貸していることは言うまでもありません。
今や保育所も学校もわがまま勝手な親と対決し,しつけのなっていない子どもにり回される教師受難の時代が来たことを自覚していることでしょう。すべてはしつけと教育の社会的意味を忘れたところから始まっているのです。
しつけは結果的にはその子のためになるのですが、出発点の原理においては、「他者への迷惑行為」の禁止であり、他者との共同生活を円滑に運ぶための条件なのです。
戦後日本の個人や家庭が、世間や全体に振り回されることを止めて、それぞれ個別の人生基準を持ったことは大変良いことでした。しかしながら、「社会」は「個」の存在に先行するという共同生活の原理も、人間は共同生活の中ではじめて「個人」になるという事実も変わってはいません。社会を前提にしなければ「個」は成立する筈がないのです。
家族がどのような基準を持とうとも、社会生活を続ける以上、個人より共同生活が優先することは必然です。道徳や法律の存在はその証明です。しつけの崩壊はしつけが共同生活を成り立たせるためであるという原点を忘れたところから起こりました。個人の生活が共同生活に発し,共同生活が個人生活に優先するということが十分に分かっていないのです。「個」を者会に優先させる傾向こそがしつけの崩壊、規範教育の混乱の原因です。個人を重視する考え方が行き過ぎたということはその前提となる共同生活の意義を忘れたということです。
4 しつけの回復、教えることの復権
(1) 「強制」・「調教」語感への反発
しつけは、特に幼児期のしつけは、生活態度と生活技術の習慣化です。「三つ子の魂百まで」というのは心身のあらゆる機能が最も柔軟で、白紙の時期こそ最も生き方の基本の習慣化に適しているからです。習慣化の方法は反復と練習がカギになることはいうまでもありません。
多くの参考書が「しつけ」と「押しつけ」は異なるとか、しつけは「調教」ではない、とか言っていますが,最終的に両者がどう違うのかは明快な説明がありません。子どもが進んでするようにしむけるのが上手なしつけで,命令と強制でやらせざるを得ない場合が下手なしつけで「押しつけ」だというのであれば分かります。また,動物を訓練するように基本的には「アメとムチ」で強制的に習慣付けをするのが「調教」であると言うのであれば分かります。しかし、不器用で,へたで、強制を含んでいたとしても「調教」も「押しつけ」もまた「しつけ」なのです。しつけの核心は共同生活を優先させ,「他者に迷惑をかけない」ための「習慣化」です。習慣化は原理的に本人の意志や主体性に関わりなく共同生活の「型」の体得させることです。「型」の本質は「型にはめる」わけですからその原理は強制です。子どもの意志や感情を配慮することは大事ですが,共同生活の「型」の体得させることはさらに重要です。強制や調教の語感に単純に反発し,主体性や自主性の美辞麗句に振り回される教育論は本質を見ないで,言葉を飾りすぎているのです。
(2) 原点は「強制」
誤解を恐れずに言えば、しつけの原点は強制です。和裁の「型」が崩れないように、しつけ糸で止めてしまう発想です。もちろん、脅迫や強制をしないでしつけや教育が出来るに越したことはありません。しかし、言って聞かせただけで効果がない場合はどうすればいいのでしょうか?むやみやたらにものを壊したり,ところ構わず排泄をしたら、子どもの尻の一つぐらいは叩くでしょう。音楽会で叫びだしたら,外に連れ出すでしょう。これらの制止行為はあきらかに強制の一種です。
しつけを始める前、子どもの欲求は基本的に野放しです。人間は欲求の固まりだからです。乳幼児は、食べたい時に食べたいと主張し、不快な時は泣き叫び、眠い時には時とところを選ばず眠ります。しつけが欲求のコントロールから始まるのは自明です。したがって、しつけの最終目標は子ども自身による欲求の抑制です。換言すれば、欲求の自制とは衣服の着脱からトイレットトレーニングまで、食事の仕方から言葉の使い方まで、保護者の指示に従うことです。学ぶことは山のようにあります。我慢しなければならないことも山のようにあります。子どもが自己の欲求を自己制御することを体得するまでには一筋縄で行かないことは明らかです。しつけの基本はやりたいことでもやらないで我慢し、やりたくないことでも役割や責任はがんばってやり遂げることです。それゆえ、しつけは多くの時点で子どもの欲求に反するのです。欲求に反するとは子どもの主体性や自主性に敵対すると言う意味です。当然,子どもは自分のやりたいことを主張するでしょう。幼少年期に「言って聞かせる」だけでしつけができないのは当然なのです。戦後教育が信奉した児童中心主義は子どもの自主性・主体性を信じて、しつけ糸で止めるような強制はするべきではないと主張してきました。児童中心主義は現実の少年問題の激増をなんと説明するのでしょうか?現代は,既に、親の世代が過保護と放任の環境で育てられた世代です。その子どもたちが学童期に入ったのです。育児と教育,家庭と学校の混乱はその結果です。児童中心主義の指導論が唱えるように、しつけも教育も「教え込む」のではありません、子どもが「気づく」のを待つのです、というようには簡単に行かないのです。しつけの回復とは、本質的に「教え込み」と「強制」の回復です。言って聞かせても分からないものをそれ以外にどう教育するのですか?しつけの対象は「半人前」のヒト科の動物です。民主主義時代の人間尊重や個人の権利に幻惑されて、しつけや教育の言葉を飾っては行けないのです。しつけの出来ていない子どもはやがて他者の人権を侵害し、他者の尊厳を侵す危険性が高いのです。
しつけの不履行、規範教育の不十分は全体の共同生活に対する反社会的行為なのです。
5 「生きる力」の基本要素
幼児教育の中心は「生きる力」の基本要素を確立することです。彼らは未だ人間とヒト科の動物の間にいます。人間と動物に共通の生きる条件は体力です。体力は我慢する力と一緒になって「行動耐性」になります。人間の意志を実行・実践に移す力が「行動耐性」です。健康に留意し、潜在的な心身の機能を鍛えて体力を鍛えることは最初の条件です。自分のことは自分で出来るように生活習慣を確立すること、危険を回避すること、冒険を試行すること、仲間と存分に遊ぶことが幼児のしつけです。子どもは放任すればこれらの課題は実現できません。しつけの原点は「させる」ことです。「させる」は他動詞です。したがって、主体は保護者であり、指導者です。上手に「させる」ことは、子どもが自分で進んでするようにしむけることです。しかし、いつもうまく行くとは限りません。いろいろ手を尽くしても、子どもが進んでしない場合は強制してでもさせることです。しつけの原点を外さない限り子どもは保護者に従い、指導者に従うでしょう。しつけの回復とはまずこの「原点」を確認することです。
「生きる力」とその順序性は下図の通りです。トレーニングは下から上への順序で実施します。トレーニングの順序性は住宅の建設の順序性に似ています。基礎を固めて,土台を置いて,次に柱を立てるという順序です。体力は基礎工事,耐性は土台,学力は柱という比喩が成り立ちます。
「生きる力」の構造と順序性
6 「教えること」の復権
教えることの意味を問い、教えることを復権することは、子どもの自主性や主体性に対する幻想や信仰を捨てることです。疑いなく日本の子どもは「子宝」ですが、同時に、疑いなく「半人前」でもあるのです。子宝と半人前のバランスが取れれば、子宝の保護と半人前のトレーニングのバランスが取れます。一方で子どもを宝物のように大事に大事に取り扱い、他方で半人前は厳しく仕込まなければなりません。保護するだけでは決して一人前には育たないのです。宝物を守る役は保護者です。半人前を仕込むのは教育プログラムの指導者です。それゆえ、伝統的に指導者は「守役」と呼ばれたのです。「守役」は常に尊敬され、別格の社会的地位を与えられてきました。「守役」は保護者に代わって子どものいやがることでも強制を原点として指導しなければなりません。「師」と呼ばれ,「先生」と呼ばれ,特別の存在としたのは未熟な子どもと言えども『尊敬されないもの』に従うことは困難だからです。別格の社会的地位は,尊敬と引き換えに「子宝」の未来を切り開く困難な仕事を託されているのです。
保護者に見下され,子どもに甘く見られた現代の教職が与えられた任務を全うできないのは当然の結果なのです。
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