I 「ひとりぼっち」(情緒的貧困化)の危機
「あなたがいてよかった」と思える人はいますか?「あなたがいてよかった」と言ってくれる人がいますか?前者はあなたが「愛する人々」で、あなたの「心の支え」です。後者はあなたを「愛してくれる人々」で、あなたの「存在の喜び」です。両者を合わせて、そこに居る甲斐;「居甲斐」と呼んでいいでしょう。生き生きとした日々を支えるためには「生き甲斐」が必要ですが、「生き甲斐」は活動に伴う「やり甲斐」と交流に関わる「居甲斐」から成っています。
人間の情緒的活力はまさにこの2点にかかっています。高齢期の気力も当然この2点が支えているのです。なかんずく「孤独」の問題は「居甲斐」に深く関わっているのです。
1 孤立と孤独の不可避性
高齢社会はみんなが長生きになる社会でも、長生きをした人々がすべてみんな幸せになれる社会でもありません。人々の寿命の平均値が伸びるということであり、長生きした結果が幸福であるか、否かは個々人の生き方に保留されいます。高齢化が平均値である以上長生きできる人々の「ばらつき」は必然的に発生します。
従来の生涯学習の課題は主として社会的課題でした。それらは例えば情報化、国際化、各職域の技術革新など社会的条件の変化に対する「適応学習」の問題として脚光を浴びてきました。
しかし、熟年の心理を襲う最大の発達課題は「ひとりぼっち」になることです。アメリカの心理学者ロバート・ペックはそれを「情緒的貧困化」と呼びました(*1)。それゆえ、熟年期の生涯学習の緊急課題は「社交」の創造なのです。熟年が遭遇するであろう孤立と孤独の不安が想像を越えて深刻だからです。
高齢社会に生き残った者は、友人知人が先立ち、兄弟姉妹が先立ち、配偶者を失い、時に子に先立たれるという逆縁の嘆きを見なければなりません。夫婦は必ずしも「とも白髪」になる迄添い遂げられるとは限りません。仲好しの仲間も同じです。結果的に、寿命のばらつきは生き残る熟年の人間関係の先細りをもたらします。自分が生き残った分だけ周りの親しい人々が先立ち、交流の輪が小さくなってしまうからです。大切な人々に先立たれた時、人は愛する人の「心の支え」を失い、自分を愛してくれた人々から得られた「存在の喜び」を失います。それゆえ、生き残ることは、多くの熟年の「孤立」と「孤独」を意味することになるのです。人間関係の輪が小さくなるということは淋しさや不安をもたらし、人々の情緒、感情の拠り所を「貧困化」させるのです。「孤立」も「孤独」も自分の「居甲斐」を実感させてくれた人々を失うことの結果だからです。
高齢期こそ生涯学習の役割は社交の創造と人間関係の社会的「補充」に努めなければなりません。高齢期になると「血縁」、「地縁」、「職業(結社)の縁」など従来の人間関係を形成してきた伝統的な「縁」はほとんどその効力を失います。
「血縁」を支えてきた家族も親戚も皆老いて行きます。家族の核家族化に加えて現代では子どもの親元就職も極めて難しくなりました。「スープの冷めない距離」に住むことすら難しくなるということです。
地域社会で一緒に過ごすことの多かった「地縁」の方々も同じように老いて行きます。あわせて急激な生活スタイルの都市化は従来の共同体的人間関係を衰退させます。定年後10年もすれば、「職場の縁」も薄くなる一方でしょう。日本には欧米社会のように教会などを核とした日常の宗教活動が希薄です。それゆえ、一方で人々を繋ごうとする新興の宗教がつぎつぎと起りますが、他方では伝統的な縁に代わる「新しい縁」が他の国々以上に重要になるのです。「新しい縁」とは「生涯学習の縁」です。「同学の縁」、「ボランティアの縁」、「同好の縁」などを意味しています。これらの縁は、活動する志を同じくする人々の縁ということで「志縁」と呼ばれています。「志縁」こそが老後の人間交流を支える新しい縁;「生涯学習の縁」なのです。
*1 Robert C. Peck, Psychological Development in the second Half of Life,in
Middle Age and Aging, B. Neugarten (ed.), University of Chicago
Press,Chicago, 1968, pp.88-92
(要約・解説は三浦清一郎、成人の発達と生涯学習、ぎょうせい、昭和57年、pp.27-33)
2 「生きる力」の順序性
マズローの「欲求のハイラーキー」説に倣って考えれば、「生きる力」にもハイラ−キー(順序性)があり、それぞれの段階の適応能力には優先順位があります。人間の欲求が「生存」や「安全」を前提とする以上、高齢期の生涯学習も「生存」と「安全」のトレーニングから始めなければならないことは当然でしょう。「生存」と「安全」のためには「人々の体力(肉体的健康)−耐性(気力、意欲、精神の健康)−経済力(老後の財源)」などが不可欠の条件になります。これらの前提条件が確立された上で、次に、日々の社交と交流を通した人間関係を確立するということになります。マズローの理論に従えば、人間関係の目的は人々の「帰属」や「愛情」の欲求を満たすことです。社交や交流はそのための手段であり、方法であり、目的になります。
精神的、経済的、社会的に自立していれば、一人になってもそれは「独立」と呼ばれます。しかし、生活の自立が達成できていても他者との交流が絶えて社会に取り残されれば、「独立」は「孤立」に転じ、やがて「孤独」に繋がってゆく恐れがあります。建築家の高橋氏は介護に「命の介護」と「文化的介護」の2種類があると指摘しています。「命の介護」とは文字どおり生きるための介護です。「生存」と「安全」の確保が目的であると言い換えてもいいでしょう。一方、「文化的介護」とはより良く生きるための介護を意味しています。換言すれば、「文化的介護」とは、高齢者を、高齢者が苛まれる孤立感、疎外感から解放する手だてを含んだ介護であると言うことができるでしょう。高齢者の介護は「さびしさ」との戦いが大事な仕事になります。社交のある文化的介護を、高橋氏は「さびしさ産業」と呼んでいます(*1)。生涯学習や福祉プログラムには高齢者の孤立と孤独に付いての配慮が決定的に欠落しています。介護を企画する現役世代は交流も社交も巧まずして日常の労働や家族生活の中に組み込まれています。それゆえ、企画者自身が「老い」の「孤立」や孤独」を自らの危機として末だ感じることができていないからでしょう。
原理的に、「さびしさ」は個人が乗り越えるべき私的な問題であります。「人付き合い」は個人のプライバシーに属し、他者の介入を許しません。しかし、「生き残った者」が次々と親しい人々を失う高齢社会では、人々を孤立から守る「社交の創造」がプロの仕事になりつつあるのです。かつての「見合い結婚」に「仲人」が必要であったように、高齢期の社交や交流にも「仲人」が必要になって行くことでしょう。果して、生涯学習や福祉の担当者は、それぞれに課された仕事の中でどの程度「社交の創造」や交流支援の役割を自覚しているでしょうか。学校は子ども達に世代間交流の意味や実践を教えているでしょうか?いないでしょう!特に福祉の分野では生涯学習や交流支援の経験が希薄なため、余りにも「生存と安全」の問題だけが強調されます。そのことは「介護予防」の教室の名称や指導内容に明らかに反映されています。社交や交流が廻り廻って熟年の活力を引き出しているメカニズムに気付かないのは行政が教育と福祉の「縦割り」にこだわり、余りにも分業的に線引きして区分けしてきたからです。高齢社会では、高橋氏のいう「文化的介護」のために、福祉と生涯学習のドッキングが不可欠になるのはそのためです。
(コラム)
マズローの「人間欲求のハイラ−キ−」説
マズローによれば幸福にすらも順序性があって、「生存の欲求」−「安全の欲求」ー「帰属の欲求」ー「社会的承認の欲求」−「自己実現の欲求」の順である。下位の欲求が満たされなければ、当然、より上位の欲求は満たす事が困難である。人間の世界では大抵の物事に基本の順序があるのである。
3 「社交」の創造 −「経験の共有」と「同じ釜の飯」−
心身が衰えた上にひとりぼっちになれば、到底、人はいきいきとは生きられません。多くの人が頑張ってきたのは誰かを守り、誰かに支えられ、誰かのために役に立つことを願ったからです。その誰かを失い、人生の喜怒哀楽を分かち合うことが無くなった時、人々が生きる意欲を失うのは当然の結果でしょう。人々の心を支えるには「親しい他者」が必要です。社交が重要になるのは高齢期に失われる「親しい他者」を再発見し、確保するためです。家庭を営み、労働に従事している間は、人は、好むと好まざるに関わらず、社交の中にいます。それゆえ、若い時の生活は他者との交流なしには成り立ちません。社交とは、対人関係を維持することだからです。対人関係は、特に労働や活動の中で育まれます。中根千枝氏が夙に指摘した通り日本人の交流は「経験の共有」によって生まれ、「同じ釜の飯」を食べた時間の長さに比例して付き合いも深まる傾向にあります。労働にせよ、活動にせよ、経験の共有に際して、私たちは時に、気を使い、心を働かせ、精神を躍動させ、時にお互いの我慢を要求します。社交は活動を土壌とし、「経験の共有」を栄養とした「人間関係」の育て方を意味しているのです。
4 「やり甲斐」と「居甲斐」
仕事や趣味や社会貢献は「やり甲斐」の対象ですが、人間関係は自分が他者を支え、あるいは他者によって支えられるという点で「存在する甲斐」すなわち「居甲斐」と呼んでいいでしょう。「やり甲斐」も「居甲斐」も活動の中で自然に絡み合って「生き甲斐」を形成することが多いので、通常は特別に区分する必要はありません。ところが労働の季節が終り、日常の活動そのものが縮小して行く高齢期にあっては、生活を通して人間関係を自然に補充することは困難になって行きます。公民館もデイケアセンターも活動プログラムの提供は意識的に行ってきましたが、活動の過程で社交や交流の仲介をどの程度意識化したでしょうか?社交の目的は「居甲斐」を実感することです。「居甲斐」は帰属や愛情の欲求が満たされた時初めて実感できるものです。要するに、人は社交によって社会における自分の位置を確認するのです。社交によって孤独や孤立を免れ、新たな活動に挑戦する意欲や気力を取り戻すのです。社交や交流を仲介・支援することが高齢期の「生きる意欲」の支援になるのはそのためです。高齢期のグループ・サークル活動が重要になる所以です。
人間にとって、労働(活動)と社交を同時に進行させることは心身の機能を使い続けることを意味します。定年によって労働から離れた熟年にとっては生涯学習やボランティア活動が唯一残された社会との接点です。労働から活動へのスムーズな移行がどれほど重要であるか明らかでしょう。活動を失うことは社会との接点を失い、人間関係を失い、「やり甲斐」と「居甲斐」を失うことを意味しているのです。
5 交流は活動の副産物
生涯学習やボランティアの意義は活動と交流をほとんど同時に生み出すことにあります。交流を深化させて行くのは活動に伴う「経験の共有」の時間です。社交の創造に「生涯学習の縁」が重要になるのもそのためです。労働にも労働以外の活動にも人々の出会いを他律的、半強制的に提供する場面と機能を内蔵しているからです。人間相互の協力を必要とする活動には他律的に交流を要求する機能が含まれています。協力しなければ活動が成り立たないということは当該活動が人間の交流を前提にしているのです。
活動と社交が熟年期の活力を生み出し、ボケを防ぎ、心身の衰耗を先に延ばすのです。程々の「負荷」をかけて感覚体を働かせることが「生きる力」を保持することに繋がっているのです。「負荷」の程度については高齢期になればなるほど個体差が大きくなるので一律の基準を断定的にいうことは極めて危険でしょう。しかし、向老期の個人的実感でいえば、「現有能力の一割前後」が程々の「負荷」にあたるでしょう。「5〜10%ほどがんばって努力する」ということが熟年の「生きる力」を維持して行く処方です。
熟年が己に負荷をかけてがんばり続けるためにこそ仲間が必要であり、友が必要なのです。社交の創造は高齢社会の活力を維持する重要な処方の一翼です。だからこそ「社交」の促進にプロの参加が必要になるのです。公民館の職員の任命にあたって、現在の行政は、定年の危機;すなわち「労働」から「活動」への移行の失敗、生涯スポーツと生涯学習を安楽に傾けた失敗、「社交」と「交流」の貧困化の反省と研修はほとんどありません。定年後、活動を停止してしまうことが如何に有害であるか、人間関係の輪がどんどん小さくなって行くことがどんなに危険なことか、果たして高齢者行政は分かっているでしょうか?活動と社交によって自己を防衛することを忘れた熟年は無為と孤独に少しずつ喰い殺されて行くのです。人間関係の貧困化が熟年にもたらす衝撃を全く分かっていない役所の職員をほとんどたらい回しの形で福祉や生涯学習行政に位置付ける愚行にいまだ地方のトップは気付いていないのです。
(*1) 高橋英輿、老後をさびしく耐えますか、ともに楽しく生きますか、風土社、1998年、pp.44〜45
6 生涯学習の「縁」
(1) 新しい「縁」の創造
人生は「活動」で出来ている、と喝破したのはスイスの老年学者ポール・トゥ−ルニエでした。生活の糧を稼ぐことがあまりにも大変で、重要であったが故に、我々はややもすると「労働」が主役であるかのように錯覚しがちでした。もちろん、現在でも平均寿命が短く、経済発展が滞っている国では、実態として人生は「労働」で出来ていることでしょう。しかし、日本の場合には、トゥ−ルニエの指摘を受けてみれば、労働は「生産活動」であり、「サービス活動」であり、活動の特別な形態に過ぎないことに気付かされます。何よりも人生80年時代に突入した今、定年後の労働の空白;残された時間は労働以外の「活動」によって埋めなければならないことは誰の目にも明らかになったのです。ところが「労働」から「活動」へのスムーズな移行は言葉で言うほど簡単ではないことを見落としがちなのです。周りを見渡せば、これ迄の「労働」が厳しい義務であった分だけ、労働の反対語は「無為」となり、「安楽」となりがちです。その故でしょう。労働の終りが活動の停止になってしまう人は数多くいるのです。
しかし、人間の活力:心身の機能を開発・維持してきた要因は労働という活動の特別形態にあったのです。仕事を通して人は「頭を使い」、「身体を使い」、「気を使って」機能を維持し続けてきたのです。労働から解放されて人々がその持てる機能を使わなくなれば、脳味噌であれ、筋肉であれ、おそらくは内臓であれ、その働きは一気に衰えます。労働の終りが活動の停止になった時、その後の人生にとって如何に危険であるか明らかでしょう。活動の停止は急速な機能の衰退と下降を意味するからです。
一人になったあともお元気に活動を続ける熟年は、定年後の活動に心身を使い続けることによって自らの活力を維持し、活動を通して絶えず人間関係のネットワークを補充しているのです。「活動」の「やり甲斐」と「社交」が生み出す存在の実感;「居甲斐」が熟年のお元気を支えていると考えてまちがいありません。「社交」こそが心の拠り所として新しい人間関係を開拓して、老後の孤立から人々を守ることになるのです。活動は社交を通して新しい人間関係を生み出し、その仲間が反応しあって弁証法的に次の新しい活動に進化して行くのです。かくして活動と交流は相互に影響しあって熟年の生涯を豊かに保って行くのです。
生涯学習は沢山の人々を活動に招待する義務と責任を負っています。生涯教育理念が日本に紹介されて以来、すでに三十余年に渡って行政が主導した生涯学習の時代は多くの日本人を自発的な創造者に変えました。しかし、全体を見ればまだまだその成果が行き渡っていないことは明らかです。特に、人々の労働が終焉した高齢期には労働以外の活動を通してしか他者と巡り会う機会はないのです。行政主導の生涯学習の振興・推進策は高齢期の人々を重点対象として展開すべきだと思います。高齢期の「活動」のやり甲斐の創造はもちろん重要ですが、活動を新しい「縁」に繋げて行く仲介機能こそが高齢社会の熟年の孤立を回避するもう一つの大事な役割なのです。
(2) 「社交」舞台の創造−「居甲斐」を見付ける
「心の支え」を得るとは、自分が愛し、信頼できる人々が存在することを意味しています。また「存在の喜び」を見つけるとは周りの人々から自分が必要とされ、自分が愛されているという実感を持てることを意味しています。要するに、「心の支え」とはあなたが愛している人々の存在であり、「存在の喜び」とはあなたを必要とする人々の存在です。両者が合わさって「居甲斐」を構成します。
「あなたがいて良かった」と思える時私たちは「心の支え」を得られます。同じように、「あなたがいてよかった」と言ってくれる人々がいて私たちは「存在の喜び」を実感します。「心の支え」と「存在の喜び」はお互いに支えあう双方向の人間関係から生まれてきます。それゆえ、通常は経験の共有が不可欠であり、活動をともにすることが双方向の人間関係を発展させる条件になります。生涯学習が対等の人間関係を重視するのはお互いに支えあう双方向の目的を同時進行的に達成する上で原理的に重要だからなのです。
世の中にはやむを得ない事情によって「一方的な奉仕」や「一方的な依存」もたくさんあります。しかし、生涯学習の縁に連なる人々の人間関係は対等であり、双方向的であることに最大の特徴があります。そこには利害得失の要素や人間関係が相対的に希薄です。生涯学習は活動そのものの意義が重要でありますが、活動の過程が対等で互恵的であるので、人々はより容易に双方向的な人間関係を発展させ易いと思われます。お互いの貢献を認めあうことによって、人々は「心の支え」も、「存在の喜び」も合わせて実感できるのです。
ややもすると生涯学習も、ボランティア活動も、活動の「中身と効果」が重視され、「やり甲斐」が注目されますが、あらゆる社会的活動には副産物としての人間関係が含まれています。高齢期の生涯学習の支援に際しては、行為の中身や方法に加えてその過程で形成される人間関係にもう少し意識的な仲介の機能を持たせることが重要です。あらゆる社会的活動の副産物は人間関係であり、社交であるということは原理的に正しくても、すべての人が理屈通りに交流の恩恵を被るとは限らないからです。「居甲斐」は活動を積み重ね、人々の交流と社交を進化させて行くことによって、人々を孤立と孤独から守るのです。あらゆる活動に得手、不得手があるように人間関係の形成にも得手不得手があると想定すれば、引っ込み思案の方々、不器用な方々に対する、活動の企画者による仲介支援は極めて重要な意味をもちうるのです。活動の「やり甲斐」と人間関係の「居甲斐」とがあいまって人々の「生き甲斐」を創造するのです。
時に、人々が心身の衰耗の結果、具体的にほとんどの活動が出来なくなったあとも、過去の活動を通して形成した人間関係が孤独を慰めてくれるのであれば、己を支えることができるのです。相手を信頼し、また相手から信頼され、愛し、愛されてお互いを必要とすることが確認できた時、「居甲斐」は生きる気力の鍵になります。「居甲斐」こそが生きる力を支える最後の拠り所になります。もちろん、横沢氏の言うように”人と会うのは力仕事”(*1)ですから誰かの助けが重要になるのです。人と会うのは疲れることなのです。だからこそ社交にはトレーニングが必要になると横沢氏は指摘しています。
おそらく人は誰でも心の支えを見い出したい、自分の居る甲斐を見い出したいと願って、最終的に人との出会いを求めていると思います。実人生は、一人ではほとんど何もできず、一人で生きるよりは支え会って生きる方が楽しいからです。社交を促進する仲人機能が大事なのは、人付き合いに必要な「力仕事」を応援して、楽にすることが不可欠だからです。熟年者に対する生涯学習支援担当者の主要任務は交流の「応援」と「仲人」機能であるのはそのためです。それゆえ、高齢社会の公民館職員や社会教育主事の基本資質は愛嬌と親切を基本とした対人交流能力であると言っても過言ではないでしょう。特に、高齢者の生涯学習プログラムに愛嬌と親切心のない福祉や社会教育の職員を配置してはならないのです。
(*1) 横沢 彪、それでも「人と会おう!」、新講社、2001年、p.28
(3) 「ふれあい」プログラムだけで人を結ぶことは難しい
人間の出会いをパーティーや集団見合いのような出会いのプログラムだけで演出することはとても難しいことです。人々は経験を共有する活動の過程を共にくぐっていないからです。当然、「居甲斐」もまた出会いを目的とした単独のプログラムでは作り出すことは困難です。人に出会っただけで自分が必要とされる場面に出会えると考える方が無理というものでしょう。日本文化に限らず人間関係の形成は「同じ釜の飯」に象徴される経験の共有、活動への共同参加が促進するものだからです。交流の促進は常に能動的な活動の副産物として生じるものだからです。「ふれあい」プログラムの大半が愚かなのは、子どもの場合も大人の場合もパーティーやコンパで「ふれあえば」人間関係が生まれると錯覚していることです。「お見合い」は日本の伝統文化が発明した人間関係の出発点ですが、「お見合い」が機能したのは、自由な交際が保障されず、身分制度や身分意識に伴う制約があまりにも厳しかったからでしょう。このような文化的・制度的強制力の背景が存在したからこそ事前に設定された「お見合い」で人間関係を作って行くしか選択肢がなかったということです。だから制度の強制力が消滅した現在では、表面的な紹介や出会いのプログラムが人々を交流へ導くことは稀であることは当然の結果なのです。まして、自分が他者に必要とされ、己の「存在のよろこび」を実感できるほどの「居甲斐」に導ける筈はないのです。
特に、「縦社会」(中根千枝)と総括される日本文化において、単なる「ふれあい」が社交や居甲斐に繋がることは少ないのです。夙に、中根氏が指摘したように、日本人の交流の深化には活動をともにする時間が必要でです。仲間との連帯は「経験の共有」によって形成され、深化されて行きます。「ふれあいパーティー」も確かに活動の一種ではありますが、心身の機能の動員のレベルがいかにも軽いのです。物事を成就するための活動と「ふれあいパーティー」では双方に必要とされる心身のエネルギーの量が大きく異なるのです。要するに、個人にかかる活動の「負荷」が違うのです。活動の「負荷」が高いほどわれわれは全身全霊を打ち込んで対処しなければなりません。「パーティー仲間」の連帯が「戦友」の絆にかなわないのは、「同じ釜の飯を喰った」時の「負荷」の大きさの違いなのです。苦労をともにした仲間が強いのは、共有する「経験」の質が連帯の堅さ、絆の強さに比例しているからです。
高齢期の生きる力を保持しようとすれば、心身の機能に負荷をかけ続けなければなりません。感覚体の機能は使わなければ衰退するからです。高齢期の活動が生きる力の保持・存続に役立つのはそのためです。さらに、「苦労をともにした仲間」の絆が強いのは、「負荷の高い」経験を共有しているからです。だとすれば、己を支える居甲斐を探す場合も原理は同じです。楽しいパーティーの仲間は「軽い」のです。"戦友"の絆は「堅い」のです。軽い仲間は気晴らしにはなっても、「心の支え」にはなりません。それゆえ、確固たる居甲斐を探すのであれば、人はそれぞれの「戦場」に赴かなければならないのです。ひとびとがある意味で難儀なボランティア活動の中から大いなる生き甲斐や新しい”戦友”を発見するのは、そこがある種の「戦場」だからなのです。同志は「負荷」に耐えてともに難問を切り抜けた「経験」を共有しているのです。その意味で「活動」こそが居甲斐の源泉であり、「負荷」の高い活動こそ優れた仲間に巡り会う「戦場」を提供するのです。多少の困難に耐えて「同志」を探すことが、心の支えを発見する必要条件なのです。老いて「楽」なことだけを求め、社会的活動から遠ざかれば、心身の機能が急降下するに留まりません。孤立と孤独を防ぐべき「居甲斐」に出会うこともなくなるのです。社交は活動の副産物であることを再確認しなければなりません。しかも、「負荷」の高い活動こそ交流を深化させるのです。楽で、楽しいことだけを求める生涯学習の「ふれあい」論の愚はこの原理が分かっていないのです。
V 「頭の固さ」(精神の固定化)を自覚せよ
1 精神の衰退をどうするか
「情緒的貧困化」の次の問題は「精神の固定化」です。年を取ると「頭が固くなる」ということです。精神の衰退は精神の固定化に始まると言って過言ではありません。「頭が固くなる」と状況の変化に応じて、精神が働かなくなるからです。「精神の固定化」は自分の頭が停止している間に、他者を含んだ周りの環境だけが変わってしまう事から発生します。
精神の形成は各人の行動基準や生活スタイルの結果です。還元すれば、精神形成の大部分は若い日々の学習と経験を反復した結果だと言っていいでしょう。熟年にとっては長い歳月の練習の成果です。それゆえ、反復練習が長かった分だけ確固たる価値観や感性が身に付いてしまっているのです。「精神的固定化」が始まると「昔やったように」しかできなくなり、「昔考えたように」しか考えることができなくなるのです。結果的に新しい考え方が受入れられなくなり、新しい実践に踏み出すことがむずかしくなるのです。長い時間をかけて一度形成されたものは時に凝り固まってしまって解きほぐすことが大変なのです。
過去の学習が新しい学習の邪魔をする「干渉」が起るのです。それゆえ、熟年の学習は2段階になることが多いのです。第1段階は、昔学んだことを解きほぐすこと、第2段階は新しいことを学び直すことです。前者は「学習解除(unlearning)」で、後者は「学習(learning)」です。子どもの教育より大人の教育が難しいのは、領域によっては沢山の「学習解除」を行わなければならないからです。教育学では、このことを「変革」は「形成」より困難である、と言っています。男女共同参画のような新しい理念が青少年には比較的容易に理解されるのに対して、熟年になかなか受入れられないのは、熟年の過去の学習結果が新しい学習課題に「干渉」と呼ばれる現象を起こしているからです。
私たちは昔からやって来たことを当然としています。身に付いていることは捨て難いのです。昔から食べ慣れたものが「おふくろの味」です。若い頃に馴染んだ歌が「懐かしのメロディー」です。着慣れた服のスタイル、色合いが自分に似合うファッションであると信じて疑いません。日常のありふれた暮らしぶりですら過去へのこだわりが強いわけですから、思想や感性への固執は押して知るべきなのです。しかし、時代は進化を止めません。まして現代は「変化の時代」と呼ばれ、あらゆる分野で変化の連鎖が続いています。あらゆる社会的条件が目まぐるしいスピードで変わっているのです。若い世代はその変化に沿って育って来ますが、熟年が過去の精神、過去の生き方にとらわれて生きようとすれば、世の中から置いて行かれてしまいます。技術も考え方も、多くの過去の遺産が「陳腐化」するのは変化の時代の宿命なのです。過去を代表する熟年が若い世代と生活スタイルがずれるのも、話があわなくなるのも当然なのです。食べ物も、ファッションも、音楽も、好きな本も、テレビ番組も、仕事の仕方も、付き合い方も、生活の中身が一昔前とは大きくちがってしまうのです。その時、時代の変化に合わせて「変わるべき」か「変わらなくてもいいか」は人それぞれでしょうが、変化に対する一定の適応ができない場合は若い世代との溝は広がる一方になることでしょう。「昔のやり方」や「昔の考え方」がすべて間違っているはずはありませんが、過去の自分に固執して、社会変化に適応せず、新しい世代と共通項が少なくなれば、若い世代との共生は不可能になります。過去にこだわれば精神が固定化し、時代の変化への弾力性を失います。固定化の度が過ぎれば「頑固おやじ」や「頑固ばあさん」の謗りは免れないことです。
熟年が他の世代から孤立して、自分達の世代だけで生きなければならないとすれば、先に論じた「孤立と孤独」はますます避ける事が難しくなるでしょう。若い世代も、分からずやの「頑固じじい」や「頑固ばあさん」と一緒に暮らす気にはならないでしょう。頭が固くなった高齢者の孤立は目に見えているのです。「変われない自分」が問題になるのはそのためです。
(コラム)
経験の「干渉」
過去の経験に囚われて新しいことを学ぶことが難しくなる状況を言います。すでに通用しないことを知らず知らずに学んだり、過ったことを過った方法で学んでしまった場合、過去の経験や学習結果を訂正しないと新しい学習を前へ進めることができません。この時、経験が邪魔をして学習に「干渉」するといいます。長年に渡って反復して来た過去の経験を打ち消すのは決して容易ではありません。”あつものに懲りてなますを吹いたり”、同じ”柳の下にどじょう”を探し続けるのも、これまでの生き方に固執する余り、新しい状況を過去の経験からしか見ることができないという傾向が生じるためです。
2 「やったことのないことをやる」−精神の固定化の防止策
精神的固定化の防止策はたった一つしかありません。「やったことのないことをやる」ことです。「固定化」の原因は一定の生き方を長きに渡って反復したことです。むかし身に付けた考え方を若い時代から実践して来たから生き方が固まったのです。それゆえ、一般的傾向としては、真面目な人ほど過去に固執します。過去の生き方を努力して身に付けた人ほど「固定化」の副作用が大きいのはなんとも皮肉なことです。「反復」と「練習」と「体得」こそが「頭を固くする」原因だからです。そのため「固くなった頭」をほぐすためには従来のやり方を変えることが不可欠です。過去の学習結果の「解除(Unlearning)」を行うためには、過去から続けて来た「反復」と「練習」を一時中断する必要があります。「中断」とは、すなわち、日々の生活で、「これまでやったことのない事」に挑戦することです。「新しいこと」は食べ物でもいい、ファッションでもいい、音楽でも、スポーツでも、旅でもいいのです。食べたことのないものを食べ、着たことのないスタイルや色のファッションに挑戦し、聴いたことのない音楽もがまんして耳傾け、行ったことのないところで出かけてみるのです。
新しい人間関係、新しい仲間との活動であれば、「これまでやったことのない」変化が総合的である分、何よりもいいのです。なぜなら「精神の固定化」は「過去へのこだわり」が原因だからです。「やったことのない事」は、そのこだわりを崩してくれるのです。しかし、挑戦の実践は決して容易ではありません。これまでの生き方にこだわっている本人は、何にせよ、新しい実践に踏み出す事が難しいのです。新しい分野に興味を感じず、新しい事に価値を見い出していないからです。どんなに豊富な選択肢が提示されたとしても、それらに価値を見い出さなければ、人は関心を示さず、行動は起こしません。
生涯学習や生涯スポーツの役目はここから始まるのです。人々を案内し、勇気づけ、仲間づくりを支援し、活動のメニューに招待するのです。一人では出来なくても、仲間がいればできるかも知れません。生涯学習支援のシステムが有効に働けば、新しい一歩を踏み出せるかも知れないのです。「頭が固くなる」ことへの予防の処方は「やったことのないこと」への挑戦です。生涯学習の重要性は、「読んだことのない本」を読み、「経験のない料理」を試み、「世代を越えた人々に出会い」、「ボランティア」を通して社会の役にたてることです。仲間を募ってこれらを実践する具体的処方こそが公民館の仕事であり、生涯学習センターの役割です。生涯学習が熟年の必需品となる所以です。
3 「格差」の時代
以上見てきた通り、生涯スポーツと生涯学習は孤立と孤独を避ける上でも、「精神の固定化」を防止する上でも熟年期の「必需品」となりました。高齢化を経験した事のない社会にとっては、熟年が当面する向老期の発達課題を一から学習しなければなりません。しかし、もとより、生涯スポーツや生涯学習が社会のシステムとして熟年のすべての発達課題に対応策を提供できるとは限りません。特に、「生き甲斐の喪失」、「夫婦の対立」、「生老病死」の苦しみなどは基本的に自己責任の領域です。個人の私的領域で発生する発達課題の解決は、原則として個人的に処理されるため、当然、行政上の施策や社会的対応を期待することは無理でしょう。
それゆえ、「情緒的貧困化」に伴う熟年の孤独や「精神的固定化」に伴う熟年の孤立に対処するため、「社交」の仲介や生き方の「案内業務(ガイダンス)」に税金を投入することに社会的合意を得る事は極めて難しいのです。個人の私生活に関わる事は、社会教育に限らず、通常「受益者負担」の領域に属しています。従って産業社会はこの分野の活動を、職業上の「適応のための学習」プログラムのように重視することはありません。端的に言えば、ビジネスや産業に関係の薄い個人の学習に税金を投入する事は世間の合意を得られないのです。更に加えて、現行の社会教育行政には趣味・教養・軽スポーツのプログラムの編成はできても、心理的発達課題の対応策を提供する能力はありません。この点で熟年の不幸は個人の無知と準備不足、行政の無自覚と能力不足という二重の危機に当面しているのです。熟年は自己防衛の工夫をしなければならないのです。
介護予防の健康教育や再就職のための職業訓練にはおそらく今後とも手厚い生涯学習/生涯スポーツの支援策が講じられるにちがいありません。しかし、「やったことのない」事への挑戦や孤独や孤立に関する私生活の生涯学習は、個人の選択と投資にゆだねられる事になるでしょう。それは「生涯学習格差の時代」の始まりを意味しています。
生涯スポーツが最も明快な事例ですが、日々運動に勤しむ者とそうでない者との健康格差は決定的になります。どの年代にとっても運動の知識とその実践は重要ですが、衰弱が速まる熟年期にとって日常の運動実践の有無は文字どおり致命的な違いをもたらすことになります。義務教育で平らにならしたはずの知識の格差は、熟年期の生涯学習の「選択」如何によって一気に拡大するのです。しかも、若い時から蓄積された「生涯学習格差」は結果的に熟年期に最大になります。なかんずく、老衰の始まる熟年期に「生涯学習を選んだ者」と「選ばなかった者」との格差はほとんど無限大に広がります。結果として、健康で生き甲斐のある老後を過ごす者と孤独と孤立と衰弱の辛さに流される者とが二極分解することになるでしょう。問題は、生涯学習の振興策が「安楽」に流れ、その意義を十分に理解しなかった社会では、前者が少数で、後者が膨大な数になることです。前者は、筆者が「元気老人」と呼ぶ人々です。後者は「厄介老人」と呼ぶ人々です。介護保険も、医療保険も、恐らくは若い世代の年金も、後者の人々が食いつぶしてしまうことになるでしょう。高齢者の生涯スポーツと生涯学習が立国の条件となる所以です。
*(コラム)
「生涯学習格差」
生涯教育を生涯学習と言い換えたのは、市民の「選択」を重視したからである。教育行政は市民の選択を支援する任務を負うに留めたのである。選択原理を押し進めれば、教育制度の活用も、生涯学習の実践も、その成果の享受も最終的には、個人の責任・自己責任に帰することになる。自由時間の生涯学習を選んだ少年と選ばなかった少年では1年で巨大な差が広がる。同じように、生涯スポーツを実践している高齢者とそうでない高齢者とでは健康や体力の違いが隔絶する。それが生涯学習格差である。「格差」は、交流格差、情報格差、健康格差、自尊感情の格差などに広がる。定年の後を無為に過ごす熟年層にしても、学校週五日制や、長期休暇中の教育努力を怠っている少年にしても、「生きる力」の「格差の拡大」こそが生涯学習支援政策に伴う構造的な問題なのである。
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