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しつけを不能にし、教育を崩壊させる「子ども観」
平成19年7月21日(土)
三浦清一郎
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しつけを不能にし、教育を崩壊させる「子ども観」 (教育公害を助長する「論理」と「実践」- その3) 筆者は今、学校の先生方が書いた本、先生方を取材して書かれた本などを中心に読んでいます。そこからおぼろげながら見えて来たものがあります。しつけや教育の困難の主要な原因は「子ども観」にあり、教育場面における「子どもの地位」にあります。 「君は独立の人格を持ち、主体的に行動する対等な人間なのだ」というメッセージを与えておいて、次に、一方的な「指示」や「命令」を与えれば、先生は「嘘つき」だということになるでしょう。言葉がつかえるようになった子どもは、先生方の「いうこと」と「やること」は矛盾しているとも言うでしょう。教育の混乱原因の一つは「対等」に扱ってはならない子どもを「対等」な地位に置いたことから始っているのです。当然家庭におけるしつけが成り立たなくなったのも同じ理由です。子どもを親と対等の地位においたこと、あるいは親より「えらい」、「王子様・王女様」の地位に置いたことが原因です。日常生活において未熟な子どもを「王子様・王女様」として待遇を継続することはどこの家庭でもできないからです。 1 「指導をするもの」と「指導を受けるもの」は「対等」でいいでしょうか? 成人教育では「指導をするもの」と「指導を受けるもの」は「対等」でいいのです。指導を受ける側もまた、指導する側と同じく、それぞれの人生で自立して飯を食って来た市民であり、それぞれの生活領域で「一人前」の大人だからです。成人の指導と幼少年教育の最大の違いがここにあります。それゆえ、成人教育の場合は、師弟が「対等」で、お互いの立場に敬意を払わないと生涯学習の支援が支援にならない場合が多いのです。しかし、幼児のしつけや児童の教育は全く事情が異なります。幼少年教育においては「指導を受けるもの」は未だ「自立」していません。世間的には「半人前」と呼ばれ、基本的生活習慣も,社会規範も、共同生活の態度や技術もトレーニングの途上にあります。心身の発達はまだ道半ばなのです。 戦後日本の教育はこの一点を忘れ,法律上の子どもの人権や欧米型の子どもの「主体性」論議に目を奪われました。欧米が子どもの人権やその「主体性」に注目するのは,欧米文化が十分に子どもの人権や「主体性」を認めてこなかったからです。欧米は「大人中心の文化」であり,我が国は「子ども中心」の「子宝の文化」です。教育に限らず,「思想」は現実に「欠如しているもの」を補い,「過剰に存在しているもの」を抑制します。「あるべきもの」は「ないもの」で,「あってはならぬもの」は「あるもの」だからです。 それゆえ、欧米諸国のような、子どもを抑圧しがちな文化は,その教育思想において子どもの「権利」や「主体性」を重要視し,逆に,日本の「子宝の文化」は子どもの保護が過剰になりやすいので,教育界が彼らの「欲求」や「わがまま」を抑制する厳しい自立のトレーニングを強調してきたのです。敗戦後の教育改革の中で「子宝の風土」に,欧米型の「児童中心主義教育思想」を導入したことがそもそもの間違いだったのです。「子宝の風土」は子どもが中心です。それゆえ、教育は教師が中心でなければならなかったのです。「子宝の風土」に「児童中心主義」を重ねれば、子どもの「欲求」や「主張」が過剰に「受容」され、幼少年教育における「指導する者」と「指導を受ける者」の関係のバランスが崩れることは必然だったのです。 結論は,「指導をするもの」と「指導を受けるもの」は「対等」であってはならないのです。まして、「指導を受ける」立場の子どもの「欲求」や「権利」や「主体性」を教師や親の権威の上においてはならなかったのです。 近年の先生方の著述/述懐を吟味すれば,「子どもと教師は対等であるべきである」という論理が浮かび上がってきます。先生方の多くは、この「師弟対等」の論理こそが幼少年の教育やしつけを崩壊させていることにいまだ明確には気づいていないのです。教育界が、「子ども」と「指導者」は「対等である」という論理に立てば、一般世間の「子宝の風土」の実態は,「子ども」の方が「指導者」よりも上であるということになりかねません。多くの教師が子どもの機嫌を取り,保護者の「注文」や「意見」に気兼ねし,彼らの「抗議」を恐れるようになったのは、「師弟対等」の論理が、実際には「対等の限界」を超えてしまったからです。まだ、「自分のことが十分にできない」幼少年に「師弟対等」の論理が適用できる筈はなく、まして子どもや保護者の機嫌や要望を振り回されて教育が出来る筈はありません。 幼少年教育は成人教育とは原理的に異なっているのです。子どもは社会的にも、経済的にも、心身の発達上もいまだ「自立」していず、到底「一人前」の市民ではありません。古来、日本人が子どもを「半人前」と呼んで来たのは誠に正しいのです。「半人前」は心身を鍛えるところから始めなければなりません。まず体力や我慢強さなど「社会的生き物」の基本から教えなければなりません。教えるタイミングも教え方も、本人が好むと好まざるとに関わらず、社会の付託を受けた教師が決めなければなりません。社会生活や共同生活の態度と考え方と技術も教えなければなりません。これまた、本人が好むと好まざるとに関わらず、ほぼ半強制的にトレーニングしなければなりません。子どもの安全を願い、危険を回避する為には、時に、子どもに禁止を「強制」し、それでも従わない場合には「罰」も与えなければなりません。幼少年教育の基本は説得と強制です。子どもの日常には彼らが「やりたくても」「やらせてはならない」ことは多いのです。子どもが「やりたくなくても」、叱ったり、励ましたりして「やらせなければならない」ことも多いのです。 子どもにはこの世には彼らの思ったようにはならない不条理があることを教えなければなりません。人それぞれに能力や考え方の違いがあることも分からせなければなりません。人生には勝ち負けがあることも、人の世は必ずしもフェアーではないことも、嫌々ながらも従わなければならないことがあることも、教えなければなりません。このように、人の世には、時に,子どもの願いや思いに反する事実があることを教えるためには、子どもの意志や欲求を「全面」尊重し、「過剰」に受容してはならないのです。彼らに「この世は思い通りになる」と思わせては行けないのです。事実、「この世は思い通りにはならない」のです。教育においては、子どもに無理を言わないことも、子どもを傷つけないことも不可能です。教育は原理的に「強制」を含み,「抑圧」を含むのです。ルールは罰を伴って,強制し、不可欠な知識は教え込み、必修の技術は型として"叩き込む"場合も多いのです。社会規範を教えようとする以上、教育は子どもの欲求を抑圧し、教師はその執行者です。保護者も同様です。「ダメなもの」は「ダメ」だからです。教師も保護者も,原理的に、「強制者」となり、「抑圧者」となる以上、子どもと「対等」になってはならないのです。子どもとの「仲好し」も一定の条件の下でしか実現してはならないのです。強制するものは「上位」にいなければ「強制」機能そのものが十分に働きません。「対等」の者から命令や強制を受ければ、子どもも深く傷つきます。それゆえ、教育上の禁止や強制に甘んじなければならない者は「下位」におくべきです。子どもを対等に遇したり、彼らの興味・関心、意志、欲求、主体性、自主性、個性などを教師の権限や権威の上においてはならないのです。それゆえ、教師は子どもに「対等」や「仲好し」のそぶりを見せたり、法律上の人権思想の建前で子どもの「主体」を「尊重する」振りをしてはならないのです。子どもの「理解者」を演じ、「友達」である振りをしてはならないのです。当然、「半人前」を過大評価して、個性の尊重とか、創造性を育てるというきれいごとに振り回されてはならないのです。要は、「半人前」を「一人前」に処遇してはならないのです。学校は自立した人間の活動場所ではないのです。自立した人間を「作る」場所なのです。換言すれば,「霊長類ヒト科」の動物を人間に育てる「社会化」の場所なのです。子どもの「自立」性はいかなる名目にせよ教育の前提にしてはならないのです。子どもがすでに「自立」しているのであれば、そもそも幼少年教育は不要なのです。 2 「対等」を認めればやがて子どもを「裏切る」ことになりませんか? 親のしつけも、学校の指導も、教育という営みは子どもの意志に反して、無理を通すことを避けることは原理的に出来ません。子どもの為を思えばこそ、共同生活や集団生活により良く適応する為、ルールは強制し、知識は教え込み、不可欠な技術は「生きる型」として半強制的に"叩き込む"ことが重要なのです。子どもの「自由」は指導の「枠」の中だけで認めるべきです。社会生活の基礎・基本が身に付けば、やがて子どもの自由は大人に近づいて拡大します。幼少年期に厳しくしつけて、思春期に入る中学・高校時代には抑制の手綱を緩めて彼らの主体性を認めることが理想的なのです。 もちろん,幼少年教育においても,子どもを必要以上に,「抑圧」し、あるいは「強制」して,彼らを萎縮させることは反教育的であることは言うまでもありません。それゆえ、最も適した「時期」に最も摩擦を起こさない方法で社会規範を教えようとすれば、教育の「適時性(Teachable Moment)」が重要になります。それが子ども時代であり、一つから九つまでの「つの付く」幼少年期です。一番大事なのは「三つ子の魂百まで」の「三つ子」の時代であることを日本人の子育て体験の歴史が語っているのです。親や指導者がどのように工夫しても、原理的に、しつけも、教育も、時に、子どもの欲求を抑圧し、子どもに社会の生き方を強制せざるを得ないのです。親も、教師も強制の執行者であり、処罰の実行者なのです。結果的とは言え、しつけや教育の過程で、子どもの思いを傷つけないことは不可能なのです。それゆえ、子どもの心身が最も柔軟で、白紙に近い幼少年期が「社会化」に最も適した季節であることを理解することはそれほど困難ではないでしょう。 幼少年期は自立にほど遠い子どもが保護者にも、学校にも依存して生きることは当然です。それゆえ、保護者も、教師も、「先」に「生まれた」「先生」として、自然に子どもの「上位」に居るのです 教育が「強制」を含む以上、幼少年期の親や教師が「先生」として、自然的・社会的に子どもの「上位」に居るということは、「社会化」を基本とする教育時期の絶好の条件なのです。幼少年期の教育においては、指導者は子どもと「対等」になってはならないのです。強制するものが「上位」になければ、「強制力」を失います。強制に甘んじるものを「下位」におかなければ、指導者と指導を受けるものとの摩擦は拡大します。子どもが傷つくことも多くなるのです。しつけや教育の成果を大切に思うのであれば、子どもを対等に遇したり、彼らの興味・関心、意志、欲求、主体性、自主性、個性などを親や教師の権威の上においてはならないのです。子どもを「対等」の位置におけば必ずその「対等性」を裏切ることになります。物心がついてくれば、子どもは、先生の「言うこと」と「やること」は時と場合で違うことを見抜くでしょう。対等を認めておいて一方的に強制することは矛盾です。自由を認めておいて、突然、禁止・抑制することは裏切りです。子どもは反抗と怒りをもって応えることになるでしょう。"お母さんは勝手だ"と言うでしょう。裏切られた子どもはやがて様々な反抗や反乱を起こすでしょう。家庭内暴力も、教師への反抗も、学級崩壊もその反乱の一種なのです。 それゆえ、幼少年期には、最初から、「半人前」の意志は「半分だけ認める」ことが原則です。「自分たちの希望は半分しか通らない」ということを子どもが分かっていれば、指導の困難は半減する筈です。指導する教師や保護者が、自らの言動の矛盾によって、子どもを裏ぎらなければならない場面も減ります。戦後教育の最大の間違いは、子どもが一番の「価値」であるとする「子宝の風土」の「子ども観」を無条件に教育場面に持ち込んだことです。その元凶が「児童中心主義」と呼ばれる欧米の教育思想でした。 日本では子どもを第1の「価値」とする「子宝」発想と子どもはいまだ「半人前」である、という現実認識のバランスを取ってきました。それは教育界の体験から生まれた知恵です。「子どもは何よりも価値がある」という思想を、「それでも半人前なのだ」という「抑止力」の認識なしに教育場面に持ち込めば子どもの欲求は野放しになります。同じように、法律上の子どもの人権を、子どもの「主体性」、「自主性」、「興味・関心」、「個性・創造性」などの教育用語に置き換えて教室に持ち込めば、「わがまま」と「勝手」が増殖して教室はたちどころに無秩序になることでしょう。子どもはいまだ「ヒト科の動物」を引きずっているのです。法律上の権利関係における「子どもと大人の関係」と教育の中の「子どもと指導者の関係」は全く異なるのです。教室では、彼らの興味・関心、意志、欲求、主体性、自主性、個性などをあたかも成人と同じように、独立した人格として遇してはならないのです。まして、子どもの自立を前提とするような教育上の非常識を保護者が信じて、学校や教師に注文や要求を突きつけるということは教育の「自殺行為」以外の何ものでもないのです。 3 「教えること」より「構えを作ること」 「教師力」などというレポートが出版され、教師の力量が色々問われています。しかし、最大の問題は「教えること」より子どもを「勉強する気にさせること」です。教育は「産婆術」とはよく言ったものです。子どもを産めるのは女性であるように、知識、態度、技術を学ぶのは子どもだからです。先生が多少へたくそでも子どもに学ぶ意欲と姿勢があれば授業は大丈夫なのです。「なぜ学校へ行くのか?」という「問い」に子どもが「勉強を教えてもらうためです」と答えていれば、教育の問題の大半は解決します。ところが子どもが「勉強を教えてもらう」目的を有していない場合には、先生が上手に教えなければ教育は成立しません。現代の学校教育の課題は子どもの学習の「構え」にあるのです。 子どもの「構え」を放置しておいて、「教えること」に囚われれば、子ども教室の運営は何倍ものエネルギーと技術を必要とします。言い換えれば、子どもの「学習の構え」が出来ていないから「教える技術」に拘らざるを得ないのです。「名人先生」だけが授業ができるという現代の学校は異常です。 学校の最大の課題は、多くの子ども達が「先生に教えてもらう」という気持ちになっていないのです。子どもが意識しているか、否かは別として、彼らは「やりたいことをやりたいようにやらせて!」と主張しているのです。その主張が認められない時には、教師に反抗し、教室の秩序を無視するのです。子どもが学ぶ気になっていなければ、普通の先生ではクラスを掌握することは難しいでしょう。指導主事の先生方は子どもへの教師の「発問」とか、指導を計画的に進めるための「指導案」とかに拘りますが、授業の秘訣は「教育技術」ではありません。授業成功の最大の秘訣は子どもと教師の社会的地位の違いを明らかにし、心理的距離を開けることです。その上で、子どもに、「学校とは勉強を教えてもらうところだ」という感性と認識を徹底させることです。それゆえ、現代教育の変革は個々の教師の努力だけでは達成できないのです。個々の教室はもとより学校全体、地方の教育委員会から文部科学省まで、「指導者が上」で「先生の方がえらい」と師弟の位置関係を決めて、国民全部に周知しなければなりません。 単純に、師弟関係が上下関係で、教師の方が児童より「えらい」ということが徹底されていれば、大抵の授業は成り立ちます。師弟の心理的距離があるということは子どもが教師に対して、尊敬や憧れや畏怖を抱く、ということです。かつて、日本の教育において、先生が遠い存在であったのも、怖い存在であったのも師弟に心理的距離があったからです。先生が畏怖の対象であれば、その存在は「社会的規範」を代表します。時には、「自分もあのようになりたい」とか「あのようにやりたい」と思うこともあるでしょう。そのためにこそ授業を開始するときの教師へのあいさつや礼節、授業に対するクラスの緊張感やそのための儀式や作法が大事なのです。 心理的距離が開けば、「教えるもの」と「指導を受けるもの」の身分の「差」がはっきりします。授業を成り立たせるものは決して世間が言う「教師力」ではありません。授業を成り立たせるものは師弟の心理的距離です。具体的には、「先生の方が偉い」ということを子どもと保護者に徹底することです。それゆえ、学級崩壊の処方は、教室に「師弟の平等主義」や「教師と児童の間の民主主義」を持ち込まないことが基本です。だから「児童中心主義」は有害なのです。法律上の「人権思想」を教育・指導場面へ持ち込むことはさらに危険なのです。 人を育てる以上、愛情も慈しみも当然必要ですが、「幼少年教育」の原点は子どもを「ヒト科の動物」から「人間」にする過程です。「ヒト科の動物」のままでは共同生活はできないからです。人間に「する」は、「変える」と言った方が正確かもしれません。「変える」ためには現状を否定し、目標を設定し、変革の為の「中身」と「方法」が必ず問われるからです。「出来ないこと」は「出来るように」しなければなりません。「分からないこと」は「教え込まなければ」なりません。練習が足りなければ、「出来るように」も、「分かるように」もなりません。幼少年教育における「教えるもの」の任務と役割は子どもの個人差や子どもの欲求に関わりなく、「一人前」の「社会人」を育てることです。それは社会との契約であり,職業上の約束です。それゆえ、子どもと仲良く遊んだり、子どもの機嫌を取ることに時間やエネルギーを費やして、自らの任務と役割を達成する意志のないものは教師にふさわしくないのです。家庭教育がめちゃくちゃであっても,親は親であり続け,親を辞めさせることはできませんが、学校は社会から任命された「人間育成・社会人育成」の「請負人」です。教育行政も学校も人間育成・社会人育成の務めを果たせないときはこれまでの考え方を徹底的に見直してみることが重要なのです。 筆者の提案は簡単です。先人達がやって来たように、教師・指導者に子どもよりは上位の身分を与え,子どもに尊敬の作法を教え、学校の日常に教師に対する敬意と憧れの儀式を取り戻すことです。「仰げば尊し」はその「象徴」だったことでしょう。もとより,すべての,作法儀式は社会がこしらえた「擬制」であり、生身の先生がすべて尊敬や憧れに値するという意味でないことは言うまでもありません。 4 「お子様」は「他者」の子 幼少年期の子どもの一番重要な特性は、いまだ「ヒト科の動物」だということです。教育の一番重要な任務は彼らを「人間」にすることです。幼稚園や保育所はもとより、特に小学校は子どもを「個人」として考えたり、独立の人格として処遇してはなりません。「個人」も「独立の人格」も、一度相手をそのように遇すれば,彼らの立場は先生方と対等になります。「対等の立場」にある人間が相手を指図したり、強制したり,その欲求や願いを無視することは出来ません。ところが「指図」も「強制」も、時に子どもの「欲求を無視して」授業を進めることも教育の仕事なのです。相手は当然いやがるでしょう。先生は子どもより「えらい」のだという社会の約束は、子どもを「指図」や「強制」の屈辱から守るための配慮です。それでなくても「子宝の風土」において、子どもは元々「宝」の価値があり、「お子様」と称されるように「えらい」のです。子どもは宝であり、生活の中心であり,英語にも,ドイツ語にも翻訳のしようのない特別待遇の「お子様」なのです。しかし、「宝」は「潜在的な宝」であり、「お子様」はあくまでも「他者の子」です。「我が子」を「お子様」とすれば、しつけは成り立ちません。家庭の教育力が崩壊したのは、「潜在的な宝」を真の「宝」になるよう日々磨くことを忘れ、「お子様」として過保護と甘やかしを続けて来たからです。学校も同じ間違いの轍を踏みました。戦後の教育は「風土」の特性を忘れて、学校の中心に子どもを据えました。それが「児童中心主義」です。学校の子どもを、法律上の権利や人権思想の建前に翻弄されて、「教師」と対等に扱えば教師の指導は決して子どもには届かないでしょう。子どもに「宝」や「お子様」の位置づけを与えた上で、親や教師の「指図」や「強制」を与えれば子どもが反抗するのは当たり前なのです。子どもを社会人にする教育的役割を請け負った以上、学校が権威を持ち、強制力を持ち、親と子に教育上の指示を出すのは当然なのです。 一方、日本型教育の教訓と伝統を忘れ捨てた世間は、世の親を変えてしまいました。世間の抑止力から自由になった親が、「我が子」を「お子様」と勘違いして、いまだ潜在的「子宝」に過ぎない子どもの言いなりになれば、「家庭教育」が破綻するのは当たり前なのです。 「早寝早起き朝ご飯」のようななんとも恥ずかしい運動スローガンがまかり通るのは「子宝の風土」の親が先人の知恵を忘れ、社会への義務を放棄して、むき出しの「我が子主義」・「お子様主義」を信奉しているからです。結果的に、親は一人前の社会人になりきれない「親不孝もの」の「挫折」によって不幸のどん底に叩き込まれることになるのです。「潜在的子宝」は教育によってその心身を磨き上げない限り「親不幸もの」に転落することは当たり前です。少子化が止まるわけはないではないですか!!先人の教訓、世間の知恵を借りて、たとえ「子宝の風土」であっても、親は、子どもよりは「えらい」のだという身分差の「擬制」を打ち立てない限り、家庭は耐性のしつけも、共同の教えもできません。幼少年期に基本のしつけができなければ、思春期の子どものコントロールはほとんど不可能になることでしょう。かくして、家庭教育はますます破綻するのです。 5 子どもの機嫌をとったら教育は崩壊します 教育の基本機能は「なる」ではなく「する」です。もちろん、子ども自身の自得によって、「なる」(「自動詞」)を含みますが,その大部分は関係者の「する」(他動詞)と言う「枠」の中の「なる」です。子どもの成長は自然発生的ではないということです。山の木々がいつのまにか大きくなったりするのとは訳が違うのです。子どもはいい若い衆に「なったり」,いい娘に「なる」のではありません。その子の関係者が全力を挙げて「いい若い衆」や「いい娘」に「する」のです。それゆえ、「する」ための「中身」と「方法」の吟味は重要です。 幼少年期の教育に「物わかりのいいこと」は往々にして有害です。幼少年期の教育の本質は「物わかりの悪いこと」だからです。子どもの「欲求」に「たが」をはめることだからです。子どもが何を言おうと、「悪いこと」は「悪い」のです。「譲ってはならないこと」は「譲ってはならない」のです。教師や親が子どもの機嫌を取る姿勢や、理解しようとする態度が日常化すると、子どもは自分の欲求が通って当たり前と考えるようになります。自分の欲求が通らないのは相手が悪いのであり、相手が自分を愛していないのだ、と思うようになります。子どもが教師や親の奉仕に慣れ、「ちやほや」されて当たり前ということになれば、時に、彼らの自尊感情が極端に走ります。社会のルールや道徳の「壁」にぶち当たって、親や教師が子どもの行動を禁止したり、強制するとき、既に心身共に「お子様」に成り果てた子どもにとって、自分の欲求を否定したり、拒否するものは、「敵対的な存在」になるのです。子どもの欲求を独走させれば、欲求を否定するものは「敵」になります。それが親であれば、親は「自分を愛していない」という解釈になるのです。教師であれば、自分を否定し、自分を理解しようとしないということになるのです。不登校も、引き蘢りも直接的原因は、「欲求不満耐性」の欠如ですが、間接的原因は、自分と他者が「対等」で、教師や親と同じように「えらい」と思っている子どもの挫折です。「我慢する能力」が備わっていないことと「我慢しなければならないと思っていないこと」は裏表です。幼い頃から欲求を野放しにされた子どもの挫折には両者が同時に作用しているのです。 思ったようになる筈のない世の中で、思ったようになる筈だと思い込まされて、実際は、思ったようにならないことに当面して怒り、傷ついているのです。不適応は「半人前」の自己中心的な「反抗」と「傷ついた自尊感情」の現れでしょう。子どもは「宝」だと慈しんで来た「風土」は、いったいどこで間違えたのでしょうか?子どもは疑いなく日本社会の「宝」ですが、「半人前」であることもまた明らかな事実です。「半人前」は「半人前」の世界に押し込めておけば、世間の仕打ちや教育の強制や教師の否定に傷つかずに済んだ筈です。先人の知恵は「宝」の価値と「半人前」の限界を同時に理解していたのです。「宝」であるからこそ、決して、「半人前」を「一人前」に扱ってはならないのです。 「一人で大きくなったような口をきくな!」「誰のおかげでメシが食えると思っているのか!」これらは一昔もふた昔も前の、今や時代遅れの台詞ですが、決して間違ってはいないのです。子どもにはまだ「独立」・「一人前」の資格がないことを常に思い出させることが必要です。教師や親が子どもより「えらい」のは当たり前なのです。幼少年教育は子どもの機嫌を取り始めたとたんに崩壊するのです。 6 「社会人」を育てるには、個性より「型」、創造性より共通の「規範」が必要です 幼少年教育の原則は表記の表題に尽きます。子どもの個性より生活の基本を「型」として学ぶことが先です。子どもの創造性より他人に迷惑をかけない共通の規範を身につけることが先です。その指導者が親であり、教師・指導者だった筈ですが、物わかりのいい格好をしたがった教育者と法律上の子どもの人権を教育に持ち込んだ「人権主義者」が重大な間違いを犯したのです。 一方で、子どもを管理・抑圧・社会への適応を強制しておきながら、他方で、子どもを尊重したり、子どもに共感したりすることは出来ません。 したがって、第1に、子どもが将来必ず必要不可欠になることはかならず「やらせておかなければならない」のです。「やったことのないことはできない」というのが教育の第1原則だからです。それゆえ、「強制」の原理を欠落した育児も、教育も失格と言わなければなりません。親や教師に「強制」をためらわせる教育論は「子どもはのびのびと」の発想であり、子どもの「主体性」、「自主性」を第一順位に置き、子どもの「やる気」、子どもの「興味・関心」を中心とした指導法なのです。この種の発想の問題は、子どもに「のびのびさせておいて」、「自分からやらなかったとき」の準備ができていないのです。突然強制すれば、「のびのび」にも、「主体性」にも明らかな裏切りになるではないですか! 第2は、「教えてもらわなければ分からない」というのが人間です。まして経験未熟な「半人前」の子どもはそうでしょう。したがって、子どもにその気があろうとなかろうと、教えるべきことはきちんと教えるのが指導者の使命です。家庭では日々生活をともにしている保護者が子どもの個別事情をある程度は考慮することが出来るでしょうが、学校ではそうは行きません。学校は集団生活、共同生活を基本としているからです。学校で、「個人教授」や「個性」教育を徹底しようとすれば必ず集団や全体のルールと矛盾することが起きます。絶対に時間が足りないではないですか!教室では、一人一人の個性や個人的事情を生かし切ることは原理的に出来ないのです。それゆえ、一人一人に合った指導が出来るかのような「幻想」を振りまいてはならないのです。まして、他の子ども達が存在する中で、普通の教師に個別指導や一人一人に合った授業など出来る筈はありません。仮にそうした授業をやろうとしたら、その間、教師の指導が受けられないほかの児童はどうしているのでしょうか?学校は原則として個別事情に振り回されてはならないのです。授業はきちんと一斉授業をすることが基本です。掃除もさぼったりする子どもがでないように必ず教師がついて一斉清掃を最後まできちんと果たさせることが大事です。 第3は一斉指導から遅れた子どもの補習・援助が大事です。練習が足りなければ上手になることはありません。昔は宿題一つ忘れてもよく残されました。先生は教室で別の仕事をしておられましたが、子どもは解けなかった問題を解き、練習の足りないドリルのノルマを果たし、昨日やり残した宿題も先生に見てもらってから帰宅が許されました。習い事があったり、物騒な世の中に対処する集団下校など面倒な問題はありますが、「学童保育」と協力すれば、決して出来ないことではないのです。「『学童保育』は福祉の管轄だから学校とは関係ない」。「教室も貸せない」、「協力もしない」、などという従来の学校教育発想はなんと愚かだったことでしょうか!! 多くの勉強は基礎から積み上げて行くものです。分からないままに放置すれば、次からますますわからなくなるのは自明です。理解と体得は大体が練習の量に比例するのです。 7 朝日新聞の「先生へとへと」論 -「子どものため」の視点と「社会のため」の視点へ- 朝日新聞が「先生へとへと」論を特集しました(2007.6.3朝刊)。調査の結果、教員の労働時間は、毎日ほぼ11時間にも及ぶと説明がありました。調査に関わった東大の小川教授のコメントは「先生の長時間勤務なしに学校経営が成り立たなくなっている(以下略)」というものでした。 なぜそうなるのか?新聞の分析も、引用された識者の解説も現象面だけを見ているに過ぎません。確かに、議会は何かと言えば教育批判を行い、行政はその矛先をかわす為に数多くの役にも立たぬ「学校調査」を命じています。会議や研修が多すぎることも一因ではありましょう。 しかし、根本原因を見落としています。現代は保護者から政治家まで子どもの欲求と権利に振り回されています。結果的に、公立学校は「受容」の過剰な現代の「子ども観」に振り回されることになります。学校では、ひ弱で、わがままで、自己中心的な子どもの世話に手がかかり,学校外では受容過剰な子ども観を真に受ける保護者や政治家の教育への「干渉や働きかけ」を止められないのです。行政は幼少年教育が果たすべき使命の見識をもたず、大部分は保護者や政治家の言うがままでしょう。教師を忙殺する学校調査の「洪水」の主たる原因はここにあります。 その点、塾やスポーツ指導の団体は「子ども観」に振り回される被害が少なくて済んでいます。なぜなら、塾が掲げる「合格」の目標も「能力の向上」の約束も、塾やクラブへ加入する為の所与の条件だからです。「今のままでは合格できない」ことも、「現状の成績では満足できない」ことも、「選手になれない」ことも自明だからです。このことを納得した上で入塾し、クラブに参加します。子ども自身が「未熟」であり、「半人前」であり、「まだまだ」であることを親子共々自覚しているのです。それゆえ、子どもはあらゆる面で「ガンバロウ」とし、指導に従います。だから教育やトレーニングが可能になるのです。「指導の通りにやらなければ」、目標には到達せず、本人の「向上はなく」、「選手になれない」ことが明らかだからです。指導の原則は子どもの向こうにある「目標のため」なのです。目標の達成こそが子どものためになるからです。 これに対して、現代の学校には「社会のため」の視点が欠落しているのです。社会人としての「未熟」と「半人前」と「まだまだ」を親子に自覚させる前提がないのです。教育行政は「社会人育成」の使命を忘れ、その任務を達成できない学校の指導にしくじっているのです。特に現代の保護者が問題です。朝日新聞がたった一行だけ、先生方は「評価に納得のゆかない保護者に罵倒されるようにもなった」と書いていますが、この一行こそが最大の問題であることに記者達は気づいていないのです。にもかかわらず、今回,改正「教育基本法(第10条)」にまで「家庭教育の自主性を尊重する」という文言が入りました。「子宝の風土」に教育の民主主義や家庭のプライバシー尊重の建前を持ち込むことは「つらい」ことです。今や,家庭という私的領域には,男女共同参画も,教育も,児童虐待ですらも,滅多なことではさわれなくなりました。 敗戦を契機に過去に蓄積して来た子育てや教育の知恵を投げ捨てて以来,過保護が3代、教育における「保護者主義」という民主主義が3代続いて、子どもに朝ご飯を食べさせなくても,給食費を払わなくても,時に虐待が疑われた場合でも,もはや家庭には誰もさわれなくなりました。結果的に,今や、誰も家庭教育を否定することはできず,家庭は外の意見を聞く耳を持ちません。にもかかわらず教育行政では、保護者の意見を入れて学校を運営しようという時代錯誤がまかり通っています。 保護者も、学校も、もちろん、子どもも、「社会の視点」を忘れました。子どもは親への尊敬も、教師への尊敬も教わっていず,親を助けることも、教師に従うことも学んでいません。結果的に,子どもの多くは,自己中心的で、独り立ちができず,「一人前」にならず、親の苦労は延々と続きます。子どもが自分の支えにならず,育てた甲斐がないと感じ始めた瞬間から、親の中で「心理的少子化」が始まるのです。子どものことで苦労ばかりが続けば,多くの親が次の子どもを育てたいとは思わないでしょう。法律の上にだけ、出来もしない「家庭教育」の重要性をうたったところで、少子化の防止になることなど夢のまた夢です。 学校は塾やスポーツクラブに学ぶことです。子どもの向上を願う親は、塾やクラブを辞めさせる覚悟がない限り、評価が納得できなくても指導者を罵倒することはないからです。そこには目標の達成を「付託」した「指導者中心主義」がまだ生きているのです。 現代の学校には保護者も子どもも自分たちの満足を求めています。現代の学校に蔓延したものは、未熟な子どもの「主体」が教室の中で教師に突きつける「対等」と「自由」と「権利」の要求です。さらに教室にも、そして多くの子どもにも、大変な害をもたらすのは、「半人前」の「ヒト科の動物」の「欲求」を野放しにした教育の「無秩序」です。 反対に、学校が失ったものは社会的な目標であり、教えを乞う親子の「謙虚さ」と指導者への「尊敬」です。先生は「ヒト科の動物」のむき出しの欲求に振り回され、「我が子主義」で身勝手な親の要求に付き合わされてへとへとになるに決まっているのです。 朝日新聞が掲げた「子どものため」の「小見出し」こそが「先生へとへと」の真の遠因なのです。学校は「社会のため」を優先し、指導の枠の中で「子どものため」のバランスを回復し、教師中心主義への転換を行う時期に来ているのです。
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